川田芳子 : ウィキペディア(Wikipedia)

川田 芳子(かわだ よしこ、1895年10月17日 - 1970年3月23日)は、大正・昭和期の女優である。日本映画草創期の人気女優であった。

来歴・人物

1895年(明治28年)10月17日、新潟市の花街・古町に踊りの師匠の娘として生まれた。11歳のとき、一家で上京し、長唄を五代目杵屋勘五郎に、舞踊を二代目藤間勘右衛門に師事した。新橋から芸妓になった後、川上貞奴に預けられ、「川上芳子」の芸名で貞奴一座の『八犬伝墨田の高楼』(帝国劇場)で初舞台を踏んだ。以降、貞奴と行動を共にし、新派の舞台で活躍した。

松竹の新派などを経て、1920年(大正9年)、その美貌をかわれて創立早々の松竹蒲田撮影所にスターとして迎えられる。同年、ヘンリー・小谷監督の『島の女』に主演、スター女優の第1号となった。当時の人気俳優諸口十九とコンビを組み共演作を次々と発表、この二人の人気は、栗島すみ子岩田祐吉のコンビと並んで松竹蒲田のドル箱コンビだった。

モダンな華々しさが魅力の栗島とは対照的に、純日本的なしとやかさを魅力に、日本的でおとなしいものの芯はしっかりした女性像を演じて、人気を得、栗島、五月信子と並ぶ初期の松竹蒲田の看板女優として活躍した。賀古残夢監督の作品の常連だったが、賀古が松竹を退社した後は野村芳亭監督に重用され、当時のベストセラーの鶴見祐輔の原作を映画化した1929年(昭和4年)の野村監督の『母』では、万人の涙を誘った。また、『清水次郎長』などでは勝見庸太郎と共演。1923年(大正12年)、関東大震災により撮影所が下加茂に移るが、翌年蒲田に戻り、川田もそれに準じた。その後、諸口とのコンビで『赤坂心中』などに主演したほか、主に時代劇で活躍した。1929年には、栗島、岩田祐吉藤野秀夫らと共に大幹部に昇進した。

1930年(昭和5年)以降は、母親役で活躍したが、1935年(昭和10年)に送別映画『母の愛』を最後に映画界を引退した。引退後は日本舞踊市山流の名取などを務め、新派の舞台に出演したり戦後に一時『鐘の鳴る丘』や『悲恋模様』などの映画に出演したこともあったが、その後は養女と二人でひっそりと暮らしていた。晩年はその養女にも先立たれ、最期は草加市のアパートで一人で迎えた。1970年(昭和45年)3月23日、心臓麻痺により死去。74歳没。遺体は翌日、アパートの大家によって発見された。

代表作

  • 島の女(1920年)
  • 断崖(1921年)
  • 生さぬ仲(1921年)
  • 金色夜叉(1922年)
  • 海の極みまで(1922年)
  • 白鳥の死(1922年)
  • 女と海賊(1923年)
  • 寛一と満枝(1923年)
  • 女殺油地獄(1924年)
  • 女難(1925年)
  • 小幡小平次(1925年)
  • 修羅八荒(1926年)
  • 花井お梅(1926年)
  • 魔道(1927年)
  • 不滅の愛(1928年)
  • 多情仏心(1929年)
  • 母(1929年)
  • 母の愛(1935年)
  • 鐘の鳴る丘(1949年)
  • 悲恋模様(1949年)

関連書籍

  • 大竹啓子『七色の虹 - 舞台と映画の四十五年・女優・川田芳子物語』課外教室社、1958年
  • 升本喜年『かりそめの恋にさえ - 女優・川田芳子の生涯』文藝春秋 1985年11月

関連項目

  • 帝国活動写真
  • 松竹キネマ

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/11/24 03:09 UTC (変更履歴
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike and/or GNU Free Documentation License.

「川田芳子」の人物情報へ