「旧約『ヨブ記』を思わせる、報われないダークヒーローと神(GOD)と犬(DOG)の物語。」DOGMAN ドッグマン じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
旧約『ヨブ記』を思わせる、報われないダークヒーローと神(GOD)と犬(DOG)の物語。
『JOKER』みたいな話かと思ったら、
デイヴィッド・クローネンバーグの『ザ・ブルード 怒りのメタファー』と、
ディズニーの『101匹わんちゃん』混ぜたみたいな話だったな(笑)。
あるいは、『銀牙 ―流れ星 銀』とか。
アメコミヒーローでいうと、キャットウーマンの犬ヴァージョンといったところか。
にしてもこれって結局、
「GOD」を裏から見たら「DOG」だよね、
ってひとネタを膨らませただけの映画でしょう?
よくこんなの撮るよなあ(笑)。すばらしい。
宗教映画にして、お犬様の映画。
『ザ・ブルード』の「怒りの侏儒軍団」の代わりに、
犬が手足になってドッグマンのために頑張る映画。
女装家(トランスヴェスタイト&ドラァグクイーン)、虐待児童、身体障碍者(下肢麻痺)、保護犬、と徹底して「少数者/被差別者」に寄り添ったダークヒーローものでもある。
期待していたよりは、やけにチープでキッチュな映画だった。
でも、こういうリュック・ベッソン、俺は嫌いじゃない。
この人の本質は、むしろ徹底的なおバカさ加減にあると思うので。
頭の良い監督なので、デビューからしばらくは『グラン・ブルー』『レオン』『ニキータ』と、マトモな監督の振りをしてみせていたけど、演出の端々に「どこかおかしい」気配はなんとなく漂わせていた。
それが成功を収め、全権的な企画決定権を手に入れたとたん、いきなり『フィフス・エレメント』でその本性をあらわにしてみせた。
なんだこのおバカ映画?? 封切りで観に行った僕は最初軽く怒りまで覚えていたが、そのうち馬鹿笑いしながらリュック・ベッソンのファンになってしまっていた。
とりとめのないガキの夢想をそのまま映画にしたような変態映画。
なるほど、この人は本当はこういう心底どうでもいい映画を撮りたくて撮りたくて仕方がないのに、ぐっと我慢して今までマトモなふりを偽装してたんだな。
その心意気や良し。そうさ、監督なんてやりたいようにやればいい。
その後のタランティーノばりのB級活劇愛好路線は、みなさんもご存じの通り。
しかも、脚本・製作も含めて只事じゃない量産体制を敷いて娯楽映画界に貢献している。
ついでに、次々と娘みたいな齢の奥さんをすげかえていったり(ヒロスエ含む! あれでヒロスエが壊れたのをみんな忘れてるようだが俺は忘れていない)、セクハラで訴えられまくったりと、私生活がクッソろくでもなさそうなのもひっくるめて、俺はリュック・ベッソンが嫌いじゃない(笑)。
今回の『ドッグマン』は、あからさまに監督が「撮りたい」映画を「好きに」作った匂いが充満している。なんでドラァグクイーンなのか。なんで犬が自在に操れるのか。なぜに「死刑執行人」との対決シーンがあれだけチープなコント仕立てなのか(ほとんど『ホーム・アローン』だよね、あれw)。
いろいろとバランスの悪いところも含めて、リュック・ベッソンの男気と稚気と個性とやる気があふれかえっている。
俺は、こういう映画が嫌いじゃない。
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本作の本質は、「宗教映画」なのだと思う。
幼少時から、ただひたすら神に試練を与え続けられる男。
そんななか、必死で生き続けなければならない辛い定め。
神を篤く信仰しているのに、神に振り向いてもらえない人生において、宗教は何のためにあるのか。神は自分に何を期待しているのか。
ここで扱われているのは、旧約聖書における「ヨブ記」に相当する重大なテーマだ。
いわゆる「神の試練」というやつである。
神(もしくは神と賭けをしたサタン)に10人の子どもの命を奪われ、すべての財産を奪われ、全身を覆う皮膚病に苛まれ、路上生活者にまで身を落とした義人ヨブ。どれだけマジメに生きても奪われるばかりの人生で、なお信仰は生きる拠り所たりうるのか? いかに正しく生きても試練ばかりを与えてくる神は、はたして信用たり得る存在なのか?
リュック・ベッソンが『ドッグマン』の全編を通じて必死で思索しているのは、まさに「呼びかけに応えない神」の意図についてだ。
その意味で、彼が本作に託したテーマはベルイマンやパゾリーニにも近いものだといえる。
教会前に落ちた十字架の影のなかでダグラスが横死するシーンは、まさに象徴的だ。
「I’m standing for you!」
これは、自分の脚で立っているという状況を表わすと同時に、「私はあなた(神)のしもべです」というイデオムにもなっている。
彼は、神の代わりに遣わされた守護天使たちである犬(GODの逆位)に見守られながら、神の恩寵を賜るかのように天へと召されていく。
教会、犬、野垂れ死に。あれ? なんかデジャヴがあるなと思ったら、『フランダースの犬』だったか。「もうこれからは寒いことも、哀しいことも、お腹がすくこともなく……」ってやつですね。……(涙)。
まあ、犬たちは別段ダグラスと一緒に天に召されるわけではなく、ちゃんと新たな「宿主」候補をすでに嗅ぎつけているんですけどね。……(笑)。
(書いた後で人の感想で「死んでいない」説を見て、ああそういう可能性もあるのかとw まあ続編の出だしですっくと立ちあがっても別におかしくはないんだな……盲点でした)
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俺の実家は、犬を飼う家だった。
小学生のときは、柴犬、シェパード。
中学のときからは、ラブラドル・レトリーヴァー。
社会人になってからは、プードルとエアデール・テリア。
プードルには両親が子供も産ませて、最大で9頭が家のなかで暮らしていた。
なので、俺にはダグラスの言っていることがよくわかる。
よくわかるというか、当たり前のこと過ぎて、聞き流してしまうくらいだ。
犬は人間より信用できる。
犬は強くて勇敢だけどおごらない。
犬には人間の美徳がすべて備わっている。
犬を愛するほうが人間を愛するより容易い。
そりゃそうだ。俺もそう思う。犬は無条件に素晴らしい。
だが、ダグラスはその犬を使って犯罪をおかす。人を殺める。
犬に悪いことや殺人・食人までさせて、はたして愛犬家と言えるのか。
きっと犬好きのなかには、この映画にそんな反感を覚える人もいると思う。
ただ、これだけはいえる。
ダグラスにとって、犬はもはやペットでも友達でも仲間でもない。
犬は彼の一部であり、彼の生存本能の発露であり、彼と連動した「環境」そのものなのだ。
彼が生きるためにあがくとき、無条件に犬は彼のために動く。
彼が念じただけで勝手に最善の状況を組み上げていく。
それはすでにリアリティを超えたある種のオカルトであり、
宗教的にいえば、いわゆる奇蹟(ミラクル)というやつだ。
神はダグラスから、すべてを奪った。
代わりに神はダグラスに、犬を与えたのだ。
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犬を手足に使って戦うといって、パッと思いつくのは、
●『刑事コロンボ』の第44話「攻撃命令」(2匹のドーベルマンに「殺しの合言葉」を覚えさせて、それを口にさせることで妻の愛人を遠隔で殺そうとする話)
●テレビドラマ『爆走!ドーベルマン刑事』(原作の要素が人名以外何一つ残っていない珍品中の珍品。犬みたいな刑事の話だったのが、なぜか警察犬を使役する黒バイ隊の話に!)
●テレビドラマ『標的』第7話「殺意の調教」(多岐川恭の『的の男』を原作とする珍品)
●テレビドラマ『闇を斬れ』(天地茂主演の時代劇で、隠密犬の甲斐犬、風林と火山が大活躍する)あたりか。
あとは、『ジョン・ウィック』とか『少年ジェット』とか『猛き箱舟』の野呂とか『キャシャーン』とか『サスペリア』のダニエルとか。
犬小屋で人が飼われている設定だと、ジャック・ケッチャム原作の『ザ・ウーマン』とか。
なんにせよ、ダグラスの能力はちょっと単なる「犬を飼いならして」いる域をはるかに超えており、テレパシーの範疇に属する能力を発揮している。
最近のラノベで死ぬほど出てくるファンタジー職業「テイマー」(モンスターを手なずけて使役する職業)に近い存在といえばよいのか。
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この映画で意外に良く出来てるな、と思うのは、主人公であるダグラスを「そこまで追い詰めきらない」ように、絶妙のさじ加減で「ゆるさ」が調整されているところだ。
たとえば、ダグラスは過酷な少年時代を生きるが、お腹に子供を抱えたお母さんはなんとか家を脱出することに成功する(『ザリガニの鳴くところ』を彷彿させる展開だが、こちらの子どもはしっかり汚く臭そうに描いているので、10倍『ドッグマン』のほうがまともな映画だと思う)。
保護施設でも、ダグラスは意外なほどに幸せな日々を過ごしている。
演劇少女との初恋は悲しい結末を迎えるが(『オペラ座の怪人』みたい)、少女は女優としてそれなりに成功して子供を2人作って引退する。そのあたりも変にドロドロさせたり、ダグラスに新たな罪を負わせたりしない。
ドッグシェルターを追い出されるのは災難だが、彼らは独力で自分たちの城を手に入れ、泥棒稼業ではあっても、自給自足の生活をちゃんと成立させている。
少なくともゲイバーでの毎週金曜日のショーは、ダグラスの表現者としての承認欲求を大いに充たしたことだろう。店のドラァグクイーンたちはみんな優しく親切だ。ここでも製作者はダグラスに「癒し」を敢えて与えている。
その後、彼らは何度か人間に手をかけることになるが、経緯を見るといずれも正当防衛に近いもので、なるべくダグラスに対して観客のヘイトを溜めないように気が配られている。
こうして、観客は「適度にダグラスに同情する」ように仕向けられ、そこまでヒリヒリしない微温的な空気のなかで、ダグラスの「活躍ぶり」をそこそこ楽しめるようにもてなされる。物語が拘置所での「昔語り」としてフラッシュバックで語られるのも、緊迫感を高め過ぎない穏やかさを生んでいる要因だといえる。
リュック・ベッソンは『ドッグマン』を、極限まで悲惨な物語にはしたくなかった。
彼はおそらくなら「寓話」を撮りたかったのだ。
あるいは「御伽噺」を。
ダークでキッチュではあっても、敢えてリアリティは欲しなかったし、ダグラスを気分が悪くなるほどに追い込みたくはなかった。
魔法の使える足萎えの青年と使い魔たちの物語は、メルヘンでなければならなかった。
その意味では、監督の意図は多少雑にではあっても、ちゃんと成功していると俺は思う。
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音楽に関しては、エディット・ピアフの「群衆」とマレーネ・ディートリッヒの「リリー・マルレーン」が、ドラァグクイーンの演目として印象的に使われていた。
どちらも名曲中の名曲だし、自分にとっての愛聴歌でもあるんだが、これ明らかに口パクで元曲流してパフォーマンスしてるだけにしか聴こえないんだけど、それってどうなんだろう?? 口パクよりはちゃんと本人が歌ったほうがよほど良かった気がするけど。終盤で襲われるシーンでの、マリリン・モンローの「お熱いのがお好き」(モンローつながり)みたいに。
いや、「すげえ声真似」してるんだっていうのなら、それはそれでいいんだけど……。
ちなみに「リリー・マルレーン」は先月映画館で観たクストリッツァの『アンダーグラウンド』で主題歌扱いだった。あと、犬に餌をやるシーンでシャルル・トレネの「残されし恋には」が流れていた気がするが、ついこのあいだ映画館で観たジャン・ユスターシュの『ぼくの小さな恋人たち』のOPがトレネの「うましフランス」だった。
こういうのって、不思議に被るよね。
あと、保険屋と金の話をするときに、ダグラスがいきなり「マニ、マニ」と歌い出して、「マジ? ビリー・アイドル??」と一瞬思ったが、よく考えたらABBAだった(笑)。
あと、どうでもいいことだけど、『マエストロ』『枯れ葉』『瞳をとじて』『落下の解剖学』と、最近観た新作ではみんな主人公がバンバンに喫煙してるなあ。これも時代の揺り戻しってやつか。
最後に、パンフ掲載の風間賢二先生の解説は必読!! これこそが映画解説っていう腑に落ちまくりの分析になっていて、やっぱり他の論客とは格がぜんぜん違うなと改めて感心しきりでした。
じゃいさん、ご返信ありがとうございます。
いやぁ、何かレビューコメントで事務連絡やり取りして意味不明だと思いますので、他の方向けに説明しますと、中華系カルトノワール『ゴールド・ボーイ』の全編にてマーラーの交響曲第5番が妙な使われ方をしてますって情報を、マーラーファンのじゃいさんにお伝えしたのです。
さて、『ドッグマン』もようやく観ました。
私は、これベッソン流の受難曲ないしモノオペラとして楽しみました。
ドラァグクィーンのショーは生で観たことなくて詳しくないのですが、リップシンク芸が定番らしいので、女装ダグラスもその芸を演じていたのだと思いました。
(フォローさせていただきました。)
Filmarksからの出張でした。