「確かに悪は存在しないが悪意は時として現れる。」悪は存在しない あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)
確かに悪は存在しないが悪意は時として現れる。
世の中には理解されることを拒否した映画というものがある。芸術家を気取った演出家や俳優が高尚にみえる理屈を振りかざし観客の解釈を意地になって否定するといった類のものである。
濱口竜介監督の本作も一見そのような作品に見える。「ドライブ・マイ・カー」でアカデミー賞を取り、本作ではヴェネツィアの銀獅子賞を取った濱口への期待感は凄まじく今日の劇場も満席だった。それだけにがっかりした、よくわからないという感想も多いのである。
私は濱口が自分本位のゲイジュツ映画をつくったとは思わない。彼は商業映画の制作者としての立ち位置を十分理解しているようだし自分はこれもそれなりに面白かったから。
ただこの映画を理解するために、というか共感するためには気づくべきポイントが2つあると思う。
1つ目は単純な二項対立は排除されていることである。「善と悪」そして「自然と人工」、「田舎と都会」、「無垢と不純」。グランピング場の造営を企む企業が自然豊かな町に乗り込んでくる話なので対立構造になりがちであるがよく観ると単純な善玉、悪玉の設定はなされていない。企業側、町側の双方に戯画的人物が配されている。企業側はいかにも軽薄なコンサルタント、町側ではすぐエキサイトする金髪の兄ちゃんなど。(余談ながらこのコンサルはいかにもの感じですね。ロジックの組みたて方なんかが。こういう人たちには自分もひどい目にあわされたのでよく分かります)
巧の娘の花も純粋無垢というよりは何か屈折のある危なっかしい娘に見えるしそもそも巧が得体がしれない。(演技力がないからだけかもしれないが)
つまり登場人物はすべて等価であり価値観の色付けはされていない。これは大事なところだと思う。
2つ目のポイントは感覚的なものであり全編を覆う不穏なというか不吉な感じである。これは挿入される何か不安定な感じの音楽にもよるし、ぼそぼそとしたセリフ廻しからくる印象でもある。時としてシーンが突然カットされるようなこともあるし、特定の画面でカメラを固定して(例えば学童保育のシーン)妙に狭苦しく感じさせるようなところもある。
そのような演出でストーリー展開に緊迫感を与えるとともに、世界観に奥行きを持たせているのである。
我々の生きている世界は、表面上は穏やかであってもひと皮剥けば内側には薄暗いものどもがうごめいているのではないか。それは一言でいえば「悪意」という概念で説明できる、そういった世界観である。我々は知らず知らずのうちに我々の社会の作り出した悪意の固まりに絡み取られている、通常はそれは人々の善意や努力で覆い隠されているが時として噴出することがある。
この映画で濱口が描こうとしていることはそんなことではないかと私は思っている。そしてそれはすでに「ドライブ・マイ・カー」で濱口はやろうとしたのではないか、ただあの映画は原作者の意向もあったし達者な役者が多く出演したため監督の思いは封印された。やりたいことはこの映画で実現されたのではと思っている。
でもこの世界観はあまりポジティブとはいえない。だから濱口は明確にコメントしていない。次作を観れば多分わかるよね。
コメントありがとうございます。あんちゃんさんのレビューも大変参考になりました。ドライブ・マイ・カーでは、あの演出は成功していると思いました。ただそれは上手な役者がやったからであり、今回の役者には合ってなかったように思います。それでも途中までは見られましたが、最後は?です。娘が倒れているところを見付け、父もシカに倒されて、高橋が逃げるで終わっても良かったと思います。映画祭で賞は取れないかもしれませんが。