「・・・この作品は決して“市子”の目線だけで観てはいけない。」市子 菊千代さんの映画レビュー(感想・評価)
・・・この作品は決して“市子”の目線だけで観てはいけない。
『うち花火好き』『嫌いな人おらんで』
『うん、皆んなが上向いてる時安心すんねん』
誰しも花火を観に行ったら、夜空に輝くその輝きにときめくだろうが、市子は違った。
あまりにも深く屈折した人生は、“普通”に生きてきた者には想像もできないのかも知れない。天空に煌めく花火を観ても、彼女に見えている物はその煌めきでは無く、誰もが目を背けてくれている事だった。
市子は普通に“人”として生きたかったのだろうが、この世に生まれてきたその時から許されなかった不条理。彼女が行った行為には1mmも同情出来ないが、そんな不条理の中生きて行く事の息苦しさが画面全体に溢れている。
宇多田ヒカルの歌に『真夏の通り雨』という曲がある。
「降り止まぬ 真夏の通り雨
ずっとやまないやまない雨に
ずっと癒えない癒えない渇き」そんな歌詞がある。
通り雨ってサッと降ってやむから通り雨なのに、降り止まない通り雨ってどんなだろう?
と思っていたが、“市子”の人生はまさに降り止まぬ通り雨なのかも知れない。
彼女はずっと一人の“人”として普通に生きる事を願っているのに、決して許される日は訪れない。
まさに、いつかはやむだろうと思っているのに、やむことの無い雨そのもの。
苦しすぎる。
そして、多くの観客は杉咲花演じる“市子”の目線に立つであろう。なんて不条理で可哀想な人生・・・。
はて?それが正解?
市子とは?不条理な生き方を強いられた可哀想な人?だろうか。
この作品を、市子の目線に立って観ていると、つい「杉咲花」演じる“市子”に感情移入してしまうかもしれない。
“市子”の人生は不遇な人生かもしれないが、この作品では決して「不条理な生き方を強いられた可哀想な人」として描いてはいない。
無戸籍だった市子は小学校への入学を境に、難病を患っている妹、“月子”として生きてきた。それが彼女にとって唯一、社会の中で人として認められる人生だからだ。
そして、健常者だが“人”として“認められていない”市子は、“人”として“認められている”が難病を患い、健常者としては生きられない月子の命を奪う。
この作品の中で唯一本当の月子が登場するシーンがある、ほんの短いシーンだが、月子の視線が脳裏に突き刺さり、離れない・・・。
月子は、言葉を発する事も、呼吸する事さえ機械が無ければ出来ない。月子が何を見ていて“その時”をどんな気持ちで迎えたのか、正直想像も出来ない。
月子の最期は、ただ医療機器の空虚なアラームが鳴っているだけだがそのアラームの裏に何があったのか、しっかりと見つめる必要がある。
多くの観客は市子の目線に立っているだろう、しかし市子が“人”として生きる為に行った行為が、“人”として決して越えてはならない行為だと言う事実。難病の家族を診る事がどれほど大変な事なのか、軽々に語る事は勿論出来ないが、だからと言って月子が殺されなければならない理由など一つも無い。
例え市子の立場に立って全てを俯瞰したとしても、市子が行った事を見て見ぬふりする事など私には出来ない。