フェラーリのレビュー・感想・評価
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マン監督があえて選んだ挫折の1957年
ポスタービジュアルやタイトル、予告からはエンツォ・フェラーリの栄枯盛衰をやるのかなというイメージを持ったのだが、実際は1957年の中の3ヶ月ほどの話だそうだ。クライマックスのミッレミリアの開催日が5月11日なので、春先の1クール程度ということだろうか。
この時期は、エンツォにとっては人生屈指の苦境の時だったようだ。会社は破産寸前、前年に長男は亡くなり、妻のラウラとはかなりの険悪ムード。私生児を生んだ愛人は認知を打診してくる(当然だが)。そしてミッレミリアの大事故。
マイケル・マン監督は、彼にとって重要な出来事が集中しているということでこの時期に焦点を当てたらしいが、気が滅入る出来事ばかりで映画としては想像以上に重い。
物語の配分としては、カーレースの描写は半分もなく(というか実感としては3分の1あるかないか?)、残り半分以上は妻との諍いと愛人とのやりとり、その他人間関係という印象だった。レースの話と家庭のごたごたの話が並行して進んでいく感じ。カーレースをもう少したっぷり見られるかと勝手に思っていたので、そこはちょっと食い足りなさが残った。
しかし、妻とのやりとりの緊迫感が予想外にすごかった。いきなり銃で撃ってくるし! 決めた時間までに帰るなら女遊びも許すという寛容さはあるものの、ラウラの心は息子を亡くした絶望と夫への不信感で最初からぼろぼろだ。てっきり愛人リナの存在も知っているのかと思ったら、中盤で初めてバレていたので驚いた。
女性の目線で見ると、随分酷い男なのだ。フェラーリというブランドやエンツォに思い入れのある人の目に、この映画の彼がどう映るのかはわからないが、その辺にあまり贔屓目のない私は、ラウラ寄りの心境でこの愛憎劇を見ていた。だから、彼女が色々と画策し、終盤でエンツォとの交渉の引き換えに、自分が生きているうちはピエロの認知を許さないと啖呵を切った場面は、ちょっとだけスカッとした。
クライマックスのミッレミリアのレースシーンだけは、その前後とはがらりと雰囲気が変わる。序盤では試験走行シーンなどで短めに描写された当時のレーシングカーの疾走を、イタリアの美しい景観とともに拝める爽快な場面だ。そこに至るまで鬱屈とした話が続いていただけに、あの解放感に救われた気持ちになった。
それにしても死亡フラグがわかりやすい。試験走行で空中に飛ばされたドライバーもポルターゴも、恋人が現場に来ている段階であっ察し、となってしまった。おまけにポルターゴは遺書(これはみんな書いてたけど)プラス「僕は優勝するよ!」。
そしてあの事故シーン。沿道の住人の生活を見せた上で、彼ら見物客が事故車に薙ぎ倒される瞬間を、濁すことなく正面から描くという生々しい演出。直後の不気味な静寂の中、ちぎれた足や胴体、飛び出た眼球が容赦なく映る。とにかく最悪のことが起こったのだ。
本作で描かれたようなスピードレースとしてのミッレミリアは、この凄惨な事故が原因で終わってしまう。
ラストは、エンツォがピエロをディーノの墓に連れて行く場面で終わり、登場人物のその後がキャプションで語られる。もともとエンツォに思い入れのある人は、1957年の彼を臨場感を持って見られたことで満足できるかもしれないが、彼についてよく知らず、映画のストーリーという視点しかなかった私には、今ひとつ歯切れのよくない幕切れだった。
ただ、彼のような著名なカーブランドの創業者をマン監督のようなフェラーリ愛好家が映像化するとなると、よくある英雄譚になってしまいそうなものだが、あえて1957年だけを選び、美化せず描いたことには好感を持った。きっとマン監督は真のマニアックなフェラーリファン、エンツォファンなのだろう。
グレイヘアのオールバックにしたアダム・ドライバーは、最初ポスターを見た時は彼だとわからなかった。「ハウス・オブ・グッチ」の時も思ったが、スタイルがいいので仕立てのよいスーツを着た立ち姿がとても映えて、マウリツィオやエンツォといった上流の実業家の役がよく似合う。
ペネロペ・クルスの熱演が光った。ラウラの激しさだけでなく、賢さや、エンツォを支えてきた共同経営者としてのプライドなどが伝わってきた。人生を楽しもうという姿勢があった若き日のエンツォの成功には、彼女もまた不可欠の存在だったということがわかる。
そんな彼女が息子の死によって輝きを失い、エンツォが隠していた長年の裏切りに打ちのめされ、それでもせめて自分の生きているうちは愛人の子の認知をさせまいと彼に食らいつく姿には、たくましさと切なさを感じた。
すばらしい映像美
この作品は英語が使われている。あまり、会話はなく、観念的な台詞が連なる。あっという間に130分が終わったトイレに行くのも、忘れていた。いまの副社長の生い立ちが分かる。あのフェラーリの最後の言葉男らしくないけど会社を守るためしかたないよね。カッコいい映画だった。
私的、この映画にそこまで乗り切れなかった理由とは
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
この映画『フェラーリ』は、エンツォ・フェラーリ氏(アダム・ドライバーさん)に関わる作品です。
観る前はエンツォ・フェラーリ氏の生涯、あるいはフェラーリ社の当時の盛衰を描いていると期待していたのですが、基本は1957年のレース「ミッレミリア」に至る短い間のストーリーでした。
さらに、その描かれ方は、(レースに向かうフェラーリ社の車の開発というより)エンツォ・フェラーリ氏と妻・ラウラ・フェラーリさん(ペネロペ・クルスさん)との、エンツォ・フェラーリ氏の愛人・リナ・ラルディさん(シャイリーン・ウッドリーさん)を交えた、フェラーリ夫婦の(失われた息子も影響する)および愛人(とその息子)の対立を主軸に置いた作品になっていたと思われます。
つまり、(テストやレース場面など車の走行シーンはあっても)ほぼ車の開発に関しては描かれず、夫婦間と愛人との対立が中心に描かれた作品だったと思われます。
車の開発&夫婦と愛人を交えた対立、の描き方ならば、ナチス・ドイツに対抗するための核爆弾の開発&夫婦と愛人を交えた物語でもあった映画『オッペンハイマー』に、近い構成であったと思われます。
しかし今作の映画『フェラーリ』は、詳しい核爆弾の開発描写がある『オッペンハイマー』とは違って、車の開発に関してはほぼ描かれず、(多くの)観客の期待とは違う(と思われる)、夫婦と愛人とを交えた対立に重きを置いた、期待からするとアンバランスな作品になっていると思われました。
また、今作はテスト走行やレースで車の走行シーンは描かれていましたが、レースでも敵であるマセラティとのドラマ性ある構成にはほぼなっておらず、「ミッレミリア」のレースシーンでも今どこを走行していてどちらが勝っているのかも一見しては良く分からない描き方になっていたと思われます。
このことから、例えば、今作のマイケル・マン監督が製作総指揮の1人であった『フォードvsフェラーリ』の、開発や、相手との対立競争が明確なレース場面や、そこにまつわる仲間や家族の、バランスの取れた描かれ方と比べて、今作の映画『フェラーリ』の描かれ方は観客にとっての満足度は足りていないように感じました。
個人的には、乾いた男っぽいマイケル・マン監督の作風は嫌いではないです。
また、失われた息子や妻と愛人やその息子との揺れ動きやレースに掛ける極端な心情など、また事故の場面のギョッとする描かれ方含めて、特筆する点はあったとは思われます。
しかしながら、似た構成でありながら今作より遥かにバランスよく優れた構成作品であった映画『オッペンハイマー』を最近に観た後では、どうしても今作への評価は厳しくなってしまうなと思われ、今回の点数となりました。
アダムドライバーが良かった。 グッチの時より、ずっと男前に見える。
アダムドライバーが良かった。
グッチの時より、ずっと男前に見える。
ペネロペクルスも殺気ある演技も良かった。
レースは本当に現実かのような内容で目がはなせない。
事故もリアルですごい。
最初は意味がわからず、なかだるみなところもあったが、だんだん引き込まれていく。
美しい赤い車体のフェラーリが華麗に走る抜ける映画だと思っていただけに……
この映画の予告編を観た時、観るのはどうしようか迷いましたが
主演の「アダム・ドライバー」が「スター・ウォーズ」シリーズの
「カイロ・レン」役だった事を知り観てみることにしました。
実を言うと……予告編を観ていた時、
アダム・ドライバーは一体どの役?と。
エンツォ・フェラーリ役だと知っても、これがアダム・ドライバーなの?
自分の中ではカイロ・レン役しか知らなかったので、
こんな中年の役をやるなんて……と思ってしまいました。
この映画撮影時、アダム・ドライバーは38~39歳。
1957年のエンツォ・フェラーリ(1898-1988)の年齢は59歳。
20歳ほど上の年齢を演じていたわけですが、全く違和感はありませんでした。
しかし、イタリアを舞台にしているのに言語は英語。
でも、ホテルマンなどがエンツォを呼ぶ時、
エンツォの家で使用人(執事?)が妻ラウラを呼ぶ時も呼称がイタリア語でした。
英語とイタリア語がごっちゃでした。
イタリア語に統一したほうが良かったのかもしれませんね。
車のほうに焦点を置いている話かと思いきや、
冷えきった妻と愛人との間でエンツォがウロウロしているところ、
何気に愛人リナに息子ピエロを認知してよ、と言われているところ、
妻ラウラにリナの事がバレてしまったり……。
私生活についてはアレレな面が……(滝汗)
でも妻ラウラの立場からするとエンツォに向けて(わざと外したけど)
護身用の銃を打ったり
銀行の取引からリナの家を突き止めて、直接行ってしまったり
まぁ、気持ちも分からなくはないですね。
そんな家庭生活のゴタゴタと並行して
社運をかけて公道レース・ミッレミリアに出場するまでの話。
タイムアタックで車がクラッシュして専属ドライバーと車が空中を飛んでいき
ドライバーが道路に倒れているなど、かなり衝撃な場面も(滝汗)
余談だけど、タイムアタックをしていた時に出てきたストップウオッチらしきもの
「made in USSR」でしたね。
オープンカーみたいな構造の車、シートベルトはなく、
道路にある緩衝材みたいなものは枯草?を固めたみたいなものを数段積んだだけ。
あの頃のレーサーがレースの前に遺書を書くのも、分かるような気がします。
命がけだったんですよね。
真っ赤なフェラーリの勢揃いはカッコイイ!!
ギアチェンジの動作、エンジン音、公道レース・ミッレミリアなど迫力があります。
やはり道路には牧草を固めたようなものだけの低い緩衝材があるのみで
観客がすぐ近くで猛スピードで走る抜ける車を観戦しています。
レーサーも観客も危険と隣り合わせです……。
ミッレミリアでライバルであるマセラティの車がまさかの棄権。
最後までフェラーリとマセラティはトップを争うのかと思っていました。
フェラーリのドライバーが途中棄権したマセラティのドライバーを乗せていくところ、
敵だけどいいのか?と。
レース前やレース中に不穏だな……と感じたのは
・ポルターゴがレースの前にホテルで恋人リンダに遺書を書いた
・エンツォがガソリン注入時にレーサーにかけないようにメカニックに言っていた
・犬や子供(の飛び出し)に注意するように言っていた
・コリンズ、タルッフィの乗るフェラーリはマシントラブルが起きた
・最後尾のポルターゴのマシンはタイヤが摩耗していて交換が必要だったが、
ポルターゴはそれを断って発進してしまった
・レーサーが道を覚えていない
・ガソリンが引火して大変な事になる??
・道を間違えてトップでゴールできない??
・走っている最中に何かが飛び出してきてそれを避けようとして事故になる??
・摩耗したタイヤのまま走っているポルターゴのマシンがスリップする??
「何か」が起きる……かな??
そんな気持ちで観ていると……
場面が変わり、一つの家庭の食事風景のシーン。
両親とまだ幼い二人の男の子。
ミッレミリア出場の車が近づいてきたと知ると
男の子たちは家を飛び出し、それを父親が急いで追いかけます。
この場面で……まさか男の子(小さいほう)が飛び出す??と思っていたら
父親がその子を捕まえて抱き上げて、あぁ~……よかった……と思っていたら
ポルターゴが運転するマシンが道路に落ちていた何かを踏んでタイヤがパンクして……
その後の映像は、衝撃的で悲惨でした……。
衝撃で凍り付く……というのはこの事です。
最近動画や映画をいろいろ観ているが、こういう風になることはなかったです。
ただただ……恐ろしくて、悲惨でした……。
スピードを出し過ぎた車の事故に巻き込まれた人や
ドライバーはこんな感じになりますよ、みたいな……。
(ポルターゴのあの最期の姿は事実らしい)
その後の話が頭に入っていかないぐらいに……。
PG-12という年齢制限はこのシーンがあるからなんだね、と思いました。
後でWikiで調べてみると
1957年開催のミッレミリアで実際に起きた観客を巻き込む大事故で
ドライバーのポルターゴ、コ・ドライバーのエドモンド・ネルソン、
そして5名の子供を含む9名の観衆も犠牲になった大事故で
それによってミッレミリア開催は中止になったということです。
(現在は同名のクラシック・カーレースとして復活しています)
最後に妻ラウラがエンツォに「私が生きている間は(リナとの間できた息子ピエロ)を
認知しないで」と言ったシーン。
エンツォ・フェラーリの妻としての矜持を感じました。
エンツォはその言葉を守り、ラウラが死去した後に息子ピエロ(1945-)を認知し
現在ピエロ・ラルディ・フェラーリはフェラーリ社の副会長です。
美しい赤い車体のフェラーリが華麗に走る抜ける映画だと思っていただけに
予想とは違う内容の映画でした。
命懸けの戦いに身を投じる将軍と兵士を描く、『ゴッドファーザー』風味の米製イタリア家族劇。
想像以上に重厚で、まっとうな、映画らしい映画だった。
観に行って正解だった。
あまりにまっとうな映画なので、しょうじき、あまり語ることがない。
事前に予測していた内容と、違っていたことはたしかだ。
もっとガンガン車を走らせる『栄光のル・マン』みたいな映画かと思っていた。
だが実際は、むしろネオ・リアリズモを意識したかのような、ひりひりする家庭劇だった。
でも、これはこれでちゃんとしていて、地味だが楽しかった。
大衆受けはしないだろうが、ああマイケル・マンはこういう映画が作りたかったんだな、と思った。
― ― ―
映画として、どうしても比較対象にのぼるのは、『ハウス・オブ・グッチ』かと思う。
両者には、いろいろと共通点がある。
すでに老境にある巨匠監督が、長年の準備を経て撮った映画で、
イタリアを舞台にしながらアメリカ人キャストで固めた映画で、
登場人物はイタリア人だが、イタリア訛りの英語でしゃべってて、
実在するイタリアの大企業の内幕を描くスキャンダラスな題材で、
現在でも存命の登場人物がふつうに出て来ている。
そして、どちらもアダム・ドライヴァーが主演している(笑)。
前に『ハウス・オブ・グッチ』を観たとき真っ先に思ったのは、「なんだこれ、話のあらすじとか細部の演出とか、ほとんど『ゴッドファーザー』とまるで一緒じゃないか(笑)」ということだった。
今回の『フェラーリ』にも、『ゴッドファーザー』の臭気は拭い去り難く漂っている。
主人公は表面上コワモテで、ぶっきらぼうで、男と男のプライドをかけた「抗争」に命をかけていて、しもじものドライヴァーは常に命の危機にさらされている。
彼らにとって「ファミリー」は大切で、後継者を産めるかどうかも重要だ。
家庭に戻れば、企業戦士も優しい父親である。亡くなった息子に対する情愛は特に深い。それでも、会社と、勝利のためになら、いくらでも非情になれる。
要するに、イタリアにおいて「企業」とは「家族」の延長上にあるものであって、その論理は、「マフィア」とそう大きくは変わらない。
『フェラーリ』は、そんなイタリアの家族の在り方と、企業の在り方、そして企業間の威信をかけた抗争の様子を、じっくりと腰を据えて描き出す映画だ。
『ハウス・オブ・グッチ』ほどのグチャグチャの殺し合いにはなっていないにせよ、『フェラーリ』における家庭模様もなかなかにヘヴィーだ。
虚弱児を抱えながら、平然と浮気をして婚外子をつくるエンツォも、エンツォに「兄ではなくてお前が死ねば良かったのに」と呪いをかけ続けるえぐみの強い老母も、息子と共に愛も優しさも幸せも喪って、フェラーリ社のために動き続けるド迫力女房ラウラも、みんなが一筋縄ではいかないクセモノたちである。人を猛烈に傷つけながら、自分も猛烈に傷つき、その代償を求めるかのように、権勢と盛名を永遠に求め続ける「どてらいやつら」。
僕は、こういう連中が決して嫌いじゃないし、
こういうドラマも、嫌いじゃない。
― ― ―
1950年代のカーレースの世界は、戦場そのものだ。
単にそれは、国家や企業の威信をかけた代理戦争であったとか、技術革新を競い合う戦いの場だったといった、比喩の謂いではない。
本当に、当時のカーレースは、命懸けだったのだ。
本作の舞台となっている1956年は、フェラーリにとって苦難の年だった。
3月には、映画の冒頭で描かれたように、トップ・ドライヴァーのエウジェニオ・カステロッティがテスト走行中のクラッシュで死亡。
5月のミッレミリアでは、本作の終盤で描かれた通りの展開で大事故が起きて、アルフォンソ・デ・ポルターゴとエドモンド・ネルソン、および観客13人が死亡。ミッレミリアはこの事故がきっかけでレース自体が廃止となる。
じゃあ、このときフェラーリの同僚だったドライヴァーたちはその後どうなったのか?
調べてみて、戦慄した。
最後のミッレミリアで優勝したピエロ・タルフィは、奥さんとの約束を守ってこれをもって引退、81歳まで長命を保ったが、ルイジ・ムッソは翌年(1958年)のフランスGPで事故死。
ミッレミリアにも出ていたピーター・コリンズのほうも、同じく1958年、F1ドイツGP中の事故で死亡。
同じくフェラーリの同僚だったマイク・ホーソーンは、コリンズの死にショックを受けて58年に引退しているが、59年に公道上の自動車事故でやはり死亡している(彼は1955年のル・マンで、運転手・観客合わせて86人の死者を出した大事故の当事者でもある)。
さらには、好敵手マセラティのドライヴァーとして登場した二名のうち、スターリング・モスは90歳の天寿をまっとうしたが、本作でも何度も名前の登場するジャン・ベーラは、1959年にドイツのスポーツカーレースで事故死している。
要するに、本作に出てきたドライヴァーで、1960年を超えて生き延びることが出来たのは、タルフィとモスの二人しかいなかったということだ。
一体全体、どれだけ危険なレースやってんだ、こいつら??
ぶっちゃけ、「命が軽すぎる」。
ほとんど、ウクライナの最激戦地に派兵されているようなもんだ。
一瞬の不運が、一瞬のゆるみが、大事故を引き起こし、当時の車(防御システムもシートベルトも何もなかった)で事故るということは、ほぼほぼイコール「死」を意味していた。
まさに、「走る棺桶」である。
それでも、彼らは「戦地」を転々とし、男の誇りをかけて最速を競い合った。
まさにドライヴァーたちは「命を懸けて」闘っていたのである。
率いるエンツォ・フェラーリは、言ってみれば彼ら兵士を率いる「将軍」だ。
「将軍」は死亡事故がおきたとき、、部下と、巻き添えとなった観客たちの死を悼む。
悼みはするが、それが彼の野望と進軍を妨げることは、決してない。
1950年代のカーレースにおいて、一定数のドライヴァーと観客の死は、必然的に計算せざるを得ない「損耗」の一部だ。それは、軍隊で兵士の損耗がついてまわったり、岸和田のだんじり祭りで毎年犠牲者が出るのは織り込み済みであったりするのと同様で、彼らの世界観のなかでは「致し方ない」結果なのだ。
僕たちはこの映画を、「そういう目で」観なければならない。
要するに、これは「モータースポーツ」を舞台とした物語ではない。
明日をも知れぬ命を賭した戦いに身を投じる、戦士と指揮官の物語だ。
戦争映画や、宇宙飛行士の映画と同じくらいの「致死率」のなかで戦う男たちの決死行。
ドライヴァーたちが、レース前に愛する者に書き残す手紙……あれは、縁起担ぎでもレーサーの風習でもなんでもない。本当に死ぬかもしれないから、死んだときのために書き残している「実務的な」お別れの手紙なのだ。
その意味で、50年代というのは、第二次世界大戦の大量死によって「総体的に人の命が軽くなっていた」荒れた時代の余韻のなか、新たな文化がなりふり構わず勃興していた時代だったのだな、と今更ながら思う。そして、マイケル・マンにとって、フェラーリはその時代の「象徴」として描かなければならない存在だった、ということだ。
― ― ―
作中でエンツォや愛人、マセラティたちがオペラを観劇するシーンがある。
仕組みはよくわからないが(笑)、窓からラウラや老母にもその音が聴こえている設定らしく、全員が過去を回想し、過ぎ去りし「良き日」をフラッシュバックする。
かかっているオペラは『椿姫』で、ふたりが歌っているアリアは「パリを離れて」。
第三幕で余命いくばくもないヴィオレッタに、アルフレードが一緒に田舎暮らしをしようと持ちかけ、「きっと身体もよくなるわ」とヴィオレッタも喜びに満ちて返すというシーンだ。この直後にヴィオレッタは倒れて、ヴァルモンの訪問とアルフレードとの最後の別れを経て、帰らぬ人となる。
死病に取りつかれたヴィオレッタは、フェラーリ家の人々にいやおうなく、亡くなって間もないディーノのことを想起させるだろうし、「パリを離れた田舎の生活」は、エンツォと愛人には第二の秘められた家庭のことを考えさせるだろう。
そもそも、マイケル・マンは、「エンツォの人生はオペラのようだ」と述べている。
家族の愛憎。浮気と婚外子と二つの家庭。野望と苦難。どこか作為的で無駄にドラマティックな人生。たしかに、フェラーリの生涯はなんとなくオペラくさい。
そして、モデナの街は、フェラーリの街であると同時に、オペラの街でもある。
『フェラーリ』の映画にとって、このオペラに載せてそれぞれの「幸せだった過去」が去来する演出は、実に気の利いた仕掛けだったといえる。
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●基本、僕はマイケル・マンという監督を心から信頼しているので、作品の出来をうたがうことはなかったが、冒頭の記者との気の利いたやりとりと、床屋の軽妙なリアクションで、映画のクオリティは疑う余地のないものとなった。やっぱりうまいよ、この脚本!
●アダム・ドライヴァーは、『ハウス・オブ・グッチ』に引き続き、似非イタリア人(ただし実在する人物)を好演。前作のマウリツィオとはまるで別人といっていいエンツォ・フェラーリを、真実味をもって演じあげた。10歳以上年上のエンツォにメイクと演技で寄せながらも、無理な老け役になっていないのがいいところだ。
●ペネロペ・クルスは、僕が映画を真剣に観始めた30年前の時点ですでにデビューしていて、50歳になる今も、その外見がほとんど変わっていないのは驚愕に値する。
今回は「わざと老けている感じ」で演じていたが、浮気夫を「詰める」迫力は、さすがのキャリアを感じさせる。
●マイケル・マンは、もともと熱狂的なフェラーリ・マニアで、カーレーサー経験もある筋金入りのカーキチ。2019年に大作『フォードvsフェラーリ』を製作したにもかかわらず、それに飽き足りず、本作を撮り上げてみせたというわけだ。
ちなみに、エンドクレジットを観ていて驚愕したのは、プロデューサーの異常な人数!!
プロデューサーだけで12人、エグゼクティブプロデューサーも同数の12人いる(笑)。
構想30年のあいだに、関係者が鼠算式に増えていったのか。様子をぜひ知りたいものだ。
●脚本のトロイ・ケネディ・マーティンは、映画化が難航しているあいだに、2009年に逝去。もともと監督を務める予定だった故・シドニー・ポラックとともに本作を捧げられている。そうか、トロイ・ケネディ・マーティンって、あの怪作&快作『戦略大作戦』の脚本家なのね!
●アルフォンソ・デ・ポルターゴの事故シーンだけ、いきなりルチオ・フルチやデオダードみたいな、イタリア残酷ホラー風演出&特撮になってて笑う。最高。
●ちなみに、僕は車のない家庭に育ち、自身も免許を持たず、今も車のない生活を送っている究極の車音痴で、この作品の「車」愛をきちんと理解できているとは、とても思えない。
結構な齢になるまで「月極」を「げっきょく」と呼び、セダンを車種名だと思ってたくらいですから(笑)。とはいえ、学生の頃はまさにフジテレビのF1中継が花盛りで、よくわからないなりに、セナとマンセル、プロストのデッドヒートに胸を熱くしたものだし、セナの死には衝撃を受けたものだった。T-SQUAREの音楽とともに、F1は深夜放送に耽溺していた青春の一頁として、僕の胸に深く焼き付けられている。
というわけで、大画面で展開するミッレミリアの再現映像には、やはりアドレナリンがドバドバ出た。
カーレースのド迫力の緊迫感と、牧歌的なイタリアの農村風景の取り合わせ!
なんて素晴らしい。
まあ、車音痴ゆえに、フェラーリとマセラティの車が「両方赤い」と途中まで気づいていなくて、「なんで味方同士でこの人たち競り合ってるんだろう?」とかぼんやり考えていたことは内緒だが……。
●最後に。映画.comのプロコメントで、アメリカ人が英語でイタリアを舞台とする映画を撮ったことを非難するようなことが書いてあって、久々にムカついた。ポリコレ脳ここにきわまれり。この映画の興収が悪いこととそれは1ミクロンも関係ないよ。
フェラーリ創設者の私生活
『フォードvsフェラーリ』を見たのは、もう4年前か。『フェラーリ』というタイトルから、今度はフェラーリ側の、企業としての開発物、今NHKでまたやっている、プロジェクトX的なものをなんとなく想像してこの映画を見に行った。
実際に見た印象は、想像とは全く違ったもので、エンツォ・フェラーリという、フェラーリ創業者の私生活を大きく取り上げた作品だった。
冒頭のシーン、エンツォ(アダム・ドライバー)が、ベッドから抜け出して、車に乗って出ていく際、押しがけするのは、エンジン音で、寝ていた女性を目覚めさせない配慮だろう。てっきり、妻のもとから会社に向かったのかと思いきや、愛人宅だった、というのはその後にすぐ分かる。
会社では、妻のラウラ(ペネロペ・クルス)からピストルをぶっぱなされたり、不穏というか不仲なのも語るまでもない。息子ディーノ(後に車の名前にもなる)が亡くなったことも墓参りで表現される。説明的なセリフは無く、映像で見せる表現方法は私は好きなのでこれは特に問題は無い。
愛人宅に、会社、墓地にいたるまで、イタリアの風景が、60~70年代のヨーロッパの映画の様な雰囲気で、印象深く、美しい。
ただし、登場人物の配役に、イタリア人は居ないのだが。全編英語で話は進む。ローマ・カトリック教会の厳かな雰囲気などは良いのだが、そこでの会話が英語なのは、アメリカ制作なので仕方ないのか。
エンツォ・フェラーリの、二重生活(妻と、愛人)に、フェラーリの社長としての顔で、三重の生活が切り替わりながら話が進む。
この切り替わりで、三つの話が同時進行しているものの、一本筋の通ったメインストーリーがあるわけでもない。エンツォは、「車を売るためにレースをしているのではない、レースをするために車を売っているんだ」と、会社の利益を上げるために、市販車を増産するように言われてそう返すが、そのレースは、ドライバーに死ぬ気で走れ、と、ブラック企業の社長(まさにそうだが)のようなセリフを吐くばかりで、あんまり車やレースを愛しているようには私には見えない。
クライマックスのイタリア全土を縦断する公道レース『ミッレミリア』でも、それに向けてプロジェクトをスタートさせて、車を開発、それに合わせたドライバーの訓練、等と言ったシーンも特にない。クライマックスもレースの前日くらいから始まる。このレース、悲惨な最期が待ち受けているのだが、これを予期しているかのようなレース前のドライバーの雰囲気は、まるで戦争に出征する兵士のごとき悲壮さが漂っている。
レースシーンは、当時のレーシングカーを再現し、レース場も、公道レースも、雰囲気はとても良い。この映画は映像美はとても素晴らしいもので、映像と雰囲気だけは往年の傑作映画のようだ。
叙事詩だと思って読み始めたら、抒情詩だった、という感じだが、監督が作りたかったものはこういうものだったのだろうか。
ちょっと、私の好みとは違っていた。
フェラーリ隆盛の原点にある人間性
見終わった後、これほど物足りなさを感じる映画は少ないだろう。ただ、つならない映画ではない。
というのも、自動車レースや自動車そのものの魅力に引きづられて、フェラーリの「経営」と「ファミリー」という物語の主軸が理解できず、結末の呆気なさに驚いたというのが実情である。
同じように感じた人も多いのではないだろうか。
どんな企業でも経営危機が訪れるし、それを乗り越えて企業は社会の公器に成長する。
戦後、フェラーリは、レースの大事故を契機に絶対絶滅の経営危機に陥る。それを救ったのがファミリーであり、妻の善意?である。しかし渦中の妻は憎しみにまみれ、会社を潰しても気が晴れない状況をあったことを考えると、その振る舞いは奇跡としかいいようがなく、それ以上に不思議な人間の精神が現れている。
フェラーリの隆盛の原点がここにあると考えると、時間差でこの映画が面白くなってくる。
エンツォが設立した企業フェラーリは、1957年曲がり角に差し掛かっていた。
最初、あきれた。
イタリアの華といわれるフェラーリの創立者、英語は話せなかったはずのエンツォの映画が、なぜ英語版なのか。確かに出演者の中には、イタリア語は無理だろうなと思わせる俳優も多く、出来はよくなかったかもしれないが。吹き替えだってできたろうし、狂言回しのオペラ「La traviata(椿姫)」だって、もっと活きたはず。英語は基本、ビジネスのための実用語。イタリア語版で見たかった。
エンツォは、たぐい稀な長身のドンファン。
根底には、イタリア人気質があるのだろうが、とても陽気とは言えない。
際立って優れた生命力(長命が何よりの証拠)。
プレスの件も人任せにせず、自分で断りをいれるなど、高圧的。
チームリーダーとして、ドライバーにレース中、弱気を許さない、しかし、これが事故の遠因か。
経営者の顔では、メディアをも利用する一種の勝負感があった。
一方、正妻ラウラには、金庫番としての判断力があり、企業の内部で同僚たちの信頼を受けていたことが見て取れる。
一つだけ、はっきりした救いがあった。
ラウラとの子、ディーノ。難病の筋ジストロフィーだったようだ。10歳台までは、後継者としての教育を受けていたが、20歳台で寝たきりになり腎障害を併発し、24歳で亡くなった。エンツォは、医療としてできるだけことはやったのだろう。亡くなってからも、毎朝、墓で祈り、語りかける。普通の人間に、できることではない。愛人ができて、子(ピエロ)をもうけたのも、ディーノの難病の症状が目立ってきた頃だろう。ただし、ピエロは12歳のはずだが、出てきた時、8歳くらいにしか見えなかった。
エンツォは、私生活は大事にした上で、徹底的に仕事に打ち込むタイプだった。1957年の公道レース、ミッレミリアで使われた12気筒のフロント・エンジンを積んだ真っ赤なフェラーリ(315S, 335S)は、彼にしかできなかったと思う。予告編では、ちょっと前の8気筒が出てきたが。
幾つか、気になったこと:
やはり、事故には一つのパターンがあった。女性がからむので、言いにくいことだけど。
あの頃のレーシングカーは、ほぼ手づくりで、必ずしも機械一辺倒ではなく、人間の道具だった。クルマに血が通っているから、ロードレースでも観衆が道に出てくる。今でも、WRCだと溢れるくらい、ちょうど自転車のツール・ド・フランスみたいに。
レースの話でなくメーカー経営者の話
奥さん、息子を病気で亡くした上に、夫に数年間も愛人とその息子の存在を隠され、裏切られていたことを知る。会社資産を渡す代わりに私の生きてる間は認知させないとの言葉。妻としてのプライドから当然だろう。会社の経営が傾き、一発逆転を狙い過酷なレースに参加するも、レーサーにブレーキ踏むな等とプレッシャーをかけすぎた。レーサーは大事故を起こし死亡。車は観客9人を轢き殺し大破してしまう。この描写がグロすぎてショックだった。その後、字幕によると事故の責任は負わなかったようだが、レーサーを追い込んだ責任はこの経営者にあると思った。
人間エンツォの半生
感想
映画本編ではストーリーが具体的に描かれない話も多く、若い頃の描写はイメージ映像で処理されており、作品の出来としては中途半端でモータースポーツエンターテイメントに徹する事が出来ていないと感じた。人間模様かアクションどちらかに話の軸を絞った方が良かったと感じる。
余談ではあるが、あらためてエンツォフェラーリの半生を映画のストーリーを含めて時系列に並べてみる。(年齢表示はエンツォの年齢)
本名:エンツォ・アンセルモ・ジュゼッペ・マリア
・フェラーリ
イタリア人レーシングドライバー。スピードマニア。スクーデリア代表。自動車会社経営者。尊称コンメンダトーレ。オールドマン。母親違いの2人の息子の父親。
1918年 20歳
フィアット社のテストドライバー選抜テストを受けるが、不合格となる。この間も国内レースをロードして周る。
1920年 22歳
アルファロメオのレーシングテストドライバー。後、幾つかの国内レースで優勝。ワークスの正式レーシングドライバーとなる。
1928年 30歳
コンメンダトーレ(勲三等イタリア共和国功労勲章)を叙勲される。体調不良によりレーサーとしての資質に限界を感じる。
1929年 31歳
アルファロメオのセミワークスチームとしてスクーデリア・フェラーリ創設。エンジニアとして再始動する。
1930年 32歳
ワークスでのレース初勝利。
1932年 34歳
最初の息子アルフレード・フェラーリ誕生をきっかけに地元モデナでアルファロメオの販売代理店を共同経営で始める。
1933年 35歳
アルファロメオよりワークスチームの全面委託を受ける。
1939年 36歳
経営陣との対立でアルファロメオを退社。協定上5年間はフェラーリの冠は使用出来なくなるも、会社名を変えてレースカーを開発製作する。
1940年 37歳
オリジナルカー「815」を製作。その年のミッレミリア参戦。
1940年6月から1943年8月まで第二次世界大戦へのイタリア参戦により、ミッレミリア及び国内レース開催は中断する。
1945年 47歳
不倫関係にあった旧貴族の娘リーナ・アデラルディとの間にピエロ・ラルディ・フェラーリ誕生。リーナはピエロが小学校入学の頃までにはエンツォに認知してもらいフェラーリ姓を名乗りたかったが、妻ラウラは認知を許さず、1978年にラウラが死去するまでフェラーリを名乗ることが出来なかった。
(ピエロは現フェラーリ社の副社長である。)
1947年 49歳
妻ラウラと共同出資でフェラーリ社創業。シャーシとモータースポーツに特化した高性能エンジンの開発を再開する。ラウラは気性が荒く感情が先立つ性格。長男アルフレード・フェラーリは前途有望なフェラーリ社の新進エンジニアであった。
1950年 52歳
フォーミュラーワン開始と同時に参戦。その他、ル・マン24時間耐久レース、ミッテミリアに継続参戦する。50年代から高性能エンジンとシャーシをレースに続々と投入し世界的に輝かしい結果を残す。レースマシンをデチューンした高級スポーツカーの販売も開始する。市販車エンジン開発は主にアルフレード・フェラーリが担当していた。
1952年 54歳
ラウラがリーナとの不倫関係を知ることとなり、同時に庶子(ピエロ・フェラーリ)がいる事も発覚。離婚を決意請求する。話し合いの末、①庶子の認知はラウラ自身が死去するまで認めない。②ラウラが権利を有するフェラーリ社の全資産の半分をドル建で現金化した当時の金額で約50万ドルを分与する。というものであった。離婚の成立と同時に資産分割相当額の現金を支払う事をエンツォは了承するが、具体的な請求期日に関しては未定とし、赤字である会社の経営状態を考慮して欲しい旨をラウラに懇願し、この条件をラウラも了承する。
1956年 58歳
アルフレード・フェラーリ筋ジストロフィーを発症。併発した腎臓疾患のため24歳の若さで逝去。エンツォはスクーデリアと会社の跡取りとして将来を嘱望していた為、その死を非常に悲しみ、自身が亡くなるまで墓参りに日参したという。またピエロを墓参りに連れて行く事もあったという。
1957年 59歳
ミッレミリア、イタリア・ロンバルディア州カヴリアーナで死傷者9名以上(フェラーリ正式ドライバーのアルフォンソ・ポルターゴの死亡を含む)を出す大事故が発生。死亡者に子供が含まれていたため訴訟問題となる。この時献身的にエンツォに付き添うリーナの姿をラウラがテレビニュースで発見。嫉妬の心に火が着き資産分割請求期日を事故発生年内と記入し請求。期限内に50万ドルを現金で支払う事になる。事故調査の結果、事故の原因がドライバーの操縦ミスではなく、道路上の落下物によりタイヤがバーストした事による避けようの無い不測の事故であった事が判明。エンツォ自身が不起訴となった為、その年のミッレミリア優勝はフェラーリとなった。多額の訴訟費用支払を免れ、ラウラへの50万ドルは支払われ会社の全権利を取得、離婚が成立する。ラウラの行動は積年の恨みの結果、決してエンツォを救済する目的ではなかったと映画本編
の中では描かれたように感じる。真相は深い闇の中であり現在では語れる者も少ない。ミッレミリアはこの年を最後に開催中止となっている。
本編はここで終焉を迎えるが、その後60年代後半頃に新性能レーシングカー開発に拍車が掛り、会社経営が再び傾きかけた時にアメリカのフォードに買収されそうになるも最終的にはイタリア人の職人技で保っている自動車製造技術の国外流出を防ぐという大名目の元、エンツォとは因縁深い関わりのあるフィアットが買収を決定し傘下に治める事になるなど、話題性には事欠かなかった。エンツォはカーエンジニアに専念してモータースポーツ界は元より自動車業界において隠然たる影響力を持ち続け、事実上のフィクサーとして君臨した。人々はオールドマンと尊称し敬愛した。
⭐️3.5
エンツォ•フェラーリ
妻、愛人、会社、レースとエンツォを取り巻いていたエピソードを凝縮して作られているが…
それぞれのエピソード自体は良いし役者さんの演技も良いのだけど、イマイチそれが作品としてまとまってたようには思えない
見ていて映画としての盛り上がりはどこなんだ?って疑問、クラッシュシーンは迫力があるがうーん
現実としてフェラーリ社が大きくなっているから問題は無いんだけど、映画の中のエンツォの功績ってレースチームを見離さずに激励している部分だけでは?
不穏になってる部分の多くは、エンツォ自身で巻いた種だから上手くいった感は無い
レースのシーンは迫力
レース、特に事故のシーンはさすがの迫力。
すごい人だったんだろうが、奥さんが可哀想。
イタリアの話を英語でやるのは違和感あるな。
カイロレンの老けメイク演技やペネロペクルスの演技は達者だなと思うけれど・・・
フェラーリには興味はありませんでしたが
2019年の「フォードvsフェラーリ」が面白かった事と
マイケル・マン監督作という理由で
「フェラーリ」字幕版を鑑賞してきました。
以下ネタバレ
「フォードvsフェラーリ」のような
レースシーンが盛り上がる映画かと期待しましたが、
「フェラーリ」のレースシーンは何度も見たいレース映画ではなく、
ドラマパートも金持ちの不倫に興味がないため、
カイロレンの老けメイク演技やペネロペクルスの高齢演技も
役者は達者だなと思うけれど、
「フォードvsフェラーリ」のような
レースシーンのテンションを上げるためのドラマ展開ではなく、
ちょっと期待外れな映画でした。
イタリアファッションや
1957年の金持ちのライフスタイル描写は
映像としては、見どころがありましたが、
「フォードvsフェラーリ」のような
エンジン音と音楽でテンションを上げたかった観客としては、
あまり楽しい映画ではなく、
マイケル・マン監督の「ヒート」の銃撃戦のような
静寂な緊張感のあるレースが見たかったな・・・と思う映画でした。
「ハウス・オブ・グッチ」を見たときにも思いましたが、
イメージで金儲けしているブランドならば、
経営者をモデルにした映画は、フェラーリのイメージ向上にはならないのでは・・・と
いらぬ心配をしたりする映画でもありました。
期待度○鑑賞後の満足度◎ 車(乗ってますけど)に疎いのでフェラーリ社の車がどれ程名車なのか知らないけれど、名車であれば本作はそれに恥じないくらいの堂々とした出来。
①マイケル・マンの演出がこんなに上手いとは思わなかった。冒頭から佳作になるのではという予感。
始まって十数分しか経たないのに、説明的な台詞やモノローグもなしに、映画の中の状況や背景が分かる話術の巧さにも感心した。
②アダム・ドライバーは同じイタリア人役でも無駄に長いだけのグッチ映画のグッチ役よりずっと板についている役作り。
しかし、それ以上に感心するのはペネロペ・クルスの名演。その演技の安定感はもとより、(ラウラとしての)ラストシーンでは、フェラーリとビジネスパートナーとしての意地と共に、フェラーリの妻であり(フェラーリ家の後継ぎになる筈だった)亡き息子の母親として女の意地を見事に演じている。
シャーリーン・ウッドリーはイタリア女性に見えないところが難だが、ダークなペネロペ・クルスとは良いコントラストにはなっている。
しかし、少し見ない間にすっかり大人の女性になりましたね。
パトリック・デンプシーの出演にはビックリした。
③本作の忘れ難いアクセントとなっているパンクして跳ね上がったフェラーリ社の車が沿道の人々をなぎ倒すシーンの迫力。どんな風に撮ったのだろう。
鳥肌が立ちました。
*本作の内容とは全然関係ないですけど、車は人を殺せる機械でもあると分かって乗ってる人はどのくらいいるのだろう。
ともかく安全運転を!
名前負け
映画タイトルが”フェラーリ”ということで、
同社の栄華の歴史とか、
ライバルとの抜きつ抜かれつのレースシーンとか、
そういうものを期待していたけど、
開幕からエンツォのクズっぷりが全開で、
自分はいったい何を見させられてるんだろうというのが
第一印象。
たしかにエンツォ・フェラーリは現代の自動車産業の発展や
モータスポーツの発展に貢献した人物であることは疑いのない事実であるが、
だからといって、時代は違うとはいえ、あのような生き方や
家族観みたいなものは、今の時代では到底容認はできないことが、
鑑賞中に終始感じた不快感であった。
ディーノ・フェラーリが若くして亡くなり、
その息子の名前からフェラーリ・ディーノという名がつけられた車が存在することは、
車にあまり詳しくない自分でも知っている美談であるが、
その裏側にあるドロドロしたものはあまり知られておらず、
そこに切り込んだ製作サイドの勇気には経緯を表したい。
この内容の映画の製作と公開をOKしたF社の判断に★1
往年の名車が見られたことに★0.5
そして制作側の思い切りに★0.5
それ以上は無理です。
星はいつも三つです。
車とかレースに詳しくなくても大丈夫。
メカニカルな分野での挑戦とかレースの勝敗にフォーカスしたドラマではなく、家族の愛憎劇です。
主演のアダム・ドライバーの、冷静で狡猾、熱い感情を封じ込めた主人公像がとにかく魅力的。
冒頭、厳かなミサに出席しながらも、好敵手のマセラッティのテストドライブの結果を知ろうと合図のピストルの音でストップウオッチを押すフェラーリ陣営の面々。よい導入です。
また教会のミサや果樹園やオペラハウスなど、イタリアの町モデナでの生活が織り込まれ、スポーツカー作りの手作り感と相まって「イタリアだなあ」と思わされます。
どうせなら英語ではなくイタリア語で作って欲しかった映画です。
またあのペネロペ・クルーズの
役作りも必見です。私は「これがペネロペ……うそだろ……」と心のなかで絶句しました。
フェラーリの不仲な妻のペネロペ、乗っている車は黄色のアルファ・ロメオというところもにくい設定でした。
忙しい人
なんかせかせかと早足で歩く人だったのだなぁと思う。頭の回転が早いのか、直感を信じているのかは知らないけれど。
レーサーを引退してもレース中のような人だった。迷う隙がないというか、迷ってる内に死んでしまうというか…そんなレーサーの習性をずっと捨てきれない人。
創業者の話だった。
エンツォ・フェラーリ
…全く興味がない。が、レースとかなら楽しめるのかもと思って鑑賞。レースもそこそこあるけれど、家族の話がメインのようだ。
困った…ホントにどうでもいい。
現副会長のピエロ氏が絡んでるので、その母君を悪者にも出来ないだろう事は分からなくはないのだけれど、それでも前妻を悪者にするのもどうかと。
気性は荒いのかもしれないけれど、フェラーリ社を起業したパートナーであるし、エンツォへの理解もしてくれてるように見える。
透けて見えてくるのは、エンツォの身勝手さだった。板挟みになってる風ではあるけれど、それよりも彼が優先している事があるだけのようにも見える。
「レースに勝つ」
ここの比重が大きいので、エンツォ・フェラーリの人生において、家族なぞどれほどの比重があったのだろうか?
物語はずっと座り心地が悪くて、なんなら結構強引な解釈でエンタメ的に捻じ曲げてるとこも多いんじゃないかと思えてしまう。
ちょいちょい寝てたから、いつも顰めっ面のアダム・ドライバーしか印象にないんだけれど、レースの事故シーンでは目が覚めた。
悲惨な事故ではあったのだけど、悲惨の表現がしっくりこずで…ドライバーの顔が半分無くなってる描写で、何を伝えようとしたんだろうか?
たぶん、今でも観客を巻き込む事故は後を絶たずだと思うのだけど。ちょっと考えりゃ分かるよな?時速100キロを超えて疾走する鉄の塊が手を伸ばせば当たる距離にいるなんて、どれほど危険な状況か。
わかんないのかな?
どんな盲信をしてんのかな?
まぁ、いいけど。
とまぁ、あんまいい感想では無かったので配信が始まったら、また見ようかなと思う。
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