尾上華丈 : ウィキペディア(Wikipedia)
尾上 華丈(おのえ かじょう、1898年8月31日 - 1969年3月2日)は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元子役である。本名嶋田 喜一郎(しまだ きいちろう)、旧芸名市川 百々太郎(いちかわ ももたろう)『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「尾上華丈」の項(p.129)を参照。同項執筆は奥田久司。。徹底した京都の時代劇のバイプレイヤーであり、30歳のころには主役も張った。
来歴・人物
1898年(明治31年)8月31日、舞台の床山を職とする父のもと神戸市に生まれる。3歳上の兄は俳優の片岡松燕である。早くから舞台俳優になり、「市川百々太郎」名義で舞台に立つ。
市川市蔵 (4代目)の一座を経て、1920年(大正9年)、片岡我童一座にいた兄とともに『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「片岡松燕」の項(p.144)を参照。同項執筆は田中純一郎。日活京都撮影所に入社する。翌1921年(大正10年)の牧野省三監督渾身の企画『実録忠臣蔵』に兄の松燕が大石主税役で出演、華丈も「市川百々太郎」名義で出演している。1924年(大正13年)から「尾上華丈」を名乗る。
基本的には達者なバイプレイヤーであり、日活京都に在籍し続けた。吉本清濤監督の『殺陣往来』(1928年)、渡辺邦男監督の『当り籤以上』(1929年)では主役を張った。1932年(昭和7年)から1937年(昭和12年)までは片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクションを脇で支えた。同年千恵蔵の日活入りとともに日活に復帰、1942年(昭和17年)1月の戦時統合による大映への合併後も大映京都撮影所に残った。
戦後は1949年(昭和24年)の東横映画設立とともに同社に転じ、1952年(昭和26年)の3社合併による東映の設立にあたっても、東映京都撮影所に参加、最晩年まで生涯役者を貫いた。刺青を描く特技があり、おなじ京都の大映京都撮影所作品の『弁天小僧』(1958年)で市川雷蔵の背中に美しい刺青を描いた。
1969年(昭和44年)3月2日、心臓病のため死去。70歳没。
おもなフィルモグラフィ
- 『実録忠臣蔵』(1921年、日活京都撮影所、監督・脚本:牧野省三)「市川百々太郎」名義
- 『忠次旅日記』(1928年、監督:伊藤大輔)
- 『高山彦九郎』(1928年、東亜キネマ京都撮影所、監督:後藤岱山) - 薄馬鹿 (「市川百々太郎」名義)
- 『維新の京洛 竜の巻 虎の巻』(1928年、日活太秦撮影所、監督:池田富保) - 土方歳三
- 『王政復古 担龍篇 / 双虎篇』(1939年、監督・主演:片岡千恵蔵) - 沖田総司
- 『鴛鴦歌合戦』(1939年、監督:マキノ正博) - 道具屋六兵衛
- 『成吉思汗』(1943年、大映京都撮影所、監督:松田定次・牛原虚彦) - ヂェルメ
- 『獄門島』(1949年、監督:松田定次) - 辻井刑事
- 『阿波おどり 鳴門の海賊』(1957年、監督:マキノ雅弘) - 阿波屋徳兵衛
- 『風雲児 織田信長』(1959年、監督:河野寿一)
- 『壮烈新選組 幕末の動乱』(1960年、監督:佐々木康)
- 『十三人の刺客』(1963年、監督:工藤栄一)
外部リンク
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