三嶋与四治 : ウィキペディア(Wikipedia)
三嶋 与四治(みしま よしはる、1921年2月23日 - 2002年5月18日)は、日本の映画プロデューサー。
来歴
福井県出身。1941年早稲田大学専門部政経学科卒業後、同年松竹に入社するが、1942年入営。終戦で南方より復員し、松竹に復職。演劇部、松竹歌劇団製作課長を経て松竹会館支配人、プロデューサー、映画宣伝部長、テレビ部長、映画製作本部次長兼企画部長などを歴任。1969年4月28日の松竹第97期定時株主総会で取締役に就任し、総会後の取締役会で映画製作のトップ・映画製作本部長兼企画部長に就任した。当時の松竹は映画部門が長年に渡り不振が続き、演劇など他部門の利益を食う状態。映画製作のトップに就任後、松本清張作品を次々映画化し、伝統的に強い喜劇、青春映画と合わせて松竹の映画部門を立て直した。しかし1975年製作の西城秀樹のドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ』の公開日を巡り、日本テレビに平伏して公開日を延期する事態となり、この大失態に城戸四郎松竹会長が「テレビや芸能プロに振り回されるとは何事か!」と激怒し、クビになったとされ、1975年8月26日の役員会で三嶋に代えて福井褀和常務を昇格させたが、福井が突然辞任するハプニングが起き、やむなく当時81歳だった城戸会長が再び映画製作本部長として現場に復帰、第一線で指揮を執った。この人事は1975年の映画界十大ニュースの一つに取り上げられ、松竹の先行きを不安視する見方もあった。その後鎌倉ケーブルテレビコミュニケーションズ専務などを務めた。
著書
- 我等クラークに死せず (オフィス未来、2004年4月)
外部リンク
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2025/09/20 16:08 UTC (変更履歴)
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