「子どもを巡る、惜別と受容の3か月」フェラーリ つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
子どもを巡る、惜別と受容の3か月
初めて予告を観た時抱いた印象は「勝利へ執念を燃やす男のドラマ」だった。だが、鑑賞を終えた今、どうしても考えてしまうほどに印象的だったのはエンツォ・フェラーリではなく、ラウラ・フェラーリの方だ。
そして思った。この映画はエンツォとラウラの「子ども」が焦点なのだと。二人の「子ども」とは既に喪失したアルフレード(愛称ディーノ)だけでなく、「フェラーリ」という会社も含まれるのだと。
映画館から帰って来て、調べたところによるとこの映画で描かれている期間は1957年、夏の3か月間。
この3か月こそ、エンツォとラウラの人間性が、愛が、執念が最も色濃く出た時期なのだと思う。
エンツォの人生について、ラウラはこう言う。
「工場での闘いで、あなたはすり減っていった」
それは長いレースの中で、徐々に傷んでいくレーシングカーと同じだ。駆ける姿の美しさ、それに魅了される人々の視線から外れたところで、痛み、傷つき、悲鳴を上げながら、それでも全速力で進んでいく。
その先に待ち受けているものは、栄冠かもしれないし、鋭く尖った小石かもしれない。その運命だけはどんなに強く美しいものでも、覆すことなど出来ないことなのだ。
ミッレ・ミリアでの事故を受けて、ラウラはやっと最愛の息子の死を受容したのだと思う。事故が事故であるように、息子の死がエンツォにもコントロール出来ないことであったことを受け入れたのだ。
そしてもう一つ、重大な事が起きていることも悟っていた。エンツォと自分の間に残ったもう一方の「子ども」であるフェラーリが死にかけている。
今度こそ「子ども」を失わない為に、ラウラはエンツォも、運命も、何もかもを受容し、これが最善だと信じる道を突き進んだ。そして願わくば、エンツォにも自分と同じようにディーノこそ息子であると示してほしい、それだけを望んだのだと思う。
久々に観たマイケル・マン監督の映画は、マイケル・マンらしいカメラの近さが演者たちの表情の奥まで捉え、複雑に葛藤する心を切り取ろうとする一方で、レースシーンでもまるで車自体が肉体であるかのような振動を捉えて迫力があった。
観る前に予想していた印象とはかなり違ったが、見応えのある良作だったと思う。