「命懸けの戦いに身を投じる将軍と兵士を描く、『ゴッドファーザー』風味の米製イタリア家族劇。」フェラーリ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
命懸けの戦いに身を投じる将軍と兵士を描く、『ゴッドファーザー』風味の米製イタリア家族劇。
想像以上に重厚で、まっとうな、映画らしい映画だった。
観に行って正解だった。
あまりにまっとうな映画なので、しょうじき、あまり語ることがない。
事前に予測していた内容と、違っていたことはたしかだ。
もっとガンガン車を走らせる『栄光のル・マン』みたいな映画かと思っていた。
だが実際は、むしろネオ・リアリズモを意識したかのような、ひりひりする家庭劇だった。
でも、これはこれでちゃんとしていて、地味だが楽しかった。
大衆受けはしないだろうが、ああマイケル・マンはこういう映画が作りたかったんだな、と思った。
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映画として、どうしても比較対象にのぼるのは、『ハウス・オブ・グッチ』かと思う。
両者には、いろいろと共通点がある。
すでに老境にある巨匠監督が、長年の準備を経て撮った映画で、
イタリアを舞台にしながらアメリカ人キャストで固めた映画で、
登場人物はイタリア人だが、イタリア訛りの英語でしゃべってて、
実在するイタリアの大企業の内幕を描くスキャンダラスな題材で、
現在でも存命の登場人物がふつうに出て来ている。
そして、どちらもアダム・ドライヴァーが主演している(笑)。
前に『ハウス・オブ・グッチ』を観たとき真っ先に思ったのは、「なんだこれ、話のあらすじとか細部の演出とか、ほとんど『ゴッドファーザー』とまるで一緒じゃないか(笑)」ということだった。
今回の『フェラーリ』にも、『ゴッドファーザー』の臭気は拭い去り難く漂っている。
主人公は表面上コワモテで、ぶっきらぼうで、男と男のプライドをかけた「抗争」に命をかけていて、しもじものドライヴァーは常に命の危機にさらされている。
彼らにとって「ファミリー」は大切で、後継者を産めるかどうかも重要だ。
家庭に戻れば、企業戦士も優しい父親である。亡くなった息子に対する情愛は特に深い。それでも、会社と、勝利のためになら、いくらでも非情になれる。
要するに、イタリアにおいて「企業」とは「家族」の延長上にあるものであって、その論理は、「マフィア」とそう大きくは変わらない。
『フェラーリ』は、そんなイタリアの家族の在り方と、企業の在り方、そして企業間の威信をかけた抗争の様子を、じっくりと腰を据えて描き出す映画だ。
『ハウス・オブ・グッチ』ほどのグチャグチャの殺し合いにはなっていないにせよ、『フェラーリ』における家庭模様もなかなかにヘヴィーだ。
虚弱児を抱えながら、平然と浮気をして婚外子をつくるエンツォも、エンツォに「兄ではなくてお前が死ねば良かったのに」と呪いをかけ続けるえぐみの強い老母も、息子と共に愛も優しさも幸せも喪って、フェラーリ社のために動き続けるド迫力女房ラウラも、みんなが一筋縄ではいかないクセモノたちである。人を猛烈に傷つけながら、自分も猛烈に傷つき、その代償を求めるかのように、権勢と盛名を永遠に求め続ける「どてらいやつら」。
僕は、こういう連中が決して嫌いじゃないし、
こういうドラマも、嫌いじゃない。
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1950年代のカーレースの世界は、戦場そのものだ。
単にそれは、国家や企業の威信をかけた代理戦争であったとか、技術革新を競い合う戦いの場だったといった、比喩の謂いではない。
本当に、当時のカーレースは、命懸けだったのだ。
本作の舞台となっている1956年は、フェラーリにとって苦難の年だった。
3月には、映画の冒頭で描かれたように、トップ・ドライヴァーのエウジェニオ・カステロッティがテスト走行中のクラッシュで死亡。
5月のミッレミリアでは、本作の終盤で描かれた通りの展開で大事故が起きて、アルフォンソ・デ・ポルターゴとエドモンド・ネルソン、および観客13人が死亡。ミッレミリアはこの事故がきっかけでレース自体が廃止となる。
じゃあ、このときフェラーリの同僚だったドライヴァーたちはその後どうなったのか?
調べてみて、戦慄した。
最後のミッレミリアで優勝したピエロ・タルフィは、奥さんとの約束を守ってこれをもって引退、81歳まで長命を保ったが、ルイジ・ムッソは翌年(1958年)のフランスGPで事故死。
ミッレミリアにも出ていたピーター・コリンズのほうも、同じく1958年、F1ドイツGP中の事故で死亡。
同じくフェラーリの同僚だったマイク・ホーソーンは、コリンズの死にショックを受けて58年に引退しているが、59年に公道上の自動車事故でやはり死亡している(彼は1955年のル・マンで、運転手・観客合わせて86人の死者を出した大事故の当事者でもある)。
さらには、好敵手マセラティのドライヴァーとして登場した二名のうち、スターリング・モスは90歳の天寿をまっとうしたが、本作でも何度も名前の登場するジャン・ベーラは、1959年にドイツのスポーツカーレースで事故死している。
要するに、本作に出てきたドライヴァーで、1960年を超えて生き延びることが出来たのは、タルフィとモスの二人しかいなかったということだ。
一体全体、どれだけ危険なレースやってんだ、こいつら??
ぶっちゃけ、「命が軽すぎる」。
ほとんど、ウクライナの最激戦地に派兵されているようなもんだ。
一瞬の不運が、一瞬のゆるみが、大事故を引き起こし、当時の車(防御システムもシートベルトも何もなかった)で事故るということは、ほぼほぼイコール「死」を意味していた。
まさに、「走る棺桶」である。
それでも、彼らは「戦地」を転々とし、男の誇りをかけて最速を競い合った。
まさにドライヴァーたちは「命を懸けて」闘っていたのである。
率いるエンツォ・フェラーリは、言ってみれば彼ら兵士を率いる「将軍」だ。
「将軍」は死亡事故がおきたとき、、部下と、巻き添えとなった観客たちの死を悼む。
悼みはするが、それが彼の野望と進軍を妨げることは、決してない。
1950年代のカーレースにおいて、一定数のドライヴァーと観客の死は、必然的に計算せざるを得ない「損耗」の一部だ。それは、軍隊で兵士の損耗がついてまわったり、岸和田のだんじり祭りで毎年犠牲者が出るのは織り込み済みであったりするのと同様で、彼らの世界観のなかでは「致し方ない」結果なのだ。
僕たちはこの映画を、「そういう目で」観なければならない。
要するに、これは「モータースポーツ」を舞台とした物語ではない。
明日をも知れぬ命を賭した戦いに身を投じる、戦士と指揮官の物語だ。
戦争映画や、宇宙飛行士の映画と同じくらいの「致死率」のなかで戦う男たちの決死行。
ドライヴァーたちが、レース前に愛する者に書き残す手紙……あれは、縁起担ぎでもレーサーの風習でもなんでもない。本当に死ぬかもしれないから、死んだときのために書き残している「実務的な」お別れの手紙なのだ。
その意味で、50年代というのは、第二次世界大戦の大量死によって「総体的に人の命が軽くなっていた」荒れた時代の余韻のなか、新たな文化がなりふり構わず勃興していた時代だったのだな、と今更ながら思う。そして、マイケル・マンにとって、フェラーリはその時代の「象徴」として描かなければならない存在だった、ということだ。
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作中でエンツォや愛人、マセラティたちがオペラを観劇するシーンがある。
仕組みはよくわからないが(笑)、窓からラウラや老母にもその音が聴こえている設定らしく、全員が過去を回想し、過ぎ去りし「良き日」をフラッシュバックする。
かかっているオペラは『椿姫』で、ふたりが歌っているアリアは「パリを離れて」。
第三幕で余命いくばくもないヴィオレッタに、アルフレードが一緒に田舎暮らしをしようと持ちかけ、「きっと身体もよくなるわ」とヴィオレッタも喜びに満ちて返すというシーンだ。この直後にヴィオレッタは倒れて、ヴァルモンの訪問とアルフレードとの最後の別れを経て、帰らぬ人となる。
死病に取りつかれたヴィオレッタは、フェラーリ家の人々にいやおうなく、亡くなって間もないディーノのことを想起させるだろうし、「パリを離れた田舎の生活」は、エンツォと愛人には第二の秘められた家庭のことを考えさせるだろう。
そもそも、マイケル・マンは、「エンツォの人生はオペラのようだ」と述べている。
家族の愛憎。浮気と婚外子と二つの家庭。野望と苦難。どこか作為的で無駄にドラマティックな人生。たしかに、フェラーリの生涯はなんとなくオペラくさい。
そして、モデナの街は、フェラーリの街であると同時に、オペラの街でもある。
『フェラーリ』の映画にとって、このオペラに載せてそれぞれの「幸せだった過去」が去来する演出は、実に気の利いた仕掛けだったといえる。
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●基本、僕はマイケル・マンという監督を心から信頼しているので、作品の出来をうたがうことはなかったが、冒頭の記者との気の利いたやりとりと、床屋の軽妙なリアクションで、映画のクオリティは疑う余地のないものとなった。やっぱりうまいよ、この脚本!
●アダム・ドライヴァーは、『ハウス・オブ・グッチ』に引き続き、似非イタリア人(ただし実在する人物)を好演。前作のマウリツィオとはまるで別人といっていいエンツォ・フェラーリを、真実味をもって演じあげた。10歳以上年上のエンツォにメイクと演技で寄せながらも、無理な老け役になっていないのがいいところだ。
●ペネロペ・クルスは、僕が映画を真剣に観始めた30年前の時点ですでにデビューしていて、50歳になる今も、その外見がほとんど変わっていないのは驚愕に値する。
今回は「わざと老けている感じ」で演じていたが、浮気夫を「詰める」迫力は、さすがのキャリアを感じさせる。
●マイケル・マンは、もともと熱狂的なフェラーリ・マニアで、カーレーサー経験もある筋金入りのカーキチ。2019年に大作『フォードvsフェラーリ』を製作したにもかかわらず、それに飽き足りず、本作を撮り上げてみせたというわけだ。
ちなみに、エンドクレジットを観ていて驚愕したのは、プロデューサーの異常な人数!!
プロデューサーだけで12人、エグゼクティブプロデューサーも同数の12人いる(笑)。
構想30年のあいだに、関係者が鼠算式に増えていったのか。様子をぜひ知りたいものだ。
●脚本のトロイ・ケネディ・マーティンは、映画化が難航しているあいだに、2009年に逝去。もともと監督を務める予定だった故・シドニー・ポラックとともに本作を捧げられている。そうか、トロイ・ケネディ・マーティンって、あの怪作&快作『戦略大作戦』の脚本家なのね!
●アルフォンソ・デ・ポルターゴの事故シーンだけ、いきなりルチオ・フルチやデオダードみたいな、イタリア残酷ホラー風演出&特撮になってて笑う。最高。
●ちなみに、僕は車のない家庭に育ち、自身も免許を持たず、今も車のない生活を送っている究極の車音痴で、この作品の「車」愛をきちんと理解できているとは、とても思えない。
結構な齢になるまで「月極」を「げっきょく」と呼び、セダンを車種名だと思ってたくらいですから(笑)。とはいえ、学生の頃はまさにフジテレビのF1中継が花盛りで、よくわからないなりに、セナとマンセル、プロストのデッドヒートに胸を熱くしたものだし、セナの死には衝撃を受けたものだった。T-SQUAREの音楽とともに、F1は深夜放送に耽溺していた青春の一頁として、僕の胸に深く焼き付けられている。
というわけで、大画面で展開するミッレミリアの再現映像には、やはりアドレナリンがドバドバ出た。
カーレースのド迫力の緊迫感と、牧歌的なイタリアの農村風景の取り合わせ!
なんて素晴らしい。
まあ、車音痴ゆえに、フェラーリとマセラティの車が「両方赤い」と途中まで気づいていなくて、「なんで味方同士でこの人たち競り合ってるんだろう?」とかぼんやり考えていたことは内緒だが……。
●最後に。映画.comのプロコメントで、アメリカ人が英語でイタリアを舞台とする映画を撮ったことを非難するようなことが書いてあって、久々にムカついた。ポリコレ脳ここにきわまれり。この映画の興収が悪いこととそれは1ミクロンも関係ないよ。
じゃいさん
『 愛憎相半ばする 』、なるほど〜。
『 エンツィオは間違いなく良い男 』、作品を観る限り、妻が別れを望んでいるようには描かれていませんでしたので、決して顔も見たくない相手、ではなかったように思います。
じゃいさん
コメントへの返信を頂き有難うございます。
『 歌舞伎のようなもの 』、何としても護りたい、早世した息子の為にも、そんな思いもあったでしょうね。
エンツィオを、当然ながら夫としては許す事が出来なかったと思いますが、一人の男性として愛していたのでは、と感じながら観ていました。
じゃいさん
読み応えのある熱いレビューですね 🏎️ ✨
多くの方々に観て頂きたい作品ですが、案外上映期間が短く残念です。
妻の心情をどう捉えるかで、作品の印象が変わる、そんな思いがあります。