梶田興治 : ウィキペディア(Wikipedia)

梶田 興治(かじた こうじ、1923年10月7日 - 2013年8月18日)は、日本の映画助監督、テレビ映画監督、テレビプロデューサー。ペンネームは谷こうじ、池すすむ、由起こうじ。

経歴

東京都出身。1945年に東宝に入社。翻訳部門を経て助監督となる。演出部で本多猪四郎のチーフ助監督を長く務め、円谷特技プロダクション(後の円谷プロダクション)へ出向、同社初のテレビシリーズとして勢作された『ウルトラQ』の監督として活躍。その後東宝に戻りテレビ部のプロデューサーとして活躍。

2013年8月18日、病のために死去梶田興治氏死去、「ウルトラQ」で監督 スポーツ報知 2013年8月23日閲覧。。

人物・エピソード

本多猪四郎とは『牧師三四郎』という映画で組む予定であったが企画自体が流れてしまい、本多から「次が決まったら頼む」と言われ実際に組んだのが『ゴジラ』(1954年版)であった。本多は、梶田について完璧主義であり、映像に対して真剣に取り組んでいたと評している。

『ゴジラ』の制作時は怪獣映画の認知度は低く、銀座のロケハンでどのビルを壊すか相談していたため不審者にみられたり、ゴジラが出現するシーンのエキストラ撮影では山の上からゴジラが顔を出すと説明しても笑われてしまったりなど苦労が多かったという。

『キングコング対ゴジラ』(1962年)では、撮影中に負傷した本多に代わり、一部のシーンを撮影した。

第二次世界大戦中は、陸軍飛行部隊所属であったが、『ウルトラQ』第27話「206便消滅す」では、劇中にゼロ戦のミニチュアを登場させている。

梶田がチーフ助監督の時代にその下についた谷清次によれば、梶田は軍属経験があるため考え方も軍隊式で、絶対に逆らうことはできなかったという。

俳優の加藤茂雄は、助監督時代の梶田は役者の演技に指示を出すようなことはなく、他の助監督のように俳優たちの間に入って交流するようなことはなかったと証言している。

代表作

映画

公開年月日作品名制作(配給)役職
1954年 1月15日 山の音東宝 監督助手
7月7日 水着の花嫁チーフ助監督
11月3日 ゴジラ
1955年 1月9日 恋化粧
5月10日 男ありて
9月21日 くちづけ
1956年 1月22日 若い樹
3月6日 見事な娘
5月3日 妻の心
7月26日 恐怖の逃亡
8月22日 ある女の場合
1957年 4月9日 「動物園物語」より 象
6月19日 サラリーマン出世太閤記
12月28日 地球防衛軍
1958年 2月11日 花嫁三重奏
6月24日 美女と液体人間
10月14日 大怪獣バラン
1959年 3月29日 コタンの口笛
12月26日宇宙大戦争
1960年 12月11日 ガス人間第一号
1961年 7月8日 大学の若大将
9月17日 アッちゃんのベビーギャング
11月12日 黒い画集 第二話 寒流
1962年 3月21日 妖星ゴラス
8月11日 キングコング対ゴジラ
1963年 1月3日 太平洋の翼
5月29日 青島要塞爆撃命令
8月11日 マタンゴ
12月22日 海底軍艦
1964年 4月29日 モスラ対ゴジラ
1965年 8月8日 フランケンシュタイン対地底怪獣
12月19日 怪獣大戦争 東宝
1966年 7月31日 フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ

テレビ

放映年月日作品名サブタイトル制作
1966年1月2日 - 7月3日ウルトラQ 円谷プロダクション

作詞

  • 「インファントの娘」 - 池すすむ名義
  • 「とんでこいモスラ」 - 由起こうじ名義

DVD出演

  • キングコング対ゴジラ 音声特典オーディオコメンタリー(2001年)
  • 海底軍艦 音声特典オーディオコメンタリー(2003年)

注釈

出典

出典(リンク)

参考文献

  • 洋泉社MOOK 別冊映画秘宝(洋泉社)

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/12/01 08:05 UTC (変更履歴
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