悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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自然が主役級
ル・シネマ渋谷宮下で鑑賞🎥
冒頭のカメラを真上方向に向けて木々の枝を仰ぎながらズンズン進む映像から引き込まれた感じだった。普段、真上を見ながら自然の中を歩くことなど無いので、とても新鮮な風景に見えた。
カメラは信州の山村の自然を次々と切り取って、スクリーンに映される。バックでは音楽が流れ、「これは自然を描く映画だよ」と濱口監督が言っているような映画🌿🍃🦌
「きれいな水」が山村の人々にはとても大事な生活基盤であり、薪割りして火にくべるような生活も続けている自然と人間が上手に共存している村。
そんな村にグランピング場を作ろうとする会社の人間が、山村の人々に説明会を開くが、こてんぱんにやられる会社側の2人。彼らも会社に戻ってから再び山村を訪れた時には住民側に寄り添おうとする気持ちを持ち始めるのだが……といった流れで物語は進む。
あの清流で作ったうどんorそば、食べてみたい!😊
ラストは「えっ!」という驚きで、「その後どうなるの?」はスクリーンの霧の中🌪️🌪️🌪️
自然を映した映像が素晴らしく、濱口監督なかなかの佳作であった🎥✨
<映倫No.124282>
確かに悪は存在しないが犯罪はある。
子鹿を守るために親鹿は躊躇しないだろう。
相手が猟師であろうと少女であろうと。
環境を守るために全力で抵抗する人もいるだろう。
相手が親切で好意を持っていても。
そんな抵抗や反動は悪ではない。
正当防衛行為なのだ。
それがたとえ傷害以上の行為だとしても。
野山の自然の静寂な環境の中で何かが起こることは悪ではないが、人間社会環境から見れば犯罪となってしまう。
これを理不尽、不条理という人も居れば、言われる人もいる。
いつからか自然も社会環境の一部となったからか!?
毎週、山歩きをする者として自然の社会化は、
文明の高度化と比例する故に仕方ないことと諦めるより仕方ない。
要約すると、「無用の用」 なのか? 老子
ちと、違うなぁ…
(^_^)
悪は存在しない
劇場公開日:2024年4月26日 106分
「ドライブ・マイ・カー」でアカデミー国際長編映画賞、カンヌ国際映画祭脚本賞、「偶然と想像」でベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞するなど国際的に高く評価される濱口竜介監督が、
カンヌ、ベルリンと並ぶ世界3大映画祭のひとつであるベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)受賞を果たした長編作品。
「ドライブ・マイ・カー」でもタッグを組んだ音楽家・シンガーソングライターの石橋英子と濱口監督による共同企画として誕生した。
自然豊かな高原に位置する長野県水挽町は、
東京からも近いため近年移住者が増加傾向にあり、ごく緩やかに発展している。
代々その地に暮らす巧は、娘の花とともに自然のサイクルに合わせた慎ましい生活を送っているが、ある時、家の近くでグランピング場の設営計画が持ち上がる。
それは、コロナ禍のあおりで経営難に陥った芸能事務所が、政府からの補助金を得て計画したものだった。
しかし、彼らが町の水源に汚水を流そうとしていることがわかったことから町内に動揺が広がり、巧たちの静かな生活にも思わぬ余波が及ぶことになる。
石橋がライブパフォーマンスのための映像を濱口監督に依頼したことから、プロジェクトがスタート。
その音楽ライブ用の映像を制作する過程で、1本の長編映画としての本作も誕生した。
2023年・第80回ベネチア国際映画祭では銀獅子賞(審査員大賞)を受賞したほか、映画祭本体とは別機関から授与される国際批評家連盟賞、映画企業特別賞、人・職場・環境賞の3つの独立賞も受賞した。
悪は存在しない
劇場公開日:2024年4月26日 106分
噛み応えがあるね
高橋は私だ!
受賞作に期待したのだけど、それほどではなかった。彼の映画は評価して...
受賞作に期待したのだけど、それほどではなかった。彼の映画は評価しているし、映像も美しかったし、開拓民、自然との関係、芸能プロなどの設定も知的ではあったけど、途中で終わった感。主人公の何を考えているかわからない感はよかった。そして芸能プロダクションの二人のいい加減さと、社長、コンサルの薄っぺらい感じ。自然の中で生きてる住民との対比は明確。鹿の出てくる映画は多い。ここでも息を呑む美しい映像だった。
そして僕は途方に暮れる
薪を割ったり、水を汲んだりといった、自然の中での日常生活が、長回しの映像で延々と描かれる冒頭は、正直言って眠くなる。
だが、グランピング場の開設に関する地元説明会の場面になると、ドキュメンタリータッチの映像が独特の緊張感を醸し出して、俄然面白くなってくる。
ここでは、利益を優先して自然を破壊しようとする開発者と、自分たちの生活を守ろうとする地元住民の対立構造が明確になり、前者が「悪」で後者が「善」という、物語としての構図もはっきりしてくる。
やがて、モブキャラだと思われた開発者側の担当者にスポットが当てられ、彼らが悪い人間ではないということが分かってくると、人間は単純に「善」と「悪」とに区分できないということが実感できて、映画のタイトルが意味するところも理解できたような気になってくる。
さて、それでは、この開発計画をどのように着地させるのかと思っていると、突然、少女の失踪騒ぎに物語が転調し、最後は、呆気にとられるような形でエンドロールとなる。
一体全体、この結末は、どのように解釈すればよいのだろうか?
一度薪を割ったぐらいで、自然の中での暮らしを理解したように思っている芸能事務所の男を、自称「何でも屋」の男が、不快に感じていたのは間違いないだろうが、それだけで殺意を抱くとは思えないし、ましてや、「どうしてあのタイミングで?」という疑問も残る。
もしかして、何でも屋は、不用意に手負いの鹿に近づこうとした芸能事務所の男を助けるために、彼を制止しようとしたのかもしれないが、その前に、まず、自分の娘を助けようとするのが普通だろうし、制止するにしても、気絶するまで羽交い締めにするのは不自然過ぎる。
それとも、自分の娘を犠牲にしてまで、芸能事務所の男を救おうとしたということなのだろうか?
まあ、いくら考えても「正解」はないのだろうし、作り手側も、作品の解釈を観客に丸投げして、「正解」を提示する気がないのだろう。
ただし、「起承転結」の物語としては完全に破綻しているし、そういう意味では、良くも悪くも、観客の期待を見事に裏切る映画であるということは間違いないだろう。
ラストの衝撃
地方農村の再開発を題材にしたシニカルなヒューマンドラマなのだが、突発的なラストがどこか不条理劇のようなテイストを持ち込み、何とも評しがたい作品となっている。
監督、脚本は「ドライブ・マイ・カー」、「偶然と想像」の濱口竜介。元々は本作で音楽を担当している石橋英子とのコラボ企画から始まったということで、これまでとは少し違った経緯で作られた作品である。とはいえ、緊張感を醸したロングテイクや、抑制を利かせたセリフ回し等、濱口監督らしい独特の作風は一貫している。
一つ違うのは、これまではどちらかと言うと会話劇主体な作りが多かった印象だが、今回は映像で語ることにこだわった点である。これは、そもそもの企画が音楽のための映像作品という所に起因しているのかもしれない。
中でも、意図的に肝心な部分を見せない映像演出は大きな特徴のように思う。「ドライブ~」でもそうした演出は一部で見られたが、今回はそれが更に推し進められたという印象である。
例えば、巧が花を探す序盤の森のシーンは、巧の姿を収めた移動ショットで撮られている。途中で画面は大木に阻まれ、二人はその陰で邂逅する。巧が花を見つけるという肝心な部分を全く見せない意外性に驚かされた。
あるいは、芸能事務所からグランピング建設の説明で派遣された男女が車中で交わす会話のシーン、行方不明になった花の身を案じる女性社員がコテージに佇むシーンは、徹底した後姿のショットが貫かれ、その表情を極力見せない。
極めつけは物議を醸すであろうラストシーンである。花の身に何が起こったかを映像では一切見せておらず、その顛末のみを提示して見せるという演出がとられている。
このように肝心な部分を見せず観客の想像に委ねる演出は、普通は余りしないものであるが、本作の場合はそれが頻出するのである。物語は割と淡々としているにもかかわらず、こうした意外性に満ちた語り口に引き込まれ、終始面白く観れる作品だった。
とは言うものの、やはりラストには、観ているこちらの想像をはるかに超える驚きがあったわけだが…。
これについては、観終わった今でも解釈に迷う所である。単に自然対人間、都市対農村、政治や社会構造の問題といったテーマでは語りきれない奇妙さがある。巧の”あの行動”に、自分は彼の心の”闇”を見た思いになった。
尚、本作を観て真っ先に連想したのは、往年の名作ドラマ「北の国から」である。自然と共生しながらマイペースに暮らす巧の姿が「北の国から」の五郎とダブって見えた。ただ、娘に対する愛情表現は五郎よりも不器用で、学校の送迎を失念したり、危険な森に一人で行かせたり、かなり放任的な点は異なる。その結果が、あのラストを呼び込んだとも言える。
また、芸能事務所の社員二人の視点に立って見れば、サム・ペキンパー監督の「わらの犬」も連想させられた。都会の人間と田舎の人間の間に生まれる不穏な空気感は、正に「わらの犬」のそれと同じである。そして、両者のズレを同じシークエンスを使って反復して見せた構成も面白い。
もう一つ連想させられたのはジャン・リュック=ゴダールの作品である。開幕のタイポグラフィーやBGMのぶつ切りといった演出は正にゴダールが得意としていた演出法である。これまでの濱口作品にはゴダールの意匠は全く感じられなかっただけに意外であった。
考察!!
残念ながら、私はダメでした、、、
どうもこの監督とは相性があまりよろしくないのかな。テンポというか、ゆだね方というか、リアリティと寓話の線の引き方というか、、、とにかく「寝ても覚めても」を見て以来、鑑賞中に「あー、私は俗っぽいおばさんになっちゃったわけから、監督からファンにならなくても結構ですよ、と言われているような疎外感」に襲われる。
今時のあるある社会派ドラマの断片を見せながら、結果とはいえ、子どもを連日一人で林の中歩かせる? それに対して他の保護者があまりにも無関心すぎない?ってあたりでもうだめ。
ラストに至っては「ここで放り出すんんだー」と、喧嘩売られた気分です。
映像と音楽作品に無理にストーリーつけなくても「白鹿」や「いいちこ」のCMみたいなのが出来ただろうにと思う。
ラスト、、、唖然
まず、ラストシーンに完全に置いてきぼりにされました。釈然としないまま、ラストから物語を遡ってみると、様々なシーンが思いだされます。
だからあの時、巧はこう言っていたのか?高橋って浅はかだよな。あの音がラストへの伏線だったのか?
しかし、色々と考えを巡らせていても、ラストの出来事が理屈に合わない。
ああ、世界には説明のできない非論理的なことが現実に《存在する》のだな。
人類はずっと論理性を追求し続けていますが、この世は非論理的なんだ。
論理的に感情的にならずに賢そうに振る舞っていた社長とコンサルが、実は誰よりも滑稽な存在だったのだということをラストシーンから気づくことができました。しかし、世界は社長やコンサルに象徴される《滑稽さ》に覆われていて、私達もその《滑稽さ》が正しいと思う社会に生きています。
資源開発に限らず、福島原発、ガザの状況も理屈に合わないことのひとつと気がつくことができました。生物の本質は生きることですが、本質から逸脱した《種の破滅》も可能性として起こり得るのだなと思います。
自然界には悪という概念は存在しない。熊が人を襲うのに善悪はない。
鑑賞後、様々なことについて、想像力が膨らみ続けています。凄い作品に出会いました。
あなたの考える悪について
悪ばっかり
終わるなぁァァァと思いながらエンドロールを迎えてしまった。これが好きすぎるがあまりの感情だったら良かったのに...。
アカデミー賞国際長編映画賞を受賞した「ドライブ・マイ・カー」は、原作者・村上春樹の作風が個人的に大の苦手ということもあって全然ハマれなかったけど、濱口監督のゆったりとした作り方は割と好きだし、今度こそはみんなと同じように絶賛できるだろうと、そう信じていた。のに。冒頭でうっすらと感じた嫌な予感は、見事に的中。今年一気味が悪い、監督の自己満的映画だった。。。
タイトルとラストの兼ね合いだけでここまで好評を得ているのか?絶対に裏切らない、タイトルに沿って言えば、悪は一切存在しない自然は確かに良かった。音をすごく丁寧に扱っている気がしたし。
でも、あのラストはとてもじゃないけど受け入れられない。ハッキリ言っちゃうけど、今年ワーストに入るくらい大嫌い。観客に今後の展開や隠された真実を問いかける形で幕を閉じる作品は、2024年だけでも「コット、夏の思い出」「瞳をとじて」などがあり、どれもこれも傑作ばかり。これは自分の推測だが、この締め方を起用していて観客が胸を打つ作品を作れる監督っていうのは、こうなって欲しい、こうなるといいな、という熱い思いやどう解釈しようと自由だけど、自分はこう思うよという考えが作品にしっかり宿っているからだと思っている。
だが、本作は「君たちはどう生きるか」のように、作り手自身に明確な答えが持てず、ハッキリとしたラストを描けなかったばっかりに、こんな曖昧で観客に丸投げするかのような終わり方になったんじゃないだろうか。絶賛している人に聞きたい。ビックリした!で5.0を付けてないか?もしそうじゃないのなら、貴方が見い出した答えを教えて欲しい。でも、その答えはなんの意味もなさないはず。だって、濱口監督が分かっていないんだもん(インタビュー記事より)。
これって自分が悪なのかな?
とっても嫌らしい作品
最後まで見た時の自分の感情が、
「なんでこの結末だったの?」
と疑問を抱いたことに、後々くらってしまう。
そんな作品でした。
冷静に思い返してみれば、
この結末にたどり着くことは、
全然あり得たことで、
けれど、それに気づかずに観てしまう。
そして最後に後戻りできない場面にぶち当たる。
そんな風に撮られた作品だ、と思いました。
自分が鈍感な部分があったのだとも感じますが、
逆に言えばそんな鈍感な人間を、
ぶっ叩くような作品だったとも思い、
非常に嫌らしい作品だと思いました。
自分がきちんとした感性を持って生きていたら、
どんな結末を迎えられるだろうか
そんな風に、じわじわと思いながら家路に帰る。
はまぐちさん、
ぼくは貴方とこの作品が、
嫌いでありそして大好きです。
鹿に表されたものは何者か
悪は存在しない
では存在とはなんなのか
善とか悪とかではない
上映時間106分濱口監督としては短め
山村の里にグランピング場建設を東京の芸能プロダクションが企画
コロナの異常な社会状況
歪んだ生存危機感
コロナウィルスに怖れる
経済的に追い込まれる
日本の体力低下、空気感がリアルで
グランピング説明会のシーンで不快な気持ちに全身が支配された。
映画的に濱口監督の思惑通りにしてやられた。
そしてラストシーンに至るまで、ずっと居心地の悪さ
鹿はメタファー
「ディアハンター」
「聖なる鹿殺し」
「クィーン」
などなど
洋画には鹿が意味を持つ存在だけど邦画では初めて🦌鹿の印象深いシーン
この物語を支配する
巧とは何者であるのか?
鹿は巧のメタファーなのか?
悪は存在しない
では善なるものはどこに存在するのか
善人よ踠けと言ったナワリヌイとは違う感覚
国民性なのか。
終わりのない問い
#悪は存在しない
#濱口竜介監督
#映画
水問題だけではなく バランス
ロングショットを多用した山里の風景が、端正なBGMと相まって美し...
むしろ監督から悪意を感じる。
私の頭では理解できなかった。それはラストシーンのみならず、この映画全体の話で、ダラダラ続く序盤のただの日常風景に、ドキュメンタリー風の会話劇。最後の最後は、え?これ結局何の話なん?ファンタジー?あの親子鹿の化身かなんかですか?ってなった。
これはこんな方法で観る側に「悪」の定義を考えさせてみたけど、どないでっしゃろ?斬新でっしゃろ?最後びっくりしたやろ?凄いやろ?みたいなことなんかな。もう、回りくどいし、ここまできたらなんか怖い。
特に「金に困ってない」って言ったところはほんまに怖かった。絶対親父裏で何かしてるやろ。むしろこの町全体で何かしてるとか?だからよそ者にうろちょろされると困るとか?もう、そう考えた方がよっぽどしっくりくる。久々に頭痛しそうな映画観た。
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