大いなる不在のレビュー・感想・評価
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病に揺さぶられ変容する父と息子がそれぞれに見出したもの
警察の特殊部隊が家に来るという予想外のシーンから物語は始まる。何故? と思わせることで惹き込むオープニング。過去と現在、2つの時間軸で、このセンセーショナルな場面に至る経緯が解き明かされてゆく。その過程にもいくつかの謎が見え隠れし、錆びついた家族関係が動き出す人間ドラマだけではなく、ミステリーのような味わいもある。
序盤、父の陽二を施設に入れるために職員と面談する卓(たかし)のちょっと面倒そうな態度で、陽二との時間的・心理的な距離が伝わってくる。
実は卓は5年前にも陽二に会いに来ていた。結婚したことさえ報告していなかったが、大河ドラマ出演決定が訪問の契機だったようだ。卓の中にわずかに残る親子の情が、実家に足を向けさせたのだろうか。だが、いざ会ってみれば相変わらずの偏屈親父ぶり。実は卓の大河出演を報じる新聞記事を切り抜いていたりするのだが、そんなことはおくびにも出さない。思い切って会いに来た卓の心もかたくなになってしまう。
この序盤の陽二の性格描写が、あの年代のインテリにありそうな高いプライド、相手の物言いへの厳しさなどの面倒臭い雰囲気を脚本と演技で非常に上手く表現していて、卓の気持ちがよくわかる。
しかしやがて、そんな陽二の自尊心を支える記憶を、病が容赦なく剥ぎ取ってゆく。
途中で現れるいくつかの謎のうち、直美の息子を名乗って現れた塩塚の言動には少しもやもやとしたものが残った。
彼は直美が入院していると言ったが、有希が病院を訪ねると直美はいなかった。塩塚に問いただすと「今入院しているとは言っていない」と不自然な言い訳をした。
また彼は車庫を見て「車がないんですね」などと言っていたが、陽二が直美と最後に別れる時に車の鍵を彼女に渡したので、車は彼女が使っているはずだ。直美の携帯が陽二宅に置き忘れられていた理由も塩塚は思いつかない様子だった。
つまり、塩塚は最近の直美の生活の様子も、別居後の直美が陽二を訪ねてきたことも知らないのだと思われる。塩塚と直美の親子関係にもどこか距離を感じる。単に遠方に住んでいるのか、それ以外の事情かはわからないが、そのへんの実情を卓には隠して、入院費用を請求しにきた。直美が倒れたことは事実と思われるので、実際入院はしたのかもしれないが、個人的には塩塚の言動に不信感を持った。
陽二が朋子に性的暴行を働いたという彼の証言も、そういう理由で鵜呑みにできなかった。過去パートで陽二は階段で朋子の腕を引いて怪我をさせたようだが、性的暴行を匂わせる描写には見えなかった。
もし本当に性的暴行にまで至っていたら、直美は陽二を再訪するだろうか(終盤の、陽二宅で直美が鈴本からの電話を受けていた場面)。
このあたりのことは作中では明確な事実の描写がないので、あくまで私の想像ではあるが。
陽二ひとりになった家の中、そこかしこに貼られたメモは彼が忘却にあらがった痕跡だ。必死の闘いに敗れた彼が訳もわからずいじった電話は、110番にかかる。そして冒頭のシーンにつながるのだが、お年寄りの通報だけでいきなり特殊部隊が来たりするかな? という気もした。人数も少ないし。警察は来たのだろうが、それが特殊部隊というのは陽二の妄想……というのは考えすぎだろうか。
病は本人にとってつらく悲しいことだが、「あちら」の世界に移った陽二は、どこかプライドの武装が解除されたような印象もある。子供の頃の暴力を卓に謝るのも、ただ自分が許されたいだけの勝手な謝罪だが、以前の彼ならそんな謝罪さえ絶対しなかっただろうから大きな変化だ。あの父親のそんな姿を見て、卓は本心ではすぐ許す気にはなれなかったとしても、気持ちが揺れたはずだ。
彼が施設を後にする時、自分のベルトを陽二の腰に巻いてやる場面は静かだが心を打った。病は陽二を苦しめたが、卓が陽二の過去を辿るきっかけにもなり、親子関係に雪解けの兆しをもたらした。
卓にとっての父親、若き日の陽二にとっての20年間の直美への思慕、病んだ彼の元を去った直美、現代パートで姿を見せない朋子の謎など、さまざまな「不在」のコラージュで描かれた物語の最後に、陽二と卓それぞれの胸に残ったのは妻への思慕と父への情だった。
禍福は糾える縄の如しというが、2人がこれらを取り戻したことは、病が思いがけずもたらした希望なのかもしれない。
磐石の俳優陣だが、とりわけ藤竜也に圧倒された。認知症という設定もあってか、映画「ファーザー」のアンソニー・ホプキンスを思い出した。それぞれに素晴らしいが、日本人俳優による演技だからこそ肌感覚で伝わってくるリアリティのようなものが確かにあった。
本作は日本公開に先立ち、各国の国際映画祭に出品され、サン・セバスティアン国際映画祭では藤竜也が最優秀俳優賞を、サンフランシスコ国際映画祭では最高賞(グローバル・ビジョンアワード)を受賞するなど、既に海外での評価を得ている。物語自体に国境を越える引力があることは確かだが、やはり母国語でニュアンスを味わいながら観られるのは一味違うはずだし、幸運なことだと思う。
体の医療の進歩に対して、脳の退化に対する医療技術が追いついていない
冒頭のシーンを見て、どんな映画なんだろうと混乱してしまった。
自動小銃(MP5)を持った特殊部隊が住宅に突入しようとする。
所轄の警察には存在しない特殊部隊、てっきり国家レベルでの何か事件の話なのかと思ってしまった。
話はアルツハイマーに侵される父親を取り巻く家族の話。
私の父もボケ始めているので身につまされる話だった。
アルツハイマーになってしまった父親と家族とのドラマが展開される。
他の認知症ものの映画と違って、ドラマチックな何かが起こる事はない。。
原日出子が演じる奥さんの行動には納得出来ない。。
逃げたくても逃げられないのが認知症介護。
でも逃げ出してしまう人って結構いるんでしょうか?
そうだとしたら、現実的な展開なのかもしれないけど。。
過去の記憶がなくなり、人間を壊してしまい、別人になってしまう。。
体の医療の進歩に対して、脳の退化に対する医療技術が追いついていない。
昔の人はボケる前に病気になって死んでいたんでしょう。
父が父でいる間に死んで欲しいと思う。
長生きはして欲しいけど、別人になった父親を長く面倒見る自信はない。
別人、動物のようになっていく父親を家族愛だけで面倒みるのは難しいと思う。
親子の無償の愛を持ってしても、別人→ただの動物になっていくのを面倒みるのは地獄だろうと思う。
延命措置についての同意に関する姿勢の変化
観るかどうか迷っていて、再上映に架かったので、観ることにした。序盤はわかり難く、人物設定が理解できなかった。施設で卓が夕季とともに陽二と面会する場面から、少しずつ事態が飲み込めてきた。どんなに立派な施設でも、多少は不自由を感じて刑務所にいるような感じを受けるのは仕方のないことなのだろう。森山未來氏も藤竜也氏も、これまでの役柄と比べて違和感なく演じていたが、真木よう子氏は、終始大人しかった。
突然、陽二の家で卓が食事を食べることになったり、直美が出てきたりで、戸惑った。日記に綴じ込まれている恋文が卓や直美によって繰り返し読まれ、その度の陽二の反応が違っているが、観客にはだんだんとその意味がわかるようになっている。
卓が直美の連れ子正彦と会い、話し合いをもち、その後、正彦の話に疑念をもち、直美の行方探しを始め、妹の朋子とは会うことができ、裏づけは取れたようだった。
施設での延命措置についての同意に関して、当初は責任回避の姿勢をみせていたが、終わりには終身刑のように妄想に取り憑かれる時間を長らえる途を指示していたように感じた。
北九州ナンバーの車から、ロケ地の多くがその辺りだったようだ。九州工業大学の研究室も出てきて、利重剛氏が陽二を慕う大学教授を演じている。海に続く電柱の列が、干潮で道路である場面が出ていたが、近場では熊本県宇土市にあるようだ。
俳優陣の演技が素晴らしい!
藤竜也・森山未來をはじめとする俳優陣の演技が
とにかく素晴らしく没入できました。
時間軸があっちこっちするので、なかなかついていくのが難しかったのですが、
・陽二に認知症の兆候があらわれる
・ふたりで買い物に行った際に直美が倒れる
・直美の妹が陽二の面倒を見にくる
・↑この後に直美は陽二のところへ帰ってきている
・陽二は直美を送り出し、警察へ電話(間違い電話?)し、事件が起きたと言う
・警察がくる(特殊部隊ですよね)
↑
で、おそらくこの後に陽二が施設に入ることに・・・
こんな感じで理解しました。
陽二に認知症の兆候があらわれたら直ぐに病院に行かなかったのかな?や
最後に家を出る直美はどこへ行くつもりだったのか、ここが本当の別れのシーンだったのかな?や
とはいえ、施設に入った陽二は心配にならなかったのかな?など、たくさん疑問は残りましたが
なんとなく解釈をして、見終えました。
藤竜也さん、本当にすごくリアルな演技で怖くなりました。
一方、森山未來さんの淡々とした口調も、平坦でありながらも、最後の最後は父親に寄り添っているところを
うまく演じていらっしゃいましたね。
なんといっても真木よう子さんが美しすぎて眼福すぎて話が入ってこない的なところもありつつ、
俳優陣の演技を堪能させていただきました。
変貌
なんとなくサスペンスって印象があって見に来たのだけれど、老人が痴呆になっていく過程の話だった。
特にサスペンス要素などない。
予告を誤解していたようだ。
だってね…直美を探したところで何かの真相に行き着くわけでもないし、誰かの無実が証明されるわけでもない。彼女はキーパーソンでもなんでもない。
必要性が薄いのだ。
今すぐに見つけなきゃいけない理由がない。そりゃいつか会わなきゃいけない人ではあるけれど、いつかでいい人物なのだ。
金を請求してくる息子への反証の必要性もない。
だからサスペンスでもミステリーでもない。
探す理由があるとするなら、老人ホームに入った父のお世話をしてもらうくらいのもんだ。
父の口から直美への執着が吐露される事もない。
冒頭、森山氏の一人芝居があって…人が溶けていくように見える身体表現がさすがだなぁと唸る。
そのワードが頭にこびりついて、以降ボケていく様が「溶けていく」ように感じてた。
形ある厳格だった父から、記憶なんかが剥がれ落ちていき父親像は溶けて歪な者に変わっていく。
そんな状態と重なってくようだった。
物語の時系列は逆行したりもして、何故だとも思うのだけど、痴呆症が進行していく脳内の表現ならばありなのかなと思う。泡のように消えたり、唐突にごくごく自然に認知できたり。
とまぁ、なかなか込み入った作りだったりもして、含みもあるような設定と展開ながらも、作品としてはイマイチつまんなかった。
藤さんの怪演は見ものではあるけれど。
「海辺のリア」をやった仲代さんは、どっか狂ったような感じであったのだけど、藤さんのソレは怪物のようだった。
外見も本人だし、思考も本人のソレだし、話し方もなんら変わらない。ただ、およそ本人が話すであろう内容とかけ離れてる事を喋る。
虚空に目線が泳がない。
むしろ対象から視線が剥がれない。
淡々とした口調で信じ難い主張を繰り返し、ジッとまるで目の奥を覗き込むような視線が剥がれる事がない。そんな視線を浴び続ける息子は恐怖そのものだったんじゃなかろうかと思う。
空き家のような感じだろうか?
外観は変わらないのに、屋内は荒れ果ててたときのような不気味さが藤さんにはあった。
……。
うーん、やっぱ正直に書くか。
正直、気持ち悪いのだ。
痴呆症が、ではなくて監督の思い入れが。
いや、あるのか無いのかわからないよ?
でも、そう感じてしまったんだもの…痴呆症を患ったお父さんの事好きだったんだろうなぁとか、懺悔なのかなぁとか。タイトルからして「大いなる」なんだもの。
本人に何を語りかけても蓄えられていく事はなく、不在と言えば不在だ。
確かに居たんだ。今は居ないだけなんだ。
でも帰ってくる事はないんだよ。
大いなる不在が誰かの事ではなく、痴呆症の事だとして、老人が行使する特権なのだとしても簡単に受理はできないし享受するのも難しい。
ただただ受け入れるしかない。
どんなお題目を並べたとしても当事者の救済や軽減にはならないのだと思われる。
突如、変貌した父に巻き込まれていく息子は、拒絶も放棄もしなかったけど観察はしてた。どこか他人でラストに至り邂逅したようではあったが。
そこら辺りが懺悔に見えちゃったりする…。
人が溶けていくように歪な者に変貌していくとして、最後に残るのは何なんだろうと考えた。
父は人生の大半を占めていたであろう直美さんとの愛情も忘れた。忘れてしまった事への自覚もあったような描写もあった。直美さんは旦那さんが全てだったのだろうと思う。彼と暮らす為に色んなものを捨てて一緒になったようでもあったし、彼女としては旦那さんとの愛ある生活だけが、彼女が彼女を許していける唯一のモノだったようにも思う。
それが失われた。
他でもない旦那さんによって、泡のように消えた。
人格は残ったのかな?
体裁と言ってもいいのかもしれないけれど、体外的な印象は保とうとしてるような雰囲気だった。
藤さんの芝居を見てて荒唐無稽な発言も多いけど、その裏にはソレを肯定するものが本人の中には必ずあるような印象だった。
その何かを把握できれば対処もしやすくなるかなと考えなくもない。実際はわからんが。
そんな中で、息子に対する情だけが無くなる事はない。
…そんな都合のいい事あるの?
いや、あるんだろう。無いとは言い切れない。
が、どうにも粘着質な空気を嗅ぎ取ってしまう。
どのような解釈なら父を卑下しないで済むのか、父の尊厳を保ってあげられるのか…そんな意図があるような気がしてならない。
藤竜也さんが好きだから観にきた。
やはり名優だと何度も思う。昔からそうなのたけど、台詞に気負いを全く感じない。その時生まれたかのような言葉が発せられていく。
痴呆症って役所を鑑みて、所々アドリブだったりワザと変えたような箇所もあんのかなと邪推してしまうくらいだ。
原さんは、復帰作なのかな?久しぶりに拝見したが、お元気そうで何よりだった。
真木さんは…日本語のアクセントが妙で、英語脳にでもなってるかのようで、舌が日本語用じゃないような印象だった。
あ、原さんの妹はナイスなキャスティングだった。何だろ?艶っぽい空気感があって「乱暴された」って状況に説得力をもたらしてくれてた。
言うなれば、崇高なテーマがあったのであろう本作の大半を俺は汲み取る事ができませんでした。
タイトル素晴らしい
豪華俳優陣で観たかった映画🎬
なんと監督ティーチインつきで鑑賞☺️
わーい🙌
最初は主人公の父に対しての視点ですすみ
あれ
再婚相手の直美さんがいない
どこ?
直美さんの息子も
直美さんの妹も
居場所を言わないし
認知症の父の言うことが
毎回違うから
主人公は戸惑いながら
手探り状態
スリリングな流れで
面白い
直美さんは海へ?
亡くなったのかな
父のことをよく考える映画だった
父と確執のある人に観てほしい
タイトルも素晴らしい
息子から見た父の事に最初捉えていたが、映画をみていくと、父から見た直美さんの事にも捉えられて
良いタイトルだなぁ
近浦監督は
映画への熱意が溢れていた
お話がとても上手な監督さん✨
また札幌に来てティーチインしてほしいです☺️
ある日、一人暮らしの老人・陽二(藤竜也)が警察に逮捕・保護された。...
ある日、一人暮らしの老人・陽二(藤竜也)が警察に逮捕・保護された。
身元引受人は息子の卓(森山未來)。
妻・夕希(真木よう子)を伴って東京から暘二の暮らす北九州まで赴いた。
会うのは数年ぶりか。
卓は母とともに暘二から棄てられたという思いがあり、以前会ったのも十数年ぶりだった。
陽二には、再婚相手の直美(原日出子)がい、学究肌の暘二の世話を甲斐甲斐しくやいていたはずだった。
保護施設に入れられた暘二は傍から見ても認知症になっており、妄言妄想にとりつかれているようだった・・・
といったところからはじまる物語で、タイトルの『大いなる不在』は「永の空白」といったところだろう。
父と息子に横たわる長らくの空白時間。
その父との空白の時間、その間に父が何を思っていたかを息子の卓が埋めて、自身の腑に落としていく話・・・と思って鑑賞に臨んだ。
本筋はそうなのだが、なんだが、よくわからない。
暘二と直美の話は、息子が紐解いていった父の物語なのか、父自身の回想なのか・・・
そんなことはどちらでもいいという向きもあるかもしれないけれど、そこんところは実は重要で、映像で見せられれば観客にはすべてわかる。
けれど、登場人物がわかっている・知っている物語なのか、知らない物語なのか、それによって観方が変わって来る。
息子は父の物語を知らないのだろう。
空白の期間の物語を、彼が知ることで、こころのわだかまりが解ける、腑に落ちる、ということになろうが、そこんところが甚だあいまいで(というか、わたしが気づかないだけかもしれない)、空白期間を埋めるカタルシスが得られない。
映画の終局で語られるのは、映画冒頭のショッキングな出来事の顛末であり、それはこの映画では些細な出来事なので、余計にそう思った。
藤竜也の演技は認知症というよりも別の何かのようで、これも観ていて居心地が悪かったです。
タイトルが秀逸
最初に感じたのは、あれほど愛していた人のことも認知症は忘れてしまうんだなぁと切ない気持ちになった。
この映画、父と息子の物語でもあり,男と女の物語でもあり、いろんな要素が盛り込まれて,でもちゃんとまとまりのある深い映画になっていた。ひとえに役者の力量だろう。森山未來,藤竜也,そして原日出子。この人たちの静かな演技は、言葉一つ一つが観てる側に丁寧に届けられて、深く刻まれる感覚だった。
インテリで偏屈で理屈やの男が、愛する人が去って行くその時に見せるしぐさ、深い愛情に涙が出た。そして、息子も自分を捨てて出て行った父親の生き様を知る中で,最後に施設の人にできるだけ長生きさせてあげてと静かに語る。実は深い愛情の持ち主なんだと知る。
登場人物はそれぞれにとっての大いなる不在を抱えて生きてきたんだなぁ。良い映画でした。
ただ、出てきてないが、対して好きでもないのに結婚して出産して捨てられるって、息子の母の女性にしたら最悪だなあと、正直ちょっと思った。
ふぅ〜、深く重い思い
何とも感想を言葉にするのが難しいです。
藤竜也さんの演技に引き込まれながら、
陽二と卓と直美さんのそれぞれの関わり方を見守るように、
息を詰めるように集中し魅入ってしまいました。
夫婦の愛、親子の愛
直美さんにとっての陽二さん
卓さんにとっての陽二さん
認知症が発症する前と後の陽二さんで二人にとっては別人で...
でも、陽二さんは、本人にとっては、もう、ずっと陽二さんのままで、
周りの受け取り方で違う人なわけで…
自分が卓の立場だったら…
疎遠だった過去ではなく、
父と息子の距離が縮まるような感覚の今が重要で、やはり愛情が湧くだろう…
直美さんだったら…
わたしは、陽二さんが夜中錯乱し直美さんが日記を見せるシーンで、
陽二さんがハッと我に返るハッピーさを求めてしまっていたのだけれど、
全く別で、日記を投げつけるという展開に、
まじかっ!の衝撃で胸がチリチリしたそのシーンに、
おそらくそれが現実で、自分がなんて安直なんだろうと、
そして現実はなんて辛く悲しいのだろうと涙がこぼれてしまいました…
だから、直美さんが陽二さんの元を去ったのも責めることはできないし…
ただ、直美さんが、
陽二さんの最高のラブレターに書かれていた素晴らしい海となってしまったとしても、
それとも違う人生を送っていたとしても、
どちらにせよ幸せな気持ちでいて欲しいと願うしかなく…
あと、妹さんには性的な暴力ではなく、直美さんの荷物を持って行かせたくなくて、
階段から引きずり下ろしてしまったんだと、
これまた現実逃避かもしれない思いでおるのです…。
陽二さんの立場だったら…
どうしよう、誰かに迷惑掛けたくないし、
でも判らなくてなってしまったらどうしようもないし、
ただただ、怖くなってしまいました…
うーん、とにかく簡単に感想がまとまらず、深く深く心にのしかかる作品でした。
そして、藤竜也さん、森山未來さん、原日出子さんの演技に痺れました。
謎多しだがわりと面白かった
役者さんの演技が良いのとなんとなく引き込まれていくストーリーであるので観る価値あり。
謎が多い。
原日出子さんは生きてるの?
原日出子さんの息子さんは本当に入院費を請求に来たのか? それは本当にお父さんは拒んだのか?
最大の謎はお父さんは確信犯だったのか?
デカプリオのシャッターアイランドを彷彿とさせる。
玄関に虫除けスプレーがあり、余りにもリアリティがあって、映画はテレビドラマとは流石に違うなと思ってたら実際に監督の家だったんだ。
レストランでケーキ食べてて、何故食事でないのか疑問だったし、森山未來何これ?と言ったのって意味があるのか? ケーキだったらレストラン予約する必要無いし。。
単純に映画の予算の都合で食事無しなのか? 奇妙だった。
お父さんの普通に関するセリフ、大河ドラマに関するセリフが説得力あった。
認知症ってのがこういうものなのかなと勉強になった。
時系列とか年齢とか気になった。71歳というから40歳の時にラブレター書いたのかな? でも20年好きだったというから大学の時に知り合ったの? 奥さんの方が年上の設定?
最初の市の職員に対しての尖り方が森山未來が石丸伸二氏の選挙直後のメディア対応みたいだと思った。
そこにいない
そこにいない、それがすべて。
そこにある、それがすべて。
実際にどうかはわからないけど、認知症になってからの言動に、そのひとの中にわずかでも内在するものがデフォルメされたり歪になったりしてあらわれているのだとしたら、いろいろとつらいな、と思いながらみた。
あんな状態になっても(あんな状態だからか)ひとは身勝手に許されたいと願う傲慢さと滑稽さが、なんたか物悲しかった。
「できるだけ長生きさせてください」というのはやさしい寄り添いなのか、簡単には死なせない、楽にはさせないという小さな抵抗なのか、考えている。
鑑賞動機:藤竜也/森山未來5割、あらすじ4割、巡り合わせ1割
原日出子さんはやはり素敵な役者さんだということを、再認識した。今作ではお人好しすぎるくらいの役柄で、こういう人こそ幸せになってほしいと思うのだが…。
過去と現在を交互に描写しながら、この愚かな男に何が起こっていたのかが紐解かれていく。不可解なことも多くて、『ファーザー』みたいに画面に映っていることが必ずしも事実ではないのかも、と勘ぐったりしたが。必ずしも全てが説明されている訳ではなく、特に直美さんの気持ちは推し量るしかない部分がある。自分を認識してもらえなかった時のショックの大きさは、あの表情から推してしるべし。
随所に鏡が使われているのはやはり目についた。
はあ、でもあれだけ熱烈な愛の告白をした相手を、な・ん・で・いっときでも忘れてしまうのさ。愚かだ…。
父・陽二にとってはそれは 紛れもなく〝事件〟だった。
「事件です。」
その通報後、施設に入ることになった陽二と疎遠だった息子・卓が再会する。
父は認知症が進み、再婚相手の義母・直美は行方不明だという。
2人のことを少しでも知りたいと出向いた卓が実家で目にしたのはおびただしく張り巡らされていたメモ。
それは真面目で厳格な父の〝自身の不明〟への自覚と抵抗と恐怖の跡だった。
互いの家庭を捨ててまで一緒になった父と直美を引き裂いた忘却。
うちのめされていく日々を明らかにする散らかった部屋。
そこにあった直美の日記に挟まれていた陽二からの手紙。
現状と共にふたりの運命的な愛と思いを知り、卓のなかで、思いがけず父・陽二という男の〝存在〟と〝人生〟が初めて〝開かれ、刻まれ〟ていく。
大切な思いが散りばめられた日記が投げられた時、倒れた自分に気付かず去る夫をみた時、直美の胸の痛みが波動のように伝わり、あの冒頭を思い出した。
それは手立てと自信を見失った直美の純心のようだった。
安らぎの住処で次々と踏み倒されていった水仙はせめて最後に澄んだ香りをのこそうとしたのだ。
誰のせいでもなく忘却の彼方へ連れ去られつつある愛する人を責めてしまう自分。
その度に互いが傷つくのは、苦しみの終焉への過程なのかも知れない。
自分の体調の悪さもあり、それをコントロールして回避する役目をこなせないと自覚した直美が、これまでのふたりの幸せな日々を守ろうと一緒に居ることを〝絶望〟で止め、断腸の思いで夫から離れたように私には映った。
それを貫くために意図的に携帯電話をのこして妹の元に出かけたのだろう。
そんな妻の〝別れ際〟に夫は車の鍵を渡したのは、彼の最後の妻への思いやりだ。
しかし、夫のいる世界でそれはほどなく妻の〝失踪〟と車の〝紛失〟となり携帯電話がそこにある理由も持ち主も〝不明〟になるのだ。
そうして妻のなかで静かに納められることになった〝不在〟であるかつての夫。
その真裏にある幸せだった時間が濃く想像できるから、過去を手紙から聞くシーンは切ない。
今日もどこかで避けられない老いに誰かが抗い、また受け入れながら「向き合う」人がいる。
そのまわりにもはかり知れない葛藤がある。
それは自分の身近にも感じられる話なのだ。
ー大いなる不在ー
その存在をただひとつの断片でとらえずに、見えないもの聞こえないものに思いを寄せると露わになるもの。
不在だが確かに「私に」流れつきここにある家族のかたち、愛のかたち。
卓はきっと幼少期からの空白に一滴の和らぐ色を足すことができたはず。
もはや父は知らずとも、何かがなんとか卓につながれたことが嬉しかった。
藤竜也の「今、ここにいる」のにつかめない焦りや抗う気持ちに人生と歩むことを感じた。
原日出子の〝自分をちぎり振り絞るようなひとつの愛情〟に複雑な葛藤と当事者にしかわかり得ない気持ちを知った。
森山未來の大人として親を「静かにみつめる」ときの心の揺れに自分を重ねて夢中になった。
静かな余韻のなかで大切な人の笑顔や声を思い出す作品だった。
誤字修正済み
藤竜也と森山未來の演技に凄みを感じ、稀有の作家性にエンタメ性をプラスした監督に魅せられた
近浦啓 脚本・監督による2023年製作(133分/G)の日本映画
配給:ギャガ、劇場公開日:2024年7月12日。
過去パートと現在パートがいり乱れて展開されるが、主人公が父親の謎を追うという言わばミステリー仕立てとなっており、スローテンポながらも退屈せずに見ることができた。
まずは、元大学教授という知的な認知障害者陽ニを演ずる藤竜也のきめ細やかな演技に、感心させられた。記憶障害をカバーするために、家中にメモがメチャ沢山書かれているのにリアリティも感じさせられた。そして施設に入ってからの言動が落ち着いた話ぶりと対照的に妄想的で、年取ると人間はああなってしまうのかと恐怖さえ覚えた。ラストの方で、家を出る際に水で髪型をビシッと決める姿も鮮やかで、流石に年季が入ってる!と唸らされた。
藤竜也が入る施設のリアルさも、なかなかに良いと見ていたが、撮影に本物の介護付きホーム北九州市の「さわやか鳴水館)を使い、実際の職員も出演してるとか。
藤竜也の息子である主人公卓を演じた森山未來も、父親と疎遠だったがごく普通の人というとても難しい役ながら、父の人生の謎解きに次第にのめり込んでいく様を、上手く自然に表現していた。
亡くなった恩師を偲んで、研究室一門の前で元教授としてスピーチをする父陽二。この集まりの雰囲気が何とも本物っぽさがあって驚かされた。X線による結晶解析の教室と専門分野まで明らかにされる。そこで専門分野から調べてみると、近浦吉則・元九州工業大学教授という名前が出てくる。彼が近浦監督の父親ということだろうか?撮影には監督の実家を用いたというし、監督自身の父親に対する強い気持ちが感じられた。
最初と最後に出てくる芝居ワークショップは、見ている最中は分からなかったが、イヨネスコの戯曲『瀕死の王』とのこと。死期が近づいている王様が権力も経験も何もかも身ぐるみ剥がされて無になっていくという物語らしい。長年疎遠だった父の人生を知り・体感したことにより、卓は役者としてよりレベルアップしたという、言わば成長の物語となっていた。
多分、近藤啓監督の実感に基づく物語なのだろう。卓こと森山未來は監督の分身であり、お堅い家に生まれた強い意志を有する表現者を、見事に体現していた。
スピーチ内容に添えば、大脳皮質だけで生きている様に見えていた父親陽二。彼が実は人妻直美(原日出子)を熱愛し、熱烈な恋文を出して一緒になったことが露わになってくる展開は、コレって不倫とは思いながらも、純愛が感じられ凄く感動的。なのに、認知症で陽二は直美に当たり散らし、彼女が大切にしていた恋文を貼り付けた日記帳さえも、放り投げてしまう。そうして、献身的に陽二に尽くしていたが、そういった反応に打ちひしがれてしまったのか、直美は故郷に帰ってしまう。
卓は直美の故郷を訪ねる。直美の妹(神野三鈴)に会い、日記帳を直美の元へ返すことを依頼するが、拒否されてしまう。妹はなぜ日記を受け取らなかったのか?視聴後ずっと謎であった。
ただ、直美が砂浜で海に向かってどんどん歩き進む映像を、思い出した。それは、彼女の自死を暗示している様に思えてきた。渡す相手が既におらずに、妹は日記は受け取れなかったのか。直美をただただ悲しいヒトと自分は思っていたが、大きな海に抱かれ若き陽二に会えたという作りなのだろうか?
長編映画はまだ二作目というが、稀有の作家性にエンタメ性を上手く組み合わさせた近浦啓監督には大きく魅せられた。前作も是非見てみたいし、今後にも大いなる期待を抱いた。
そして、十分な会話しないうちに自分の父親を亡くしてしまったことを、初めてとても勿体無いことをしてしまったと思わされた。
監督近浦啓、脚本近浦啓 、熊野桂太、プロデューサー近浦啓 、堀池みほ、ラインプロデューサー越智喜明、監督補熊野桂太、撮影監督山崎裕、録音森英司 、弥栄裕樹、美術中村三五、衣装田口慧、ヘアメイク南辻光宏、リレコーディングミキサー野村みき、サウンドエディター大保達哉、編集近浦啓、音楽糸山晃司、エンディングテーマ佐野元春&THE COYOTE BAND、助監督石井将、制作主任齋藤鋼児、スクリプター保坂栞。
出演
卓森山未來、陽二藤竜也、夕希真木よう子、直美原日出子、三浦誠己、神野三鈴、利重剛
塚原大助、市原佐都子。
まさに大いなる不在の映画
映画のタイトルの”不在”とは何だろう?藤竜也の記憶の不在か、かつての妻を捨ててまで再婚した原日出子への愛の不在か?ただし、不在には大いなるという言葉がかぶせられている。悲しき不在でも、忘れられた不在でもない。不在の反語の様な大いなるの付いた不在である。
藤竜也に捨てられた妻の息子の森山未來は何十年ぶりかでまるで心の内を埋める様に父親に会いに来る。父親が事件を起こしてしまったからとは言え、多分、警察から(あるいは病院から)、連絡がきたとき、もう私は関係ないと断ることもできたのに(多分)。しかし、森山未來は、あまり嫌そうでもなく事件を起こした父親に会いにきてしまう。そこで、藤と原の運命的とも言える関係を知る。森山は、藤と原の関係を知れば知るほど、のめりこむ様に、父親との長い別れを取り戻すかの様に、調べを進めていく。そう、これは、藤と森山の長い不在=大いなる不在の物語なのだとようやく気付かされる。ある時、藤は、森山を幼少期に暴力をふるったことを告白し、森山に許しを請う場面がある。ああそうか、これは、藤にとっても息子との長き不在=大いなる不在の物語でもあるのか、と気づかされる。森山は父との邂逅を、藤は息子との和解を、長くながく求めていたのだろう。不在、まさしく、大いなる不在の物語。
藤竜也の陽二の魅力とラストの願望的考察…。そして謎について
とてもとても良かった。
演技の事など何も分からない私でも、スクリーンの中の藤竜也に圧倒された。
名優を精巧な機械に例えるなら、彼は老練な機械のように精緻で大胆で狂いなく、時折接合部から滲み出るオイルのような人間味が、唯一無二の個性を醸し出していた。
なんと表現したものか難しいのだけれども。
親に向き不向きがあるならば、恐らく陽二は後者で。
他者の目線に合わせられない陽二は、常に他者を自分の目線まで登らせるか、下から呆然と見上げさせるかの二択しか与えない。
幼い子にとっては背伸びしても届かぬ存在。必死の訴えも甘えたい想いも、彼の顎先を掠めるだけで、彼の視界に入ることはない。関心を得ることは無い。
父との埋められない距離感は今も卓に付き纏う。擦り寄るか、拒絶するか。どちらも健全な親子関係とは言い難いが、卓は拒絶を選んだ。そもそも陽二が妻子を捨てたのだけれど。
とは言え陽二は不義理な人間ではなく、むしろ義理堅く一貫して誠実に努めていて。
実子の結婚式に参列していない事を理由に、継子の式にも参列せず。直美との関係を再開させるにあたって、己と相手方の家族関係を精算して。卓と結婚した夕希に対し、事後報告だったが両家顔合わせをしなかった不義理を詫び。卓に対し、幼少の頃に奮ってしまった暴力と暴言を詫びる。
固すぎる程に、義理を通す人間として描かれていた。”気持ちさえこもっていれば形は拘らない。”という現代の風潮とはっきり隔絶した、気持ちいい程の男気ある人物だ。
愛に対しても一直線で。熱烈な恋文と、決して口だけで終わらせない行動力。
偏屈で高慢で配慮に欠け、論理的思考で他者を批判する嫌味な側面もありつつ、愛と義理を全身で体現する雄々しさが、とても魅力的だった。
こういう人物はとても狡いと思う。他者に媚びず、自分を生きて、それでも愛されるのだから。
私も途中から陽二という人間の魅力に呑み込まれて行った。親族にはいてほしくない。けれども恒星のように輝き、燃え上がる存在感には見蕩れる。教え子の鈴元が陽二を尊敬し、慕っていたのにも納得する。(チョイ役だったけれど、鈴元役の人の演技大好きだった)
直美は陽二に対し、一抹の苛立ちや呆れを抱きつつ、それでも根底にある強い愛と尊敬の念で支えていた。それが垣間見える夫婦のやり取りが素晴らしかった。
直美は深く陽二を愛していたからこそ、認知症による彼の変容に耐えられなかった。
あの熱烈な恋文と、陽二が自分に向ける確固たる愛があったからこそ形作っていた夫婦が崩壊し、愛の矛先と供給先を失った直美も崩壊する。
”無かったことにされた” ではなく、本当に無になってしまった。その悲しみと苦しみは想像がつかない。
愛し合った記憶を自分だけが有した状態で、最早別人の伴侶と共に生きる孤独は深くて暗い。
時折元に戻り、変わらぬ愛を向けられても、いつかまた病の海に沈むと考えたら…そしていずれ、二度と浮上することのない暗黒の日が訪れると考えたら…目を背けた方が楽かもしれない。
愛あるが故に、共に居ることは耐えられないのかもしれない。
『大いなる不在』 は、直美の不在を指しているのだと思っていたけれど、直美にとっての、かつての陽二の不在も指しているのだろう。
ラストのシーンには様々な憶測がある。故郷の海へ向かい歩を進める直美の姿。かつて陽二が表した通り、彼女は故郷の海そのものになってしまったのだろうか。燃えたぎる恋慕に心を爛れさせながら、陽二が眺めることしかできなかった故郷の海に。
街を徘徊し、妻の名を叫ぶ陽二の溢れる想いは、宛もなく直美の故郷の地を彷徨ったかつての陽二の姿と重なる。
二人はまた会えるのだろうか。これが悲劇の愛の物語ならば、在りし陽二との幸福な日々を護るため、直美は死を選び、何も知らない陽二は病が見せる世界の住人になってしまうのだろう。
希望のある考察をするならば、直美は生きていて、また陽二の元へ戻ってくる。病の世界へ徐々に囚われていく陽二を見守りながら、彼の魂に交信し続ける。次は直美が、熱烈な恋文を送り続ける。
私の願望は勿論後者。
最後に、序盤に繋がるシーンにて。陽二は誰も受信していない無線で、あたかも息子の卓と交信出来ているかのように語りかける。
今から行くと告げた後、彼は矍鑠と身支度をし、身なりを整え、直美の日記を携えて外に出る。その目には強い決意があった。その決意とは何だったのか。なぜ彼は、無線で息子を呼ぶ時、幼少期の愛称である『たっくん』と呼んだのか。
彼があの時交信していたのは、かつて彼のプライドにまみれた心を揺るがし、彼の執着する美徳とエゴを陳腐にさせ、アイデンティティに亀裂を生じさせた、幼く無垢な息子だったのだろうか。
直美への愛さえくすませる純な脅威に、かつては拒絶する事しかできなかった陽二であったが、何故この期に及び、会いに行こうとしたのか。
あの無線のシーンで語りかける相手は、当然直美だろうと思っていたから、とても驚いた。
男女間の燃え上がるような愛とは異なり、胸を奥底から温めていくような父子の愛。その感覚は今も陽二を翻弄させ、困惑させ、希望を与えているのかもしれない。
そうであるならば、卓が数十年間離れていた事も、陽二にとっては大いなる不在だったのだろう。
目の前の不在と30年の実在
物質としての存在と事象としての存在、そしてその喪失を扱った作品と感じた。
正直、ストーリーと呼べるほどのものはない。
過去と現在をシームレスに行き来しながら、親子や夫婦など様々な関係性が描かれていく。
冒頭の警官隊の突入(何をどう言えばあんな部隊が来るのか)や直美の行方などは、映画的な“惹き”でしかない。
本質は“知ろうとすること”と“忘れてしまうこと”。
卓にとって元々断絶に近かった父は、痴呆によってより掴みどころのない存在になってしまう。
それでも母の死を伝えようとするぐらいにはまだ“親子”だったのだろう。
直美の日記や関係者との会話、そして父の残したメモから少しずつその実在を掴んでいく。
ベルトを譲る直前だけ「父さん」と呼べたのは、多少なり象を得られた証だろう。
対して直美の立ち位置は非常に苦しい。
宝物である手紙と、それに対する想いを読み聞かせてすら、「あなたは誰だ」と言われてしまう。
普通ならイチャイチャに感じる「スベスベ」のシーンにかかる不穏なBGMなどもあまりに的確。
妹のもとへ行くことは陽二も了承の上だったようだが、それにあたりどんな会話があったのか…
ひたすら重い流れの中で、終盤の位牌おじぎは癒し。
キャストに関しては基本文句なしなのだが、夕希だけは他の人がよかったかな。
真木よう子がダメだったわけではないが、立ち位置的にビジュアルが強すぎるんですよね。笑
手紙や台本の朗読など文学的すぎて掴みづらいのは難点。
ただ、老齢の両親を抱える身としては色々と感じるところのある作品でした。
鑑賞後の満足度◎ 「不在」とは互いに想い合いながら一緒になれなかった20年間のことか、互いの元家族から離れて暮らしていた30年間のことか、単に“在った筈の記憶”が失われてしまうことか…
①忘却と妄想と認知(改めて考えると認知機能が低下している症状を“認知症”と呼ぶのもおかしい気がしますが…)の狭間を往き来する姿の演技はもちろん、まだ認知が始まる前の姿の中に陽二という人間の個性をくっきりと表現する藤竜也の演技が凄い。
『時間ですよ』や『愛のコリーダ』の印象が強いが、いつの間にか名優になっちゃいましたね。
原日出子も久しぶりに大きな役を好演(互いの家族を捨ててまでして結ばれたのだから相手がボケても面倒を見るだろう、と普通は思うから、陽二を置き去りにするのは冷たいように見なされても仕方のないところを、原日出子の柔らかな個性が中和している)。
森山未來の表現者らしい個性が映画に凛とした緊張感をもたらしているし、一方真木よう子はいつものエキセントリックな演技ではない柔らかい演技でもって、その緊張感を緩和する役割を果たしていて、やはりこの女優の並みではない力を見た思いがする。
②最早国民病というより先進国病(世界最大の発展途上国ーいまやインドになったのかなーでも問題化してますが)とも言うべき認知症なので、今更認知症自体を説明する時代ではない。
これからは、映画も晩年の認知症を含めて人間(その人)を描かなければならない時代になったのだろう。
残酷な自分勝手な昭和の男の最期。本人は幸せである。映画的な救いがある点では優しすぎる。
本当に自分勝手で偏屈で理屈っぽい、昭和の男の最期。
一見残酷に見えるかもしれないが、プライドが高く、自分の恋愛を貫き、子供もいて、仕事も成果を上げたのだから、本人としては、これで満足してくれなくては、そのために傷つけられた多くの人々に対して申し訳が立たない。
現実はこうはいかない。
もっとうまくいかないことがたくさんある。
まあ、映画の中で彼が言うように、「一般的な、平均的ななどというものは存在しない。それぞれが特別である。」のかもしれないが。
自分のやっていた仕事がすべてなくなってしまうと感じるかもしれないが、その成果は、教え子を通じて後世に残る。
大恋愛のロマンスと、いささかユーモラスな冒頭の大事件が救い。
息子が本人のことを理解しようとしてくれたことも。
こうなってからでは遅いのかもしれないが。
「ファーザー」は本人視点でのみ描かれていたが、本作は息子視点からも描かれる。
認知症の「恐怖」が描かれていると同時に、そうなった後、「理解されていく」物語でした。
精神の死生
25年ぶりに再会して程なくして認知症を発症した父親と、そこに至る父親を知ろうとする息子の話。
施設に入所した父親と再開し、話しがわかる状態ではなくなっていたことを知った息子が、同時に行方がわからなくなった父親の再婚相手を捜しつつ、父親が持っていた彼女の日記や父親の手紙から2人の関係を読み解いていくストーリー。
息子の発言の揚げ足を取る様な主張を並べる父親が壊れていく過去からの出来事と、既に壊れている父親と向き合う息子パートをいったり来たりしながらみせていくけれど、終盤が近づくに連れ、過去のパートは先がかなりわかってしまってクドく感じるし、オープニングの警察の行も、一応説明はあったけれど、いきなりそんな部隊来るわけないだろというツッコミどころになってしまっいるし、舞台稽古の描写は気取った演出にしか感じられないし…結局息子の判断材料を見せていたってことですかね。
父親と卓の描き方は結構良かったんですけどね…直美の息子がクソなのはわかったけれど、まさかの直美の脱兎で何だそれ?という感じだった。
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