高橋義治 : ウィキペディア(Wikipedia)
高橋 義治(たかはし よしはる、1916年(大正5年)6月6日 - 1986年 (昭和61年)7月16日)は、日本の実業家。全国朝日放送(テレビ朝日)取締役『朝日新聞』1986年7月18日東京朝刊23頁、イ・アイ・イグループ(EIE)代表取締役会長『真説 バブル』46ページ、慈悲庵、まどか保育園各理事『第二十一版 人事興信録 下』(昭和36年)た一二六等を務めた。
戦後のモノ不足の時代に輸入物資を売りさばいて財を築いた。いくつかの事業を手がけた後に、日本教育テレビ(NET)の設立に関わり、取締役に就任した。電通顧問の高橋治之、イ・アイ・イグループ代表の高橋治則は息子。
来歴・人物
長崎県・高橋猪之助の長男。高橋家は江戸時代、平戸松浦藩の藩士だった『真説 バブル』44-45ページ。
法政大学経済学科卒業。戦前はいわゆる満州浪人で、1941年(昭和16年)東満洲産業秘書課を経て、鉄鋼原料統制会に勤務する。
NET入社
1946年(昭和21年)東洋物産常務、1952年(昭和27年)SKB鉄砲販売常務となる。その後、映画、放送の業界紙『中央通信』を始め、東映系の人間として、1957年(昭和32年)日本教育テレビ創立事務所に入社。技術部長を手始めに、開局時には総務局次長として資材関係を仕切る。社長の赤尾好夫とは、鉄砲、狩猟仲間で親しくなった。義治はコンバータ(UHFコンバータ)の特許を持っていて、北海道テレビ放送(HTB)社長の岩澤靖(次男・治則の岳父)と組んで、製造・販売し大儲けした。コンバータは、「SI(シングル・イワサワ)」と名付けられ、岩澤グループ社員が大量動員され、広大な北海道で売りまくる取り付け作戦を展開した。
1968年(昭和43年)11月、岩澤のHTBはNETをキー局にU波の第1号局として、本放送を開始するが、弱小ネットのNETにとっては2局目のフルネットとなり大きな橋頭堡となった。この功績から取締役に選任され、コンバータで一財産を築き羽振りがみるみる良くなり、NETに勤めていながら数寄屋橋に個人事務所も構えた。
EIE社長
技術、業務関係の局長を務めていた時、NETにテープを納めていたのが、EIEだった。ところが、この会社は景気が悪くて、にっちもさっちも行かなくなって、義治にやってくれないかと頼んできた。相談を受けた長男・治之は、「治則が政治家になるためにビジネスをすると言っていたから、2人でやったら」と返事をした。1977年(昭和47年)3月、EIEの社長に義治、副社長に治則が就任した。ほかに高級リゾート「ベルハンドクラブ」社長を務めた。
1986年、東京都にて死去。
趣味は旅行、写真、ゴルフ。宗教は禅宗。
住所は東京都品川区小山。長崎県平戸市在籍。
家族・親族
高橋家
- (長崎県平戸市、東京都目黒区『真説 バブル』45ページ、品川区小山、世田谷区用賀高橋朝子さん死去/高橋治之電通顧問の母)
- 父・猪之助
- 母・信(松浦純恪三女)
- 妻・朝子(北田正寅次女、代言人北田正董孫)
- 大正8年(1919年)8月生 - 平成21年(2009年)10月没
- 長男・治之(実業家)
- 昭和19年(1944年)4月生 -
- 次男・治則(実業家)
- 昭和20年(1945年)10月生 - 平成17年(2005年)7月没
- 2005年7月18日死去したリゾート王・高橋治則氏の死、未完のバブル再検証。死因はくも膜下出血。59歳だった。旧東京協和・安全の2つの信用組合の乱脈融資事件で、背任の罪に問われていた。
- 弟・康夫(実業家、TBS元総務局次長、シーコム常勤監査役)
- 昭和3年(1928年)2月生 -?
親戚
- 北田正典(妻の兄、実業家、元石油通信社社長)
- 北田正元(妻の叔父、外交官)
- 大橋武夫(妻の従兄、政治家、元労働大臣、運輸大臣)
- 浜口雄幸(北田正元と大橋武夫の義父、政治家、元総理大臣)
- 濱口雄彦(銀行家)
- 浜口巌根(銀行家)
参考文献
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/09/10 13:10 UTC (変更履歴)
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