フェラーリのレビュー・感想・評価
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フェラーリ隆盛の原点にある人間性
見終わった後、これほど物足りなさを感じる映画は少ないだろう。ただ、つならない映画ではない。
というのも、自動車レースや自動車そのものの魅力に引きづられて、フェラーリの「経営」と「ファミリー」という物語の主軸が理解できず、結末の呆気なさに驚いたというのが実情である。
同じように感じた人も多いのではないだろうか。
どんな企業でも経営危機が訪れるし、それを乗り越えて企業は社会の公器に成長する。
戦後、フェラーリは、レースの大事故を契機に絶対絶滅の経営危機に陥る。それを救ったのがファミリーであり、妻の善意?である。しかし渦中の妻は憎しみにまみれ、会社を潰しても気が晴れない状況をあったことを考えると、その振る舞いは奇跡としかいいようがなく、それ以上に不思議な人間の精神が現れている。
フェラーリの隆盛の原点がここにあると考えると、時間差でこの映画が面白くなってくる。
興味深いストーリー
フェラーリなんて縁のない港区な車だけど倒産の危機を乗り越えて今があるのだと知った。もっと掘り下げてくれても良いくらい興味深いストーリーだった。本作の後、今に至るまでの流れも調べたくなった。フェラーリ・ディーノって息子の名前から来たのかとか興味が湧いてきた。アダム・ドライバー良かったわ。
天地を揺るがすほどのエグゾースト音でも吹き飛ばせないドロドロお家騒動…
「ヒート」でドはまりしたマイケル・マン監督作品ということと、カーレースものはやはり劇場でということで公開中に鑑賞。 期待していたエグゾースト音爆裂レースシーン中心の展開ではなかったものの、アダム・ドライバーとペネロペ・クルスが繰り広げるドロドロのお家騒動もおじさん世代にはそれなりに盛り上がれた。 その中で少し残念だったのは、アダム・ドライバーのフェラーリ氏好演はとてもカリスマ的で良かったが59歳を演じるには少々ギャップを感じることと、イタリアの伊達を表現するには使用言語が一貫して英語だったことはもうひとつ雰囲気が出しきれなかったのではと感じるところだ。 いずれにしても、家族のゴタゴタやレースの過酷さ等々色々ごっちゃ混ぜの展開だが、役者陣の熱演や迫力ある影像と音響により終始目が離せない作品ではあったかな。
イタリア語で演じて欲しい気もする
フェラーリの創始者エンツォの実話をベースに1957年が最後の開催となったミッレミリアという耐久レースをクライマックスとするわずか3か月を過不足なく描いた脚本が素晴らしくアダム・ドライバーと奥さん役のペネロペ・クルスがどちらも単純な芝居では到底表現できぬシーンごとに人間がまるで変わるかのようなコンプレックスを持った多面性を見事に演じておりこの二人が画面に登場するだけでヒリヒリするほど見ごたえがあった。4年前公開の1966年のル・マンを描いた「フォードvsフェラーリ」もすごく面白かったけれどそこに至る絶対王者フェラーリがいかに狂気を孕んだ脆く狡く危うい男であったかを重厚に描く本作は全く違う方向に突き抜けていてまぎれもない傑作。名画座で2本立てのプログラムを組んで欲しいものだ。
フェラーリ好きになりました。
恥ずかしながら、エンドロールまで主人公がアダム・ドライバーとはわかりませんでした。フェラーリというかイタリアのモータースポーツの歴史がわかる映画と思いました。 やはりモータースポーツが根付いているイタリアは現在のF1で強いのも当たり前と感じました。ポルシェファンでしたが、その次位にフェラーリが好きになりました。
演出によってはダサい人生にも撮れる。
スピード感溢れる爆走レーシングカー! よりも、 スピード感溢れる爆走レーシングカー! を特に応援するわけでもなく ビジネスとして管理し 女がらみの問題に右往左往される男の人生。 これ演出次第ではダサくもカッコ良くも撮れる。 コメディでもいける。 凄い人生なのは確かだけど自業自得な物語。 でもあのシーンは凄え。
イタリア男ってやつは
昔から車はポルシェのエンジン音が好きなんです💜でもこの映画観たらフェラーリも好きになるかなー、と思って観たけど、うん、思ってた感じとは違ってた。 その分が減点……でもこの映画自体は悪くない。あたしの勝手な思い込み。 アダム・ドライバー、なんでこんな終始老け役を引き受けたのか……謎😂 ヒステリックなペネロペさんが観たい方にはオススメです!
ピエロ君は副会長
アダム・ドライバーがドライバーつながりで(違う)エンツォ・フェラーリという役どころ。作劇自体は巨匠マイケル・マンだけど、話はエンツォの人生の一時期だけを切り取った内容で、妻と愛人と会社経営とレースと…と登場人物も多めな上に、終盤の惨劇を除けば展開は地味で、エンツォへの思い入れがないと興味を持続するのが難しい感じ。エンツォがひたすら追い詰められていく話でカタルシスが得られることもなく…。 当時のレーシングカーでのミッレミリアはルパン三世を思い出させるが、最近は二輪レースのモトGPではバイクやライダーに搭載した小型カメラからの中継映像もあるぐらいなので、いくら金をかけた撮影でもクラシックな趣を楽しむ以外はリアルの迫力には劣っちゃう印象。 感情を露わにしない主人公に対して、鋭い眼差しで突き刺し捲し立ててくるペネロペの悪妻?ぶり(つーか悪いのは100%夫)はよかった。最後はおいしいところ持ってくし。「ガンを返して」って、そっちかよ!なところは笑ってしまったが、アダム・ドライバーは最後の決闘裁判でもおんなじ体位だったので、高身長だと撮影上の必然からそうなるのだろうか(どうでもいい考察)。
エンツォが設立した企業フェラーリは、1957年曲がり角に差し掛かっていた。
最初、あきれた。
イタリアの華といわれるフェラーリの創立者、英語は話せなかったはずのエンツォの映画が、なぜ英語版なのか。確かに出演者の中には、イタリア語は無理だろうなと思わせる俳優も多く、出来はよくなかったかもしれないが。吹き替えだってできたろうし、狂言回しのオペラ「La traviata(椿姫)」だって、もっと活きたはず。英語は基本、ビジネスのための実用語。イタリア語版で見たかった。
エンツォは、たぐい稀な長身のドンファン。
根底には、イタリア人気質があるのだろうが、とても陽気とは言えない。
際立って優れた生命力(長命が何よりの証拠)。
プレスの件も人任せにせず、自分で断りをいれるなど、高圧的。
チームリーダーとして、ドライバーにレース中、弱気を許さない、しかし、これが事故の遠因か。
経営者の顔では、メディアをも利用する一種の勝負感があった。
一方、正妻ラウラには、金庫番としての判断力があり、企業の内部で同僚たちの信頼を受けていたことが見て取れる。
一つだけ、はっきりした救いがあった。
ラウラとの子、ディーノ。難病の筋ジストロフィーだったようだ。10歳台までは、後継者としての教育を受けていたが、20歳台で寝たきりになり腎障害を併発し、24歳で亡くなった。エンツォは、医療としてできるだけことはやったのだろう。亡くなってからも、毎朝、墓で祈り、語りかける。普通の人間に、できることではない。愛人ができて、子(ピエロ)をもうけたのも、ディーノの難病の症状が目立ってきた頃だろう。ただし、ピエロは12歳のはずだが、出てきた時、8歳くらいにしか見えなかった。
エンツォは、私生活は大事にした上で、徹底的に仕事に打ち込むタイプだった。1957年の公道レース、ミッレミリアで使われた12気筒のフロント・エンジンを積んだ真っ赤なフェラーリ(315S, 335S)は、彼にしかできなかったと思う。予告編では、ちょっと前の8気筒が出てきたが。
幾つか、気になったこと:
やはり、事故には一つのパターンがあった。女性がからむので、言いにくいことだけど。
あの頃のレーシングカーは、ほぼ手づくりで、必ずしも機械一辺倒ではなく、人間の道具だった。クルマに血が通っているから、ロードレースでも観衆が道に出てくる。今でも、WRCだと溢れるくらい、ちょうど自転車のツール・ド・フランスみたいに。
清々しいまでにつまらない
期待ハズレ。全然面白くない。ここまで面白くないと逆に気持ちいいくらいです。 説明的にしていないのはいいけれど、そのぶんストーリーがわかりにくくなっていた——等々、「何故こんなにつまらないのか?」という視点で本作を分析することは、良い映画・面白い映画づくりを目指す上でとても有益な勉強になると思います。 自らの作品を“反面教師”として、後進の研究のために提供したマイケル・マン監督の器の大きさに感銘を受けました。はい。
レースの話でなくメーカー経営者の話
奥さん、息子を病気で亡くした上に、夫に数年間も愛人とその息子の存在を隠され、裏切られていたことを知る。会社資産を渡す代わりに私の生きてる間は認知させないとの言葉。妻としてのプライドから当然だろう。会社の経営が傾き、一発逆転を狙い過酷なレースに参加するも、レーサーにブレーキ踏むな等とプレッシャーをかけすぎた。レーサーは大事故を起こし死亡。車は観客9人を轢き殺し大破してしまう。この描写がグロすぎてショックだった。その後、字幕によると事故の責任は負わなかったようだが、レーサーを追い込んだ責任はこの経営者にあると思った。
20231226 8位
8位は、第80回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門に出品された、マイケル・マン監督作「Ferrari(原題)」(Neon Rated)。元レースドライバーのエンツォ・フェラーリと、妻のローラが10年前にゼロから築き上げた自動車メーカー、フェラーリ社が、倒産の危機に陥り、イタリアを横断するレース「ミッレミリア」に全てを賭けるさまを描きました。アダム・ドライバーがエンツォ、ペネロペ・クルスがローラを演じ、夫婦役
レースシーンとペネロペ・クルスの迫力に圧倒される
映像も音楽も演技も超一級。充分堪能できた。 それでも胸に迫ってくるものがないのはなぜだろう。 エンツォ・フェラーリの一代期ではなく、波乱の一時期に焦点をあてた作品。 フェラーリが好きかどうか、レースが好きかどうか。関心があるかどうかで、楽しめるかどうかが分かれる。 (関心のない人は観に行かないか。フェラーリ好きの芸能人にプロモーションさせたのは失敗だと思う) 「グッチ」に続いてイタリア舞台の英語劇。 イタリアの人はどう思うんでしょう。イタリア人はイタリア人俳優が演じなければ、なんて言ってたら「キングダム」どうするんだって話しになるけど。 ハリウッドの作品をずっと観せられてきたからあまり気にはならない。 公開される作品が少ないからわかんないけど、最近のイタリアやフランス映画、俳優さんパッとしない人ばっかりだから仕方ないのかなぁ。(以前のように、フランコ・ネロ、ジャンカルロ・ジャンニーニやアラン・ドロン、フィリップ・ノワレ、ジャン・レノみたいに華のある魅力的な俳優さんががいない気がする)
事故のシーンが
強烈だ 死とレース 浮気に怒ったエンツォの妻がピストルを撃つシーンがあったが、彼にはいつも死の影が過っている フェラーリの人生を描いただけの映画だけど、美術、衣装の素晴らしさで見応えあり 女性を描いた映画でもある
ペネロペ・クルス大好き
アダム・ドライバーとペネロペ・クルスの別格の存在感に加えて、身体を使った心理表現の精度の高さに度肝を抜かれた。 人生は複雑だけど、フェラーリという人は決して人の命を軽く考える人間ではなかったということ、妻は精神が崩壊しながらも、冷静で気高い女性だということがヒリヒリと伝わってきた。 ビジネスの成功物語や男たちの友情物語に、最近はあまり興味がない私には、本作のこの感じ、すごく面白かった。 赤の色合いや、輝き、車のことはよくわからないけど細部に美意識が宿っていたように思う。 外部の資本に頼りながら、自分の美意識を曲げずに貫くという意味で、映画作りとレーシングチームは共通点があるのかもしれない。 マン監督は相変わらずピリッとしていて無駄がない。そしてエネルギーが溢れている。
奥さん役のペネロペ・クルスがカッコいい
前半は奥さんとお妾さんと子供の話。 後半は優勝しないと後がないフェラーリがレースに参戦する話。 レースはいつも危険と隣り合わせ。意外と重い話です。 奥さん役のペネロペ・クルスがカッコいい。
誰もが想像するのは迫力のレースシーンでしょう。けれども誰がフェラーリ姓を継ぐかという家族のドラマの行方がもう一つの本作の見どころとなっているです。そして彼の非情さが大事件を起こすきっかけとなるのです。
マイケル・マン監督がアダム・ドライバーを主演に迎え、イタリア屈指の自動車メーカー・フェラーリ社の創業者エンツォ・フェラーリを描いたドラマ。ブロック・イェーツの著書「エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像」が原作です。但し彼が59歳だった1957年の1年にドラマを絞り込み、その人生を描き出しました。その頃のフェラーリは経営危機に瀕しており、エンツォが起死回生をかけて挑んだレースの真相を描くものです。 ●ストーリー 1947年にフェラーリ社を設立してから10年、彼のマシーンがローマ・グランプリで優勝して以来、世界のレーサーがシートを争う名チームを育成し、地元の名士になっていたエンツォ・フェラーリ(アダム・ドライバー)でしたが、会社は倒産の危機にありました。富裕な顧客に少数生産の高級車を売りこむという商売は広がりを欠いていたためです。そこに資産豊富なフィアットやフォードなど競合他社から目をつけられて買収の危機にも瀕していたのです。 前年に息子ディーノを難病で失うという不幸もあって、妻で会社の共同経営社ラウラ (ペネロペ・クルス)との関係も冷え切っており、彼の心を癒すのは密かに愛する女性リナ(シェイリーン・ウッドリー)と12歳の息子ピエロとのひと時でした。しかしそんなエンツォの秘密もラウラの知るところとなります。 経営危機や私生活のトラブルによってエンツォは全てを失ってしまうという危機感を持つ。そんな時、彼は社運を賭けて、イタリア全土1000マイルを縦断する過酷な公道ロードレース「ミッレミリア」に参戦することを決めます。ポルターゴ、コリンズ、タルッフィと行った情熱的なレーサーたちによってチームが編成され、ついにレースがスタート。だが思いもかけない事態がチームを待ち受けていたのです。 ●解説 タイトルは、もちろんイタリアの自動車メーカーの名ですが、アダム・ドライバー演じる会社の創業者、エンツォ・フェラーリの姓でもあります。 誰もが想像するのは迫力のレースシーンでしょう。確かにそれが本作の見どころの一つにはなっています。但し本作では、レース以外に、実話に基づき彼の経営者としての姿と私生活が描かれますが、誰がフェラーリ姓を継ぐかという家族のドラマの行方がもう一つの本作の見どころとなっているです。いや、レースシーンよりもこちらが真の見どころと言っていいでしょう。 フェラーリ社の共同経営者でもある妻と、愛人。死んだ息子と、日陰者のように生きる息子。「フェラーリ」という姓を巡って展開するドラマが、映画の核心なのです。本筋ではありませんが、金銭のやりとりに必要な署名、レーサーに書いてもらうサインなど、名前を巡るエピソードが何度か繰り返され、印象に残るのも、その証しではないでしょうか。 クライマックスは当時の伝説的レース「ミッレミリア」という公道レースのシーン。これが驚くほどの臨場感をもって展開していきます。まだレーシングスーツではなく革ジャンにジーンズ姿、市街の一部ではコースとの間に柵も無いなど、いまでは考えられないほどに危険に満ちたレースであることもひしひしと伝わってくる映像になっているのです。 本作では当時のままに郊外も町中も猛スピードで駆け抜けます。決死のレースシーンですが、奇をてらわない骨太感はマイケル・マン監督の資質でしょう。ハンドルを握るレーサーを運転席前方からとらえたアングルなどは古典的とも言えます。例えば、昨年公開された「グランツーリスモ」のレースシーンのめまぐるしい映像と比べれば、違いは明らかです。50年代という時代性に即したというよりも、マン映画らしい重厚さの表れと見ました。 多用される手持ちカメラによる撮影は、冒頭の朝、音もなく愛人宅から車を押しがけして走りだす秘めやかな走行から、助手席で構えたカメラでとらえた迫力たっぷりのレースまで、この映画の一つの主役である自動車走行を魅力たっぷりに描きだします。マイケル・マン監督がもっともやりたかったであろう迫真の映像で、観客はイタリアを横断する狂気じみた1千マイルレースの迫力を、これでもかと体感させられることになります。 しかし、ヒロイックな英雄譚となるべきレースは、思いがけぬ悲劇を引き起こします。事故はあまりにも派手なスペクタクルとして描かれるのです。レースを体感させようというマンの意図からは当然再現されるべきかたちですが、事故を起こしたドライバーが宙を舞い、胴体が真ふたつに裂かれる姿や、事故の巻き添えとなる子供を多数含む観客たちが犠牲となるシーンまで、克明に描いてしまうのはほとんど悪趣味の領域にまで到達いないでしょうか。 けれども、それはレースを再現しようとしたときに当然たどりつく結果でもあります。。それはヒーロー物のスペクタクルそのものの限界、はからずも「男たちの時代」の終わりを告げるものというのは大袈裟でしょうか? ●感想 それにしてもマン監督の演出には感嘆しました。渋い陰影のある画面が素晴らしいと思います。ドライバーもいいが、鬼気迫るラウラ役のクルスの演技を引き出したのもマン演出によります。やはり「ピート」「コラテラル」の監督は、単なるアクション映画の監督ではありませんでした。本作での演出は「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラ監督や名匠、マルコ・ペロッキオ監督のイタリアオペラ的な演出を、いぶし銀のごとくシンプルにしたようなものです。アクション演出にだけ長じていたのでは、この映画は撮れなかったことでしょう。 愛人の子ピエロには、よくパパぶりを見せるエンツォですが、母親のリナから息子の将来をどうするのか繰り返し詰問されても、頑として認知はしない徹底ぶりに、なんと非情な恐妻家なんだろうとすっと思っていました。そんなに共同経営者の本妻を怒らせて、高額の慰謝料を請求されて、会社がピンチに陥ることを恐れていたのだろうかと。 けれども当時のイタリアでは離婚は認められておらず動けなかったことほ鑑賞後に知るとなんだか切ない思いになったのです。 それでもエンツォへのパラノイア疑惑は捨てきれません。彼の少年時代のトラウマとして、何らかの人間不信に陥り、技術こそすべてという車に憑かれてしまった異様な人間として本作は描かれていました。 例えば、前のレースで思わずブレーキを踏んでしまい競り負けしてしまったポルターゴにエンツォは、レーサーのあり方をしつこく説教するのです。それはレースに出る以上生きて帰ると思うなという非情でした。 その後訪れるポルターゴの恋人で女優のリンダ・クリスチャンが彼の置き手紙を見て、涙するシーンは印象的。 レース中、「次の停車時にタイヤ交換を!」とかけられた忠告をポルターゴは勝利の焦りから断ってしまいます。エンツォがしつこくプレッシャーを与え続けなかったら、もっと違った結末となっていたことでしょう。
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