【「熊は、いない」評論】観客をこの物語の当事者にさせてゆくということ
2023年9月10日 15:00
失うものの多かったコロナ禍で、わたしたちが得たものがある。それは、<リモート>という通信手段である。モニター越しのコミュニケーションに当初は違和感を抱きながらも、いつの間にか、ぬるっと、日常と化した感がある。ロックダウンによって不要不急の外出を控えるよう要請され、家に篭らざるを得なかった時、<リモート>はビジネスや教育の場で新たなコミュニケーションツールとして普及。もしも世界的なパンデミックが訪れなければ、(いずれ普及したかも知れないが)<リモート>はここまで一般化しなかったのではないだろうか。
「熊は、いない」(2022)は、国外逃亡を試みようとしているカップルを、トルコの街中で<リモート>の手法を用いながら、遠く離れたイランからドキュメンタリードラマ映画として製作しようとする映画監督の姿を描いた作品。本作の場合、<リモート>による演出という設定を選択したのはパンデミックが理由ではない。ジャファル・パナヒ監督には、2010年にイラン国家の安全を脅かした罪に問われ、20年間の映画製作禁止と出国禁止を言い渡されたという経緯があるからだ。劇中では<リモート>による演出理由について多くは語られていないものの、パナヒ本人が監督役を演じているため、観客は現実と虚構とが入れ子の構造になっていることを推し量りながらこの映画を観ているのである。
かつて、第35回カンヌ国際映画祭で最高賞に輝いたトルコのユルマズ・ギュネイ監督による「路」(1982)は、政治的な理由で投獄されていたギュネイが、獄中から指示を出しながら撮影。ついには刑務所を脱獄して、亡命先のフランスで完成させたという決死の作品だった。つまり、アナログ的な<リモート>作品だったのだと解釈できる。斯様な自由を奪われた状況でも、映画製作を諦めないという“熱”が、「熊は、いない」にも漲っているのだ。奇しくも、パナヒが政治的な理由で国内に幽閉されていることと、わたしたちがコロナ禍で自由に外に出ることを憚れたこととが、時代性を伴いながら近似した状況を生み出しているという不可思議がある。それゆえ、劇中の<リモート>という演出手法に対して特異だと感じさせないことは、とても重要なのだ。
映画の冒頭。モニターの中の出来事(撮影)だと事前に知らされていないわたしたち観客は、映像を錯誤する。それは、現実と虚構との境界線が曖昧になる瞬間だ。肝要なのは、それが切れ間のない約7分のワンカットで実践されている点にある。映画の中の俳優たちだけでなく、わたしたち観客もまた、同じ“時間”を体験している。それゆえ、双方が現実と虚構の境界線が曖昧な本作において、共犯関係を結んでゆくことになるのである。示唆的なのは、パナヒが無意識のうちに国境線を越えてしまいそうになるというくだり。国境線なるものは、国際的な取り決めによってできた目には見えない単なる地図上の“線”に過ぎない、と言いたげなのである。また日本では、本作と同時期にパナヒの長男であるパナー・パナヒが監督した「君は行く先を知らない」(2021)が公開され、ある事情によって“国境を越える”という同様のモチーフを描いている点も興味深い。
パナヒにとってこの映画は、観客をこの物語の当事者にすることが最大の目的であるかのようなのだ。当然のことながら、スクリーンの向こう側と客席との間にも境界がある。だからこそ映画の中の出来事を「他人事」と無関心になることなく、共犯関係を結ぶことによって、共に考え、関わりあおうと訴えている。しかも<リモート>という、決してリアルではないコミュニケーションツールを用いながら。この映画が完成した後、パナヒは当局に逮捕されたのだという。その衝撃的な事実は、否応なく表現の自由の在処をわたしたちに対して“リアル”に問いかける。(松崎健夫)
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