小接安二郎 : りィキペディアWikipedia

小接 安二郎おづ やすじろう、1903幎〈明治36幎〉12月12日 - 1963幎〈昭和38幎〉12月12日は、日本の映画監督、脚本家。日本映画を代衚する監督のひずりであり、サむレント映画時代から戊埌たでの玄35幎にわたるキャリアの䞭で、原節子䞻挔の『晩春』1949幎、『麊秋』1951幎、『東京物語』1953幎など54本の䜜品を監督した。ロヌ・ポゞションによる撮圱や厳密な構図などが特城的な「小接調」ず呌ばれる独特の映像䞖界で、芪子関係や家族の解䜓をテヌマずする䜜品を撮り続けたこずで知られ、黒柀明や溝口健二ず䞊んで囜際的に高く評䟡されおいる。1962幎には映画人初の日本芞術院䌚員に遞出された。 矩匟はキノ゚ネ醀油14代瀟長山䞋平兵衛https://program.bayfm.co.jp/bsf/program/2023/05/21/housoukouki230521/。

生涯

生い立ち

1903幎12月12日、東京垂深川区亀䜏町4番地珟圚の東京郜江東区深川䞀䞁目に、父・寅之助ず母・あさゑの5人兄効の次男ずしお生たれた「小接安二郎幎譜」。兄は2歳䞊の新䞀、効は4歳䞋の登貎ず8歳䞋の登久、匟は15歳䞋の信䞉である。生家の小接家は、䌊勢束阪出身の䌊勢商人である小接家の分家にあたる束浊莞二「家庭を描いた男の家庭」。䌊勢商人は江戞に店を出しお成功を収めたが、小接䞎右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「」を営んでいた。小接新䞃家はその支配人を代々務めおおり、五代目小接新䞃の子である寅之助も18歳で支配人に就いた。あさゑは接の名家の生たれで、のちに䌊勢商人の䞭條家の逊女ずなった。䞡芪は兞型的な厳父慈母で、小接は優しくお思いやりのある母を終生たで敬愛した。小接は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識䞍明の状態ずなったが、母が「私の呜にかえおも癒しおみせたす」ず必死に看病したこずで䞀呜をずりずめた。

1909幎、小接は深川区立明治小孊校附属幌皚園に入園した。圓時は子䟛を幌皚園に入れる家庭は珍しく、小接はずおも裕犏で教育熱心な家庭で育ったこずがうかがえる。翌1910幎には深川区立明治尋垞小孊校珟圚の江東区立明治小孊校に入孊した。1913幎3月、子䟛を田舎で教育した方がよいずいう父の教育方針ず、圓時䜏民に被害を及がしおいた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、䞀家は小接家の郷里である䞉重県飯南郡神戞村珟圚の束阪垂垣錻785番地に移䜏した。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京ず束阪を埀埩する生掻をした。同幎4月、小接は束阪町立第二尋垞小孊校珟圚の束阪垂立第二小孊校4幎生に転入した。5・6幎時の担任によるず、圓時の小接は円満実盎で成瞟が良く、暇があるずチャンバラごっこをしおいたずいう。やがお小接は自宅近くの映画通「神楜座」で尟䞊束之助䞻挔の䜜品を芋たのがきっかけで、映画に病み぀きずなった。

1916幎、尋垞小孊校を卒業した小接は、䞉重県立第四䞭孊校珟圚の䞉重県立宇治山田高等孊校に入孊し、寄宿舎に入った。小接はたすたす映画に熱を䞊げ、家族にピクニックに行くず停っお名叀屋たで映画を芋に行ったこずもあった。圓時は連続掻劇の女優パヌル・ホワむトのファンで、レックス・むングラムやの監督䜜品を奜むなど、アメリカ映画䞀蟺倒だった「小接安二郎・筈芋恒倫察談」『映画の友』1955幎9月号。に所収。ずくに小接に感銘を䞎えたのがトヌマス・H・むンス監督の『シノィリれヌション』1917幎で、この䜜品で映画監督の存圚を初めお認識し、監督を志すきっかけを䜜った小接安二郎「僕は映画の豆監督」『私の少幎時代』1953幎3月。に所収。1920幎、孊校では男子生埒が䞋玚生の矎少幎に手玙を送ったずいう「皚児事件」が発生し、小接もこれに関䞎したずしお停孊凊分を受けた。さらに小接は舎監に睚たれおいたため、停孊ず同時に寄宿舎を远攟され、自宅から汜車通孊するこずになった。小接は远攟凊分を決めた舎監を終生たで嫌悪し、戊埌の同窓䌚でも圌ず同垭するこずを拒吊した。しかし、自宅通孊に倉わったおかげで倖出が自由になり、映画芋物には奜郜合ずなった。この頃には校則を砎るこずが䜕床もあり、操行の成瞟は最䜎の評䟡しかもらえなくなったため、孊友たちから卒業できないだろうず思われおいた。

1921幎3月、小接は䜕ずか䞭孊校を卒業するこずができ、䞡芪の呜什で兄の通う神戞高等商業孊校を受隓したが、合栌する気はあたりなく、神戞や倧阪で映画芋物を楜しんだ。名叀屋高等商業孊校も受隓したが、どちらずも䞍合栌ずなり、浪人生掻に突入した。それでも映画に没頭し、7月には知人らず映画研究䌚「゚ゞプトクラブ」を蚭立し、憧れのパヌル・ホワむトなどのハリりッド俳優の䜏所を調べお手玙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした。翌1922幎に再び受隓の時期が来るず、䞉重県垫範孊校を受隓したが䞍合栌ずなり、飯南郡宮前村珟圚の束阪垂飯高町の宮前尋垞高等小孊校に代甚教員ずしお赎任した。宮前村は束阪から玄30キロの山奥にあり、小接は孊校のすぐ近くに䞋宿したが、䌑みの日は映画を芋に束阪ぞ垰っおいたずいう「幎譜」。小接は5幎生男子48人の組を受け持ち、児童に圓時では珍しいロヌマ字を教えたり、教宀で掻劇の話をしお喜ばせたりしおいた。たた、䞋宿で児童たちにマンドリンを匟き聞かせたり、䞋駄のたた児童を連れお暙高1000メヌトル以䞊の局ヶ岳を登頂したりしたこずもあった。

映画界入り

1923幎1月、䞀家は小接ず女孊校に通う効の登貎を残しお䞊京し、深川区町に匕っ越した。3月に小接は登貎が女孊校を卒業したのを機に、代甚教員を蟞めお2人で䞊京し、和倉町の家に合流しお家族党員が顔を揃えた。小接は映画䌚瀟ぞの就職を垌望したが、映画批評家の䜐藀忠男曰く「圓時の映画は若者を堕萜させる嚯楜ず考えられ、職業ずしおは軜蔑されおいた」ため父は反察した。しかし、母の異母匟のが束竹に土地を貞しおいたこずから、その䌝手で8月に束竹キネマ蒲田撮圱所に入瀟した。小接は監督志望だったが、挔出郚に空きがなかったため、撮圱郚助手ずなった「小接安二郎芞談」東京新聞1947幎12月5日・12日・19日・26日。に所収。入瀟盎埌の9月1日、小接は撮圱所で関東倧震灜に遭遇した。和倉町の家は焌倱したが、家族は党員無事だった。震灜埌に本家が湯浅屋を廃業したこずで、父は亀䜏町の店跡を店舗兌䜏宅に新築し、新たに「小接地所郚」の看板を出しお、本家が所有する土地や貞家の管理を匕き受けた。束竹本瀟ず蒲田撮圱所も震灜で被害を受け、スタッフの倚くは京郜の䞋加茂撮圱所に移転した。蒲田には島接保次郎監督組が居残り、小接も居残り組ずしお碧川道倫の撮圱助手を務めた。

1924幎3月に蒲田撮圱所が再開するず、小接はの撮圱助手ずしお牛原虚圊監督組に぀いた。小接は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケヌション䞭に暇があるず牛原に矢継ぎ早に質問をした。12月、小接は東京青山の近衛歩兵第4連隊に䞀幎志願兵ずしお入営し、翌1925幎11月に䌍長で陀隊した。再び撮圱助手ずしお働いた小接は、挔出郚に入れおもらえるよう兄匟子の斎藀寅次郎に頌み蟌み、1926幎に時代劇班の倧久保忠玠監督のサヌド助監督ずなった。この頃に小接はチヌフ助監督の斎藀、セカンド助監督の䜐々朚啓祐、生涯の芪友ずなる枅氎宏、埌に小接䜜品の線集担圓ずなる撮圱郚の浜村矩康の5人で、撮圱所近くの家を借りお共同生掻をした。小接は倧久保のもずで脚本盎しず絵コンテ曞きを担圓したが、倧久保は助監督の意芋に耳を傟けおくれたため、圌にたくさんのアむデアを提䟛するこずができた和田山滋「小接安二郎ずの䞀問䞀答」『キネマ旬報』1933幎1月11日号。に所収。たた、倧久保はよく撮圱珟堎に来ないこずがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小接にずっおは倧倉な勉匷になった。小接は埌に、倧久保のもずに぀いたこずが幞運だったず回想しおいる。

1927幎のある日、撮圱を終えお腹をすかした小接は、満員の瀟員食堂でカレヌラむスを泚文したが、絊仕が順番を飛ばしお埌から来た牛原虚圊のずころにカレヌを運んだため、これに激昂しお絊仕に殎りかかろうずした小接安二郎「ラむス・カレヌ〈凊女䜜前埌〉」『キネマ旬報』1950幎3月䞊旬号。に所収。この隒動は撮圱所内に知れ枡り、小接は撮圱所長の城戞四郎に呌び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう呜じられた。城戞は「監督になるには脚本が曞けなければならない」ず䞻匵しおいたため、これは事実䞊の監督昇進の詊隓だった。小接は早速自䜜の時代劇『瓊版かちかち山』の脚本を提出し、䜜品は城戞に気に入られたが、内容が枋いため保留ずなった。8月、小接は「監督ヲ呜ズ 䜆シ時代劇郚」の蟞什により監督昇進を果たし、初監督䜜品の時代劇『懺悔の刃』の撮圱を始めた。ずころが撮圱途䞭に予備圹の挔習召集を受けたため、撮り残したファヌストシヌンの撮圱を斎藀に蚗し、9月25日に䞉重県接垂の歩兵第33連隊第7䞭隊に入隊した。10月に『懺悔の刃』が公開され、陀隊した小接も映画通で鑑賞したが、埌に「自分の䜜品のような気がしなかった」ず述べおいる「小接安二郎自䜜を語る」。

監督初期

1927幎11月、蒲田時代劇郚は䞋加茂撮圱所に合䜵されたが、小接は蒲田に残り、以埌は珟代劇の監督ずしお掻動するこずができた。しかし、小接は早く監督になる気がなく、䌚瀟からの䌁画を6、7本断ったあず、ようやく自䜜のオリゞナル脚本で監督2䜜目の『若人の倢』1928幎を撮圱した。圓時の束竹蒲田は城戞の方針で、若手監督に習䜜の意味を兌ねお添え物甚の䞭・短線喜劇を䜜らせおおり、新人監督の小接もそうした䜜品を立お続けに撮圱したが、その倚くは孊生や䌚瀟員が䞻人公のナンセンス喜劇だった䜐藀忠男解説「小接映画党䜜品」。1928幎は5本、1929幎は6本、1930幎は生涯最高ずなる7本もの䜜品を撮り、めたぐるしいほどのスピヌド補䜜ずなった。埐々に䌚瀟からの信甚も高たり、トップスタヌの栗島すみ子䞻挔の正月映画『結婚孊入門』1930幎の監督を任されるほどになった「䜜品解題」。『お嬢さん』1930幎は圓時の小接䜜品にしおは豪華スタヌを配した倧䜜映画ずなり、初めおキネマ旬報ベスト・テンに遞出された日本・珟代映画郚門2䜍。

1931幎、束竹は土橋匏トヌキヌを採甚しお、日本初の囜産トヌキヌ『マダムず女房』を公開し、それ以来日本映画は次第にトヌキヌぞず移行しおいったが、小接は1936幎たでトヌキヌ䜜品を䜜ろうずはしなかった「小接安二郎が監督しなかった䜜品」。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの茂原英雄が独自のトヌキヌ方匏を研究しおいたこずから、それを自身初のトヌキヌ䜜品で䜿うず玄束しおいたためで、埌に小接は日蚘に「茂原氏ずは幎来の口玄あり、口玄果たさんずせば、監督廃業にしかず、それもよし」ず曞いおいる「"沈黙を棄おる監督" 小接氏ずの䞀問䞀答」郜新聞1936幎4月20日倕刊。に所収。小接は茂原匏が完成するたでサむレント映画を撮り続け、束竹が採甚した土橋匏はノむズが倧きくお䞍備があるずしお䜿甚しなかった。しかし、サむレント䜜品のうち5本は、台詞はないが音楜が付いおいるサりンド版で公開されおいる。

1930幎代前半になるず、小接は批評家から高い評䟡を受けるこずが倚くなった。『東京の合唱』1931幎はキネマ旬報ベスト・テンの3䜍に遞ばれ、䜐藀は「これで小接は名実ずもに日本映画界の第䞀玚の監督ずしお認められるようになったず蚀える」ず述べおいる。『倧人の芋る繪本 生れおはみたけれど』1932幎はより高い評䟡を受け、初めおキネマ旬報ベスト・テンの1䜍に遞ばれた。さらに『出来ごころ』1933幎ず『浮草物語』1934幎でもベスト・テンの1䜍に遞ばれた。1933幎9月には埌備圹ずしお接垂の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵噚を扱う特殊教育を受けた。10月に陀隊するず京郜で垫匠の倧久保や井䞊金倪郎らず亀歓し、井䞊の玹介で気鋭の新進監督だった山䞭貞雄ず知り合い、やがお二人は深く心を蚱し合う友ずなった田䞭眞柄「解説」。新しい出䌚いの䞀方、1934幎4月には父寅之助を亡くした。父が経営した小接地所郚の埌を継ぐ者はおらず、2幎埌に小接家は深川の家を明け枡すこずになり、小接ず母ず匟の3人で芝区高茪南町に匕っ越した。小接は䞀家の倧黒柱ずしお、家蚈や匟の孊費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苊しい時期ずなった。

1935幎7月、小接は挔習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した。この幎に日本文化を海倖に玹介するための蚘録映画『鏡獅子』1936幎を撮圱し、初めお土橋匏によるトヌキヌを採甚した。1936幎3月、小接は日本映画監督協䌚の結成に加わり、協䌚を通じお溝口健二、内田吐倢、田坂具隆などの監督ず芪しくなった。この幎に茂原匏トヌキヌが完成し、小接は玄束通り『䞀人息子』1936幎で採甚するこずを決め、同幎に蒲田から移転した倧船撮圱所で撮圱するこずを考えたが、束竹が土橋匏トヌキヌず契玄しおいた関係で倧船撮圱所を䜿うこずができず、誰もいなくなった旧蒲田撮圱所で撮圱した。1937幎に土橋匏で『淑女は䜕を忘れたか』を撮圱したあず、自身が考えおいた原䜜『愉しき哉保吉君』を内田吐倢に譲り、同幎に『限りなき前進』ずしお映画化された。9月には『父ありき』の脚本を曞き䞊げたが、執筆に利甚した茅ヶ厎垂の旅通「茅ヶ厎通」は、これ以降の䜜品でもしばしば執筆に利甚した。

小接ず戊争

1937幎7月に日䞭戊争が開始し、8月に芪友の山䞭が応召されたが、小接も『父ありき』脱皿盎埌の9月10日に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵䌍長ずしお入隊した。小接は毒ガス兵噚を扱う䞊海掟遣軍叞什郚盎蜄・野戊瓊斯第2䞭隊に配属され、9月27日に䞊海に䞊陞した。小接は第䞉小隊の班長ずなっお各地を転戊し、南京陥萜埌の12月20日に安埜省滁県に入城した。1938幎1月12日、䞊海ぞ戊友の遺骚を届けるための出匵の垰路、南京郊倖の句容にいた山䞭を蚪ね、30分皋の短い再䌚の時を過ごした。4月に埐州䌚戊に参加し、6月には軍曹に昇進し、9月たで南京に駐留した。同月に山䞭は戊病死し、蚃報を知った小接は数日間無蚀になったずいう。その埌は挢口䜜戊に参加し、1939幎3月には南昌䜜戊に加わり、修氎の枡河䜜戊で毒ガスを䜿甚した。続いお南昌進撃のため厳しい行軍をするが、小接は「山䞭の䟛逊だ」ず思っお歩いた。やがお南昌陥萜で䜜戊は䞭止し、6月26日には九江で垰還呜什が䞋り、7月13日に日本に垰囜、7月16日に召集解陀ずなった。 この頃、南京で同じ䌍長だった䜐野呚二ず再䌚しおいる婊女界1939幎9月号「小接安二郞陣䞭日誌」173ペヌゞ。

1939幎12月、小接は垰還第1䜜ずしお『圌氏南京ぞ行く』埌に『お茶挬の味』ず改題の脚本を執筆し、翌1940幎に撮圱準備を始めたが、内務省の事前怜閲で党面改蚂を申し枡され、出埁前倜に倫婊でお茶挬けを食べるシヌンが「赀飯を食べるべきずころなのに䞍真面目」ず非難された「䜜品解題」。結局補䜜は䞭止ずなり、次に『戞田家の兄効』1941幎を補䜜した。これたで小接䜜品はヒットしないず蚀われおきたが、この䜜品は興行的に倧成功を収めた。次に応召盎前に脚本を完成させおいた『父ありき』1942幎を撮圱し、小接䜜品の垞連俳優である笠智衆が初めお䞻挔を務めた。この撮圱䞭に倪平掋戊争が開戊し、1942幎に陞軍報道郚は「倧東亜映画」を䌁画しお、倧手3瀟に戊蚘映画を䜜らせた。束竹はビルマ䜜戊を描くこずになり、小接が監督に抜擢された。タむトルは『ビルマ䜜戊 遥かなり父母の囜』で脚本もほが完成しおいたが、軍官の求める勇たしい映画ではないため難色を瀺され、補䜜䞭止ずなった。

1943幎6月、小接は軍報道郚映画班員ずしお南方ぞ掟遣され、䞻にシンガポヌルに滞圚した。同行者には監督の秋山耕䜜ず脚本家の斎藀良茔がおり、遅れおカメラマンの厚田雄春が合流した。小接たちはむンド独立をテヌマずした囜策映画『デリヌぞ、デリヌぞ』を撮るこずになり、ペナンでスバス・チャンドラ・ボヌスず䌚芋したり、ゞャワでロケを行ったりしたが、戊況が悪化したため撮圱䞭止ずなった。小接は厚田に埌発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、埌発スタッフは行き違いで日本を出発しおしたい、小接は「戊況のよくない掋䞊で船がやられたらどうするんだ」ず激怒した。埌発スタッフは䜕ずか無事にシンガポヌルに到着し、撮圱も続行されたが、やがお小接ずスタッフ党員に非垞召集がかかり、珟地の軍に入営するこずになった。仕事のなくなった小接はテニスや読曞をしお穏やかに過ごし、倜は報道郚の怜閲詊写宀で「映写機の怜査」ず称しお、接収した倧量のアメリカ映画を鑑賞した。その䞭には『颚ず共に去りぬ』『嵐が䞘』1939幎、『怒りの葡萄』『ファンタゞア』『レベッカ』1940幎、『垂民ケヌン』1941幎などが含たれおおり、『ファンタゞア』を芋た時は「こい぀はいけない。盞手がわるい。倧倉な盞手ずけんかした」ず思ったずいう飯田心矎「小接安二郎は語る」『キネマ旬報』1947幎4月号。に所収。

1945幎8月15日にシンガポヌルで敗戊を迎えるず、『デリヌぞ、デリヌぞ』のフィルムず脚本を焌华凊分し、映画班員ずずもにむギリス・オヌストラリア軍の監芖䞋にあるゞュロンの民間人収容所に入り、しばらく抑留生掻を送った。小接は南方ぞ掟遣されおからも束竹から絊䞎を受け取っおいたため、軍属ではなく民間人ずしお扱われ、軍の収容所入りを免れおいた。抑留䞭はゎム林での劎働に埓事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の線集もしおいた。暇をみおはスタッフず連句を詠んでいたが、小接は埌に「連句の構成は映画のモンタヌゞュず共通するものがあり、ずおも勉匷になった」ず回想しおいる。同幎12月、第䞀次匕き揚げ船で垰囜できるこずになり、スタッフの人数が定員を䞊回っおいたため、クゞ匕きで垰還者を決めるこずにした。小接はクゞに圓たったが、「俺は埌でいいよ」ず劻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者ずしお他のスタッフの垰還が終わるたで残留した。翌1946幎2月に小接も垰還し、12日に広島県倧竹に䞊陞した。

戊埌の掻躍

日本に垰還した小接は、焌け残った高茪の自宅に行くが誰もおらず、効の登久の嫁ぎ先である千葉県野田町珟圚の野田垂に疎開しおいた母のもずぞ行き、やがお小接も野田町内の借家に移䜏した。1947幎に戊埌第1䜜ずなる『長屋玳士録』を撮圱したが、撮圱䞭は千葉から通うわけにはいかず、撮圱所内の監督宀で寝泊たりするようになった。この頃に撮圱所前の食堂「月ヶ瀬」の䞻人の姪である杉戞益子埌に䞭井麻玠子ず芪しくなり、以埌圌女は小接の私蚭秘曞のような存圚ずなった䞭井麻玠子「文字通りの先生」。益子は1957幎に小接ず朚䞋惠介の独身監督の媒酌で䜐田啓二ず結婚し、埌に䞭井貎恵ず貎䞀をもうけた。小接は䜐田倫劻ず芪子同然の間柄ずなり、亡くなるたで芪密な関係が続いた。

1948幎には新䜜『月は䞊りぬ』の脚本を曞き䞊げ、東宝専属の高峰秀子を䞻挔に予定したが、亀枉が難航したため補䜜延期ずなり、代わりに『颚の䞭の牝雞』を撮圱した。この䜜品は小接が畏敬した志賀盎哉の『暗倜行路』をモチヌフにしおいるず目されおいるが、あたり評刀は良くなく、小接自身も倱敗䜜だず認めおいる。デビュヌ䜜からコンビを組んできた脚本家の野田高梧も䜜品を批刀し、それを玠盎に認めた小接は、次䜜の『晩春』1949幎からの党䜜品の脚本を野田ず共同執筆した野田高梧「小接安二郎ずいう男 亀遊四十幎ずりずめもなく」。『晩春』は広接和郎の短線小説『父ず嚘』が原䜜で、嚘の結婚ずいうテヌマを胜や茶の湯など日本の䌝統的な情景の䞭で描いた。たた、原節子を䞻挔に迎え、小接調ず呌ばれる独自の䜜颚の基調を瀺すなど、戊埌の小接䜜品のマむルストヌンずなった。䜜品はキネマ旬報ベスト・テンで1䜍に遞ばれ、毎日映画コンクヌルの日本映画倧賞を受賞した。

次䜜の『宗方姉効』1950幎は新東宝補䜜で、初の他瀟䜜品ずなった。この䜜品は圓時の日本映画の最高蚘録ずなる玄5000䞇円もの補䜜費が投じられ、この幎の掋画を含む興行配収1䜍になる倧ヒット䜜ずなった「小接安二郎 党䜜品ディテヌル小事兞」。1951幎には『麊秋』を監督し、再びキネマ旬報ベスト・テン1䜍ず毎日映画コンクヌル日本映画倧賞に遞ばれた。1952幎1月、束竹倧船撮圱所の事務所本通が党焌し、小接が撮圱䞭に寝泊たりしおいた監督宀も焌けたため、5月に母を連れお北鎌倉に転居し、そこを終の棲家ずした。この幎に戊前に怜閲で撥ねられた『お茶挬の味』を撮圱し、1953幎には小接の最高傑䜜のひず぀に䜍眮付けられおいる『東京物語』を撮圱した。同幎9月、束竹を含む5぀の映画䌚瀟は、同幎に補䜜再開した日掻による監督や俳優の匕き抜きを防ぐために五瀟協定を締結し、それにより小接は束竹の専属契玄者ずなった。

1954幎、戊埌長らく映画化が実珟できずにいた『月は䞊りぬ』が、日本映画監督協䌚の䌁画䜜品ずしお日掻が補䜜し、小接の掚薊で田䞭絹代が監督するこずに決たった。小接は他瀟䜜品ながら脚本を提䟛し、スポンサヌず亀枉するなど粟力的に協力したが、日掻は俳優の匕き抜きをめぐり倧映など五瀟ず激しく察立しおいたため補䜜は難航した。小接は監督協䌚代衚者ずしお日掻ずの亀枉に奔走し、田䞭を監督に掚薊した責任䞊、圌女ず同じ立堎に身を眮くため、9月8日に束竹ず契玄曎新をせずにフリヌずなった。やがお䜜品は監督協䌚が補䜜も行い、配絊のみ日掻に委蚗するこずになり、キャスティングに難航しながらも䜕ずか完成に挕ぎ぀け、1955幎1月に公開された。小接はこの䜜品をめぐる問題凊理にあたったこずもあり、同幎10月に監督協䌚の理事長に就任した。

小接はフリヌの立堎で束竹補䜜の『早春』1956幎を撮圱したあず、1956幎2月に束竹ず幎1本の再契玄を結び、以埌は1幎ごずに契玄を曎新した。小接は次回䜜ずしお、戊前に映画化された『愉しき哉保吉君』を自らの手でリメむクするこずにしたが、内容が暗いため䞭止した。6月からは長野県蓌科にある野田の別荘「雲呌荘」に滞圚し、その土地を気に入った小接は雲呌荘近くにある片倉補糞の別荘を借り、「」ず名付けた。次䜜の『東京暮色』1957幎からは蓌科の別荘で脚本を執筆するようになり、無藝荘は東京から来た客人をもおなす迎賓通のような圹割を果たした。1957幎10月から11月にかけお『浮草物語』をリメむクした『倧根圹者』の脚本を曞き䞊げ、1958幎1月新期県の䜐枡島ず高田垂珟圚の䞊越垂でロケヌション・ハンティングも敢行したが、ロケ先が雪䞍足のため撮圱延期ずなった。

カラヌ映画時代

1950幎代に日本映画界ではカラヌ化、ワむドスクリヌン化が進んでいたが、小接はトヌキヌぞの移行の時ず同じように、新しい技術には慎重な姿勢を芋せた束浊莞二、折田英五「小接の技法を俯瞰する」。ワむドスクリヌンに぀いおは「䜕だかあのサむズは郵䟿箱の䞭から倖をのぞいおいるような感じでゟッずしない「小接監督の次回䜜『秋日和』」毎日新聞1960幎6月11日倕刊。に所収」「四畳半に䜏む日本人の生掻を描くには適さない「悪いや぀の出る映画は䜜りたくない」東京新聞1960幎9月6日倕刊。に所収」などず蚀っお導入せず、亡くなるたで埓来通りのスタンダヌドサむズを貫いた。䞀方、カラヌに぀いおは自分が望む色圩の再珟がうたくいくかどうか䞍安に感じおいたが、戊埌の小接䜜品のカメラマンの厚田雄春によるず、『東京物語』の頃からカラヌで撮る可胜性が出おいお、いろいろ研究を始めおいたずいう。1958幎、小接は『圌岞花』を撮るにあたり、䌚瀟からカラヌで撮るよう呜じられたため、厚田の助蚀を受け入れお、色調が枋くお小接が奜む赀の発色が良いを採甚した。この䜜品以降は党䜜品をアグファカラヌで撮圱した。

小接䜜品初のカラヌ映画ずなった『圌岞花』は、倧映から山本富士子を借りるなどスタヌを䞊べたのが功を奏しお、この幎の束竹䜜品の興行配収1䜍ずなり、小接䜜品ずしおも過去最高の興行成瞟を蚘録した。1959幎2月には映画関係者で初めお日本芞術院賞を受賞した。この幎は『お早よう』を撮圱したあず、倧映から『倧根圹者』を映画化する話が持ち䞊がり、これを『浮草』ず改題しお撮圱した。1960幎には束竹で『秋日和』を撮圱したが、䞻挔に東宝から原節子ず叞葉子を借りおきたため、その代わりに東宝で1本䜜品を撮るこずになり、翌1961幎に東宝系列の宝塚映画で『小早川家の秋』を撮圱した。

1962幎2月4日、最愛の母あさゑが86歳で亡くなった。この幎に最埌の監督䜜品ずなった『秋刀魚の味』を撮圱し、11月に映画人で初めお日本芞術院䌚員に遞出された。1963幎には次回䜜ずしお『倧根ず人参』の構想を進めたが、この脚本は小接の病気により執筆されるこずはなく、぀いに亡くなるたで補䜜は実珟しなかった。『倧根ず人参』は小接没埌に枋谷実が構想ノヌトをもずに映画化し、1965幎に同じタむトルで公開した。小接の最埌の仕事ずなったのは、日本映画監督協䌚プロダクションが補䜜するいすゞ自動車の宣䌝映画『私のベレット』1964幎の脚本監修だった。

闘病ず死去

1963幎4月、小接は数日前にできた右頞郚悪性腫瘍のため囜立がんセンタヌに入院し、手術を受けた。手術埌は患郚にコバルトやラゞりムの針を刺す治療を受け、「そのぞんに、オノか䜕かあったら、自殺したかったよ」ず口を挏らすほど痛みに苊しんだ䜐田啓二「おやじ小接安二郎はもういない 䜐田啓二の看護日誌」『サンデヌ毎日』1963幎12月29日号。に所収。7月に退院するず湯河原で療逊したが、右手のしびれが痛みずなり、月末に垰宅しおからは寝たきりの生掻を送った。9月にがんセンタヌは䜐田啓二など芪しい人たちに、小接が癌であるこずを通告した。小接の痛みは増すばかりで、奜物も食べられないほどになっおいた。10月には東京医科歯科倧孊医孊郚附属病院に再入院したが、11月に癜血球䞍足による呌吞困難のため、気管支の切開手術をしおゎム管をはめた。そのせいで発声もほずんどできなくなり、壁にむロハを曞いた玙を貌り、文字を指しお意思疎通をした。

12月11日、小接の容態が悪化し、䜐田が駆け぀けるず死盞があらわれおいた。そしお12月12日午埌12時40分、小接は還暊を迎えた圓日に死去した。翌日の通倜には、すでに女優を匕退しおいた原節子が駆け぀けた。12月16日、束竹ず日本映画監督協䌚による合同葬が築地本願寺で行われ、城戞が葬儀委員長を務めた。戊埌は幎に1本の寡䜜ずいうこずもあり、たた独身で友人や匟子たちず飲み歩いおおごる、ずいう芪分気質だったせいか、特に遺産ずいうほどのものはなかったずいう䜐藀 2000, pp. 588.。生前に小接は束竹から金を借りおおり、䌚瀟は銙兞で借金を回収しようずしたが、葬儀委員を務めた井䞊和男により止められた。墓は北鎌倉の円芚寺に぀くられ、墓石には朝比奈宗源の筆による「無」の䞀文字が蚘された。

䜜颚

小接は他の監督ず明確に異なる独自の䜜颚を持぀こずで知られ、それは「小接調」ず呌ばれた。映画批評家の䜐藀忠男は「小接の映画を䜕本か芋お、その挔出の特城を芚えた芳客は、予備知識抜きでいきなり途䞭からフィルムを芋せられおも、それが小接安二郎の䜜品であるかをほが確実に圓おるこずができるだろう」ず述べおいる。小接調の特城的なスタむルずしお、ロヌ・ポゞションで撮圱したこず、極力カメラを固定したこず、人物や小道具を盞䌌圢に配眮したこず、小道具や人物の配眮に特別な泚意を払ったこず、やフェヌドなどの文法的技法を排したこずなどが挙げられる。そのほかにもアメリカ映画の圱響を受けたこずや、同じテヌマ・同じスタッフずキャストを扱ったこずなども、小接䜜品の特城的な䜜颚に挙げられる。

アメリカ映画の圱響

戊埌の小接は䌝統的な日本の家庭生掻を描くこずが倚かったが、若き日の小接は舶来品の服装や持物を愛奜するモダンボヌむで、1930幎代半ばたでは自身が傟倒するアメリカ映画ずくに小接が奜んだ゚ルンスト・ルビッチ、キング・ノィダヌ、りィリアム・A・りェルマンの䜜品の圱響を匷く受けた、ハむカラ趣味のあるモダンでスマヌトな䜜品を撮っおいる。䟋えば、『非垞線の女』1933幎はギャング映画の圱響が色濃く芋られ、画面に写るものはダンスホヌルやボクシング、ビリダヌド、掋匏のアパヌトなどの西掋的なものばかりずいうバタ臭い䜜品だった。たた、『倧孊は出たけれど』1929幎ず『萜第はしたけれど』1930幎はハロルド・ロむド䞻挔の喜劇映画、『結婚孊入門』『淑女は䜕を忘れたか』はルビッチの郜䌚的な゜フィスティケむテッド・コメディからそれぞれ圱響を受けおいる。小接のアメリカ映画ぞの傟倒ぶりは、初期䜜品に必ずず蚀っおいいほどアメリカ映画の英語ポスタヌが登堎するこずからもうかがえる。

戊前期の小接䜜品には、アメリカ映画を䞋敷きにしたものが倚い。デビュヌ䜜である『懺悔の刃』のストヌリヌの倧筋は監督の『』1922幎を䞋敷きにしおおり、ほかにもフランス映画の『』1925幎ず、ゞョン・フォヌド監督の『』1923幎からも䞀郚を借甚しおいる。たた、『出来ごころ』はノィダヌの『』1931幎、『浮草物語』はフィッツモヌリスの『』1928幎、『戞田家の兄効』はヘンリヌ・キング監督の『』1931幎をそれぞれ䞋敷きにしおいる。

䜐藀忠男は、小接がアメリカ映画から孊び取った最倧のものは゜フィスティケヌション、蚀い換えれば珟実に存圚する汚いものや野暮ったいものを泚意深く取り去り、きれいでスマヌトなものだけを画面に残すずいうやり方だったず指摘しおいる。実際に小接は自分が気に入らないものや矎しいず思われないものを、画面から培底的に排陀した。䟋えば、終戊盎埌の䜜品でも焌け跡の颚景や軍服を着た人物は登堎せず、若者はい぀も身ぎれいな恰奜をしおいる。小接自身も「私は画面を枅朔な感じにしようず努める。なるほど汚いものを取り䞊げる必芁のあるこずもあった。しかし、それず画面の枅朔・䞍朔ずは違うこずである。珟実を、その通りに取䞊げお、それで汚い物が汚らしく感じられるこずは奜たしくない。映画では、それが矎しく取䞊げられおいなくおはならない」ず述べおいる「堎面の構成ず挔技指導」『癟䞇人の映画知識』解攟瀟、1950幎1月。に所収。

テヌマ

初期の小接䜜品には、昭和初期の䞍況を反映した瀟䌚的なテヌマを持぀䜜品が存圚する。『倧孊は出たけれど』では䞍況による孊生の就職難を描き、タむトルは圓時の䞖盞を衚す蚀葉ずしお定着した。『萜第はしたけれど』では倧孊を卒業しお就職難になるよりも、萜第した方が孊生生掻を楜しめお幞犏だずいう颚刺を利かしおいる。『䌚瀟員生掻』1929幎ず『東京の合唱』では倱業したサラリヌマンを䞻人公にしお、その暗くお䞍安定な生掻ず悲哀をナヌモラスの䞭に描いおいる滋野蟰圊「評䌝・小接安二郎」『キネマ旬報』1952幎6月䞊旬号。に所収。こうした䜜品は䞍況䞋の小垂民瀟䌚の生掻感情をテヌマにした「小垂民映画」のひず぀に䜍眮付けられおいる。小接のもうひず぀の小垂民映画『生れおはみたけれど』では、子䟛の芖点から䞍景気時代のサラリヌマンの卑屈さを蟛蟣に描き、そのゞャンルの頂点に達する傑䜜ず目されおいる。『東京の宿』1935幎や『倧孊よいずこ』『䞀人息子』1936幎でも䞍景気による倱業や就職難を扱い、内容はより暗くお深刻なものになった。

小接は生涯を通じ家族を題材にずり、芪ず子の関係や家族の解䜓などのテヌマを描いた小倉真矎「『小早川家の秋』に芋る小接映画の特質」『キネマ旬報』1961幎11月䞋旬号。に所収。映画批評家の小倉真矎は、小接を「䞀貫しお芪子の関係を远究しおきた䜜家」ず呌び、ドナルド・リチヌは「䞻芁なテヌマずしおは家庭の厩壊しか扱わなかった」ず述べおいる。家族の解䜓に関しおは、嚘の結婚による芪子の別れや、母や父などの死がモチヌフずなるこずが倚い。たた、小接䜜品に登堎する家族は構成員が欠けおいる堎合が倚く、誰かが欠けおいる家族が嚘の結婚や肉芪の死でさらに欠けおいくさたが描かれおいる。『晩春』以降はブルゞョワ家庭を舞台に、父嚘たたは母嚘の関係や嚘の結婚を繰り返し描き、遺䜜たで同じようなテヌマずプロットを採甚した。同じテヌマだけでなく同じスタむルにも固執したため、批評家からはしばしば「進歩がない」「い぀も同じ」ず批刀されたが、これに察しお小接は自身を「豆腐屋」に䟋え「わたしのクセ」『読売グラフ』1955幎6月7日号。に所収、「豆腐屋にカレヌだのずんか぀䜜れったっお、うたいものが出来るはずがない」「僕は豆腐屋だ。せいぜいガンモドキしか䜜れぬ。トンカツやビフテキはその専門の人々に任せる『スポヌツニッポン』1951幎9月14日。に発蚀を匕甚。」などず発蚀した。

補䜜方法

脚本

小接は自ら脚本䜜りに参加し、ほずんどの䜜品には共䜜者がいた。サむレント映画時代は原䜜者や最色者ずしお脚本䜜りに参加し、その際に「ゞェヌムス・槇」ずいうペンネヌムを倚甚した。この名前は小接ずその共䜜者の池田忠雄、䌏芋晁、北村小束ずの共同ペンネヌムずしお考案されたが、誰も䜿わなかったため小接専甚の名前になり、11本の䜜品でクレゞットされおいる。他にも『突貫小僧』1929幎で「野接忠二」、『生れおはみたけれど』で「燻屋鯚兵衛」ずいうペンネヌムを䜿い、さらに『東京の女』1933幎の「゚ルンスト・シュワルツ」、『東京の宿』の「りィンザァト・モネ」のように、原䜜者ずしお冗談めかした倖囜人名を名乗ったこずもあった。圓時の共同執筆に぀いお、池田忠雄は自分が䞋曞きをし、小接がそれを手盎しするこずが倚かったず述べおいる。䌏芋晁によるず、小接はシヌンの構成から䌚話の现郚に至るたで党面的に手を入れたため、䌏芋が曞いた脚本でも完成時には小接のものに換骚奪胎されたずいう。

『晩春』からの党䜜品は野田高梧ずずもに脚本を曞き、野田は小接の女房圹ずもいえる存圚ずなった。2人は旅通や別荘に籠もり、じっくりず時間をかけお脚本を曞いた。小接ず野田はうたが合い、酒の量や寝起きの時間も同じで、セリフの蚀葉尻を「わ」にするか「よ」にするかたで意芋が䞀臎したため、コンビを組んで仕事をするにはずおも郜合が良かったずいう。脚本䜜りではストヌリヌよりも登堎人物を優先し、俳優の個性に基づいお配圹を遞び、それを念頭においお登堎人物の性栌ずセリフを䜜った。映画評論家の貎田庄が「小接の脚本曞きは、頭の䞭で映画を撮りながら曞くこずず等しかった」ず述べたように、小接は頭の䞭でコンティニュむティを考えながら脚本を曞いたため、やむを埗ない状況を陀いお脚本が倉曎されるこずはなかった。

撮圱

小接はロケヌション・ハンティングを入念に行い、撮圱する堎所を厳密に定めた。屋倖シヌンのほずんどはロケヌションだが、オヌプンセットを䜿うこずは滅倚になく、宀内シヌンをはじめ飲み屋街や宿屋のシヌンなどもスタゞオ内のステヌゞセットで撮圱した。撮圱にあたっおは、1ショットごずにむメヌゞ通りの映像になるよう、自分でカメラのファむンダヌを芗きながら、画面䞊の人物や小道具の䜍眮をミリ単䜍で決めた。スタッフに䜍眮を指瀺する時は、「倧船ぞ10センチ」「もう少し鎌倉寄り」ずいうように、倧船撮圱所近くの地名や駅名を甚いお方角を䌝えた叞葉子「「葉ちゃんね、女の䞀生やるずきにはね、次がああだからっお挔技を組み立おるず、わかっちゃっお぀たらない」っお。」。

䜐藀が小接のこずを「構図至䞊䞻矩者」ず呌んだように、小接は䜕よりも1぀1぀のショットの構図の矎しさを重芖し、小道具の䜍眮だけでなく圢や色に至るたで现心の泚意を払った。助監督を務めた篠田正浩によるず、畳のぞりの黒い線が、画面の䞭を広く亀錯しおいるように芋えお目障りだずしお、線を消すためだけに誰も䜿わない座垃団を眮いたずいう。それぞれのショットの構図を優先するため、同じシヌンでもショットが倉わるたびに俳優や小道具の䜍眮を倉えおしたうこずもあった。これではショット間の぀ながりがなくなっおしたうが、篠田がそれを小接に指摘するず「みんな、そんなこずに気付くもんか」ず蚀い、篠田も詊写を芋るず違和感がなかったずいう。

画面䞊の小道具や衣装は小接自身が遞び、自宅にある私物を持ち蟌むこずもあった岩䞋志麻「「人間は悲しい時に悲しい顔をするものではない。人間の喜怒哀楜はそんなに単玔なものではないのだよ」ずいう小接先生の蚀葉」。茶碗や花噚などの矎術品は、矎術商から取り寄せた本物を䜿甚し、カラヌ䜜品では有名画家の実物の絵画を䜿甚した川又明「映画に文法はない、自由に䜜ればいい」。䟋えば、『秋日和』では梅原韍䞉郎の薔薇の絵、山口蓬春の怿の絵、髙山蟰雄の颚景画、橋本明治の歊神像図、東山魁倷の颚景画を背景に食っおいる。本物を䜿うこずに関しお小接は「床の間の軞や眮きものが、筋の通った品物だず、いわゆる小道具のマガむ物を持ち出したのず第䞀私の気持が倉っお来る 人間の県はごたかせおもキャメラの県はごたかせない。ホンモノはよく写るものである」ず述べおいる。たた、赀を奜む小接は、画面の䞭に赀色の小道具を入れるこずが倚く、カラヌ䜜品では赀色のやかんがよく写っおいるこずが指摘されおいる。

挔技指導

小接は俳優の動きや芖線、テンポに至るたで、挔技のすべおが自分のむメヌゞした通りになるこずを求めた。小接は自ら身振り手振りをしたり、セリフの口調やむントネヌション、間のずり方たでを実際に挔じおみせたりしお、俳優に厳密に挔技を指導したが、笠智衆は小接が「ヒッチコックのように自分の䜜品に出挔したら、倧倉な名挔技だったろう」ず述べおいる笠智衆「小接先生ずわたし」『キネマ旬報』1958幎6月䞋旬号。に所収。挔技の指瀺は「そこで䞉歩歩いお止たる」「玅茶をスプヌンで2回半かき回しお顔を巊の方ぞ動かす」「手に持ったお盆の䜍眮を右に2センチ、䞊に5センチ高くしお」ずいう具合に现かく、俳優はその指瀺通りに動いたため、飯田蝶子は「圹者は操り人圢みたいなもの」だったず述べおいる飯田蝶子「小接さんの兵隊」キネマ旬報別冊『日本映画シナリオ叀兞党集 第2巻』1966幎2月。に所収。

構図を重芁芖した小接は、挔技も構図にはたるようなものを求めた。『長屋玳士録』で易者を挔じた笠智衆によるず、机の䞊の手盞図に筆で曞き蟌むずいうシヌンで、普通に筆を䜿うず頭が䞋がっおしたうが、小接は頭が動くこずで構図が厩れおしたうのを避けるため、頭の䜍眮を動かさずに挔じるよう指瀺し、笠が「そりゃちょっず䞍自然じゃないですか」ず抗議したずころ、小接は「君の挔技より映画の構図のほうが倧事なんだよ」ず蚀い攟ったずいう。

小接は自分がむメヌゞした通りになるたで、俳優に䜕床も挔技をやり盎させ、1぀のアクションでOKが出るたでに䜕十回もテストを重ねるこずもあった。淡島千景は『麊秋』で原節子ず䌚話するシヌンにおいお、原ず同じタむミングでコップを眮いおからセリフを発し、原の方を向くずいう挔技が䞊手くいかず、小接に「目が早いよ」「手が遅いよ」「銖が行き過ぎだよ」ず蚀われおNGを出し続け、20数回たでは数えたが、その埌は数え切れなくおやめたほどだったずいう。岩䞋志麻は『秋刀魚の味』で巻尺を手で回すシヌンにおいお、巻尺を右に䜕回か回しおから瞬きをしお、次に巊に䜕回か回しおため息を぀くずいう现かい泚文が出されたが、䜕床やっおもOKが出ず、小接に「もう䞀回」「もう䞀回」ず蚀われ続け、80回ぐらいたでNGを数えたずいう。

笠智衆は「小接組では自分じゃ䜕をやっおいるのかちっずも分からなかったですけど、小接先生の蚀われるたたに笑。他力本願っおいうのか、みんな監督のいう通りです。科癜の䞊げ䞋げから、動きたで党郚。僕だけじゃなく、党員そうですから。撮圱の前に党員集められお、科癜の皜叀するんです。ホンに高䜎を曞き蟌んで、音笊みたいに芚えるわけです。その通り蚀わないずOKにならないから、もう必死で笑。総お監督䞭心でねえ、倧道具、小道具からカメラの䜍眮、衣装ず、党郚監督が決めちゃうんです。俳優も道具ずしか芋おなかったんじゃないですねえ。説明は䜕もないです。この科癜や動きが䜕のためにあるのか、こっちは分からない笑。蚀われた通りやるしかないです。小接組に慣れない俳優さんがね、『先生、ここはどういう気持ちでしょうか』っお尋ねるずね、『気持ちなし』っお笑。蚀われた通りやりゃいいんだっおこずですね。圹䜜りなんおそんなものは無いです」などず述べおいる。

それは小接組以倖ずの撮圱では摩擊を生むこずもあった。宝塚映像東宝で制䜜された『小早川家の秋』では、「小刻みに数秒のカットを重ね、衚情も動䜜もできる限り削り取ろうずする小接の手法に森繁久圌、山茶花究が悲鳎を䞊げた。森繁は自分が絵具にされたように感じたずいう。「ねえ、絵描きさん、ずころであなたなにを描いおいるんです」そう聞いお芋たい気分にさせられた。䞀倜、二人は小接の宿を蚪ね、思う様のこずをいった。「束竹の䞋手な俳優では、五秒のカットをもたすのが粟䞀杯でしょう。でも、ここは東宝なんです。二分でも䞉分でも立掟にもたせお芋せたす」高橋治・䜜家」ずいう。

小接組

小接は同じスタッフやキャストず仕事をするこずが倚く、圌らは「小接組」ず呌ばれた。小接組の䞻な人物ず参加本数は以䞋の通りであるスタッフは3本以䞊、キャストは5本以䞊の参加者のみ蚘述参加本数はずに掲茉されたクレゞットをもずに算出。。

映像スタむル

ロヌ・ポゞション

小接のよく知られた映像手法ずしお、カメラを䜎い䜍眮に据えお撮圱する「ロヌ・ポゞション」が挙げられる厚田雄春「小接ロヌ・ポゞションの秘密」。ロヌ・ポゞションの意味に぀いおは、「畳に座ったずきの目の高さ」「子䟛から芋た芖線」「客垭から舞台を芋䞊げる芖点」など諞説ある。小接自身は日本間の構図に安定感を求めた結果、ロヌ・ポゞションを採甚したず述べおいる小接安二郎、石川欣䞀「カラヌは倩どん 癜黒はお茶挬の味 カメラ察談」『カメラ毎日』創刊号、1954幎5月。に所収。厚田雄春は、暙準のカメラ䜍眮で日本間を撮圱するず、畳のぞりが目に぀いお映像が締たりにくくなるため、それが目立たないようロヌ・ポゞションを甚いたず述べおいる。小接が初めおカメラ䜍眮を䜎くしたのは『肉䜓矎』1928幎で、その理由はセット撮圱で床の䞊が電気コヌドだらけになり、いちいち片付けたり、映らないようにしたりする手間を省こうずしたためで、床が映らないようカメラ䜍眮を䜎くするずその構図に手応えを感じ、それからはカメラの䜍眮が段々䜎くなったずいう。ロヌ・ポゞションで撮圱するずきは、「お釜の蓋」ず名付けた特補の䜎い䞉脚を䜿甚し、柱や障子などの瞊の盎線が歪むのを避けるために50ミリレンズを䜿甚した束浊莞二「四〇ミリの謎」。

小接が「ロヌ・アングルを䜿甚した」ず蚀われるこずもあるが、ロヌ・アングルはカメラの䜍眮ではなくアングルに぀いお定矩する蚀葉であり、その蚀葉の曖昧な䜿甚がそのたた普及したものである。映画批評家のデノィッド・ボヌドりェルは、「小接のカメラが䜎く芋えるのはそのアングルのためではなく、その䜍眮のためである」ず指摘しおいる。ロヌ・アングルはカメラアングルを仰角にしお、䜎い芖点から芋䞊げるようにしお撮圱するこずを意味するが、小接䜜品ではカメラアングルを数床だけ䞊に傟けるこずはあっおも、ほずんど氎平を保っおいる。たた、カメラ䜍眮は特定の高さに固定したわけではなく、撮圱察象に合わせお高さを倉え、その高さに関わらず氎平のアングルに構えた。䟋えば、日本間ではちゃぶ台の少し䞊の高さにカメラを眮いたが、テヌブルや事務机のシヌンではカメラをその高さに䞊げおいる。ボヌドりェルは「小接のカメラ䜍眮は絶察的なものではなく盞察的なものであり、垞に撮圱する察象よりも䜎いが、察象の高さずの関係で倉化する」ず指摘しおいる。

移動撮圱

小接は移動撮圱をほずんど䜿わず、できるだけカメラを固定しお撮圱した。晩幎に小接は移動撮圱を「䞀皮のごたかしの術で、映画の公匏的な技術ではない」ず吊定したが、初期䜜品では積極的に䜿甚しおおり、『生れおはみたけれど』では43回も䜿われおいる。やがお衚珟䞊の必然性がある堎合を陀くず䜿うのをやめ、ずくに衚面的な効果を出したり、映画的話法ずしお䜿甚したりするこずはほずんどなくなり、トヌキヌ䜜品以埌は1本あたりの䜿甚回数が倧きく枛った。珟存䜜品の䞭では『父ありき』ず『東京暮色』ずカラヌ時代の党䜜品においお、党おのシヌンが固定カメラで撮圱されおいる。たた、パンの䜿甚もごく数本に限定されおいる。

埌幎の小接䜜品における移動撮圱は、カメラを動かしおもショット内の構図が倉化しないように撮られおいる。䟋えば、屋倖で2人の人物が䌚話をしながら歩くシヌンでは、移動しおも背景が倉化しない堎所長い塀や䞊朚道などを遞んで、他の通行人を画面に登堎させないようにし、人物が歩くのず同じスピヌドでカメラを移動させた。貎田はこうした移動撮圱が「静止したショットのように芋える」ず述べおいる。『麊秋』で原節子ず䞉宅邊子が䞊んで話しながら砂䞘を歩くシヌンでは、小接䜜品で唯䞀のクレヌン撮圱が行われおいるが、これも砂䞘の高い方から䜎い方ぞ歩いお行くずきに、構図が倉化しないようにするために甚いられおいる。

180床ルヌル砎り

2人の人物が向かい合っお䌚話するシヌンを撮圱するずきには、「」ずいう文法的芏則が存圚する。180床ルヌルでは図1に瀺すように、人物甲ず乙の目を結ぶむマゞナリヌ・ラむン想定線やアクション軞ずもを匕き、それを跚がないようにしお線の片偎、すなわち180床の範囲内にだけカメラを眮きカメラ䜍眮AずB、カメラ䜍眮Aで甲を右斜め前から撮り、次にカメラを切り返しお、カメラ䜍眮Bで乙を巊斜め前から撮圱する。そうするこずで「A→B」のように甲は右、乙は巊を向くこずになるため、甲ず乙の芖線の方向が䞀臎し、2人が向かい合っお䌚話しおいるように芋えた。

しかし、小接はこの文法的芏則に埓わず、むマゞナリヌ・ラむンを跚ぐようにしおカメラを眮いたカメラ䜍眮AずC。すなわち甲をカメラ䜍眮Aで右斜め前から撮圱したあず、線を越えたカメラ䜍眮Cで乙を右斜め前から撮圱した。そうするず「A→C」のように甲も乙も同じ右を向くこずになるため、芖線の方向が䞀臎しなかった小接安二郎「映画の文法」『月刊スクリヌン・ステヌィ』1947幎6月号。に所収小接安二郎「映画に"文法"はない」『芞術新朮』1959幎4月号。に所収。この文法砎りは日本間での撮圱による制玄から生たれたもので、日本間では人物の座る䜍眮ずカメラの動く範囲が限られおしたうが、その䞊で180床ルヌルに埓えば、自分の狙う感情や雰囲気を自由に衚珟できなくなっおしたうからだった。小接はこれを「明らかに違法」ず認識しおいるが、ロングショットで人物の䜍眮関係を瀺しおさえおけば、あずはどんな角床から撮っおも問題はないず䞻匵し、「そういう文法論はこじ぀け臭い気がするし、それにずらわれおいおは窮屈すぎる。もっず、のびのびず映画は挔出すべきもの」だず述べおいる。小接によるず、『䞀人息子』の詊写埌にこの違法に぀いお他の監督たちに意芋を聞いたずころ、皲垣浩は「おかしいが初めの内だけであずは気にならない」ず述べたずいう。たた、小接はカメラを人物の真正面の䜍眮に据え、䌚話する2人の人物を真正面の構図から撮圱するこずも倚かった。

盞䌌圢の構図

小接䜜品のショットには、人物や物が盞䌌圢に䞊んでいる構図が倚甚されおいる。盞䌌圢の構図ずは、倧きさは異なっおいおも、圢の同じものが繰り返されおいる構図のこずをいい、貎田によるず、その画面は「きわめお敎然ずした、幟䜕孊的な印象を䞎える」ずいう。盞䌌圢の構図の䟋は『浮草』のファヌスト・ショットで、画面奥にある癜い灯台ず、画面手前にあるビンが盞䌌圢に䞊べられおいる。䜐藀は同じ画面内に2人の人物がいるシヌンにおいお、人物同士が同じ方向を向いお䞊行しお座っおいるこずが倚いこずを指摘しおいる。小接の盞䌌圢ぞの奜みは、登堎人物の行為にたで及び、しばしば同じ動䜜を反埩するシヌンが芋られる。『父ありき』で父子が枓流で釣りをするシヌンでは、父ず息子が同じ姿勢で盞䌌圢に䞊んでいるが、2人は同じタむミングで釣竿を䞊げ、投げ入れるずいう動䜜をしおいる。

映画評論家の千葉䌞倫は、小接が盞䌌圢の人物配眮を奜んだ理由に぀いお、「二人の人物の間には䞀芋、察立がないように芋えるが、実は埮劙なズレがあり、そんな二人の内面を匕き出すため」であるず指摘しおいる。䞀方、䜐藀によるず、盞䌌圢の人物配眮は「察立や葛藀を排しお、二人以䞊の人物が䞀䜓感で結ばれおいる調和の䞖界ぞの願望の衚明」であるずいう。たた、盞䌌圢の構図は、登堎人物が別の動䜜をするこずなどにより厩れるずきがあるが、貎田は人物の挔技においお盞䌌圢が厩れるず、「おかしさが匷調され、ギャグなどに倉わる」ず指摘しおいる。

ショット繋ぎ

小接はショットを繋ぐ技法である「オヌバヌラップずも」ず「フェヌド」をほずんど䜿わなかった。ディゟルブはある画面が消えかかるず同時に次の画面が重なっお出おくる技法で、フェヌドは画面がだんだん暗くなったりフェヌド・アりト、反察に明るくなったりフェヌド・むンする技法である。どちらも堎面転換をしたり、時間経過を衚珟したりするための叀兞的な映画技法ずしお甚いられた。しかし、小接はこうした技法を「ひず぀のゎカマシ」ずみなし、「カメラの属性に過ぎない」ずしお吊定した。

ディゟルブはごく初期に䟋倖的にしか䜿っおおらず、小接自身は『䌚瀟員生掻』で䜿甚しおみお「䟿利ではあるが぀たらんものだ」ず思い、それ以降はごく僅かな䜿甚を陀くず、たったくずいっおいいほど䜿甚しなかった。䜐藀によるず、小接は画面の秩序感を敎えるこずに固執しおいたが、ディゟルブを䜿えばそれを凊理しおいる僅かな時間により、厳密な構図の秩序感が倱われおしたうため、それを避ける目的でディゟルブを䜿甚しなかったずいう。䞀方、フェヌドはディゟルブほど厳密に排陀せず、比范的埌幎たで甚いられた。小接は『生れおはみたけれど』から意識的に䜿わなくなったず述べおいるが、その埌もファヌスト・ショットずラスト・ショットを前埌のタむトル郚分ず区切るためだけに䜿甚した。しかし、カラヌ䜜品以埌はそれさえも䜿わなくなり、すべお普通のカットだけで繋いだ。

小接はディゟルブやフェヌドの代わりに、堎面転換や時間経過を衚珟する方法ずしお「カヌテン・ショット」ず呌ばれるものを挿入した。カヌテン・ショットは颚景や静物などの無人のショットから成り、䜜品のオヌプニングや゚ンディング、たたはあるシヌンから次のシヌンに移行するずきに挿入されおいる。カヌテン・ショットの呜名者は南郚圭之助で、舞台のドロップ・カヌテンに䌌おいるこずからそう呌んだ南郚圭之助「小接安二郎の怒り」。他にも「空ショット゚ンプティ・ショット」ず呌ばれたり、枕詞の機胜を持぀こずから「ピロヌ・ショット」ず呌ばれたりもしおいる。

同じ圹名・圹柄

小接䜜品は前述のように同じテヌマやスタむルを採甚したが、同じ圹名も繰り返し登堎しおいる。䟋えば、坂本歊は『出来ごころ』『浮草物語』『箱入嚘』『東京の宿』『長屋玳士録』で「喜八」を挔じおおり、『長屋玳士録』以倖の4本は喜八を䞻人公にした人情ものであるこずから「喜八もの」ず呌ばれおいる。この喜八ものでは、飯田蝶子が『出来ごころ』以倖の3本で「お぀ね」圹を挔じた。笠智衆は『晩春』『東京物語』『東京暮色』『圌岞花』『秋日和』の5本で「呚吉」圹、『父ありき』『秋刀魚の味』の2本で「呚平」圹を挔じた。原節子も『晩春』『麊秋』『東京物語』で「玀子」圹を挔じおおり、この3本は「玀子䞉郚䜜」ずも呌ばれおいる。他にも幎配女性に「志げ」、長男に「康䞀」「幞䞀」、小さな子䟛に「実」「勇」、若い女性に「アダ」ずいう圹名が頻出し、苗字では「平山」がよく登堎した。たた、同じ俳優が同じ圹柄を挔じるこずも倚い。䟋えば、笠智衆は父芪圹、䞉宅邊子は劻圹、桜む぀子は氎商売の女性圹を䜕床も挔じた。『圌岞花』『秋日和』『秋刀魚の味』の3本では、䞭村䌞郎ず北竜二が䞻人公の友人圹、高橋ずよが料亭若束の女将圹を挔じた。

音楜

小接䜜品の音楜は、普通の䜜品ずは異なる特色を持ち、小接調の音楜ず呌ばれおいる斎藀高順「画面ず音楜が盞殺しない曲を」。その特色は音楜を登堎人物の感情移入の道具ずしお䜿甚したり、劇的な効果を出したりするために䜿ったりするのを避けたこずず、深刻なシヌンに明るい音楜を流したこずである。小接は「堎面が悲劇だからず悲しいメロディ、喜劇だからずお滑皜な曲、ずいう遞曲はむダだ。音楜で二重にどぎ぀くなる」ず述べおいる。こうした特色は䜜曲家の斎藀高順ずコンビを組んだ『早春』以降の䜜品に芋られる。『早春』の䞻人公が病床の友人を芋舞うシヌンでは、内容が深刻で暗いこずから、小接が奜きな「サ・セ・パリ」「バレンシア」のような明るい曲を流そうず提案し、斎藀が明るい旋埋の曲「サセレシア」を䜜曲した。小接はこの曲を気に入り、『東京暮色』『圌岞花』でも䜿甚した。小接はその埌い぀も同じような曲を泚文し、斎藀は「サセレシア」を少しアレンゞした曲や、ポルカ調の曲を䜜曲した。その他の音楜の特城ずしお、䞀定䞍倉のテンポずリズム、旋埋の繰り返し、匊楜噚を䞭心ずしたさわやかなメロディが指摘されおいる。

人物

人柄

小接はナヌモラスな人物で、冗談や皮肉を亀えおしゃべるこずが倚く、厚田雄春はそんな小接を「道化の粟神」ず呌んだ䜐田啓二「老童謡『高野行』 小接さんのこず」。人芋知りをする性栌で、ずくに女性に察しおはシャむであり、そのために生涯独身を貫いたずも蚀われおいる。そんな小接は母を愛しおいたが、恥ずかしがり屋だったため、人前ではわざず母をそんざいに扱っおいるような態床をずり、「ばばぁは僕が飌育しおるんですよ」などず冗談を蚀ったずいう。

趣味・嗜奜

小接は倧の酒奜きずしお知られた。野田ず脚本を曞くため長野県蓌科高原の別荘に滞圚したずきは、毎日のように朝から䜕合もの酒を飲みながら仕事をした。野田によるず、1぀の脚本を曞き終わるたでに100本近くの䞀升瓶を空けたこずもあり、小接はその空き瓶に1、2、3 ず番号を曞き蟌んでいたずいう。撮圱珟堎でも、倕方になるず「これからはミルク酒の時間だよ」ず蚀っお仕事を切り䞊げ、圓時は圓たり前だった残業をほずんどするこずなく、酒盛りを始めたずいう。

小接は映画のシナリオ執筆の参考を兌ね、食文化に粟通しおいた。特に鰻が奜きで倧晊日は映画関係者を連れお南千䜏の鰻屋の名店「尟花」で幎越し鰻を食べおいた。䞀般的に倧晊日は现く長く生きるこずを祈願しお幎越し蕎麊を食べるこずが倚いが、小接は倪く長い方がいいずいう独自の考えから鰻を遞んでいた。豚カツも倧奜物であり、『䞀人息子』『お茶挬の味』『秋日和』などの映画にも、豚カツにた぀わる堎面や台詞が登堎しおいる。特に遺䜜『秋刀魚の味』では、小接が垞連であった蓬莱屋を暡したセットで、登堎人物が実際に蓬莱屋のカツを食べる堎面を撮圱するほどであった。鮭の酒粕汁も奜物で、自身の日蚘の䞭に頻繁に登堎しおいる野村麻里 線『䜜家の手料理』平凡瀟、2021幎2月25日、97‐98頁。。

趣味ずしおはスポヌツを奜み、䞭孊時代は柔道郚に所属し、若い頃はボクシングやスキヌに打ち蟌んだが、生涯を通しお最も熱を入れおいたのは野球ず盞撲だった『考える人』2007幎冬号特集「小接安二郎を育おたもの」、新朮瀟、p. 54。。野球は阪神タむガヌスのファンで、芳戊するのも自分でやるのも奜きだった。小接の野球奜きは、小接組のスタッフに野球の匷い人を奜んで入れるほどで、自身も束竹倧船の野球チヌムに所属した。盞撲は鳳ず吉葉山のファンで、撮圱が倧盞撲の堎所ず重なるず、ラゞオ䞭継が始たる時間に合わせお切り䞊げたずいう。

写真を撮るのも奜きで、その趣味は生涯続いた。小接のカメラ歎は䞭孊時代に始たり、その頃に流行したコダック瀟の小型カメラのベス単で撮圱を楜しんだ束浊莞二「埩刻䞭囜戊線寫眞集 䜜品の背景」。1930幎代初頭には高玚品だったラむカを手に入れ、自ら珟像を行ったり、写真匕き䌞ばし機を賌入したりするなど、たすたす写真撮圱に凝った。1934幎には写真誌『月刊ラむカ』に2床も写真が掲茉された。日䞭戊争に応召されたずきは、報道芁員ではないにもかかわらず、著名な監督だずいうこずで特別にラむカの携行を認められ、戊地で4000枚近くの写真を撮圱した。そのうち8枚は1941幎に雑誌『寫眞文化』で「小接安二郎・戊線寫眞集」ずしお特集掲茉されたが、それ以倖は1952幎の束竹倧船撮圱所の火事で焌倱した。

子䟛の頃から絵を描くこずも奜きで、ずおもうたかったずいう岡田秀則「小接安二郎における絵画ずデザむン」。小孊校高孊幎の頃には圓時の担任曰く「倧人が舌を巻くほどの才胜」があり、䞭孊時代にはアヌトディレクタヌを志したこずもあった。小接の絵の趣味は亡くなるたで続いたが、映画監督ずしおのキャリアの傍らでグラフィックデザむナヌずしおの䞀面を芋せおいる。䟋えば、日本映画監督協䌚のロゎマヌクをデザむンしたり、亀友のある映画批評家の筈芋恒倫ず岞束雄の著䜜や『山䞭貞雄シナリオ集』1940幎などの装䞁を手がけたりした。たた、達筆だった小接は『溝口健二䜜品シナリオ集』1937幎の題字や、京郜の倧雄寺にある山䞭貞雄碑の揮毫を手がけおいる束浊莞二「少幎期の絵画」。戊埌の監督䜜品では、映画の䞭の小道具や看板のデザむンを自ら手がけおいる。自䜜の題字やクレゞット文字も自分で曞き、カラヌ映画になるず癜抜き文字に赀や黒の文字を無䜜為に散りばめるなど、独自のデザむン感芚を発揮しおいる。

里芋匎ずの関係

小接は䞭孊時代から里芋匎の小説を愛読しおいお、『戞田家の兄効』では里芋の小説から现郚を拝借しおいる。小接ず里芋は『戞田家の兄効』の詊写䌚埌の座談䌚で初察面し、小接は里芋の挔出技術に関する的確な批評に敬服した里芋匎「小接君ず鎌倉ず私」。『晩春』でも詊写を芋た里芋からラストシヌンに぀いおアドバむスをもらい、この䜜品以降は里芋に脚本を送っお意芋を求めるようになった。1952幎に小接が北鎌倉に移䜏するず、近所に䜏んでいた里芋ずの芪亀が深たり、お互いの家を蚪ねたり、野田ず3人でグルメ旅行をしたりするほどの仲ずなった。里芋は小接を「私の生涯における数少ない心友のうちのひずり」ず呌んでいる。晩幎は里芋ずずもに仕事をするこずも倚くなった。『圌岞花』『秋日和』では里芋ずストヌリヌを緎り、里芋が原䜜を曞きながら、それず䞊行しお小接ず野田が脚本を曞くずいう共同䜜業をずった。1963幎にはNHKのテレビドラマ『青春攟課埌』の脚本を里芋ず共同執筆した。たた、里芋の四男である山内静倫は、『早春』以降の束竹の小接䜜品でプロデュヌサヌを務め、小接は山内ずも私生掻での付き合いを深めた。

評䟡・圱響

小接は1930幎代から日本映画を代衚する監督のひずりずしお認められ、倚くの䜜品が高評䟡を受けた。キネマ旬報ベスト・テンでは20本の䜜品が10䜍以内に遞出され、そのうち6本が1䜍になった。戊埌になるず、小接ず同幎代の批評家は、小接調による様匏矎ず保守的なモラルのために高い評䟡を䞋したが、若い批評家や監督からは「テンポが遅くお退屈」「珟実瀟䌚から目を背けおいる」「ブルゞョワ趣味に迎合しおいる」「映画の特質である動的な魅力に乏しい」などず批刀されるこずもあった。岩厎昶は1950幎代埌半の小接を巡る批評の状況に぀いお、「40代、50代が小接を神様ずしお祭壇に祭り䞊げ、どんな倱敗䜜も瀌賛するのに察し、若い批評家たちは小接を酷評する競争をしおいるように芋える」ずしお、その䞖代的な萜差を指摘しおいる岩厎昶『日本映画䜜家論』200頁䞭倮公論瀟、1958幎。

束竹ヌヌノェルノァヌグの旗手であった吉田喜重もその「若い䞖代」の䞀人で、ある雑誌で『小早川家の秋』を「若い人間像がたいぞんいやらしく、うそですね」「幎寄が厚化粧しお螊っおるずいういやらしい郚分がある」「芞術ずいうよりも芞」などず評した品田雄吉・長谷川韍生・吉田喜重「シナリオ時評 錎談第17回」『シナリオ』18å·»11号、1962幎11月号における発蚀。するず小接は1963幎の束竹監督新幎䌚の垭䞊で、末垭にいた吉田に無蚀で酒を泚ぐこずでこれに反論し、したいに「しょせん映画監督は橋の䞋で菰をかぶり、客を匕く女郎だよ」「君なんかに俺の映画が分かっおたたるか」ず声を荒げた。これは小接が若い䞖代に感情を露にした珍しい出来事だった。

1950幎代前半から海倖で日本映画が泚目され、ずくに黒柀明や溝口健二の䜜品が海倖の映画祭で高評䟡を受けるようになったが、小接䜜品は日本的で倖囜人には理解されないだろうず思われおいたため、なかなか海倖で玹介されるこずがなかった。小接䜜品が最初に海倖で評䟡されたのは、1958幎にむギリスのロンドン映画祭で『東京物語』が䞊映されたずきで、映画批評家のリンれむ・アンダヌ゜ンらの称賛を受け、最も独創的で創造性に富んだ䜜品に莈られるサザヌランド杯を受賞した。その埌アメリカやペヌロッパでも䜜品が䞊映されるようになり、海倖での小接䜜品の評䟡も高たった。なかでも『東京物語』は、2012幎に英囜映画協䌚の映画雑誌が発衚した「」で、監督投祚郚門の1䜍に遞ばれた。

囜内倖の倚くの映画監督が小接に敬意を衚し、その圱響を受けおいる。ノィム・ノェンダヌスは小接を「私の垫匠」ず呌び、『ベルリン・倩䜿の詩』1987幎の゚ンディングに「党おのか぀おの倩䜿、特に安二郎、フラン゜ワ、アンドレむに捧ぐ」ずいう䞀文を挿入した。さらにノェンダヌスは日本で撮圱したドキュメンタリヌ『東京画』1985幎で小接䜜品をオマヌゞュした。小接の生誕100呚幎にあたる2003幎には、ホり・シャオシェンが『珈琲時光』、アッバス・キアロスタミが『』をそれぞれ小接に捧げる圢で発衚した。呚防正行は監督デビュヌ䜜であるピンク映画『倉態家族 兄貎の嫁さん』1984幎で小接䜜品を暡倣した呚防正行「なぜ小接だったのか」。ゞム・ゞャヌムッシュは『ストレンゞャヌ・ザン・パラダむス』1984幎で小接䜜品の題名から取った名前の競走銬を登堎させおいる。ほかにもアキ・カりリスマキ、クレヌル・ドゥニ、゚リア・スレむマン、黒沢枅、青山真治などが小接の圱響を受けおいる。

䜜品

監督䜜品

小接の監督䜜品は54本存圚するが、そのうち17本のサむレント映画のフィルムが珟存しおいない。以䞋の䜜品䞀芧は『小接安二郎党集』䞊䞋巻ず『小接安二郎 倧党』の「小接安二郎 党䜜品ディテヌル小事兞」を出兞ずする。

凡䟋

×印はフィルムが珟存しない䜜品倱われた映画△印はフィルムの䞀郚だけが珟存する䜜品□印はサりンド版䜜品◎印はカラヌ䜜品

サむレント映画
トヌキヌ映画

その他の䜜品

受賞歎

映画賞

賞幎郚門䜜品結果出兞
キネマ旬報ベスト・テン1932幎日本映画ベスト・テン『倧人の芋る繪本 生れおはみたけれど』
1933幎日本映画ベスト・テン『出来ごころ』
1934幎日本映画ベスト・テン『浮草物語』
1941幎日本映画ベスト・テン『戞田家の兄効』
1949幎日本映画ベスト・テン『晩春』
1951幎日本映画ベスト・テン『麊秋』
毎日映画コンクヌル1949幎日本映画倧賞『晩春』
監督賞
脚本賞
1951幎日本映画倧賞『麊秋』
1963幎特別賞-
ブルヌリボン賞1951幎䜜品賞『麊秋』
監督賞
1963幎日本映画文化賞-
サザヌランド杯1958幎-『東京物語』
「映画の日」特別功劎章1959幎--
溝口賞1960幎-『圌岞花』
アゞア映画祭1961幎監督賞『秋日和』
NHK映画賞1963幎特別賞-

その他の賞・栄兞

  • 1958幎玫綬耒章
  • 1959幎日本芞術院賞
  • 1961幎芞術遞奚文郚倧臣賞
  • 1962幎日本芞術院䌚員遞出
  • 1963幎勲四等旭日小綬章没埌远莈、勲䞃等からの昇叙官報 昭和38幎12月16日 第11102号 叙任及び蟞什 内閣

ドキュメンタリヌ䜜品

  • 『生きおはみたけれど 小接安二郎䌝』1983幎、井䞊和男監督
  • 『東京画』1985幎、ノィム・ノェンダヌス監督
  • 『小接ず語る』1993幎、田䞭公矩監督
  • 『吉田喜重が語る小接安二郎の映画䞖界』1993幎、吉田喜重監督 - NHK教育テレビで攟送

シナリオ・日蚘・発蚀集

  • 井䞊和男線『小接安二郎䜜品集』党4巻、立颚曞房、1983幎9月 - 1984幎3月。再版1993幎
  • 田䞭眞柄線『小接安二郎 党発蚀 1933〜1945』泰流瀟、1987幎6月。ISBN 978-4884705893
  • 田䞭眞柄線『小接安二郎 戊埌語録集成 昭和21(䞀九四六)幎―昭和38(䞀九六䞉)幎』フィルムアヌト瀟、1989幎5月。ISBN 978-4845989782
  • 田䞭眞柄線『党日蚘 小接安二郎』フィルムアヌト瀟、1993幎12月。ISBN 978-4845993215。限定版200郚も刊
  • 田䞭眞柄線『小接安二郎「東京物語」ほか』みすず曞房〈倧人の本棚〉、2001幎12月新装版2020幎。ISBN 978-4622089551
  • 井䞊和男線『小接安二郎党集』3冊組䞊・䞋別巻冊子、新曞通、2003幎4月。ISBN 978-4403150012
  • 『小接安二郎 僕はトりフ屋だからトりフしか䜜らない』日本図曞センタヌ〈人生の゚ッセむ〉、2010幎5月。ISBN 978-4284700382
  • 『蓌科日蚘 抄』同刊行䌚線、小孊通スクりェア、2013幎7月。ISBN 978-4797981186
  • 『人ず物3 小接安二郎』無印良品〈MUJI BOOKS文庫〉、2017幎6月。ISBN 978-4909098023。小著
  • 『小接安二郎 発蚀クロニクル 1903-1963』同䌚線、䞉四郎曞通、2024幎11月。ISBN 978-4991299339

蚘念斜蚭・資料通

小接が晩幎に䜿甚した長野県蓌科の別荘「無藝荘」は、2003幎に小接の生誕100幎を蚘念しお茅野垂によりプヌル平に移築され、小接安二郎蚘念通ずしお䞀般に公開されおいる。茅野垂では、1998幎から「小接安二郎蚘念蓌科高原映画祭」が開催され、小接䜜品の䞊映を䞭心にシンポゞりムや短線映画コンクヌルなどが行われおいる。

小接が青春時代を過ごした䞉重県束阪垂では、2002幎に「小接安二郎青春通」が開通したが、2020幎末に閉通した。それに代わる顕地拠点ずしお、翌2021幎に束阪垂立歎史民俗資料通内に「小接安二郎束阪蚘念通」が開通し、青春時代の手玙や日蚘、監督䜜品の台本などが展瀺されおいる。

小接の生地である東京郜江東区では、叀石堎文化センタヌ内に「小接安二郎玹介展瀺コヌナヌ」が蚭けられおいる。

展芧䌚・蚘念展

小接安二郎に関する展瀺は小接の遺品を所蔵する鎌倉文孊通ほかで開催されおいる。1986幎6月に鎌倉文孊通で「特別展小接安二郎展―人ず仕事」を開催した。愛甚品やシナリオ等玄300点が展瀺された。1990幎に小接の遺族から遺品の寄蚗を受けた鎌倉文孊通は生誕100呚幎にあたる2003幎4月25日から6月29日にも「小接安二郎 未来ぞ語りかけるものたち」を開催しおいる。

1998幎12月から1999幎1月31日たで、東京倧孊総合研究博物通で「デゞタル小接安二郎展」が開催された。この展瀺は厚田雄春の遺品が東京倧孊総合文化研究科に寄莈されたこずを受けお䌁画された。展瀺にあたり「東京物語」のデゞタル修埩を実斜した。展芧䌚の図録『デゞタル小接安二郎 キャメラマン厚田雄春の県』で展瀺の様子を芋るこずができる。

小接が1946幎から玄5幎間䜏んでいた千葉県野田垂の野田垂郷土博物通では、2004幎10月16日から11月14日たで「小接安二郎監督ず野田」展瀺を行った。展瀺図録では野田での写真等を芋るこずができるほか、小接の日蚘をもずに「野田での小接日和」の蚘事がある。

小接生誕120呚幎・没埌60幎の2023幎には、神奈川近代文孊通で「小接安二郎展」を開催した。䌚期は2023幎4月1日から5月28日。

泚釈

出兞

参考文献

  • 増補版2006幎
  • 講談瀟+α文庫で再刊
  • 岩波珟代文庫䞊䞋で再刊
  • ちくた孊芞文庫で再刊
  • 岩波珟代文庫で再刊
  • 珟代教逊文庫で再刊
  • 朝日文庫で再刊
  • 『小接安二郎監督ず野田 平成16幎床特別展図録』野田垂郷土博物通、2004幎10月。

関連文献

  • 石坂昌䞉『小接安二郎ず茅ヶ厎通』新朮瀟、1995幎6月。ISBN 978-4103856023。
  • 井䞊和男『陜のあたる家 小接安二郎ずずもに』フィルムアヌト瀟、1993幎10月。ISBN 978-4845993178。
  • 『小接安二郎・人ず仕事』同・刊行䌚線、蛮友瀟、1972幎8月改蚂版・小接安二郎孊䌚、2022幎。
  • 尟圢敏朗『小接安二郎 晩秋の味』河出曞房新瀟、2021幎11月。ISBN 978-4309291703。
  • 貎田庄『小接安二郎の食卓』ちくた文庫、2003幎10月。ISBN 978-4480038883。
  • 貎田庄『小接安二郎ず映画術』平凡瀟、2001幎8月。ISBN 978-4582282412。
    • 新線『小接安二郎ず䞃人の監督』ちくた文庫、2023幎5月。ISBN 978-4480438829。
  • 貎田庄『監督小接安二郎入門 40のQ&A』朝日文庫、2003幎9月。ISBN 978-4022614285。
  • 貎田庄『小接安二郎文壇亀遊録』䞭公新曞、2006幎10月。ISBN 978-4121018687。
  • 具慧原『小接安二郎はなぜ「日本的」なのか』氎声瀟、2024幎3月。ISBN 978-4801007994。
  • 里芋匎『圌岞花秋日和 小接映画原䜜集』歊藀康史線、䞭公文庫、2023幎4月
  • 朱宇正『小接映画の日垞 戊争をたたぐ歎史のなかで』名叀屋倧孊出版䌚、2020幎10月。ISBN 978-4815810023。
  • ポヌル・シュレむダヌ『聖なる映画 小接/ブレッ゜ン/ドラむダヌ』山本喜久男蚳、フィルムアヌト瀟、1981幎2月。
  • 高橋治『絢爛たる圱絵 小接安二郎』文藝春秋、1982幎11月岩波珟代文庫、2010幎。ISBN 978-4006021757。
  • 滝浪䜑玀『小接安二郎 サむレント映画の矎孊』慶應矩塟倧孊出版䌚、2019幎8月。ISBN 978-4766426199。
  • 田䞭康矩『豆腐屋はオカラも぀くる 映画監督小接安二郎のこず』韜鳎屋、2018幎12月。
  • 田䞭眞柄『小接安二郎のほうぞ モダニズム映画史論』みすず曞房、2002幎6月。ISBN 978-4622042693。
  • 田䞭眞柄『小接安二郎ず戊争』みすず曞房、2005幎7月。ISBN 978-4622071488。
  • 田䞭眞柄『小接ありき 知られざる小接安二郎』枅流出版、2013幎7月。ISBN 978-4860294045。
  • 郜築政昭『小接安二郎日蚘 無垞ずたわむれた巚匠』講談瀟、1993幎9月ちくた文庫、2015幎10月。ISBN 978-4480432896。
  • 氞井健児『小接安二郎に憑かれた男 矎術監督・䞋河原友雄の生ず死』フィルムアヌト瀟、1990幎4月。ISBN 978-4845990856。
  • 䞭柀千磚倫『小接安二郎 生きる哀しみ』PHP研究所〈PHP新曞〉、2003幎10月。ISBN 978-4569630854。
  • 䞭野翠『小接ごのみ』筑摩曞房、2008幎2月ちくた文庫、2011幎4月。ISBN 978-4480428202。
  • 䞭村明『小接の魔法぀かい こずばの粋ずナヌモア』明治曞院、2007幎4月。ISBN 978-4625634000。
  • 西村雄䞀郎『殉愛 原節子ず小接安二郎』新朮瀟、2012幎8月講談瀟文庫、2017幎2月。ISBN 978-4062936002。
  • 浜野保暹『小接安二郎』岩波新曞、1993幎1月。ISBN 400430265X。
  • 平山呚吉『小接安二郎』新朮瀟、2023幎3月。ISBN 978-4103524724。倧䜛次郎賞第50回
  • 前田英暹『小接安二郎の家 持続ず浞透』曞肆山田、1993幎1月。ISBN 978-4879952943。
  • 前田英暹『小接安二郎の喜び』講談瀟遞曞メチ゚、2016幎2月。ISBN 978-4062586207。
  • 束岡ひでたか『小接安二郎の俳句 1903-1963』河出曞房新瀟、2020幎3月。ISBN 978-4309028729。
  • 䞉䞊真䞀郎『巚匠ずチンピラ 小接安二郎ずの日々』文藝春秋、2001幎4月。ISBN 978-4163573809。
  • 『小接安二郎 氞遠の映画』河出曞房新瀟〈KAWADE倢ムック〉、2001幎。増補新版2020幎。ISBN 978-4309980003。

関連項目

  • 小接安二郎孊䌚
  • 鎌倉文士

倖郚リンク

  • - 束竹
  • - TOKYO UNIVERSITY DIGITAL MUSEUM

出兞フリヌ癟科事兞『りィキペディアWikipedia』 | 最終曎新2025/10/28 16:44 UTC 倉曎履歎
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