リチャード・タン : ウィキペディア(Wikipedia)

リチャード・パトリック・ダンRichard Patrick Dunne, 1979年9月21日 - )は、アイルランド共和国ダブリン出身の元サッカー選手、元アイルランド代表。ポジションはセンターバック。愛称は、シリアル商品シュガー・パフのキャラクター名ハニー・モンスターに似ていることから、そのまま「ハニー・モンスター」"Everton old boy Richard Dunne back on his old stamping ground"、もしくは自身の名前をもじり「ダニー・モンスター」"who is the greatest of all time in blue?"

エヴァートンFCでキャリアを開始し、10年近くをマンチェスター・シティFCで過ごした後、2009年にアストン・ヴィラFCに参加する。アイルランドに生まれながら、一貫してイングランドのリーグでプレーしているが、プレミアリーグでは、パトリック・ヴィエラ、ダンカン・ファーガソンと並び最多記録となる8度もレッドカードを提示された"Dunne to better reputation"。また、同リーグにおいてオウンゴールで2桁に到達した初の選手として知られる"QPR 2-3 Liverpool: Steven Caulker's injury-time own goal seals dramatic win for Brendan Rodgers' side as FOUR goals are scored in final SEVEN minutes... and Richard Dunne makes history"。アイルランド代表としては、2000年から2013年までプレーしており、その間に2002 FIFAワールドカップとUEFA EURO 2012に出場した。

経歴

クラブ

エヴァートン

少年時代を地元ダブリンのホーム・ファームFCで過ごし、1994-95シーズンの15歳の時にエヴァートンFCの下部組織に入団する。下部組織では後にトップチームでも一緒になるトニー・ヒバート、レオン・オズマンと共にプレー"Everton old boy Richard Dunne back on his old stamping ground"しながら、1995-96シーズンにはリザーブチームに昇格し、FAユースカップでもプレーした。1997年1月にFAカップのスウィンドン・タウンFC戦において、監督の下でトップチームからプロ初出場を飾り、4月のリヴァプールFCとのマージーサイド・ダービーで同ダービーに出場した最年少選手となった(なお、25分後に途中出場したマイケル・ボールに記録は塗り替えられている)。

1999-2000シーズンからレギュラーとしてプレーする中で、2000年1月1日の記念すべき日に同僚のボールと共に騒ぎ、朝の練習に顔を出さなかったことで賃金2週間分の罰金処分が科される"Police help Smith lay down the law at Everton"。すると、両名は処分が厳しいとしてフットボール・アソシエーション (FA) に処分軽減を訴えており、最終的に軽減されることはなかったが、この行動によってウォルター・スミス監督と少なからず遺恨が残ることになった。2000-01シーズンの夏に移籍金250万ポンドでウィンブルドンFCとクラブ間合意に達する。最終的に個人合意とはならず"DUNNE DEAL ON ROCKS"、5試合の出場停止が明けた2009年9月16日のマンチェスター・ユナイテッドFC戦でシーズン初出場を飾ることになった"Premiership at a glance"が、同月27日のブリストル・ローヴァーズFCとのフットボールリーグカップにおいて、敗戦後のチームバスの中で同僚のボールと笑っていたことがスミス監督の怒りを買い、次のイプスウィッチ・タウンFC戦をボールと共に外された"Blue jokes not funny for Dunne"。この事態や昨季の元日の問題行動から、スミス監督体制での将来を憂いるダンに対し、マンチェスター・シティFCからオファーが届くと、「監督はあくまでも右サイドバックとして見ており、センターバックとしてプレーする機会が与えられなかったことにがっかりした」とエヴァートンを退団する旨を表明した"City want Charvet to join Dunne"

マンチェスター・シティ

かつて師事したロイヤル監督率いるマンチェスター・シティFCへ2000年10月16日に移籍金300万ポンドで加入する"Dunne signs for Man City"。マンチェスター・シティでは、当初、期限付き移籍に出された右サイドバックのの後釜として、と共に加入すると、初出場を飾った24日のサウサンプトンFC戦 (2-0) "Winning debut for Dunne"を始め、序盤は右サイドバックを任されていたが、最終的にからセンターバックの定位置を奪取し、スティーヴ・ハウィーとコンビを組み、頭角を現した"FOREST SNUBBED IN D-DAY PRIOR MOVE"。2000-01シーズン終了後にチャンピオンシップ (2部)へと降格するが、降格に伴い就任したケビン・キーガン監督の下で1季でのプレミアリーグ昇格に貢献する。ピッチ内で活躍する一方で、ピッチ外では深夜にナイトクラブで飲酒をする問題行動を起こしており"Dunne crosses Keegan again"、昇格した2002-03シーズンには乱れた状態で練習場に現れた"Dunne escapes sack at Manchester City"ことで規律面での重大な違反により、2002年9月に2万ポンドの罰金と2週間に渡る練習への参加を禁止され"Keegan punishes Man City duo"、そのことから、マンチェスター・シティでのキャリアは終焉に向かっていると思われ、実際に試合に出場できない日々が続いていた。その後、食事療法によって体を絞って生活習慣を改善させた"Dunne deal as Kerr keeps faith"末、10月下旬のバーミンガム・シティFC戦において復帰を果たす"City profit as Keegan curbs his inclinations"と、センターバックの定位置を奪回しつつ、時折サイドバックでも起用された"Dunne looking to secure centre half role"。続く2003-04シーズンは、序盤戦においてセンターバックの定位置争いでシルヴァン・ディスタンとダヴィド・ソメイユのフランス人コンビの後塵を拝しており"Football: Dunne's French kiss-off" thefreelibrary.com、また、2003年9月上旬にUEFAカップ2003-04のスポルティング・ロケレン戦での足首の負傷"Dunne ruled out for Republic"から、出場機会を得るのに苦戦していたが、10月下旬のリーグカップのクイーンズ・パーク・レンジャーズFC戦において初先発での出場機会を掴む"Keegan pleased with Dunne progress""Dunne stakes his claim"と、程なくしてソメイユからセンターバックの定位置を奪回"Sommeil unhappy at lack of attack"し、最終的にディスタンとコンビを組んでチームを支えた。その後、2004-05シーズンから2005-06シーズン、2006-07シーズン、2007-08シーズンと4季連続チームのサポーターによる最優秀選手に選出される程のパフォーマンスを見せており、そのパフォーマンスは2007-08シーズンからコンビを組むマイカ・リチャーズに「自分はイングランド代表でリオ・ファーディナンド、ジョン・テリーと共にプレーしてきたが、ダンは彼らと同等であり、一緒にプレーした中で最高の選手の1人だ」と称賛されている"Eriksson leads the acclaim for reformed monster Dunne"。2006年には、契約を3年半延長"Dunne signs new Man City contract"し、更に相棒ディスタンの後を継いで主将を務めることになった"Dunne named new Man City captain"

主将となった2006-07シーズンは、チームが得点力不足に喘ぎ、特にホームでの得点数がイングランドのトップリーグ史上最低となる10得点を記録する"Micah Richards on Manchester City's goal rush: It's a bit different to days Joey Barton was top scorer!""Etihad Ten: The Goal Drought of 06/07" mcfc.co.uk一方で自身を中心とする鉄壁の守備網で降格圏転落を回避する。続く2007-08シーズンは、センターバックの相棒がポーツマスFCに移籍したディスタンからリチャーズとなったが、リチャーズの抜群の身体能力を持って相手をチェックし、ダンのカバーリングでボールを奪うというシーンが多々見られたように抜群の連携を見せて、前半戦の快進撃の原動力となる。後半戦は負けこそ少なかったが、勝ちを落とすことが多く、さらにシーズン終盤にリチャーズが故障で戦列を離れた影響から失点数が増加していき、順位を下げる結果となり、最終節のミドルズブラFC戦では、自身が15分にレッドカードでの一発処分となったこともあって8失点での大敗となった"Middlesbrough 8-1 Man City" BBC Sport。それにもかかわらず、クラブ史上プレミアリーグで最多勝ち点を獲得したシーズンとなり、また、自身は4季連続でチームのサポーターによる最優秀選手に輝く"Fourth successive Player of the Year win for Dunne"と共に、フットボール・アソシエーション・オブ・アイルランドによる年間最優秀選手賞も受賞する"Dunne wins FAI award"等の一定の成功を収め、その活躍にスヴェン・ゴラン・エリクソン監督から「我々にとって特別な、本当に特別な選手」と形容された"Sven Goran Eriksson won't sell Richard Dunne"。しかし、同シーズン終了後にタクシン・シナワット会長がエリクソン監督を解任すると囁かれ、クラブの先行きは不透明なものとなると、これに不信感を抱いたダンはクラブの契約延長交渉を渋り、暗礁に乗り上げることとなった"Hughes' arrival at Manchester City may tempt Dunne to snub move to Spurs or Portsmouth"。これに対し、ポーツマスとトッテナム・ホットスパーFCがダン獲得の意思を公にし、退団は確実かと思われたが、最終的にブラックバーン・ローヴァーズFCから引き抜かれたマーク・ヒューズ新監督との会談の末、2008年7月4日にマンチェスター・シティと契約を4年間延長することで決着した"Richard Dunne signs new Man City contract"。2008-09シーズンは、3度もレッドカードを提示されながらも公式戦で47試合に出場する中、自身29歳の誕生日となる2008年9月21日のポーツマス戦 (6-0) において得点"Man City 6-0 Portsmouth" BBC Sportし、2009年1月のウィガン・アスレティックFC戦でパトリック・ヴィエラ、ダンカン・ファーガソンと並びプレミアリーグ史上最多記録となる8度目のレッドカードを提示された"Premier League as it happened" BBC Sport。

アストン・ヴィラ

2009年夏の移籍市場において、マンチェスター・シティはアーセナルFCからコロ・トゥーレ、ダンの古巣であるエヴァートンからジョリオン・レスコットを獲得したことで先発は両名の公算が強くなっており、そのため、ダンがシティ・オブ・マンチェスター・スタジアムから去ってアストン・ヴィラFCと契約するとの見方をされ"Aston Villa set to land Manchester City's Richard Dunne after Joleon Lescott deal"、事実、8月27日には移籍金600万ユーロでアストン・ヴィラとのクラブ間合意に達した"Richard Dunne set for Eastlands exit as Aston Villa agree to splash £6m on Man City skipper"。契約書類の承認に時間が掛かり、9月2日に4年契約で正式な一員としての加入が決定した"Dunne completes transfer to Villa"。なお、同移籍に際し、マンチェスター・シティのヒューズ監督は、ダンがアイルランド代表のレギュラーとして2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選を戦っている最中であることや、これまでのクラブへの貢献を考えると彼に控えのポジションを与えることは敬意を欠いた行動である為に移籍を容認したとの考えを明かした"Mark Hughes pays tribute to Aston Villa-bound defender Richard Dunne"

アストン・ヴィラでは、セント・アンドルーズ・スタジアムでのバーミンガム・シティFC戦 (1-0) において初出場を飾る。バーミンガム・ダービーという重要な試合でのデビューにもかかわらず、センターバックのジェームズ・コリンズ、そしてサイドのカルロス・クエジャル、スティーヴン・ウォーノックとも素晴らしい連携を見せ"Dunne: Classy Combination"、無失点での勝利に貢献する上々のスタートを切ると、9月26日には、イーウッド・パークでのブラックバーン・ローヴァーズ戦 (1-2) でコリンズとコンビを組み、初となるフル出場を果たし、10月5日の古巣マンチェスター・シティ戦 (1-1) で加入後初得点を挙げた"Aston Villa 1-1 Man City" BBC Sport。なお、長年在籍し、主将まで務めたチーム相手に得点を挙げた後、喜ぶこともせず落ち着き払った姿勢を見せたダンに対し、マンチェスター・シティのファンからダンへのリスペクトとして拍手をされた"Subdued Dunne resists celebration"。同月のチェルシーFC戦において加入後2得点目を挙げる。同2009-10シーズンは、ウェンブリー・スタジアムで行われたフットボールリーグカップ決勝のマンチェスター・ユナイテッドFC戦にチームを導く活躍、リーグ戦の方では上位に居ることもあり、PFA年間ベストイレブンに選出された"O'Neill lauds Dunne impact"

マーティン・オニール監督が去り、代行監督を経てジェラール・ウリエ監督が後任となった2010-11シーズンは、勝ち星獲得に苦労して低迷するチームにおいて、17試合で28失点と守備も振るわず、また、練習中にガリー・マカリスター助監督と衝突したことも相まり、12月13日のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦から先発を外される"Villa make Dunne their No.4 centre back"のみならず、ウリエ監督からセンターバックの序列がコリンズ、クエジャル、キアラン・クラークより下の4番手と告げられた。このような時期がありながらも、2011年1月2日のチェルシー戦で約1ヶ月ぶりの出場を果たす"Aston Villa's Ciaran Clark claims dramatic draw against Chelsea"と、以降はレギュラーに返り咲き、公式戦35試合に出場した。なお、3月13日に相棒コリンズと酔って大暴れし、チームメイトやクラブスタッフに対して暴言を浴びせたとして賃金2週間分の罰金をクラブから科せられ"Drunken Villains facing unprecedented fine""Villa duo fined £100k each over drunken shame"、コリンズと共に一時期先発から外されていた"Houllier set to recall Collins and Dunne in bid to rescue Villa's season from collapse"。同シーズン終了後にアレックス・マクリーシュ監督が新たに就任すると、当初はマクリーシュ監督が指導していたバーミンガム・シティFCからスコット・ダンとロジャー・ジョンソンのセンターバックコンビを連れてくる考えだった為に立場が危ぶまれていた"Villa boss McLeish lauds central defenders Collins and Dunne"。両名が加入することはなく、例年通りコリンズとコンビを組むことになった2011-12シーズンは、3試合を無失点に抑える等で最初の6試合を無敗と最高のスタートを切るチームに大きく貢献していたが、シーズンが進むに連れてチームは低迷し、また、自身は2012年2月12日のマンチェスター・シティ戦で相手GKのジョー・ハートと衝突した際に右鎖骨を骨折したことで手術を受けることになり"Dunne facing shoulder operation"、4月28日のウェスト・ブロム戦までの離脱を余儀なくされる"West Brom 0-0 Aston Villa" BBC Sport苦しい時期を過ごしていた。最終的にチームは降格圏から勝ち点2の僅差で残留を勝ち取り、マクリーシュ監督から感謝される程に復帰後のダンは貢献していた"McLeish wants management return"

2012-13シーズンは、それまでのレギュラーから状況が一転した。まず、開幕前に全治8週間の足の付根の負傷で出遅れる"Aston Villa lose Gabriel Agbonlahor and Richard Dunne to injury"と、3度もの手術を受けることになり"Aston Villa defender Dunne suffers injury setback"、2013年1月中に練習復帰を果たすも再び負傷し、その後完治することなく、4月にはシーズン残りを欠場が判明した"Aston Villa defender Richard Dunne to miss rest of season - report"ことで、2012-13シーズンの公式戦の全試合欠場となった。5月21日、同シーズン終了を以って契約満了となるが、ポール・ランバート監督の構想外の為に退団となり"Injury-hit Villa defender Dunne told to find a new club by boss Lambert"、2012年5月13日のノリッジ・シティFC戦がアストン・ヴィラでの最後の試合となった"Aston Villa set to release Ireland international Richard Dunne - report"

クイーンズ・パーク・レンジャーズ

2013年7月15日に自由移籍でフットボールリーグ・チャンピオンシップのクイーンズ・パーク・レンジャーズFCと1年契約で合意する"Richard Dunne: Queens Park Rangers sign Ireland international"。リーグカップのエクセター・シティFC戦で初出場、2014年2月1日のバーンリーFC戦で初得点を挙げる"QPR 3-3 Burnley" BBC Sport。10月19日のリヴァプールとのプレミアリーグの試合において、グレン・ジョンソンのクロスに対するクリアミスからリーグ史上初となるオウンゴール数で2桁に到達した。

代表

アイルランド代表では、まず、1998年2月の北アイルランド戦でB代表として初出場を飾ると、同年夏にU-18代表の方でUEFA U-18欧州選手権優勝に貢献し、11月のユーゴスラビア戦においてU-21代表初出場を飾った"Richard Dunne" fai.ie。

2000年4月12日にミック・マッカーシー監督によって、26日のギリシャとの親善試合に向けてA代表に初招集され"McCarthy gambles on new blood"、同試合 (0-1) で初出場を飾り"Lakis punishes Irish as Greeks enjoy a gift"、出場3試合目となった6月4日のメキシコ戦 (2-2)において初得点を記録する"Ireland overcomes two goal deficit to tie Mexico 2-2"。それから数ヶ月後の2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選にも招集されたダンは、1試合目のオランダ"Irish luck fails to hold out"、2試合目のポルトガルといった強豪との試合においてもギャリー・ブリーンと共にセンターバックの先発を任され"Ireland hold PortugalBy Dale Johnson"、3試合目のエストニア戦 (2-0) で公式戦での初得点を挙げる等、順調だったものの、本大会では、ブリーンと主将のスティーヴ・ストーントンのコンビが1番手だった為に1度も出場することはなく、UEFA EURO 2004予選では、監督がジョン・オシェイとをレギュラーに据えたことで出場機会を得るのに苦労していた。なお、同予選直前のトルコとの親善試合において代表4得点目を記録した。

2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のフランス戦を含む最後の3試合でレギュラーに返り咲くと、次のUEFA EURO 2008予選では守備の要として予選12試合中9試合と大半に起用されていたが、ドイツ、キプロス戦(自身は得点と退場をする)"Cyprus 5-2 Republic of Ireland" BBC Sport、チェコ戦での3敗が影響してUEFA EURO 2008出場権を逃した。新たにジョバンニ・トラパットーニ監督が就任した2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選でもセンターバックの定位置を確保して全10試合に出場する中、敵地ソフィアでのブルガリア戦で先制点を挙げてマン・オブ・ザ・マッチに選出される活躍"Bulgaria 1-1 Republic of Ireland" rte.ie等でプレーオフ進出に貢献すると、フランスとのプレーオフの両試合にフル出場した。しかし、後に大きな論争となった相手FWティエリ・アンリの手での関与によって延長戦の末に2試合合計1-2で2010 FIFAワールドカップ出場はならず、地面に座るダンに対し、駆け寄ってきたアンリ本人から手でウィリアム・ギャラスの決勝点を支援したことを認める言葉が掛けられた"Irish 'cheated' by Henry handball"

2011年9月6日のUEFA EURO 2012予選のロシア戦 (0-0) において、攻撃を悉く防ぐマン・オブ・ザ・マッチ級の活躍を見せ"Russia 0-0 Republic of Ireland"、元代表DFのポール・マグラーから「自分が見てきたアイルランドのセンターバック(マグラー自身を含む)で最高のパフォーマンス」と称賛される"Paul McGrath hails Richard Dunne"等、失意となったワールドカップ予選後もレギュラーとしてチームを支えていたダンは、10月11日のアビバ・スタジアムでのアルメニア戦で得点を挙げてプレーオフ進出に貢献すると、プレーオフでエストニアを5-1で下して本大会出場権を獲得し、「キャリアの中で最高の経験」と語った"Duff - Euro qualification an 'amazing feeling'"。なお、2002年の時とは違い、EURO 2012は全試合に出場しているが、クロアチア戦 (1-3) 、スペイン戦 (0-4) 、イタリア戦 (0-3) で1勝も挙げることは出来ずに敗退している。その後、クラブでの度重なる負傷の影響でEURO 2012のイタリア戦を最後に遠ざかり、2013年6月2日のジョージア戦で途中出場から約1年ぶりに復帰を果たす"Trapattoni hints at Republic starts for Dunne and Hoolahan"と、2014 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選にも参加していたが、クラブに集中する為に2014年7月31日を以って80試合に出場した代表からの引退を表明した"Richard Dunne calls time on Ireland career"

私生活

ダン家はサッカー一族として知られており、父のディック (Dick) 、叔父のテオ (Theo) とノエル (noel) "Brian Kerr: Richard Dunne's class evident from early age"、そして従兄弟に当たるテオの息子は元サッカー選手である"Cork City FC settle with former boss"

ダンには娘がおり、娘の名前をマンチェスター・シティFCの熱狂的なサポーターとして知られるロックバンドのオアシスの曲ライラに因んで名付けられた"Richard Dunne: Oasis gave me my baby's name"

個人記録

クラブでの成績

所属クラブシーズンリーグカップリーグカップ国際大会合計
所属リーグ出場得点出場得点出場得点出場得点出場得点
エヴァートン1996-97プレミアリーグ70100080
1997-9830100040
1998-991602020200
1999-20003104010360
2000-0130001040
合計6008040720
マンチェスター・シティ2000-01プレミアリーグ2503000280
2001-02ディビジョン14313030491
2002-03プレミアリーグ2500010260
2003-04290502040400
2004-053511000361
2005-063235010383
2006-073815010441
2007-083603030420
2008-093111010140471
2009-1020000020
合計29672601201803527
アストン・ヴィラ2009-10プレミアリーグ353405000443
2010-11320201000350
2011-122812120322
2012-1300000000
合計9548180001115
クイーンズ・パーク・レンジャーズ2013-14チャンピオンシップ4110010451
2014-15プレミアリーグ1300010140
合計5410020591
キャリア通算成績5051242126018059413
a.  昇格プレーオフ3試合を含む

代表での成績

出典:

アイルランド代表
出場得点
200072
200151
200230
200351
200410
200561
200651
200770
200880
2009112
201050
201181
201250
201340
Total808

代表での得点

# 開催日 開催地 対戦国 スコア 結果 大会
1. 2000年6月4日 USA シカゴ 2-1 2-2 2000 USカップ
2. 2000年10月11日 IRE ダブリン 2-0 2-0 2002 FIFAワールドカップ予選
3. 2001年6月6日 EST タリン 0-1 0-2 2002 FIFAワールドカップ予選
4. 2003年9月9日 IRE ダブリン 2-2 2-2 親善試合
5. 2006年10月7日 CYP ニコシア 2-2 5-2 UEFA EURO 2008予選
6. 2009年3月28日 IRE ダブリン 1-0 1-1 2010 FIFAワールドカップ予選
7. 2009年6月6日 BUL ソフィア 0-1 1-1 2010 FIFAワールドカップ予選
8. 2011年10月11日 IRE ダブリン 2-0 2-1 UEFA EURO 2012予選

獲得タイトル

代表

アイルランド代表

  • UEFA U-18欧州選手権 : 1998
  • 2011
クラブ

エヴァートンFC

  • FAユースカップ : 1998

マンチェスター・シティFC

  • フットボールリーグ・ディビジョン1 : 2001-02
個人

外部リンク

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