悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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わかる人にしかわからない映画
人間はもろく弱く愛おしい。くだらないことだらけで何も爪痕残していない人生だとしても魂はみんな懸命に生きている。
映画に理屈を求める人にはたぶん向いてない映画。
高橋のあのラストシーンをつくった監督に脱帽。傷ついた鹿のように思えたのは私だけだろうか。あのシーンだけでももう一度観たい。
後で色々思い出す映画
最初は森の木の光景が延々続くが、途中から濱口監督の面白い会話劇となり、劇場内でも笑いが起こっていた。個人的にはコンサルとの会話がおかしかった。ラストシーンが衝撃的であとで色々思い出している。悪は存在しないというタイトルも効いている。
悪は存在しないが
狂気は人間にはいつでもどこでも存在する。主人公の最後の行動は普通ではない。どう考えても狂っているとしか思えなかった。悪は存在しないけど、善も存在しない。
鹿に襲われそうな子供を助けようとした人間を、おそらく殺した。殺された(ように見える)人間は生き返ったように立ち上がったが、また倒れたのが、不気味だ。殺した方の男に無表情に抱えられた子供もおそらく死んだだろうし、生きていたとしても、幸せな暮らしが待っているとは考えられない。殺人を犯したように見える主人公は何を考えているかよくわからない人間として描かれていて、子供を迎えに行く時間も忘れる。いつも子供を危険な目に合わせても、本気で反省していない。自然が好きなのかどうかもよくわからない。グランピングの話を持ちかけらたせいでそのようになったようにも解釈できるが、そうではないと思う。というのは、グランピング説明会の地元住民もみんな変だ。住民の意識自体が変。自分たちは本来の地元民ではないと言いながら、地元の利益だけを主張する。
一番変なのは自治会長?のじいさん。上(自分たち)がしっかりしないと下(下流の大多数の住民)が困る、と言い出す。自分たちは上だと思ってる。地元住民はその異常さに気づかない。上が下をグランピングで一時的に受け入れればいいだけの話なのに、排除する。
主人公は何が真実か、何が現実か、探し求めているのか、さまよっているのか、よくわからないが、正気と狂気との境界線をうろついている。グランピングのことを気にしているようにみえて、一心不乱に描いている絵はグランピングの説明をする男女。子供の相手もせずに、男女の無表情な姿の絵を鉛筆で描く表情には狂気を感じた。一生懸命にグランピング問題を考えているのか、どうか、怪しい。木を切り倒して、薪をくべる自分の生活を悔いているのかもしれないし、悔いてもどうにもならないことに絶望を感じていたのかもしれない。答えはないだろう。人間が自然に干渉せずに生きることは不可能だ。どこかで、人類は狂ったのである。
前作では、人類の中でのコミュニケーションの問題を多言語を扱って映画にした。今回はコミュニケーションの問題を人類と自然との関係に広げようとしたのだろう。しかし、人類内の問題の延長で自然との問題を解決できるはずがない。その結論を提示した映画だ。
「ドライブ・マイ・カー」でも、自分の写真を撮った人間にひどい暴力を振るった(と推測できるシーンがある)男の表情が狂気をはらんでいるように描かれるシーンが印象的だったのを思い出した。このような狂気をはらんだ人間の衝動に動物(自然)とは違う人間の本質を見ているように思う。本作のラストもその映像の展開に息をのむ。
映画は音楽と騒音が効果的に使われていたり、映像の焦点が定まらずにカメラが回っていたりして、緊張感を切らさずに見ることができた。前作と同じく、不気味さというか不安定さが映画全体に持続するので、時間を忘れて映像を凝視し続けられる。映像が切り替わる直前に次のシーンの音がかぶるのは、構成上必要なのかどうかよくわからなかったが、少し気になった。「ドライブ・マイ・カー」と同じく、車の運転シーンが多いが、後方や側方の場面が多い。車が見られているような感じで、観客が見られているような感じになる。これも不気味な感じだった。
比較する対象がない。映画史に刻まれる傑作だと思う。
他者を理解すると言う事。表象だけの理解では、物事の本質に触れる事は...
悪とは?を本質的に問う映画
長野県水挽町の住人と東京の芸能事務所によるグランピング建設計画を機にコンフリクトが起きていく
のが話の軸です。
冒頭の長い森の風景・圧巻の自然を美しい映像で見せることで、鑑賞者へ本作の世界観をインプット
しようという試みであろうと感じました。そのくらい長い。長いと感じるくらいの長さです。
そこから主人公 巧と住人たちとのコミュニケーションから、巧と住人の関係性などがわかるように
描かれていきます。
そうすることで、まずは巧及び住人たちへ鑑賞者は感情移入していくこととなります。
そんな中でも、巧の娘である花が纏う不穏な雰囲気は、割と冒頭から気になるところではありました。
グランピング計画の住人への説明から、ますます住人への感情移入が深まるわけですが、
芸能事務所の黛が真摯な対応をすることに好感を覚えたと思えば、
住人説明会で苦労していた高橋と黛が、実は東京では、社長&クソみたいなコンサルにも辟易している
ことがわかり、ここで高橋&黛にも感情移入していくこととなります。
そうすることで、“悪”とは、その人の立場によって、また、観る人がどの視点で観るかで変わり、
また、絶対悪は存在しないのでは?という気づきを得ることになり、
なるほど、タイトルの『悪は存在しない』とは、言い得て妙だなと思いました。
本作最大の事件、花が行方不明になってからの展開がまた面白いと言いますか、読めない展開になるのですが、
花と鹿🦌が対峙している場面(割りかし鹿の顔のドアップが長いです)から、
巧が高橋へスリーパーホールド!!
えっ!?って感じです。何が起きているかわからないくらい動揺しましたが、
次の場面で花が倒れていて、鹿はいない。なるほど、花が倒れているところを巧は高橋に見せたくなかったんだろうと思いました。
一瞬、高橋は死んだ!?と思いましたが、起き上がっていたので生きていますね。気絶していただけということがわかります。
一方、花は死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない。
巧が花の鼻に手を当てて、呼吸をしているかどうかを確認するやいなや、すぐに抱きかかえて歩き出すことから、
私は、花は生きているんじゃないかと捉えました。
このラスト以前に、巧は高橋&黛に対して車のなかで「人間を襲うのは、手負いの鹿ならあり得るかも」的な話をしているので、
花は鹿に襲われたであろうことは想像に難くありません(鹿の顔のドアップがその示唆かと)。
とどのつまり、動物も含めて皆生きることに必死であり、誰も悪いことをしようと思っているわけではないんですよね。
だから「悪は存在しない」というタイトルなんだろうし、ただ、答えはひとつではないと思うので
本作を観た人が、この映画を通じて色々な事に思いを馳せてほしいというのが、濱口監督からのメッセージなのだろうと解釈しました。
実に深い作品です。時間が許せばもう一度鑑賞し、理解を深めたいと思いました。
オチが分からなーい。
巧と花は鹿なんかな?野生の鹿?
それとも花が怪我した鹿に襲われたってだけでええのかな?
花が行方不明になって、近所の人たち総出で探して、夜になったまではわかった。
で、高橋と巧が平原?原っぱ?に出た時には、なんか明るくなってたから夜通し探してたんかな?
で、花見つかって、花の近くに怪我した鹿がいて、怪我した鹿は人間襲うかもというフリが前に提示されてて、なのに花は帽子とって怪我した鹿に近づこうとする。
それを止めようと走り出した高橋を巧が絞める。あれは本気で殺すつもりのやつ?よく分からんけど高橋は白い泡?吹いて気を失う。
で、鹿がもういないけど巧が花に近寄ると、花は鼻血出して気を失ってて、巧は花を抱き抱えて原っぱを去る。
取り残された高橋もフラフラと立ち上がるけど、再度倒れる…これは?死んだ?
この後は誰かの走る息と森の木々の映像でおしまいとなる。
オチに来るまでは特に謎もなく、ふんふんと進んできたのだけど、このオチをどう解釈すれば?となりました。
面白かったんだけどもね。
タイトルの意味は、悪(だけの存在)は存在しないってことかなぁって思った。完全な善も、完全な悪もないという意味かなぁと。
関西では5/3は公開初日で混んでた。多分満席。でも一番大きいスクリーンじゃなかったし、1日2回公開。まぁ、監督の名前以外で観にくる動機の薄い作品だもんね。
そして、映画には全く関係ないけども。
多分隣の人が、うっすらドブ臭い・うんこ臭い口臭・体臭の人で、このうっすら臭いの、昔の恋人の口臭と同じで、彼のことが頭に浮かんで仕方なかった。
においの記憶、強いわぁ。口が近すぎる訳でもないのに薄いけどちゃんと香るあのにおい。鼻が全然バカにならず、ずっと香り続けるから途中からハンカチて鼻を覆うしかなかった…あーなつかしくさかった…
悪は存在しなくても、衝突も罪も存在する世界
冒頭から映像と音楽を贅沢に味わい、自然の恩恵と不穏さにゆっくり浸る。
ストーリーとしては八ヶ岳でのグランピング施設のための説明会、それに携わる二人の心情が語られ、無機質な悪でもなくどこにでもいる自然体な存在だなと感じる。
やはりこの物語はまさしく「悪は存在しない」なのだと思う。手負いの鹿が稀に見せる凶暴性、嫌悪感や怒りはあっても普段は抑え振るわない暴力の存在。それは悪とは言い難いはず。仕事で担当だからと結果的に水を汚してしまう人も、手負いだから興奮して人を襲う鹿も、悪ではない。ということは、なされた罪の多くは悪の問題ではなくて。
自然体な物語だけど、ラストの展開はまさに手負いの鹿の豹変のような、起きないはずのことが起きたと感じさせられた。ただ、ここの解釈がここまでブレるのは想定内なのだろうか。
私としてはどちらとも解釈できるような曖昧さとか、そこをはっきりさせることは重要じゃない描き方というのは、基本的に嫌いじゃないほうなのだけど、この作品については、ラストの展開とその語られなさはあまり好みじゃなかった。映画は答えを提示するものであるとかその答えが関心事だとは思っているわけではないけど、あまりに解釈のブレを招いてしまう突き放し方で。答えを求めるのは貧しい考え方だという指摘は、監督の知性からすれば酷くブレる解釈をする層はおよびじゃないということなのかなと思うけど、うーん…
悪は存在しなくても、相互理解は容易じゃない。
自分の解釈としては、たくみのあの行動は悪がゆえではないよ、でも罪ではあるねってことかと。悪じゃなくても罪はおかされる。手負いの鹿の暴走のように、声を荒げることのないたくみが暴走をしてしまう。なぜ暴走したのかは、娘を失ったことを東京から来た薄っぺらい男に結びつけたか、それともただやり場のない怒りが彼にむいたか、その原因はたくみにもわからないかもしれない。ただ、たくみはずっと怒りをためていたはず。黛と対比するかのように、高橋は、無責任で無神経でしかも結果的に罪を犯すであろう人間として描かれていたし。
どこかで響いた銃声によって手負いとされた鹿がはなを傷つけ、はなは死に、そして遠目でもそうと確信したたくみが暴走をする。
ラストシーンは、はなを抱えたたくみなのかな、息遣いのみ聞こえる。映画冒頭の雄大さと不穏さのコラボがここでも。無力で不穏でちっぽけな、それでいて必死な息遣いで幕が閉じられる。
うーん。
視点を変えるとジャンルも変わる映画
偏見ではあるけど、田舎町の住民と芸能事務所の人間は、なんとも相性が悪い。
特に社長とコンサルは危険分子でしかない。
自然と人間がバランスを取りながら暮らしているところに、ウェーイなヤツらが来るかと想像すると、住民のざわつきも致し方ない。説明会のシーンは、開発側と住民の怒りや不安、苛立ちなど、垣間見える感情が人間臭くて見応えがあった。
高橋と黛は、自然に触れ、人に触れ、気づきはあったものの、ねぇ。
ラストは"なんで⁈"ってなる急展開。
町の人たちは知っているのか否か、初めての事なのか、それともいつもの事なのか。
いろいろ想像してみると、木々や風の音、銃声や水の流れなんかも、急に不気味にも感じられる、音と映像の説得力たるや。
世にも奇妙なっぽいエンディングで結構好き。
もう一度観たら、また違う何かが見えるかな?
問題提起型の作品です、明確な結末は画かれていません。
いい意味で眠くなる映像詩
意味深
ドキュメンタリー映画のよう
唐突過ぎ!
惹き込まれて面白い作品だなと思いながら観ていたのに、唐突な終わり方に呆然とした・・・
なぜ、失神するほど羽交い絞めにする必要があったのか。
全く理解できないという思いだけが強く残ってしまって、何か台無しになった感じです。
自然と人と。俳優がはまってくる不思議
物語の事前知識なく鑑賞。
最初は長回しの自然との共生が描かれ、昨今の話が進む作品に慣れている人には合わないだろうなと思いながら、リラックスしながら観る。
気になったのは、カメラワーク。
山葵、車の後部、鹿の死体、ちょっと離れた木陰からの視点など、いい意味で映画であることを感じることができる。
そのうち、だんだんと社会性の要素が描かれるとともに、最初は違和感があった俳優陣が住民として妙にハマってくる。
やりとりにも随所に濱口監督らしいユーモアがあり、劇場内で笑いが起こり、とても心地良い。
タイトルからわかるように、両面の人々から状況が描かれる展開は目新しさはないが、そこに自然がうまく入ってくることで、考えさせられる作品となっていた。
そして、キーとなっていた音楽。おどろおどろしいもの、ポップなもの、自然の中での非日常感を増してくれていたとともに、音楽と映像だけでも楽しめた。
引き込まれる感は流石
「上(上流)」を目指し迷子になった監督は存在する
スパイの妻やドライブ・マイ・カーは良かったからあえて点数を低くする。
出口が見えないから適当に作ってお前ら自分で考えーみたいな監督メッセージ。
そもそも二項対立を崩すようなタイトルこの題材にした時点で、面白くなるのはキャンプ地建設の成功とか失敗とかそういう予想のつく円満な話じゃなくなり、
監督の表現ともっと奇抜でもいいから観客を驚かせる何かの結末が肝心になる。
それを意識しながら答えを求めた果てに放棄した監督の姿がどうしても目に浮かぶ。
後味の悪い映画だ。
そのせいで前半の森に誘い込むような空ショットも台無しになり、
リアリティを追求してるかのような奇妙な角度からの撮影も、観客を揶揄うような作者の狡賢さを示唆してるみたい。こんな悪意で考えてしまいとても残念だった。
Leviathan、青き衣を纏いて
OPから、
真仰り、
ま俯瞰の反対で、
木々の移動カット、
美しい。
だるまさんが転んだは、
コクトーの『オルフェ』の、
空間のあっちとこっちを感じさせる。
今回もアイデアいっぱいの、
シークエンス、カット、芝居が、
展開していくのだろう・・・
違った。
説明会以降の在り方。
10年程前のアカデミー外国語映画賞の、
ロシア映画の英題が、
『Leviathan』
昨年ようやく翻訳版が出版された
【万物の黎明】でも、
ホッブズのLeviathanも、
21世紀の現代には通用しないんじゃね?と、
言及している。
これらLeviathanの神話というか、
説話、思考が地続きであると解釈できなくもないが、
それほど便利な魔法のようなものではないのと、
その流れでいくなら、
芝居や描写、
特にフォーリーのアプローチが違う方法はなかったか。
青き衣を纏いて金色の野に降り立つ、
のか、
違うのか、
清浄の地に導いたのか、
どうなのか。
この流れでいくなら、
他の登場人物にしても、
存在が本質を越えていくような展開・・・
は長くなり過ぎるのと、
難解になり過ぎるのを避けたのか・・・
タイトルを、
『巧と花』とか、
『ある町の物語』にするなら、
このままでいい、
が、
悪は存在しない、
と風呂敷を広げるなら、
閉じた上で、
解釈は観客しだい、
が好ましい。
閉じずに、
表現しないで、
解釈は任せます、
は、
好ましくないが、
上記のアプローチから、
変えないと難しいが、
それも選択しないだろう。
満席なのは素直にうれしかった。
満席なのは素直にうれしかった。
【蛇足】
小3時の遠足、奈良公園。
クラスメイトが足元から鹿に角で突き上げられて、
50センチほど空中に浮いた。
シカはヒトを襲う。
クラスメイトは無傷、
アクは存在しないのかもしれない。
難しい映画ではないのだが、ラストが、なあ。
会話劇のスリリングさ
色々考えさせられました
#Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下 さんにて#濱口竜介監督 『#悪は存在しない』 鑑賞。
高度経済成長期から映画のなかでは「リゾート開発=悪」としてステレオタイプな描かれ方をしてきましたが本作品ではそのような安易な描き方をせず、住民説明会のシーンでの住民と企業(芸能事務所)の討論は実にリアルで観ている方がヒリヒリしましたね。
本作品で一点だけ理解できなかったのは、本作品で描かれている地域(自治体)が昨今全国の自治体でも直面している少子化や過疎化、地域資源の少なさで財政面などで困窮しているかどうかの点。
自治体としてはグランピングなどの観光施設を誘致することで税収や関係人口を増やし、地元住民のための公共サービスを維持するため賛同したのであれば、作品の印象が随分と変わったかもしれませんね。
結局、地元住民と企業がお互いトコトン話し合い寛容な着地点を見いだせればいいのですが…。
誰もが本作の当事者になり得る題名通り『悪は存在しない』映画、色々と考えさせられました。
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