「誰もが想像するのは迫力のレースシーンでしょう。けれども誰がフェラーリ姓を継ぐかという家族のドラマの行方がもう一つの本作の見どころとなっているです。そして彼の非情さが大事件を起こすきっかけとなるのです。」フェラーリ 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
誰もが想像するのは迫力のレースシーンでしょう。けれども誰がフェラーリ姓を継ぐかという家族のドラマの行方がもう一つの本作の見どころとなっているです。そして彼の非情さが大事件を起こすきっかけとなるのです。
マイケル・マン監督がアダム・ドライバーを主演に迎え、イタリア屈指の自動車メーカー・フェラーリ社の創業者エンツォ・フェラーリを描いたドラマ。ブロック・イェーツの著書「エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像」が原作です。但し彼が59歳だった1957年の1年にドラマを絞り込み、その人生を描き出しました。その頃のフェラーリは経営危機に瀕しており、エンツォが起死回生をかけて挑んだレースの真相を描くものです。
●ストーリー
1947年にフェラーリ社を設立してから10年、彼のマシーンがローマ・グランプリで優勝して以来、世界のレーサーがシートを争う名チームを育成し、地元の名士になっていたエンツォ・フェラーリ(アダム・ドライバー)でしたが、会社は倒産の危機にありました。富裕な顧客に少数生産の高級車を売りこむという商売は広がりを欠いていたためです。そこに資産豊富なフィアットやフォードなど競合他社から目をつけられて買収の危機にも瀕していたのです。
前年に息子ディーノを難病で失うという不幸もあって、妻で会社の共同経営社ラウラ (ペネロペ・クルス)との関係も冷え切っており、彼の心を癒すのは密かに愛する女性リナ(シェイリーン・ウッドリー)と12歳の息子ピエロとのひと時でした。しかしそんなエンツォの秘密もラウラの知るところとなります。
経営危機や私生活のトラブルによってエンツォは全てを失ってしまうという危機感を持つ。そんな時、彼は社運を賭けて、イタリア全土1000マイルを縦断する過酷な公道ロードレース「ミッレミリア」に参戦することを決めます。ポルターゴ、コリンズ、タルッフィと行った情熱的なレーサーたちによってチームが編成され、ついにレースがスタート。だが思いもかけない事態がチームを待ち受けていたのです。
●解説
タイトルは、もちろんイタリアの自動車メーカーの名ですが、アダム・ドライバー演じる会社の創業者、エンツォ・フェラーリの姓でもあります。
誰もが想像するのは迫力のレースシーンでしょう。確かにそれが本作の見どころの一つにはなっています。但し本作では、レース以外に、実話に基づき彼の経営者としての姿と私生活が描かれますが、誰がフェラーリ姓を継ぐかという家族のドラマの行方がもう一つの本作の見どころとなっているです。いや、レースシーンよりもこちらが真の見どころと言っていいでしょう。
フェラーリ社の共同経営者でもある妻と、愛人。死んだ息子と、日陰者のように生きる息子。「フェラーリ」という姓を巡って展開するドラマが、映画の核心なのです。本筋ではありませんが、金銭のやりとりに必要な署名、レーサーに書いてもらうサインなど、名前を巡るエピソードが何度か繰り返され、印象に残るのも、その証しではないでしょうか。
クライマックスは当時の伝説的レース「ミッレミリア」という公道レースのシーン。これが驚くほどの臨場感をもって展開していきます。まだレーシングスーツではなく革ジャンにジーンズ姿、市街の一部ではコースとの間に柵も無いなど、いまでは考えられないほどに危険に満ちたレースであることもひしひしと伝わってくる映像になっているのです。 本作では当時のままに郊外も町中も猛スピードで駆け抜けます。決死のレースシーンですが、奇をてらわない骨太感はマイケル・マン監督の資質でしょう。ハンドルを握るレーサーを運転席前方からとらえたアングルなどは古典的とも言えます。例えば、昨年公開された「グランツーリスモ」のレースシーンのめまぐるしい映像と比べれば、違いは明らかです。50年代という時代性に即したというよりも、マン映画らしい重厚さの表れと見ました。
多用される手持ちカメラによる撮影は、冒頭の朝、音もなく愛人宅から車を押しがけして走りだす秘めやかな走行から、助手席で構えたカメラでとらえた迫力たっぷりのレースまで、この映画の一つの主役である自動車走行を魅力たっぷりに描きだします。マイケル・マン監督がもっともやりたかったであろう迫真の映像で、観客はイタリアを横断する狂気じみた1千マイルレースの迫力を、これでもかと体感させられることになります。
しかし、ヒロイックな英雄譚となるべきレースは、思いがけぬ悲劇を引き起こします。事故はあまりにも派手なスペクタクルとして描かれるのです。レースを体感させようというマンの意図からは当然再現されるべきかたちですが、事故を起こしたドライバーが宙を舞い、胴体が真ふたつに裂かれる姿や、事故の巻き添えとなる子供を多数含む観客たちが犠牲となるシーンまで、克明に描いてしまうのはほとんど悪趣味の領域にまで到達いないでしょうか。
けれども、それはレースを再現しようとしたときに当然たどりつく結果でもあります。。それはヒーロー物のスペクタクルそのものの限界、はからずも「男たちの時代」の終わりを告げるものというのは大袈裟でしょうか?
●感想
それにしてもマン監督の演出には感嘆しました。渋い陰影のある画面が素晴らしいと思います。ドライバーもいいが、鬼気迫るラウラ役のクルスの演技を引き出したのもマン演出によります。やはり「ピート」「コラテラル」の監督は、単なるアクション映画の監督ではありませんでした。本作での演出は「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラ監督や名匠、マルコ・ペロッキオ監督のイタリアオペラ的な演出を、いぶし銀のごとくシンプルにしたようなものです。アクション演出にだけ長じていたのでは、この映画は撮れなかったことでしょう。
愛人の子ピエロには、よくパパぶりを見せるエンツォですが、母親のリナから息子の将来をどうするのか繰り返し詰問されても、頑として認知はしない徹底ぶりに、なんと非情な恐妻家なんだろうとすっと思っていました。そんなに共同経営者の本妻を怒らせて、高額の慰謝料を請求されて、会社がピンチに陥ることを恐れていたのだろうかと。
けれども当時のイタリアでは離婚は認められておらず動けなかったことほ鑑賞後に知るとなんだか切ない思いになったのです。
それでもエンツォへのパラノイア疑惑は捨てきれません。彼の少年時代のトラウマとして、何らかの人間不信に陥り、技術こそすべてという車に憑かれてしまった異様な人間として本作は描かれていました。
例えば、前のレースで思わずブレーキを踏んでしまい競り負けしてしまったポルターゴにエンツォは、レーサーのあり方をしつこく説教するのです。それはレースに出る以上生きて帰ると思うなという非情でした。
その後訪れるポルターゴの恋人で女優のリンダ・クリスチャンが彼の置き手紙を見て、涙するシーンは印象的。
レース中、「次の停車時にタイヤ交換を!」とかけられた忠告をポルターゴは勝利の焦りから断ってしまいます。エンツォがしつこくプレッシャーを与え続けなかったら、もっと違った結末となっていたことでしょう。