日本橋きみ栄 : ウィキペディア(Wikipedia)
日本橋 きみ栄(にほんばし きみえ、1915年(大正4年)1月27日 - 1993年(平成5年)10月9日)は、日本の芸者歌手。
経歴
本名は荒井 きよ子。大正8年(1919年)、東京都神田で生まれ、チャキチャキの江戸っ子として育ち、5歳の頃から兄の竹本東太夫に義太夫を仕込まれた。17歳で日本橋槇町から芸者に出るとすぐさま売れっ妓になり、折からの鶯芸者ブームで、1934年(昭和9年)ニットーレコードからデビュー。ビクターの市丸、小唄勝太郎、コロムビアの音丸、豆千代、藤本二三吉、赤坂小梅、ポリドールの浅草〆香、新橋喜代三、テイチクの美ち奴らと並んで活躍する。その後作曲家などに勧められたポリドールのテストに合格し、昭和10年(1935年)4月、『元禄くづし』で専属デビュー。翌昭和11年(1936年)に『浮名くづし』がヒット、昭和12年(1937年)には『蛇の目のかげで』などが大ヒット。他の曲には『お夏狂乱』『五月雨傘』『島の夕波』などがある。戦争が始まると他歌手と同じようにレコード活動も減ったが、そんな中でも『国策母さん』や『興亜の春風』といった軍事歌謡を発売し、慰問活動にも従じた。
戦後もポリドールに残り、1948年(昭和23年)11月には各社競作の『炭坑節』が大ヒットしたことで「炭坑節のきみ栄」と称され、『常磐炭坑節』『新炭坑節』といった炭坑節シリーズがヒット。1950年(昭和25年)にもテイチクの美ち奴と競作になった『ソーラン節』をヒット。それからしばらくは全国のキャバレーや劇場で流行歌手として東へ西への巡業が続いたが、「いつまでもこんなことをしていては、今に売れなくなって惨めな思いをする」と思い、邦楽の家元に落ち着いた。昭和30年代からは小唄・端唄・俗謡といった邦楽を専門に活動するようになり、キングレコードを経て、昭和33年(1958年)1月、『奴さん』や『木遣りくずし』で日本ビクターに移籍。同年には代表曲の『炭坑節』も新吹き込みしている。弟子をとり、後進の育成に精進する傍ら、昭和40年(1965年)頃からのなつメロブームの時期には、テレビ東京のなつメロ番組にも出演し、『蛇の目のかげで』や『浮名くづし』などの往年のヒット曲を披露している。
1971年(昭和46年)には三井名人会で披露した妙芸として名高い自作曲『見世物小屋』で芸術祭に参加、見事に芸術祭賞優秀賞を受賞。昭和50年(1975年)には山田五十鈴主演の舞台『たぬき』の音曲を担当し、これまた芸術祭大賞文部大臣賞を受賞。同年古巣のポリドールレコードに復帰し、3年がかりの録音で昭和54年(1979年)、LP10枚に及ぶ『これが端唄だ俗曲だ日本橋きみ栄大全集』160曲を完成発売した。1992年秋頃から体調を崩し、翌1993年1月には端唄の家元を退く。1993年(平成5年)10月9日急性心不全で死去、78歳だった。
代表曲
- しんとろとろり (1935年)
- 作詞:佐藤惣之助 /作曲:大村能章/編曲:
- 元禄くずし (1935年)
- 作詞:並木せんざ/作曲:山田栄一/編曲:西原武三
- お夏狂乱 (1936年)
- 作詞:秩父重剛/作曲:大塚三郎/編曲:細田定雄
- 浮名くずし (1936年)
- 作詞:佐藤惣之助/作曲:阿部武雄/編曲:
- 蛇の目のかげで (1937年)
- 作詞:並木せんざ/作曲:阿部武雄/編曲:細田定雄
- 五月雨傘 (1938年)
- 作詞:矢島籠児/作曲:島口駒夫/編曲:
- 島の夕波 (1939年)
- 作詞:秩父重剛/作曲:島口駒夫/編曲:太田畔三郎
- 炭坑節 (1948年)
- 作詞:伊佐見研二/作曲:飯田景応/編曲:飯田景応
- ソーラン節 (1950年)
- 作詞:高橋掬太郎/作曲:北海道民謡/編曲:
その他、数多くの端唄、小唄、俗謡がある。
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