【佐々木俊尚コラム:ドキュメンタリーの時代】「ぼくと魔法の言葉たち」
2017年4月15日 07:00
ディズニー映画の凄さ、ということを感動とともに強く思い知らされる作品だ。
主人公は、自閉症の青年オーウェン。彼は2歳のときに言葉を失ってしまい、そのまま誰ともコミュニケーションをとれなくなってしまう。彼が発するのは、誰にも理解できない意味をなさないモゴモゴとしたしゃべりだけだ。両親は、息子にどう向き合えばいいのかわからなくなり、途方に暮れる。
六歳になったある日、寝室でディズニー映画「リトル・マーメイド」を見ていたオーウェンは、「ジューサーボース」ということばを何度もくり返した。「ジュースがほしいの?」と両親は思ったが、彼はジュースは飲みたがらない。
「リトル・マーメイド」は、アンデルセンの童話「人魚姫」を原作にした1989年のアニメ作品。人魚が人間になるお話だ。人間の王子に恋をした人魚は、どうしても彼と再会したい。そのとき、海の魔女が持ちかける。「おまえがその美しい声をわたしに寄越してくれるだけで、三日間だけおまえを人間にしてやろう」。
VHSのカセットで映画を見ていたオーウェンは、このシーンを何度も巻き戻しては再生した。「おまえの声を寄越してくれるだけで」「おまえの声を寄越してくれるだけで」。英語で言えば、ジャスト・ユア・ボイス……。そう、オーウェンはこの言葉をなぞろうとして、ジューサーボースと喋っていたのだ!
それに気づいた父が、思わず「ジャスト・ユア・ボイス?」とオーウェンに語りかけると、息子は「ジューサーボース!」と答える。実に1年ぶりに、オーウェンが言葉に反応して返した瞬間だった。
声を失っていたオーウェンは、「おまえの声を寄越して」という言葉をなぞって、自分の切ない願いを口にしていたのかもしれない。彼が言葉を発したのは、それっきりだった。医師は「単なるオウム返し(エコラリア)でしょう」と素っ気なかったが、両親はあきらめなかった。「自閉症という檻の扉を開けて、あの子を救出したい」
そして、4年後。
2歳上の兄が9歳の誕生日を迎え、誕生パーティーが開かれた日。友だちがみんな帰ってしまった後で、兄はひとり寂しそうにしていた。その様子を遠くから見守っていたオーウェンは、両親に向かって唐突にこう語ったのだ。
「お兄ちゃんは子供でいたい。モーグリやピーターパンだ」
そうひとことだけ言って立ち去っていったオーウェンに、両親は驚愕する。「今のは何?」「いったい何が起きたの?」単なる単語の羅列ではない、完璧な文章。兄の気持ちへの分析。そして両親は気づく。「そうか……あの子は、ディズニーの映画を通じて現実の世界を理解しようとしてるんじゃないのか?」
「世界の見え方」はただひとつではない。私たちは近代合理主義的な目で世界を認識することを教えられてきているが、認識というのはそんなに単純化されるものではないし、認識の方法は決して一様ではない。ディズニーの目を通して世界を見るというのは、なんだか新鮮なアプローチだ。
ディズニー映画には、人生のさまざまな要素がつまっている。愛と希望、裏切りと絶望、友情、家族のつながり。映画に込められたさまざまなヒューマンの要素を理解し、登場人物たちが発するセリフを覚え、それをなぞらえることで、オーウェンは世界を理解しようとしていたのだった。世界から切り離されていた孤独な空間から、一歩一歩、ディズニー映画の仲間たちと一緒に手を取り合うようにして歩き出したのだった。
もちろんディズニーに人生の「すべて」があるわけじゃない。同じ発達障害の女性とつきあい始めたオーウェンを、兄は心配する。「ディズニー映画は、恋する男女がキスをして抱きしめ合うシーンでハッピーエンドを迎える。でも彼らは決して舌を入れるディープキスはしないし、セックスもしない。男女の関係にも踏み込まない」。そして恋人から「しばらく距離を置きましょう」と言われ失意に陥ったオーウェンは、ディズニー的にこう考えるのだ。
「どうすればいいの? 男の子が女の子を失ったら、愛の力で女の子の心を取り戻すの?」
オーウェン本人には申し訳ないが、こういうチャーミングなやりとりや会話、エピソードが本作にはいっぱい溢れている。そして驚くべきことに、ディズニーが全面協力していて、ディズニーアニメの映像がふんだんに使われている。ディズニーのセリフを真似ながら、満面の笑みでアニメを見ているオーウェンの表情は本当に素敵だ。発達障害に興味のある人だけでなく、映画というものの持つ本質的な意味について今一度考えてみたい人たちにも、とてもおすすめの作品だ。
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