「推しと結ばれたオタクは幸福になれるか」プリシラ パングロスさんの映画レビュー(感想・評価)
推しと結ばれたオタクは幸福になれるか
本作、韓国発ドキュメンタリー映画『成功したオタク』の姉妹編として観るのが、結構正解なのかな、って気がします。
すでに21歳にして全米第1位のレコード売上を記録したビッグスターであったエルヴィス・プレスリー(1935-1977)。
1958年、23歳にして徴兵を受け、陸軍兵士として西ドイツの米軍基地にて2年間の軍務をつとめていた。
1959年、そのエルヴィスと会えるパーティに来ないか、と彼の米軍の同僚に誘われたのが、空軍将校ポール・ボーリューの娘プリシラ(1945- 1977)。
※ただしポールはプリシラの母の再婚相手
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【以下ネタバレ注意⚠️】
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もともとファンだったプリシラは、実際に会えたエルヴィスに夢中に。
エルヴィスの方も、プリシラにぞっこん。
満期除隊して帰国すると、ポールら反対する両親を説得して、メンフィスの大豪邸にプリシラを引き取り、生活を共にすることになった。
家には常に自分の父親がいて厳しく管理するし、カトリックの学校に通わせるから、と。
共同生活を始めてみると、意外なほど、エルヴィスは禁欲的。
プリシラの方から求めても、まだその時ではないと関係を進めようとしなかった。
ついに二人が正式に結婚したのは、出会って8年後の1967年。
その9ヶ月後には、早くも、一女、リサ・マリー(1968-2023)が誕生した。
しかし、エルヴィスは、相変わらず、妻を家に残して、ツアー先やハリウッドで浮名を流すことを辞めない。
おまけに、ドラッグに依存したり、宗教本に夢中になったりすることにも、プリシラは付いていけなくなる。
1973年、プリシラはエルヴィスのもとを去り、その秋、正式に離婚した。
‥‥とまぁ、現在も活躍している、プリシラ・プレスリーの『私のエルヴィス』(1987年)をもとに、ソフィア・コッポラが映画化。
だから、ほぼ完全に、「プリシラ目線」でエルヴィスの姿も描かれている。
Wikipedia の「エルヴィス・プレスリー」だけ見ても、二人の離婚前に、プリシラの不倫があったと書かれているが、本作では、その点には一切触れていない。
そもそも、本作のエルヴィス役、ジェイコブ・エロルディは、背だけはやたら高いが、歌やパフォーマンスを披露するでもなく(一応それらしいシーンはあるがジェイコブが実際歌っているかは分からない感じでボヤかして映すだけ)、プレスリーの代名詞とも言うべきエロティックな色気は全然感じさせない、実につまらない男だ。
ロックンロール・キング、ビッグスターとしてのエルヴィス・プレスリーを知りたければ、じかに楽曲や本人の映像なり、別の映画を観てよ、ってことのようだ。
プリシラを演ずるケイリー・スピーニー、2018年に18歳で映画デビューとのことだから、今年23歳だろうか。
やたら背が高いジェイコブに対して、ケイリーは女性としても、かなり背が低い。
本当にJK、女子中学生のように見える。
美貌というより、可憐な可愛らしさが何より魅力的だ。
その幼い美少女にしか見えないケイリーが、いくら「推し」からの誘いだからといって、独占欲の塊のような大男に自宅という名の牢獄に監禁され、アルバイトをする自由さえ奪われている様子は、あまりにも残酷で見ていられなかった。
おまけに、エルヴィスは、流行の最先端か知らないが、プリシラを自分好みの女にするために、着せ替え人形よろしく、髪の色、ヘアスタイル、ファッションと、身にまとう全てのものをお仕着せして来る。
可憐で可愛らしかったプリシラが、似合わないケバい姿に変わって、次第に生気が無くなっている行く様を正視できなかった。
エルヴィスの偽善的なクズ男ぶりも相当なもの。
ダメ男が、成長前の無垢な少女をとらえて、昆虫採集のように、そのまま自分の檻に囲う。
『源氏物語』の「若紫」以来、洋の東西を問わず、繰り返されてきた男性による女性への迫害の典型的な形ではあろう。
しかし、実際に、子どもにしか見えない若い女優ケイリーが、身勝手なエルヴィスの動く着せ替え人形にされているのは見ていられなかった(同じことの繰り返しばかりにてスミマセン)。
ところが、リサが生まれてから、二人の進む道は、ハッキリと分かれていく。
プリシラは、女友達と自由に過ごす時間が増え、自ら車を運転する。
その顔は生気を取り戻し、化粧もファッションも、ナチュラルな身の丈にあったものに変わっていた。
エルヴィスの方は、ラスベガスのステージを、ドラッグ中毒でラリったまま、つとめるようになり、プリシラからの別れの言葉も夢うつつの状態で受け流すしか出来なくなっていた。
本作のラストは、そんなエルヴィスに未練を見せることもなく、自らハンドルを握って、どこかに向かうプリシラの横顔を映して終わる。
‥‥つまり、本作は、エルヴィス・プレスリーの伝記でないことはもちろん、プリシラの伝記でさえないのだ。
ついつい「推し」と結ばれる、という夢の実現にのみ思いを託した少女。
彼女は、果たして幸せになれるか、その一点のみを描こうとした作品なのだ。
結果はあまりにも悲惨で残酷。
その地獄から逃れるには、自力で脱出するしかないのだよ、
それがソフィア・コッポラの言いたいことだったはず。
そう考えれば、言いたいことは、伝わる映画ではあった、
ってなところかな。
それ以上は何もない、ってか。
そうそう、開幕冒頭は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の編曲版でしたね。
ベガスのステージで使っていたリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」みたいに、これもエルヴィスゆかりの曲なのか知らん。
※本作、プレスリー財団からの許諾が得られず、エルヴィスのオリジナル楽曲は使用してないとか