「宗教保守としてのエルヴィスによる美少女プリシラ育成ゲーム。結果はバッド・エンド?」プリシラ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
宗教保守としてのエルヴィスによる美少女プリシラ育成ゲーム。結果はバッド・エンド?
アメリカにも、こんな「偽ロリ、隠れ巨乳」のアニメキャラみたいな美少女(ただし26歳)が存在したんだなあ……というのが最大の衝撃事か(笑)。
ケイリー・スピーニー。しかと覚えました!
正直なところ、エルヴィス・プレスリーにもソフィア・コッポラにも個人的にあまり関心はなかったのだが、最近『ゴスペルシンガー』というあまりにも衝撃的な小説を読んだせいで、つい『プリシラ』のほうも観てみたくなった。
『ゴスペルシンガー』は1968年にハリー・クルーズによって書かれた南部犯罪小説で、美しい容姿と天使の歌声をもつカリスマ歌手「ゴスペルシンガー」が、出身地である「どん詰まりの街」ジョージア州エニグマに帰還するところから話は始まる。
カリスマの帰還と熱狂の渦は、やがて周囲の人々を狂わせ、街そのものを狂わせてゆく。
犯罪者と狂人とフリークスが跋扈し、殺意と狂気と混沌が支配する、どこまでも危険で、信じがたいほどに魂を揺さぶる南部小説の傑作だ。
実は、この『ゴスペルシンガー』の映画化を、自らの主演で熱望したスターがいた。
他ならぬ、エルヴィス・プレスリーである。
(結局は映画にも登場するトム・パーカー大佐に反対されて、実現しないのだが。)
エルヴィス自身、歌手としてのルーツはゴスペルにある。
両親は極貧だが熱心なプロテスタントのペンテコステ派の信徒で、幼いころからエルヴィスは黒人のゴスペルに親しんで育ち、リバイバル(信仰復興集会)に足しげく通っていた。
彼がグラミー賞を獲ったのも、ゴスペルによってである。
エルヴィスは、「南部の片田舎の貧困層から成り上がった白人歌手」&「キャデラックに乗って街に帰還するカリスマ」&「宗教的帰依が生活の根幹にあるキリスト者」であるゴスペルシンガーの姿に、まさに「自分の分身」を観たのだ。
彼が『ゴスペルシンガー』を読んで、自身の主演映画に切望したのが70年。
プリシラとの結婚が1967年。リサ・マリー誕生が68年。ライブの再開が69年。離婚が73年。
本作『プリシラ』が描いている時期は、まさにエルヴィスが『ゴスペルシンガー』と「ニアミス」した時期とかぶっている。
実際、映画のなかには、エルヴィスが出演作の脚本をぶん投げて「どいつもこいつもみんなクズ脚本ばっかりだ」と怒り狂うシーンが出て来る。
彼は演技派の本格俳優を志望しながら、常にお気楽歌謡映画の企画ばかりをあてがわれることに心底疲弊していた。
また、彼がスピリチュアル本の熱狂的な愛読者だったことも、映画内では(半ば否定的に)描かれている。そして、それを「大佐」の命令ですべて「焚書」したことも。
きっと彼はああやって、ベッドで『ゴスペルシンガー』を読んだのだろう。ショー・ビジネスの世界で圧し潰されそうになって、自我の崩壊と家族の危機にある自らの境遇と照らし合わせながら。そうして彼は作品におおいに共感し、映画化を切望した。
だが他の多くの事例と同様に、彼の夢は「大佐」の反対にあって実現することなく終わる。
ちょうど、エルヴィスを強力に支配しようとする「大佐」の姿は、『ゴスペルシンガー』に出て来る懺悔師兼マネージャーともろに被る。
『プリシラ』のなかでは、エルヴィスの意外なまでに禁欲的で宗教的な一面も描かれている。といっても、彼は道徳的な聖人君子からは程遠い浮気男だし、女性を威圧することで抑圧する父権的な存在として「否定的」に描かれているのだが、少なくとも結婚観やセックス観に関しては、ずいぶんと旧弊な感じがする。
ここで、彼の根幹に常にあったのが、プロテスタントとしての篤い信仰と南部独特の宗教的熱狂だということは、強調しても強調しすぎることはない。
エルヴィスは「大スターのくせに宗教にかぶれてのめり込んでいた」人間というわけではない。
彼は「ペンテコステ派の熱烈な宗教者が、自らの価値観の延長上で大スターに成り上がった」存在なのだ。
ペンテコステ派とはプロテスタント系福音派のうち、「聖霊による洗礼」と神の存在を実感するような宗教的体験(聖霊体験)の追求を信念として掲げる教派であり、神との結びつきを育むために、歌やダンスなどで激しく感情を高ぶらせる「法悦(エクスタシー)」を重視する。エルヴィスが生みだしてきた熱狂的なライブの数々は、まさにこの延長上にあって、彼のなかで音楽活動と宗教とは切っても切り離せないものだった。
この感覚は『ゴスペルシンガー』を読んでいても、ひしひしと伝わって来る。
黒人音楽とペンテコステ派の宗教的法悦が、貧困層出身の白人であるエルヴィスという触媒を通じて集約され「世界言語化」していく流れこそが、50年代アメリカ音楽シーンの裏潮流といってもよいだろう。
そして、この保守的なプロテスタント(福音派&ペンテコステ派)がライブ的な熱狂をベースに絶大なる支持を打ち出しているのが、他ならぬ「ドナルド・トランプ」だということ。
ハリウッドはきたる大統領選に向けて、トランピスト達と敵対しているということ。
本作が女性監督による女性映画であり、フェミニズム映画であるということ。
このあたりさえ押さえて観れば、だいたいこの映画の本質的な部分はほの見えて来るはずだ。
― ― ―
『プリシラ』はある意味、奇妙な映画である。
表面上はシンデレラ・ストーリーとその後の結婚生活の破綻を描いた女性の一代記であり、内実としては女性の自立と解放を謳ったフェミニズム映画なのだが、どちらの観点に立って観たとしても、なお勘所のイマイチよくわからない映画だという印象は否めない。
この感覚を引き起こす最大の原因は、プリシラがエルヴィスに見初められて、プリシラもエルヴィスに一目ぼれして、二人が愛し合い、同棲し、結婚するに至るが、やがて摩擦が起き、不和が生まれ、離婚にいたるという一連の過程において、「ぱっとわかるような感情のロジック」がほとんど呈示されないからだと僕は考える。
もちろん、本当の恋なんてそういうものなのかもしれない。
ひと目見ただけで「ビビッと」来ることだってあるだろう。
だが通例、この手の映画だともう少しは「好きになる理由」「嫌いになる理由」がドラマティックに描かれるものではないだろうか。
たとえば、あれだけパリピ剥き出しのさみしんぼうで、いつも取り巻きを集めて空騒ぎしているエルヴィスが、なぜ包容力やエネルギーとは対極にあるようなプリシラを見初めたのか。他のグルーピーが皆いかにもアメリカのグラマラスな姉ちゃんたちなのに、なぜ14歳の少女に恋をしたのか。敢えて無垢な少女を恋愛対象に選んでおきながら、ゴテゴテと大人のケバい格好をさせたがるのは何故なのか。
プリシラのほうも、基本的には恋に恋する少女として描かれていて、総じて主体性のない恋愛に終始している。彼女がエルヴィスの本質や闇の部分と真正面から向き合っているとはいいがたく、その証拠にこの映画にはエルヴィスのアップのショットや、本音と本音でぶつかり合うようなシーンが終盤までほとんど出てこない。彼女はエルヴィスに恋焦がれているように見えて、その実、彼のことをちゃんとは見ていないのだ。
お互いが、相手に「美少女/大スター」という「アイコン」だけを見ていて、その中身についてはあまり気が行っていない感じというか、お互いに自分の理想を押し付け合っているだけの非常に幼い関係性というか。
プリシラを「自分好みの女」に仕立てようと、髪色からメイク、ファッションまで口出しするエルヴィス。
ほとんどいいなりに、カジノやらパーティに付き合って、挙句の果てにLSDにまで手を出すプリシラ。
プリシラのことは基本的に大切にしながらも、留守がちで外でも他の女とヤリまくり、たまに癇癪を爆発させて手がつけられなくなるエルヴィス。
ほとんど相手のことは知ろうともしないのに、浮気の情報や証拠に関してだけは逐一チェックしていて、嫉妬の炎をいっちょまえに燃やすプリシラ。
なんか、ずぅぅぅっと、二人とも何考えてるのかよくわからないし、何かを変える努力もしないでただ単に不満げに過ごしていて、十分いろいろと恵まれているのに退屈そうで無気力そう。
正直言って、最後まで感情移入のとても難しいカップルだった。
気になる部分は他にもたくさんあって、たとえばプレスリー一家とプリシラの関係性があまりに表面的な部分でしか扱われない点、プリシラとエルヴィスの結婚において主導的な役割を果たしたトム・パーカー大佐(話題作りとして策謀した)がほとんど出て来ない点、愛する娘の運命をエルヴィスに託すという重要な決断を下している割に本気度がやけに薄く見えるプリシラの両親の「放置ぶり」、ただ取り巻いているだけで風景か置物のようにしか扱われないメンフィス・マフィアの面々、プレゼントとして出てきただけでいつの間にか姿を決してしまうワンちゃん、一人娘の割に可愛がるシーンがあまり出て来ないリサ・マリー・プレスリーなどなど。
要するにこの映画では、プリシラとエルヴィスに限らず、大半の登場人物が「ただ出ているだけ」で「たいした葛藤の描写もなく」「熱が薄い」傾向が強い。
これは結局のところ、本作が「プリシラの目を介して見たエルヴィス周辺の物語」であることに起因するのだろう。精神的に幼かったプリシラは実質的にエルヴィスのことも、エルヴィスの取り巻きのことも、家族のことも「ちゃんと見てはいなかった」。そのことが、本作の登場人物全体が奥行きや情動を欠き、薄っぺらに見えることにつながっているのかもしれない。
もともと『私のエルヴィス(Elvis and Me)』という原題の自叙伝を映画化するに際して、敢えて『プリシラ』と改題しているだけあって、この映画は「プリシラ視点で描く」ということについては徹底されている。
そこに、ソフィア・コッポラのフェミニズム的視点が加わり、イプセンの『人形の家』のノラのように、自立心を涵養して支配的な家長の束縛から脱し、女性として一人生きる道を見出すといった筋書が強調されている。あるいはバーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』およびその映画化である『マイ・フェア・レディ』のイライザや、『源氏物語』の紫の上のように、「少女を自分好みの女に育てあげようとする大人の男のグルーミング」の気持ち悪さが強調されている。
結果として、プリシラにとって都合の悪い要素や、制作陣が描きたいプロットと「反する」要素はオミットされる傾向にあり、プリシラが最終的に「浮気」をしたせいで結婚生活が破綻した事実や、離婚してからも二人が友人として生涯交流を保っていた事実などは概ねスルーされている。
結局のところ、映画の印象としては「ドラマが薄い」。
これに尽きる。
保守的なプロテスタント界隈に対する反トランプ的な非共感。
南部における女性の扱いに対しての進歩的立場からの反感。
ピグマリオン効果に対する女性の立場からの生理的嫌悪感。
このへんの政治的・思想的な立ち位置はよく伝わってきた。
ただ肝心の恋愛劇としては、感覚が鈍くて情動の薄い人達が、なんとなく成り行きでくっついたり離れたりしているようにしか思えない、退屈な展開に終始していたように思う。
最後に音楽に関していうと、敢えてエルヴィスの歌も歌唱シーンもほぼ使わないという選択は果たして本当に良かったのかどうか(なぜここまで?)。
流れていた50~60年代の音楽については詳しくないのでよくわからないが、冒頭でドヴォルザークの『新世界より』第二楽章のジャズ風編曲、中盤のライブシーンのOPでリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』のロック風編曲が流れたのにはちょっと驚いた。あと、ラストで流れてた「オールウェイズ・ラブ・ユー」はなぜホイットニーのカバー?と思ったが、あの曲ってもともと昔のカントリーのカバーでこっちが元曲なんだってね。で、エルヴィスもカバーを望んだけど、大佐の介入があって先方に断られた、と(笑)。
「エルヴィスが望んだけど手に入らなかったもの」つながりで言うと、立ち去っていくプリシラに被せるには最高の選曲だったのかもしれません。
じゃいさん、ストーカーみたいですみませんでした。レビューが面白いなあと思うと他にどんな映画をご覧になっているのか思わず追ってしまう癖があって失礼しました。コメントありがとうございます!
映画「プリシラ」でこんなに濃いレビューを読むことができるとは!ありがとうございます。つい最近、北米の保守プロテスタントが厚いトランプ支持層を形成していることを何かで読んで愕然としてながら、当然かなあと思いつつ、結構ショックだったのでタイムリーなレビューでもありました。キリスト教関連でヨーロッパでカルト認定されているのは全部プロテスタントと言っていいかと思うのですが、メイフラワー号に乗って新大陸に渡った人達はそういう方向に収斂しなければ生きていけなかったのか、と思ったりもしました。『ゴスペルシンガー』読んでみようかな