愛を耕すひとのレビュー・感想・評価
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居場所を求めて
みんな大好き、マッツ・ミケルセン。待ちに待った主演作がようやく公開…!と、家族揃っていそいそ某シネコンに向かった。ハリウッド大作での悪役や「ライダーズ・オブ・ジャスティス」等のマッチョぶりが印象的な子らには、本作のマッツは少し意外だったらしい。とはいえ、さすが!やっぱり!な、彼の魅力あふれる作品だった。
時は18世紀。プロイセンとの戦いに敗れ、国土の半分弱を失ったデンマークは、ユトランド半島の開拓をの余儀なくされた。農民上がりの退役軍人・ケーレン大尉は、起死回生を狙うべく、先人たちが断念してきたヒースの開墾を名乗り出る。(キリスト教思想家・内村鑑三が「デンマルク国の話」で紹介している技師・軍人のエンリコ・ミリウス・ダルガスが、彼のモデルと思われる。)過酷な自然に加え、鼻持ちならない若き地元領主が何かと横槍を入れ、行く手を阻む。なぜここまでして…と思いたくなるが、彼には帰る場所がない。とにかく留まり、荒地を耕すほかないのだ。
物語は、大きな苦難を仲間と乗り越えハッピーエンド…とはいかず、一進一退を繰り返す。広がる空もケーレンの表情も、ひたすら重たく、暗い。唯一明るい光が差すのは、中盤で彼らがわずかに手に入れる、擬似家族のような関わりだろうか。そんな時間も長くは続かず、彼らは幾度となく、様々な人の悪意にさらされる。それでも、ケーレンは怒らない。消え入りそうな命をつなぐために殺された羊や、意味もなく殺戮された馬のつぶらな瞳の方が、むしろ雄弁に生気を放つ。彼が感情を露わにするのは、冷徹な大地に対してのみ。ちいさな芽吹きにほほえみ、霜におびえ、雹に涙する。彼はそうやって少しずつ、人間らしさを取り戻していったのかのかもしれない。
終盤、眉ひとつ動かさず、道を阻む者に発砲するケーレン。返り血を盛大に浴びながら、復讐の道を突き進むヒロイン。「なんか、『ジャンゴ』みたいだったー!」という子の発言に、驚きながらも納得。ドライアイスのように、低温やけどしそうなマッツの情念が、スクリーンにみなぎっていた。
名誉を捨て、土地を離れ、より確かな居場所を手に入れた彼らのまなざしが、今も心に残る。
黙して語らず、挫けず、というキャラはマッツの独壇場
マッツ・ミケルセンがかつては荒野だった母国デンマークの大地にじゃがいもを植え、育て、そして収穫することで実りをもたらした実在の偉人を演じている。主人公はこの一見気が遠くなるような作業をひたすら黙々と、権力による言われのない横槍に耐えつつ遂行していく。これはマッツが過去に演じた『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』(本作と同じニコライ・アーセル監督作)や『偽りなき者』等、黙して語らず、ただ己の信念に従うのみ、という人物像と通底する。この種のキャラクターを演じさせて、マッツ以上の敵役を思いつかない。何しろ、彼には観客の怒りと希望と共感を一身に引き受けて、引っ張っていく牽引力があるのだ。
デンマークの近代史が学べる本作は、同時に、人の心の中に蔓延る根拠のない人種差別を指摘し、カオスの最中にあるヨーロッパの今を予見している。そこに、この映画が今作られた意味を見出した。最後に用意された痛快なエンディングも、"生きていく上で最も大切なものは何か?"という究極の命題を観客に突きつけてきて、納得の1作なのだった。
18世紀デンマークの封建社会に埋もれた、差別された人々の切実な抵抗の人間ドラマ
女流作家イダ・ジェッセン(1964年生まれ)の歴史小説『The Captain and Ann Barbara/大尉とアン・バーバラ』を、ニコライ・アーセル監督(1972年生まれ)が同い年のアナス・トマス・イェンセンと共同脚色して演出した18世紀のデンマークが舞台の歴史ドラマ。デンマーク語の映画タイトルは『Bastarden/私生児』で、英語タイトルが『The Promised Land/約束の地』、そして日本タイトルが「愛を耕すひと」となって、纏めると(私生児で生まれた大尉が、アンという女性と約束の土地で愛を耕す物語)です。原作名含めタイトルが4種類もあるのは珍しい。でも今回マッツ・ミケルセン主演以外の予備知識を持たず、日本タイトルから想像して、ただ土地を耕しながら愛を育む男女の地味な恋愛ものと予想して見始めました。そして観終えて感じたのは、予想不可能で過酷な物語の衝撃故の興味深さであり、同時に残虐な内容を目の当たりにした疲労感でした。それは後半の予想を超える復讐劇の展開の醍醐味と、階級差別と人種差別が人間の生き方を限定した時代背景の無情さ、そして北欧映画の特徴である有りのままの人間を見せる冷徹な表現によるものでした。
デンマーク映画は、映画黎明期から産業として発展した歴史があり、最も有名な巨匠に「裁かるるジャンヌ」(仏・1928年)のカール・テオドア・ドライヤーがいます。ただデンマーク映画の日本公開は少なく、映画界全体も長い低迷期にありました。それが1980年後半から復興して「バベットの晩餐会」「ペレ」「奇跡の海」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」など秀作が生まれ、1995年から“ドグマ95”と言われる正統的な映画作りを目指す運動が起こり、21世紀の今日までの流れになっています。個人的には社会人の忙しさでアメリカ映画の娯楽作品に偏っていたため、それらを全く鑑賞していません。唯一偶然観たスサンネ・ビア監督の「しあわせな孤独」(2002年)には感銘を受けて、この時マッツ・ミケルセンを初めて知りました。
久し振りに観るこのデンマーク映画の演技、演出、映像のレベルの高さは、他のヨーロッパ映画と比較して見劣りがありません。但し時代背景の1755年頃のデンマークの社会や歴史の知識が無いため、初めて知ることの驚きの方が上回ってしまいました。僅かに1756年生まれのモーツァルトの人生から想像するに、神聖ローマ帝国の最後にあたり、1789年のフランス革命によって廃止された絶対王政と身分制度が残っていた時代です。デンマークの歴史を付け焼刃で語ると、14世紀終わりから16世紀始めにスウェーデンとノルウェーを支配下に置いたカルマル同盟の盟主であった時代が最盛期で、宗教戦争から覇権争いに発展した三十年戦争(1618年~1648年)で衰退し小国に転落、大北方戦争(1700年から1721年)で勝利し敗戦国スウェーデンから賠償金と通行税を得て財政が改善される。この間ナポレオン戦争(1796年~1815年)でスウェーデンに敗れるまでノルウェーとは同君連合でした。劇中ノルウェーの貴族の娘エーデル・エレルが従兄で領主のシンケルと政略結婚させられそうになるのは、あくまで国内のお話なのです。とにかくこの時代は絶対君主が様々な因果関係から戦争ばかりしていて領土争いは複雑怪奇です。主人公ルドヴィ・ケーレンが1730年から25年もドイツ軍に勤務し平民から大尉まで上り詰めて祖国に帰って来たのは、当時のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が徴兵制を整備し、続いてフリードリヒ2世が軍事強化から列強の国家に作り上げた背景があったからではと想像します。そして映画に登場するデンマーク王フレデク5世(1723年~1766年)はアルコール依存症だったようで統治に興味なく、映画で描かれている様に大臣らに政策を任せきりだったと言います。登場しても顔を写さないのは、国王として業績を上げた偉人ではなかったからでしょう。ただ一つ良かったのは、在位期間(1746年~)の晩年は戦争を回避したことでした。領土のユトランド半島の3分の2にあたる不毛の荒野を持て余していたこと、現地の封建制の荘園は貴族に任せられて小作農民は奴隷扱いの差別を受けていた。アン・バーバラとヨハネス・エリクセン夫婦の境遇は極端かも知れませんが、国家の管理が行き届かないところでは領主である貴族次第だったでしょう。映画のお話の終わり頃、シュレースヴィヒ公国のユトランド半島は1765年王領となり、農奴制は1805年に廃止されたとあります。
領主と契約農奴の間に生まれたケーレンは、私生児として厳しい環境で育ったことは間違いありません。25年の軍隊生活で出世し大尉まで上り詰めたのは、更に祖国で誰も成し遂げていない荒れ地開墾の偉業を成し遂げ貴族の称号を得るためであり、それは自らの出自への復讐であった。この人生を思うと、物語で描かれるケーレンの言動すべて理解できますし、時代と身分に翻弄された悲劇として重く悲しく心に圧し掛かってきます。
この階級社会の差別と並んで人種差別も描かれている重層の物語、話の中でデンマーク人とドイツ人の間に放浪の民ロマ人が現れて驚きました。元々はインド北部にいたアーリア人が6世紀から7世紀にかけて世界中に移動した民族、私が小さい頃はジプシーと言っていたものの、現代では差別用語となりロマ人と統一されています。中東欧だけではなかったわけで、ジョニー・デップ主演サリー・ポッター監督の「耳に残るは君の歌声」(2000年)でロマ人がパリにいて一寸驚きましたが、厳しい環境のユトランド半島まで放浪するとは全く知り得ませんでした。少女アンマイ・ムスが盗賊からケーレンの測量助手になるまでの流れから、ドイツ移民から不吉な存在と忌み嫌われアンマイが修道院に送られ、裏切られ失望したアンもケーレンの元を去る。これが伏線となる復讐劇のお話の創作がいい。アンの事件からひとりとなったケーレンは修道院からアンマイを救い出し、2人で開拓を続ける。そして成長したアンマイとケーレンの農場にロマの旅人が訪れ、ひとりの青年と恋仲になったアンマイがケーレンから去っていく。このふたりの関係が『レ・ミゼラブル』を少し連想させるドラマ性が好感持てます。
18世紀の封建社会の絶対王政でもその権威が行き届かない僻地での虐げられた人々の愛と労働を真摯に見詰めた人間ドラマを、北欧映画の辛辣で即物的な演出タッチの厳しい表現力で押し通しています。単に感動とか共感を得ようとした作品でないことは、原作、脚本、演出、撮影と独立した映画技術を持っているからです。但し、この歴史から学んで欲しいとするメッセージ性に、幾分作為を感じるのは個人的見解かも知れません。近年の欧米映画が、ポリティカル・コレクトネスの視点を入れることで、映画としての感動を放棄しているのではないかの危惧を、この映画にも少し感じてしまいました。ヨハネスの拷問シーンや、プロテスタント教会牧師の青年が殺められるシーンは、その残虐さを目的として、観る者に恐怖感を与えています。
それでも主人公ルドヴィ・ケーレンを演じたマッツ・ミケルセンの演技は無条件に素晴らしい。彼の内に秘めた感情の寡黙な表現には深みと的確性が自然と溶け込んで、ケーレンそのものに成り代わっています。敵対するシンケルからクリスマスの残飯を奉仕され、屈辱の想いから怒りに変わるところのこらえた演技の巧さ。「しあわせな孤独」「007/カジノ・ロワイヤル」(2006年)の時以上に感銘を受けました。この映画は、歴史の勉強とミケルセンの演技を堪能すべき作品でした。
生きる糧とは
この映画を鑑賞し終わって、「愛を耕すひと」という邦題は、Bastarden(私生児)という原題よりもこの作品が観る者に与える印象を的確に表しているように思った。
ただ、時間が経過するにつれ、「愛」がテーマの映画と単純に捉えてよいものか?と考えるようになった。
18世紀の王権と封建領主の権力が併存する社会。身分差別、女性差別、人種差別が当たり前の時代。その時代、社会に生きる弱き者たち、差別され搾取される側の者たちが、権力側が投げ出した荒れ地の開拓という困難に立ち向かい、権力に一矢報いる。このストーリー自体に、現代に通じるメッセージとカタルシスがある。それがもう一つのテーマだろう。
そして、その過程の中で、愛を知らない、あるいは愛を失った3人に芽生える、新しい愛の形は、驚くほど静かに、すうっと自然に心に染みこんでくる。それは、理不尽な社会環境と過酷な自然環境の下で、凍えた心を温め合って生きるには、必然なものだからだろう。広大で荒涼とした大地、そして3人の生き様に、原始の人間の本能的なものに触れる感じがした。
恐らく鑑賞した誰もが感じるであろう、主演マッツ・ミケルセン(ケーレン)の圧倒的存在感。寡黙な元軍人の心の移ろいを、表情だけで伝えてくる。荘園領主のフレデリックと対峙する場面、若葉に目を細める場面、アンマイを送り出す場面。言葉を発しなくても、感情が伝わってくる。そして、絵になる立ち姿の凜々しさと言ったら!
アン・バーバラを演じたアマンダ・コリンも、表情の変化に乏しいが、内に秘めたる愛と怒りの放出の演技は素晴らしかった。
栄光と引き換えに失った愛に気づいたケーレンが最後にとった行動は、予想外のものだった。海のそばに住みたいと語っていたアン・バーバラ。海の土を求めていたケーレン。
海は2人の希望の象徴。それを感じさせる静かで心に残るラストシーンだった。
マッツ・ミケルセンの全人的な包容力が見どころ
マッツ・ミケルセンの、寡黙でポーカーフェースの魅力は、デンマーク映画で倍増する。ハリウッド系映画では渋い悪役が多い彼が、母国映画では好感度が高いヒューマニストを演じている。アカデミー賞で長編国際映画賞を受賞した『アナザーグラウンド』でその思いを強くした。
本作は、デンマークの開拓使がテーマ。17世紀に戦争で領土を奪われたデンマークが、国内の荒野の開拓に乗り出した時代の話。正義感あふれる大尉は、王の領地の土地を、荒れ放題にしながら所有権を主張する将校と対立し、単独で荒野を耕すことを選択する。
何がいいかっていうと、デンマークの美しい田園風景とマッツ・ミケルセンの涼しげな表情が、見事にマッチングして、さらに映像が美化されていく点。それと対照的なのは熱湯を浴びせる拷問シーン。そのコントラストに度肝を抜かれる。
脇を固めるデンマーク女優のアマンダ・コリン、クリスティン・クヤトゥ・ソープの優しさも印象的だ。
マッツ・ミケルセンの全人的な包容力のすばらしさをぜひご賞味あれ。
まさに英雄です
さらばハリウッド?!
デンマーク人監督ニコライ・アーセル曰く、はじめからマッツ・ミケルソンを主人公にした映画として構想した作品だという。この監督、どうもハリウッドの水が合わなかったらしく、何かと制約が多いやり方に雇われた感が半端なかったとインタビューで語っていた。今回キャスティングもスタッフもほぼほぼデンマーク人で固めているせいだろうか、アメリカ的な派手さはないものの、北欧映画らしい重厚感溢れる歴史ドラマに仕上がっていた。
時代は18世紀、退役軍人の救貧院からいきなりデンマーク王室に乗り込んだケーレン大尉(マッツ)は、財務省の役人に不毛の土地ユトランド半島の開拓許可を願い出る。「俺たちが50年かけてダメだった土地を開拓だと?やれるものならやってみな」と期待など全くしていない王室の許可を得たケーレンだったが、次から次へとふりかかる試練にもはやギブアップ寸前だった…
映画原題は『BASTERDEN』。「私生児」とか「ろくでなし」「嫌な奴」という意味のデンマーク語だそうだ。地主が手を出した女中の息子であるケーレンの出自そのものを指しているのはもちろん、ケーレンに何かと嫌がらせをする地元“親の七光り”大地主シンケル(シモン・ベンネビヤーク)を何かにトレースしたタイトルとも言えるのではないだろうか。
不毛の土地“ヒース”をいくら精根こめて耕しておじゃがを沢山収穫してみせたところで、所詮は王室に雇われた一開拓者に過ぎず、やれ不法移民(タタール人少女)ではなく正規の入植者であるドイツ人を使えだとか、収穫の半分をよこせば不問に処してやるとか、測量士やら男爵とかの地位につられてその気になっても、結局耕した農地は他人の土地なのである。
そう、まさしくハリウッドの映画制作における映画監督の弱い立場とまんま重なるのである。女優に手を出すは、金で操ろうとするは、そんでもって作品のファイナルカット権は決して手放さないハリウッドと、仕返しに○○○カットされる大地主シンケルが見事に重なるのだ。そんな“嫌な奴”らを、自分の代わりに“デンマークの至宝”マッツにこてんぱんにやっつけてもらった映画なのだろう。
どおりで監督インタビューの中で、ハリウッドやアメリカに対する怨み節がやたらと多かったわけだ。そんなハリウッドをほっぽり出してホームグラウンドにもどってきたニコライ・アーセルは“オスカー監督”という肩書よりも、撮りたい映画を撮れる目の前の幸せに、きっと気づいたにちがいない。ラスト、史実とは異なるケーレン大尉の意外な行動は、まさにそのデンマーク人監督の願望表現だったのだろう。
これぞ男爵芋
荒れ地の開拓を性格のねじ曲がった領主に邪魔しまくられる話。史実に基づいて書かれた原作だそうで、デンマークの王政時代にドン引きする高ストレス歴史ドラマだった。
爵位を得るためとはいえ、不毛地帯でじゃがいもを育てて有効活用させようってのに、宮廷に蔑まれ領主に阻止され、どうなってんだおまえら。
当時デンマークには土地緊縛制度という若い男性を荘園に縛り付ける事実上の奴隷制度があったことと、ずっと荒れ地だったから荒れ地のままにしとかないと王に「おまえら今まで何やってたんだ」と叱られちまうと思っている宮廷と領主が、ケーレン大尉(マッツ)の開拓事業を、あの手この手をつかって妨害してくる。
マッツはいつもどおり悲愴感漂いまくるし、宮廷はやる気なしで失敗すりゃいいと思っているし、酷薄な領主役の人物造形が巧くて憎たらしいのなんのだし、想定を軽く超えてくるトラウマチックなドラマだった。
ちなみに「愛を耕すひと」という邦題はぜんぜん違くて、この題だと激動の開拓史と愛が連動して語られるみたいな寛厚なイメージだが、原題Bastarden英題The Promised Landのモチーフは憎悪や復讐である。
ふぬけた宮廷、くそみたいな領主、有色人種を悪魔だから縁起悪いと言う暗愚な農民、袖しか出てこない王。どこに文明があるんですかという話。
理不尽な事態だらけで、むかつきにムカムカし怒りにぷるぷるするのでJennifer Kent監督のThe Nightingale(2018)の鑑賞体験に似ていた。
このころ日本じゃ蘭学者の青木昆陽が救荒作物としてさつまいもの普及に尽力していた。18世紀から黒船あたりにかけ、西洋世界に比べて日本が立ち後れた文明であったかのように歴史が紹介されているが、こういうのを見ると日本が制度的に成熟していたことが解る。
ヨーロッパてのは王たちが農民を搾取したり有色人種の国々へでかけちゃ植民地化・奴隷化しているだけで、なんも有用なことはしていなかった。
バイキングが海賊業なのは後世の盛り話だがデンマーク人が血の気の多い民族なのは間違いないと思った笑。
傑作Riders of Justice(2020)や特捜部Qのライターであるニコライアーセルが監督。デンマーク映画のクオリティの高さを感じるいい映画だった。
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映画
愛ありてこそ・・・荒地にて(18世紀デンマーク)
1人の退役軍人(マッツ・ミケルセン)のヒース(荒れ地)開墾史
デンマークの至宝・マッツ・ミケルセンあってこその説得力でした。
重厚でドラマティックな歴史叙事詩。
何よりマッツ・ミケルセンの哀愁に満ちた暗い瞳が多くを語ります。
デンマークの18世紀、国土の3分2は石ころだらけの荒れ地(ヒース)でした。
1755年。
退役した大尉ルドヴィ・ケーレン(マッツ)は、荒れた国有地を
豊かな農地に開拓しようと入植する・・・それもたった1人と馬1匹で。
その土地には地主としてデ・クレールという名の悪徳領主が君臨していた。
ケーレンはデ・シンケルに目の敵にされ開拓を妨害され、
やっと雇った農夫(クレールから逃げた男)は、
見せしめに目の前で煮え湯をかけられて殺されます。
それでもケーレンはおしゃまな小娘でタタール人(スラブ系正教徒)の
アンマイ・ムスを教えて手伝わせたり、殺された農夫の妻アン・バーバラと
共にヒースにジャガイモを植えます。
翌年にはジャガイモを収穫します。
そのことが余計にデ・シンケルを刺激します。
チカラをつけるケーレンを畏れたのです。
妨害はエスカレートして、手伝いに来たドイツ人入植者を殺して、
家畜も殺します。
怒ったケーレンはデ・シンケルの手下を皆殺しに、してしまいます。
しかしケーレンはは領主デ・シンケルに捉えられてリンチを
受けることに。
そこで夫を殺されたアン・バーバラはリキュールに薬を混ぜて領主を
ナイフで惨殺してしまいます。
釈放されたケーレンですが、ドイツ人は逃げてもういません。
アン・バーバラも牢獄の中。
思いあまったケーレンは修道院に預けたアンマイ・ムスを迎えに行きます。
開墾も続いて、ジャガイモ畑は豊かに実っています。
しかし成人したアンマスの元へタタール人の放浪の民が、
小さな仕事をもらいに来ます。
アンマイは青年に恋をしてタタール人人と、旅立って行ってしまうのです。
ケーレンの瞳に滲む涙。
国王はケーレンに男爵位と毎月の賃金を渡すと言いケーレンの苦労は
報われるのです。
しかしケーレンの心を占めるのは喜びや達成感より、
アンマイもアン・バーバラも失った喪失感でした。
1755年に入植して8年。
1763年ケーレンは開拓した土地を捨てて、
何処かへともなく消えてしまいます。
幻影かもしれませんが、アン・バーバラを馬の背に乗せて、
2人で海の見える丘を走る一頭の馬。
これが願望ではなく、本当に実現していたら、
どんなにいいでしょう。
荒れ地を耕す原動力は、
愛する人と共にあればこそ。
愛ありてこそ、ですね。
マッツを観たくて鑑賞したら愛について考えさせられる作品だった
愛を耕す人
壮大な奇跡と感動というよりは、シリアスな映画。 一人の男の威厳ある人生を描いたもので、こういう男性に魅かれる私って感じかな。
自分にとっては愛の物語だった
美しい愛の物語です。
心に沁みる素晴らしい作品でした。上映館が少なくなるなか観れて本当に良かったです。
デンマークを認識したのは、かつて植民地であり今も自治権があるグリーランドをトランプ大統領がアメリカが所有すると意欲を示した時くらいであり、世界地図を見てもどこにデンマークはあるのかもすぐには探せない程度で知識は全くありませんでした、。
18世紀のデンマークは特権階級の貴族と一般労働者とでは天と地ほどの格差があり土地を所有する領主が偉くて土地を使わせてもらってる小作人である領民が貧乏に苦しんでいた(昔の日本も同じか?)。だから、元庭師だったが軍にいる間に不屈の努力(たぶん)で大尉まで上り詰めたケーランは(国王が開発を望んでいる)不毛の土地を自分の年金を使い開墾することを了承させ、成功すれば貴族の称号をもらえることを約束させる。
しかし簡単に物事は進む訳はなくさまざまな障害と立ち向かっていくが、最大の敵である成り上がり貴族のシンケルは(自分の権益と勝手に思ってる)土地と自身の権力を守る為にありとあらゆる嫌がれせでケーランの事業開発行為を邪魔して、果ては殺人まで(部下を使い)躊躇なく行いケーランを追い詰める。こんな極悪人はなかなかお目にかかれないので、観ている我々は絶谷に許せん!と思ってたらやはり胸のすくラストが待っていてくれた。
敵がいれば味方も生まれてくる。神父のアントンもシンケルのいとこのエレル支えてくれたが、やはり寝食を共にし家族の存在となったアン・バーバラと幼いムスはケーレンの心の支えなった。ケーランを演じたマッツ・ミケルセンはデンマーク出身の世界的俳優だが、目で演技をしてると言える程の内に秘めたあらゆる所作がとにかく素晴らしい。
原作は「大尉とアン・バーバラ」とのこと。夫を殺された後ケーランを支え尽し、ケーランの為に殺人までして収監されたアン・バーバラ。最後にケーランが選んだものは貴族の称号ではなく、、。
この映画が美しい愛の物語であることは、ラストシーンのワンカットで示されました。
今年の私の洋画、トップクラスに当確です。ありがとうございました、。
この人の映画はそこにいるだけで存在感があり、しかもセクシーなんだけ...
この人の映画はそこにいるだけで存在感があり、しかもセクシーなんだけど、史実とのこと。すごい話であり搾取の話。よくある腐りきった官僚たちの話、放蕩息子の領主の話。北欧の文化も大してない国でも名誉が、というかだからこそ名誉くらいしか証明するものがないのか。タタール人、迷信、地主たちの愚かさと保身、友情、愛。ラストシーンは感動的だ。
爵位よりも大切なもの
デンマーク開拓史の英雄、ケーレン大尉を描いた物語。
爵位を求めて開拓に励んでいたケーレンが、数々の困難や妨害を乗り越え、人とのつながりの中で開拓を成し遂げていく姿を、マッツ・ミケルセンが非常に魅力的に演じていて素晴らしかったです。
ラストで、あれほどまでに渇望していた爵位を捨ててアン・バーバラのもとへ駆けつける姿には、たしかに彼が「愛を耕していた」のだと感じられ、邦題の秀逸さにも心打たれました。
その時代を観てるような美しい荒野や衣装や建物は素晴らしいが、 ザザ...
その時代を観てるような美しい荒野や衣装や建物は素晴らしいが、
ザザザ ・王道の完全懲悪で、女性もある程度主体的に描かれているが結局主人公の為の自己犠牲的な都合の良さが否めないので少しモヤモヤする(時代劇なのでこんなものだと思うが)
あんまり好きじゃない映画かな〜
現代は色々秀逸な時代劇が出てきてるから、少し見劣りしてしまう。でも、デンマークメイドのデンマーク時代劇ってゆうのが観れるのは贅沢なのかも。
マッツが、好感度がありすぎるので主人公良い人にみえてしまうが、自己の不遇を立身出世で埋めようともがいたが周りの大事なものが犠牲になりすでに大事なものを持っていることに気付けず(またはタイミングが悪く)結局失ってしまう哀れな人間の話。
原題のBastarden「私生児、ろくでなし」の方がしっくりくる。
比較するとかなりウェットすぎる邦題も残念だな。
一晩考えて何が嫌だったのかまとめてみた。
男性的にみるとこの時代の偉大な功績者、知られざる英雄の発見。ある男の苦悩が描かれているのだけど
女性的に観ると嫌な時代の再生産でしかないただの苦痛の再確認にしかならない。人権のない時代の再確認。何も発見がない。ただ辛いってなってしまうだけ。
映画の歴史的にみると、ニューシネマの時代から男の辛さは描かれている。
男は辛いよ話は死ぬほど描かれ続けているからこそ私はけっこうお腹いっぱいで、今の時代に作られる映画としては何かが足りないと思ってしまう。(女性がそこそこ描かれているからこそ余計にそう思ってしまうのかもしれない)
映画館で鑑賞
やはりマッツか
ストーリーが非常にシンプル且つ普遍的なので、共感できる人も多い作品だと思いました。
権力者の象徴であるシンケルが殺され、英雄の象徴であるケーレン大尉がアン・バーバラと結ばれるラストには救われました。それに、アン・バーバラが勇ましくて最高でしたよね。キャスティングがうまくはまっていましたし、ケーレン大尉はマッツ以外には考えられません。
マッツ・ミケルセンの演技は重厚で良かった
これは名作でした。
史実に基づいて執筆した小説が原作。
主要登場人物の演技が各々素晴らしい。
ダブルヒロインがどちらも魅力的。
マッツ・ミケルセンの演技は重厚で良かった。
もう一度観たいと思う。
デンマーク語の原題は「Bastarden」で「庶子」。
主人公は、貴族のお手付きの子で、貴族から全く子として扱われない人生を送ってきた。
そのことへのこだわりから貴族の称号を得ようとすることが物語の引き金となり、エンディングにはその結末も示されている。
現代の日本人には、この階級制の本当のところがピンと来ないから、邦題は、これで仕方がないだろうと思いました。BESTではないけれど。
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