「ソシオパス社長のエクストリーム厄年」フェラーリ Tiny-Escobarさんの映画レビュー(感想・評価)
ソシオパス社長のエクストリーム厄年
全方位やらかしおじさんの人生の舵取りを、アダムドライバーの顔が入りきらないクローズアップで見せられる130分。
1957年のエンツォにとってのカーレースは、自分や関係者をじわじわと殺していく病のようなものです。
自分の矜持や技術が、同時に自分の最大の敵になる。これはヒートのニールや、コラテラルのヴィンセントにも通じるものがあると思います。だから映画化にあたってこの年を選んだのかなという気もしました。
映画の大半は隠し子騒動に費やされており、もちろんそれも重要な要素ではありますが、もうちょい経営哲学に触れてほしかった感はあります。
以下は、福野礼一郎氏の『幻のスーパーカー』に書かれている内容ですが
元々が、レースで勝つためだけに作られた車。観戦していた金持ちの顧客が売ってくれと言い、商売として始まったのがフェラーリ社。
エンツォにとっては公道仕様の車=牙を抜かれて快適装備を付け足された乗り心地の悪い車であり、有難がる顧客を馬鹿にすらしていた。
だからフェラーリは市販車にスポーツやレーシングといった肩書をつけることなく、「GT」と名付ける。
個人的には、レース自体がビジネスと化した車業界をエンツォがどう見ているのか、その辺の描写がもうちょっと欲しかったなと思いました。
ただ、レースを描きながら勝利のカタルシスを徹底的に排したのは、さすがマイケルマンです。車を題材にした映画でありながら、ドライバーが誰も車を褒めず、いずれ自分を死に導く疫病神のように話すのが印象的でした。ソレックスのキャブレターが目を覚ましたようにぐるりと回って空気を取り込む場面ですら、処刑装置の調整をしているように不吉です。
素晴らしいマシンが勝利に導いてくれたのではなく、暴れ回るマシンに殺されなかっただけ。
レースに勝ったのではなく、最後まで死ななかっただけ。
でも、今は生きている。
この麻薬のように刹那的な高揚感を追体験させてくれる監督は、やはりマイケルマンしかいないなと、そう思わせてくれる映画でした。