オッペンハイマーのレビュー・感想・評価
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歴史は繰り返す
学者が兵器開発に携わり、それを後に避難されるという展開そのものはオッペンハイマー以外の人物でも起こったことなので、ストーリーはありきたりな部分もあった。
オッペンハイマー以外にも沢山の著名な学者や歴史的に重要な政治的な人々も登場するし、様々な人々の思惑や協力、時代の流れもあり原爆開発、そして日本への原爆投下へ繋がっていくのは日本人として悲しくもあり興味深くもあった。
二人の人物の視点がカラー映像、白黒映像で交互に展開されていくので、映画としては少し見辛いかも。ラストの2人のやり取りが一番印象に残った。
作り物の限界
オスカーに不満を言えば自分がえらそうに思えるのかもしれない。
私は核兵器に対する特別扱いがよく理解できない。戦争という殺し合いの時点ですでに非人道的ものである。大量破壊兵器だからとか、非戦闘員だからという理屈は偽善に思える。そんなルールに則らなければいけないのなら、いっそのことスポーツで対戦すればいいのではないか?そのスポーツですらドーピングが絶えないというのに、命がかかった場面で国際法や人道がどうのというのは前線にいない人間のきれごとに過ぎない。それをあからさまにしたオリバー・ストーンのプラトーンは秀逸であった。それでも世界は核兵器を特別視する。その理由を垣間見ることができるか?このアメリカ視点のオスカー作品に望みを繋いで遠のいていた映画館に足を運んだ。
残念ながらその答えやヒントはこの映画では見受けられなかった。
東京大空襲での被害者が10万人と聞き、7万人の被害予想である原爆投下に罪悪感が薄まるところなど、まさに通常兵器との意義の差が理論的にはないという反証であろう。もちろん、オッペンハイマーは戦争終結のために本当に必要だと思って進言したわけではない。一番の動機は自ら指揮をとったプロジェクトが無用の長物にならないためであり、それが後の罪悪感となる。完成まで自分の仕事の結晶として作り上げた原爆が、軍に渡された瞬間、手の届かないところに行ってしまったことに愕然とする。
求めた答えがなかったということで、映画としてみていくと、最近の映画の限界が垣間見える。オスカーでもこうなのか、と。
3時間という時間を使った割にはストローズとの対立の過程があまり描かれておらず、とってつけたようで飲み込めない。オッペンハイマーを聴聞会に引きずり出し、キャリアを終わらせたのがただの私怨とは。それが自らの商務長官就任にケチがついたのだから愚かとしか言いようがない。史実だろうか?そうならしかたがないが、脚色ならいただけない。
主人公の繊細さは表現しても、ほかの善玉、悪玉の色分けは単純すぎて安っぽい。とくにトルーマン大統領が無慈悲な権力者として薄っぺらい。政治家だから本当にそういう人だったのかもしれないが、なんでも政治家を悪者のすればいいというのは話を軽くする。それでいてケネディは善玉として話だけ出てくる。「この人はいい人」、殉教者は神がかりだ。
日本の報道でよく上がっていた「原爆の被害の映像」は確かになかった。ある、なしに関わらず、オッペンハイマーの精神的苦悩を表現したCGも安っぽい。見せ場の原爆実験の善し悪しはなんとも判断できないが、広島については教科書に載っていたキノコ雲の写真の方がずっとインパクトがあったのはなぜだろう?研究者たちを前にした講演で聴衆の女性の顔が爆風で溶けていったり、黒焦げの死体を踏み壊す映像はちゃっちくてお化け屋敷レベル。あれはあきらかにマイナスポイント。どれも1940年代の再現映像で十分だったのに、特殊効果のせいで作り物っぽい。
ひとつ関心をもったのは奥さんのキャサリン・オッペンハイマー。映画では”キティ”と呼ばれていたが、どうしてもサンリオのメインキャラクターを連想してしまうのでここでは“キャサリン”とさせてもらう(かつてのEテレの番組、「ワラッチャオ」のキャラクターの名前でもあるけれど)。私が成育したときには「男らしく」「女らしく」ということが言われていたが、今はそんなことを言うととんでもないことになる。実際、私見としては男女で本質的な違いというのはないと思っている。しかし、私が実際に見た女性の言動から、唯一、私が持っている女性に対する偏見がある。それは、
女性は信念のため、正義のためであっても、自分が損すること、生命を失うこと、今の生活レベルを下げること、既得権を失うというような選択はしない。唯一の例外は自分の子供のためにはそれをいとわない
と、いうことである。
ソクラテスは自分に対する死刑は不当だと思ったが、その判決に従うことは彼自身の哲学に則っている(クリトン)ことなので毒杯を飲んだ。自らの命より、自らの哲学を優先させた。イエスも自らの命よりも宗教的救済を優先させた。そうすることによって(彼らがそれをねらっていたかどうかはわからないが)2000年以上にわたる影響力を得た。そのようなことをした女性がいただろうか?
オッペンハイマーに対する聴聞会が始まるとき、キャサリンは夫とその身辺者を前に、「今までの名声を失う、そしてこの『家』も!」と訴える。そこには自らの共産主義への傾倒の過去、夫の原爆製造の罪悪感など挟み込む余地が微塵もない。得たものを奪われる筋など一片もない確信と、それを脅かすものに対する断固たる嫌悪、対決の覚悟がある。ここに自省のわずかもないところが私の偏見を一層堅固にする。このすごむ姿は私の母親もそうであったし、妻もそうであった。この映画のなかでホンモノを感じた場面だった。
実際に見たことがない女性だとハンナ・アーレントは例外だろうか。彼女は同胞のユダヤ人から反感をかうのを覚悟して、アイヒマンは本質的な悪ではなく、陳腐な無思考であると洞察した。彼女は自らの思考に忠実だった。たとえそれが近親者の離反を伴うことでも。
映画のテーマに話を戻すと、日本のメディアで取り上げられていたような原爆そのものに対する考察はない。オッペンハイマー自身が原爆の被害に対する罪悪感に苦しむ姿よりも、ストローズとの政治的闘争のほうがメインストリートだ。これは政治サスペンス、はじめから被爆者のことなど相手にしている映画ではない。原爆が取り上げられれば、さも日本が話の中心であるかのような自意識過剰は日本のメディアの幼稚なところだ。それを知ってか知らずか、うまくメディアに宣伝させ、とりあえず日本でこの映画の反対運動、ひいてはオスカーへの批判、ハリウッド映画へのボイコットなどの火種を消し、むしろ興行を成功させるところなど、結果論かもしれないが、大したものである。お人好しというか、おめでたいというか、原爆を落とされてもこのとおりなのだから、本当に日本人というのはあきれるばかりである。
おしなべて陳腐な話である。理論物理学で自己を確立し、流行りの共産主義思想や組合運動に目うつりし、戦争に翻弄され、栄光と挫折、晩年の名誉回復。「研究の成果が爆弾か」「軍服はやめろ」「もはやあなたは学者ではない、政治家だ」これらの言葉で踏みとどまることができなかった男のありきたりの話だ。
オッペンハイマーがしたことがどうなるか、すでに2000年以上前にギリシャ神話で語られている。プロメテウスの逸話が引用されるように、時代で科学や思想があらたな跳躍をみせるのではないか?そんな浮ついた気持ちも神話の中の堅牢な人間への洞察に撥ね返される。
そして、私が原爆への特別視に疑念を抱くのは同じく映画でも引用されていたパンドラの壺だからだ。一度開けたものを封印することなどナンセンスである。「作れる」ものは作ってしまうのが人間である。どんなに正義を振りかざして封印しても、切羽詰まれば何でもやってしまう。ちょうど今の北朝鮮が核開発しているように。
そして残るのは「希望」だけ。「抑止力としてしか使わない」と信じ込むこと。人類を何回も絶滅させうることができる力を使わない、という希望。これは「大気発火」が起きない希望よりたよりない。その希望にしがみつくしかない世界に生きている。このおめでたい国で。
日本人のDNAには何か引っかかる物を感じる。ゴジラ-1.0山崎貴監督の「アンサーの映画を日本人として作らなくては」に共感!
一つの映像作品としての完成度はとても高いが・・・。ノーラン監督がこの作品で描きたかった事は、広島・長崎に落とされた”原爆”の父「オッペンハイマー」だったのだろうか?
ロードショー公開中の今はおしなべて高評価かもしれないが、これから先、歴史が本当の評価を下すだろう。
複数の時間軸の中、多くの登場人物が絡むので正直初見で全てのテキスト、セリフは理解出来ていない。しかし決して難解な作品という訳では無く、ノーランワールドを十分に堪能出来る作品である。
まずこの作品を観て、“オッペンハイマー”という人物・作品に対して抱く思いは、恐らく日本人とアメリカ人では違うであろうと思う。
と共に日本人として観ておくべき作品であると思う。
この作品で広島・長崎の原爆投下はターニングポイント的な扱いであった(少なくとも広島・長崎がどんな惨状であったかは1mmも触れられてない、ただ原爆が落とされ、多くの人が死んだという報告のみだ)。そうだからかはわからないが、原爆が投下され本国に伝えられたシーンの後、比較的高齢なご夫婦が退席されていた。私は先の戦争を知らない世代だがそのご夫婦の気持ちがいかばかりか、想像に難く無い。
北米配給のユニバーサルも「原爆開発をめぐる科学者同士の裏切りや当局が狙うスパイ追及といったサスペンス映画」と宣伝している様に原爆を使った側と使われた側でこの作品に向き合う前提条件が全く違うという事を忘れてはならない。アカデミー賞を受賞し、興行収入も素晴らしく、ノーラン監督が撮影したから手放しで賞賛できるかと言えば、答えはNOだ。
ただ、ノーラン監督が描きたかった映画「オッペンハイマー」とは?
この作品に答えがあるとも思えない。
同監督の『テネット』では、一度発明したことを戻すことができるのか、という問いかけを行っている、また核の脅威と、それが解き放たれたときの影響について描いていた。
”核”・”オッペンハイマー”・”広島・長崎”・”被曝”ノーラン監督の中にこれらのキーワードが揃ってないはずがない。しかし、この作品の中で唯一語られていないキーワードがある。
それは”被曝”だ
日本人の中には”被曝”という言葉の意味がDNAの中に染みこんでいると思っている。それは、戦争を体験し広島や長崎で被爆していない国民一人一人の中にも、強く忸怩たる思いが根付いているはずだ。しかし、日本人以外の人々の中にどれほど”被爆”という言葉の意味がわかっているのだろうか?
ノーラン監督へのインタビューの中で<10代の息子にこの作品について初めて話したとき「若者は核兵器に関心がないし、脅威だと思っていない。気候変動の方がもっと大きな懸念だと思う」と言われ、それがとても衝撃的だった>と語っている。それは、決して若いものだけが抱いている原爆や核へのイメージというわけではない。実際アメリカをはじめ多くの人々は”核”は必要悪と肯定的に考えてる人は少なくない、実際オッペンハイマー北米公開時、バービーときのこ雲をかけ合わせる類の画像が一般ユーザーらによっていくつも作成されて日本では波紋を呼んでいたが、そんなイメージを安易に描いてしまうという「現実」が日本人には理解できていないというだけだ。そんな、日本人からは理解できない現実がある中で”被爆”の惨状を伝えたとしても本質的な事を伝える事は難しい。
この作品で”被爆”の惨状についての描写は無い。
ただ、この作品が公開されるにあたり、初めて知ったことがあった。
それは、トリニティ計画でプルトニウム型原爆の実験が行われたトリニティ・サイトの事だ。
トリニティ計画のあと10日間に放射性物資は全米46州やカナダ、メキシコにも拡散、被爆者がいたという、米国民にとっても、史上初の被爆者が広島の収容所にいた米兵捕虜ではなく、本土の米国人だったという「事実」を殆どの米国民は知らないそうだ。
ある意味日本人である私にも衝撃でもあった、唯一の被爆国”日本”、しかし被爆者が日本人だけで無い事は知っていたが北米における被爆者の事は全くと言っていいほど知らなかったからだ。
この作品が公開されるにあたり、賛否両論色々な意見が別れている。広島にある中国新聞の記事では<「広島と長崎やトリニティ・サイトを見せないのは、米国の観客に「加害者」としての罪悪感を持たせない意図でもあったろう>と論評しているが、被爆の実相を描かなかった事で、日本人としてあまり馴染みが無かった米国民が最初の被爆者であったという事実が浮き彫りになったと考えると、この作品が制作されたことにより多くの事を知る機会を得た事は意味がある。
この作品からよくわかった事は、オッペンハイマーが、原爆という「パンドラの箱」がどれほどの影響を人類に与えるかわかっていた事、そしてその事がわかっていながら科学者としての探求(欲求)に抗えなかった事。そして、実際に使用された後被爆の実相から目を背けた事。
この作品はオッペンハイマーの人生を中心に描いているので原爆が投下された事から目を背けた通りに描かれているのかもしれないが、ノーラン監督も核の脅威を描きたいと思っていたのなら、実相を描く必要はあったのでは無いかと思う。少なくとも米国民にも被爆者が居たという事実。そこさえも描かない事は共感ができない。
NHKのインタビューで「原爆の被害がなぜ描かれていないのか?」との質問にノーラン監督は「映画をどう観て欲しいか明言したく無い」と回答を拒否している。
また、映画チャンネルの荻野洋一氏の記事に興味深い内容があったので引用させていただく
<『ヒロシマ、モナムール(公開当時の邦題:二十四時間の情事)』(1959)という、アラン・レネ監督が戦後の広島でロケーションした著名な映画があるけれども、その映画の中で、原爆についての映画に出演するために広島に滞在中の女優(エマニュエル・リヴァ)が「広島で、私はすべてを見たわ」と言うと、彼女とつかのまの恋に落ちている広島在住の男(岡田英次)が「広島で、君は何も見なかった」と応答するあまりにも有名なセリフがある(脚本はマルグリット・デュラス)。
『オッペンハイマー』の恣意的な画面連鎖を眺めながら、筆者はオッペンハイマー本人と空想上の会話を交わした。
オッペンハイマー氏「ロス・アラモスで私はすべてを見た」
筆者「いいえ、ロス・アラモスであなたは何も見ませんでした」
彼がしたことの重大さに比べれば、戦後の冷戦下で彼が赤狩りで追及を受け、スパイの烙印を押されるかどうかなど、私たち日本観客の知ったことではないし、付き合う義務もない。
赤狩りで活動停止に追い込まれたあげくに39歳で命を落としたスター俳優ジョン・ガーフィールドの短い生涯を描いたよと言われたならば、私たちは固唾を飲んでブラックリストに載った彼の悲劇的な行末を見つめることだろう。原爆の罪深さと、赤狩りで失脚する学者の内面の苦悩とが、等量の重要性をもって描かれるという操作に、筆者は言いようのない冷酷さを見ている。>
日本人としての一つの回答だ。
劇中オッペンハイマーがヒンドゥー教の経典を引用し「我は死なり、世界の破壊者なり」だったかそんな言葉を語る、死神とは果たしてオッペンハイマーなのだろうか?
いや違う、本当の死神は人類そのものでオッペンハイマーはただパンドラの箱を開けただけにすぎないのかもしれない。今までは、核を作った人間、使った人間、使う事を決めた人間を悪だと思っていたが。この作品を観てからは人類そのものに大きな責任があり、自分も決して無関係では無いのだと改めて深く考えさせられるに至った。
ノーラン監督が描きたかったもの、その答えは監督の中にも無かったのかもしれない。
ただ少なくとも、この映画を体験する事で多くの人々に”原爆”・”核”というものに関心が集まった意義は大きい。
そして。
現代新たな「パンドラの箱」になるのでは無いかと危惧するものがある、それはAIだ。昔「アイロボット」という作品を観たが、AIは核をも上回る脅威となりうると思っている。なぜなら、人類の頭脳がAIの頭脳に勝る処理能力があるとは思えない事、そしてAIには致命的な”感情”というものが無い事からだ。
最後になるが、この作品公開の年にゴジラ-1.0が公開された事、たまたまではあるが何か因縁めいたものを感じる。そして、山崎貴監督がオッペンハイマーを観て「アンサーの映画を日本人として作らなくては」という一言に物凄い共感するものを感じてしまった。
是非!アンサー作品を作って頂きたい!
ずっと、彼がアカかスパイかなんて、どうでもよい話だと思いながら観て...
ずっと、彼がアカかスパイかなんて、どうでもよい話だと思いながら観てた。広島・長崎の惨状を描いていないという前評判を聞いていたが、映像として見せていないだけで、彼のメンタルな部分や幻覚である程度描かれているように感じた。彼が体験し見聞きしてきたものだけを、客観的に淡々と描いていた。ただ、原爆を子供の頃から知っている日本人としては不十分に感じるのは仕方なく、もう少しおぞましさの伝わる表現が欲しかった。日焼けの皮がめくれる程度の描写なら、ない方が良いと思った。IMAXの映像と音響はすごかった。アカデミー賞作品賞、監督賞(ノーラン)、主演男優賞(キリアン・マーフィー)、助演男優賞(ロバート・ダウニー・Jr.)、撮影賞、編集賞、作曲賞の計7部門受賞。
クリストファー·ノーランの描く原爆の父
親日家であるクリストファー·ノーラン監督だけに、かなり日本に気を遣っているなと感じました。広島への投下成功のあと、ドイツにも落としてやりたかった!と主人公が言いますが、元々、同じ白人であるドイツに落とす気はなく、人間扱いしていなかった日本に落とすつもりだったのです。Japaneseと表現していましたが、実際は、最も蔑む言葉であるJapと言っていたのです。主人公があれほど後悔し苦悩したのかは定かではありませんが、苦悩していたのは事実なのではないかと思います。それ程、主人公の演技は素晴らしかった。他の俳優の演技も、音楽も秀逸でした。ただ、原爆投下で狂喜乱舞するアメリカ人の姿に、胸が痛みました。あの場面だけは、日本人として辛かった。アカデミー賞に値する傑作であったことには異論はありません。
映画を鑑賞する前に、アインシュタインとオッペンハイマーのドキュメンタリーフィルムを見て欲しかった
私は長崎に産まれたので、原爆の事をご存知の方々が沢山居られた。中学生の時、保健体育の先生が原爆が落とされた2日後、他の医療関係者の方々と一緒に長崎へ派遣され、その仕事は、死体から湧き出てくるウジ虫を1匹づつセッシで取り除く事だったそうです。NHKスペシャルで、オッペンハイマーのドキュメンタリーフィルムを見た時、講演で日本に来ながら広島・長崎に行かなかった事を、インタビュアーに聞かれ答えなかった彼。映画を観て、原爆後のフィルムは見てくれていたんだと分かりました。栄光の時間は短く、ガンで亡くなるまでの間、どんな事を考えながら生きておられたのか、知りたいような知りたく無いような・・・色々考えさせられる映画でした。
アルテマ メルトン ティルトウェイト
うん。なるほど。過敏に拒絶反応し過ぎたなぁという印象。IMAX大好物のノーランが、IMAX回収天国の日本を逆撫でする様な作り物はしないだろうにね。絶妙に"嫌な"台詞は挟むけども、個人的には当時のアメリカを覗き見てる感じで「当然かな」と思いました。近年の「ミッドウェー」でもそうだけれども、あの当時の「良くわからない怖い国」の代表としての描き方は秀逸だと思う。「どう見えるか」は人生を生きていると"大人"になる事よりも重要だったりするからね。そしてその付けを払うストローズ。「法廷系サスペンス」としても秀逸なのが流石です。ゴランソンの更に一段上げた楽曲達と共に鑑賞して頂きたい逸品でしたね。
細かい量子力学の話はさて置き……
🍄2024年の野望🍄
《アカデミー賞作品賞》受賞作品制覇✨
全96作品中記念すべき6作目✨✨
2024年作品賞受賞
世界を変えた一人の男の伝記をクリストファー・ノーランが作るって、大事な大事なノーランismは今回無いのかな??と懸念していたけどそんな心配はいらなかったwwwちゃ〜んと時間はあっちゃこっちゃ飛ぶ飛ぶ🛩
キリアン・マーフィーって過去に自分が観たことある映画作品にもちょいちょい出てたみたいだけど、全然記憶に残ってなかった俳優さん。アカデミー賞授賞式の日に初めてしっかり見て、なんか飄々とした幸薄そうな俳優さんだなーと思っていたけど、『オッペンハイマー』を演じる彼は表情がコロコロ変わって3時間あたしを魅了し続けた。主演男優賞は納得でした、ハイ😊
グラシネ池袋のIMAX GTで観たのに一体どこのシーンが縦長にみょ〜んとなってたのか気が付かないほど集中しちゃってた。そのせいかおそらく気付かないうちにリアルに『息を呑んで』たみたいで、終わった後になんだかとっても頭蓋骨のなかが酸欠状態で頭痛かった😂
オッピー教団は固定メンツで構成されてるように見えてみーんな自分のことしか考えていない信頼感薄めの繋がり。そしてオッピー自身もそんなうっすい繋がりを重要視するがあまり、原爆投下後の集会で罪悪感に苛まれながらも集会所で求められてる答えを進んで出したり。なんか人間って嫌な生き物だなーと感じさせられる。(特にこのシーンでの日本に原爆投下した事に触れた台詞は和訳に忖度が見られて余計に嫌〜な気分に……)
とにかく、キリアンもそうだけど今年の作品賞受賞には文句無し‼️これは獲って当然の作品。
ただ、エミリーブラントの演技が素晴らし過ぎたからこれでも助演女優賞獲れないの⁉️と。『ホールドオーバーズ』のダバインへの期待がブックブクに膨らみ続けてます🎈
そして長い重いと感じた3時間が3日経つとおかわりしたくなるという不思議💕もう一度観よっと😊
プロメテウスの功罪
感想
世界初の核兵器開発製造に中心人物として関わったロバート・オッペンハイマー栄誉と挫折の物語。
科学史上の有名な登場人物が多く、複雑な人間関係であるが、理論物理学の大転換と新理論の台頭、第二次世界大戦末期に使用された原子爆弾開発製造と作戦での使用による世界終末の現実的出現可能性の葛藤と恐怖の心理を織り込み、オッペンハイマー個人の人間性をありのまま描写した物語で、興味深く観た。
2024年アカデミー賞、作品、監督、主演男優、助演男優、他三部門が最優秀の栄冠に輝いている。
オッペンハイマー自身は、科学者としての物事の探究と名声は欲していたと感じた。人としては偏ったイデオロギーなどは持ち合わせず、純粋で公平な人間関係を築こうと努力したが、社交性は決して高くなかったと思った。極端な共産主義思想、反対にヒステリックな共産主義批判は個人的に認めなかったが、共助的なユニオン思考には理解を示していたと思われる。また頭脳明晰な男は概ね性欲が強く、女も頭脳明晰な男を子孫繁栄の点から本能的に求めるのだと感じた。
オッペンハイマーの人としての道徳的良心の呵責は原子爆弾を完成させた後事の重大さに気がつき、悩みはその名声を博してから大きくなっていったと思う。
映画の最初と最後に出てくるシーンだか、オッペンハイマーが良心の呵責に苛まれることをアインシュタインは予言していた。この事はアインシュタインの人類史の行く末をも包括して観ることの出来る世界情勢の見方に驚嘆せざるを得ない。恐ろしさを感じる場面であった。
学識者は未来を俯瞰し、想像して問題を解決するのだと感じた。しかし、核兵器開発については人類史の終末点が容易に想像出来てしまい、愚かな結末を選択しかねない国家から逃避したこともまた事実である。アインシュタインは世界が今後、誤った結末を迎えてしまう可能性を亡くなるまで嘆いていたのかもしれない。
ルイス・ストローズは自分が蔑まされていると勘違いにちかいものを感じ、後々オッペンハイマーの権威を失墜させるために暗躍。人間的にくだらない。馬鹿馬鹿しい限りと感じる。繰り返しよく思う事は人間の本質は身勝手で無責任であるということ。よくよくコミュニケーションをとっていかないと物事はじまらないし、動かない。大変な時代に我々は生きているのだと実感した。
この映画の時代に存在した
原子爆弾開発に関係する主な諸理論。
1905年
アインシュタイン、特殊相対性理論。
1916年
アインシュタイン、一般相対性理論。量子力学の始まり。「それ以前の物理理論の基礎となる前提の多くを根底から覆(くつがえ)し、その過程において、宇宙、時間、物質、エネルギー、重力などの基本概念を再定義した」とされる。
1933年
核の連鎖反応式を発表して以来、アインシュタインは爆発的エネルギーを放出する爆弾を理論上では製造できる事をすでに予測していた。
1938年
ドイツにてウラン原子の核分裂実験成功。ナチスドイツが大量破壊兵器製造研究に着手する。(ナチスに開発を依頼されたウランクラブのメンバー、ヴェルナー・ハイゼンベルク(不確定性原理)、濃縮に必要な重水炉の考え方を連合国側にリークして、ナチス側での重水炉に関する開発をわざと遅らせたと言われている。)
1939年
ドイツの核分裂実験成功。この事を知ったアインシュタインは大量破壊兵器の出現が現実となる事を確信。世界に幻滅する。
FDRにレオ・シラードが送った書簡の中でアインシュタインは核兵器開発推進の提言にサインした。これにより米国の核兵器開発が始まったとされる。
オッペンハイマー、核分裂実験成功の報を受けて核分裂の発見による核反応の報告を実証。(1943年前後、プリンストン高等研究所内、散策中のアインシュタインに核反応、放射線崩壊実証をオッペンハイマーが伝えるというシーン)
同年、
一般相対性理論に基づく、トルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ限界方程式(重力崩壊予言、ブラックホール存在理論。重力による空間の歪みの仮説)発表。この研究がオッペンハイマーのライフワークになるはずであった。
しかし、1942年以降、マンハッタン計画始動。
1943年ロスアラモス国立研究所設立。以降、映画本編の通り。
圧巻の展開で
⭐️4.5
広島、長崎を訪れる、この事に関心を持つ外国人が増えてほしいと願うばかりである。
マッドサイエンティストとは
メメントやダークナイトシリーズ、インセプションやTENETといった、今まで見た事がないような映画を意欲的に作り続けているクリストファーノーラン監督。
彼が原爆の父と言われたオッペンハイマーの生涯を通して原爆の製造の裏側とその葛藤を描いた映画、その名も「オッペンハイマー」はアカデミー賞を席巻し、公開前は日本での公開は無いかもしれないと噂された本作品。
今日、劇場で観てきたが素晴らしい作品だったと思う。もちろん時代背景があり、人類が人類を滅ぼしかねない巨大な力を手にしてしまった事は悲しい事であり、劇中でも懸念していたが、現在は共産主義国家が独自に核兵器を製造所持する時代になってしまった。
第二次大戦下であり、各国が疑念を持つなか相手よりも強力な兵器を持つことを競ったのは仕方ない事だと思った。
おそらくオッペンハイマーが製造していなくても、どこかの国が遅かれ早かれ開発製造していた事だろう。まさにドイツやソ連が持っていたら歴史は大きく変わっていたかもしれない。
そういう意味で何が正しいか間違いかを表現するような作品ではなかった事は称賛に値するし、アメリカの主張する戦争終結を早めた偉大な功績という建前をこの作品はオッペンハイマーの苦悩で疑問符を投げかけている。
この映画こそ日本人は観るべきだし、山崎監督も言っていたが、このアンサー映画を日本人が撮るべきだと思った。
上映時間3時間という事だったが、構成の巧みさと情報のコントロールが秀逸でまったく長さを感じなかった。
今度はIMAXで観たいと思った。映画館で観るべき映画です。
イミテーションか本物か
戦後の不都合な真実、の様な話かと思い、
天才エニグマを想起した。
オッペンハイマー、という名前は聞いた事あるだけ。
何故原爆が作られて何故使用されたかは知らなかった。
彼の名が米国で讃えられているかどうか知らないが、日本人にとっては忌み嫌う名であるのは間違いない。
しかし、自分の中では劇中の通り、
実行指令したトルーマンしか知らなかった。
歴史てそんなもんかもしれない。
どこまで史実に忠実かどうかは別として、
2度と大戦を起こさない為にも必要な真実の一つである。
劇中の一番スゴいと思ったのは妻キティ。
彼女が居なければ夫の名誉は成り立たなかっただろう。
演者について。
キリアンマーフィーがこんなビッグバジェットで主演張るなんて、昔は思いも寄らなかったが、物憂げな芝居させたら彼は逸品だ。
他有名な役者陣が脇に多過ぎて、凄く嬉しいんだけど雑念も多くて複雑だった🤣
ゲイリーオールドマン分からんかった😩
まさかフローレンスピューだとわ😱
あの顎はアレックボールドウィンだろ❗️
て思ってたら全然違ったし😅
最後ギリギリ、ロバートダウニーに気付いてスッキリ❗️
原爆の恐ろしさと人間の愚かさ
まず、主人公に共感出来なかった。学生時代、実験が苦手だからといって、教授の林檎に青酸カリを注射器で注入するなんて。その後も、不倫して相手が自殺したり、奥さんが出産後アル中になると、友人に赤ちゃんを預けたり。問題から逃げてばかりいる人物だ。学者としては優秀なのかもしれないが、原爆の実験に成功してから、やっと陸軍に兵器として使用されることに気付くとは。あまりにも想像力が無い。
原爆の実験での映像がリアルだった。 炎、爆風、光、地響き。恐怖を感じた。この映像体験だけでも観る価値はあった。今日も地球ではあちこちで戦争が起きている。愚かな人類が生きている限り、戦火が消えることは無いんだろう。
核について深く考えさせられる映画
科学技術の発展は、しばしば開けてはいけないパンドラの箱を開ける行為と表裏一体だと思います。
核に関して言えば、人間は核を利用するに至っていますが、核を完全に制御出来ていないという状態が、今も続いています。
核は、まさに自分たち自身を滅ぼしかねないパンドラの箱で、もしかしたら開発してはいけないものだったのかもしれません。
しかしながら、科学技術の発展は、人間にとって無くてはならないものであり、その発展させたいという欲求こそが、人間が人間たる所以なのかもしれません。
そんな事を、観たあとになんとなく思いました。
原爆の恐ろしさや悲惨さを直接的に描いていない映画だからこそ、核の恐怖というものをより感じました。
広島や長崎に落とされた原爆は、今となっては、その気になれば世界中何処でも落とすことが出来てしまう。
日本は唯一の被爆国ですが、どの国だって被爆国になり得ることをこの映画を観た人は、本当に実感すると思います。
遠い日本で過去に起こったことでは無く、過去が今でも続いて、それが世界に拡がっていることに。
オッペンハイマーは、感情の起伏があまり無く、殆ど表情で表現しないキャラクターであるにも関わらず、目で物語るキリアン・マーフィーの演技も素晴らしかったです。
途中、次々と登場する科学者の名前に不勉強のせいで混乱することはありましたが、本当に良い映画だと思いました。
ノーヒットノーラン
好きなIMAXで不評の映画を見てきた。笑
あまり見たくないなぁーと思ってたけど
良いか悪いかは観てみないとわからないので
遅ればせながら観てきました。
これが、アカデミー賞なんだ。
難しい映画でした。
勉強になりました。
監督は何を伝えたかったの?
逃げたなノーラン
オッペンハイマーの苦悩?
原爆の父だか知らんが違和感しかない。
広島、長崎の被害、実験で影響を受けた健康被害や土地を奪われた先住民等はほとんど描かれてなかった。
ま、リアルに映像化されたら耐えられなかったかも。
長かったけど不思議と眠くなかったww
賛否あるだろうけど、戦争を終わらせる爆弾を、
より正当化させたかったんですかね?
アカデミー賞は年々政治的な意味合いが強い作品が多く
国連のように社会主義国がいたら否決ですね。
難しくて、面白くないし、お勧めしないけど、
原爆が落とされる世界の背景が映像で観れたことは、
勉強にはなりましたね。
原爆の父とは
例えば日本人としてこの映画を観て、それまでオッペンハイマーを知っていた人がどれだけ居た事だろう
そしてアメリカ人も恐らくそうだと思うのだが、原爆を作ったオッペンハイマーを現代に生きる人達がどこまで知っているのだろうか
この映画を観て、オッペンハイマーに激しい憎悪を向けることはほぼないだろうし、当時の政治状況を知れる意味でもこの映画の普遍的価値は相当高い
ノーラン監督が見据えていた未来も含め、この映画の制作の後に世界情勢がまさしく第三次世界大戦を引き起こしかねない状況で、上映されていることは神の啓示ではないかと、超常的に受け取ってしまう
オッペンハイマーとはどういった人物であったのか、不勉強ながら知り得る事が出来たことの意義は大きい
集団レイプ犯の見張りを哀れんでも
原爆の父という呼び名はは誇るべきことなのか。
黒澤明の羅生門を見習って欲しい。
どの視点から見るかによって多面的に物事を捉えようとしている。
戦争映画こそ多面的に捉えなねばならない最たるものだ。
だからこそ日本は集団レイプされた被爆国なのだから、集団レイプの見張りをしてた舎弟のオッペンハイマーがどれだけ悔いたとて、その残虐さや辛さを描いてくれないとフェアではないのだ。
短いセリフの縞模様の着物を着ていた人が縞模様に火傷したとか、後から死亡者が出たとか欧米人が聞き逃すレベルのささやかな表現ではダメだ。
昭和生まれの日本人は戦争を知らない子供たちであっても親や祖父母から多少は戦争の話を聞いてるし、修学旅行で原爆ドームに行ってその目を覆いたくなる辛い状況を体感しているのだ。
その辺りを世界に見せて欲しかった。
そこを描かないでオッペンハイマーの泣き虫姿を描いても何も同情する気にならない。
そして、音楽が全て陰鬱で暗い。
戦場のメリークリスマスのような美しい音楽と 北野武のメリークリスマスミスターローレンス的なユーモアのある和らぎもない。
火垂るの墓やこの世界の片隅にやゴジラ-1.0を思い浮かべながら2箇所、情けなくなって涙ぐんで観るしかなかった。
戦争に突き進む男たちという生き物は本当に愚かだ。
人間は今もたいして進歩していない所がつくづく情けない。
原爆をどこに落とすか、候補地の中で京都を外す理由が、新婚旅行で行って文化遺産があるから外すといったシーンは失笑ものだ。
この映画をIMAXで観たいという人の気が知れない。
そんな映画じゃないはずだ。本質を見てほしい。
もちろん賞賛された挙句、最後にハシゴを外されたオッペンハイマーはやるせないとは思うけど、悲哀はそこじゃない。被爆した国のこともビジュアルで見せなければ本当の悲哀では無い。
劇場内は若い人が大半で昭和世代少し、戦前戦後生まれの80~75くらいの高齢者はいなかった。
時代劇映画を観に行くとその世代が沢山いるのに。
でもその世代には観せられない映画とも思いながら、じゃあドイツ人はこの映画をどう観るよ?とも思いながら映画館を出ました。
原爆投下シーンの有無は、本作のテーマとは別の話だ。
映画としては悪くないが、「ノーランの最高傑作!」かというとそうでもない。ただし、「メメント」「インターステラー」「ダンケルク」「テネット」といった作品にあった要素をうまく使っており、ノーランらしさという点では満足度が高い。
「原爆の父」オッペンハイマー博士の一人称の物語であるという触れ込みで、彼の目に映ったものだけを描写するという予備知識を得ていたのだが、それに関しては斬新な演出があったわけではないし、他者の視点もあった。
ただ、オッペンハイマーの視点と他者の視点は明確に分けられている。そういう意味では新しい演出ではあった。
他者の視点もあるのなら原爆投下シーンもあってよいではないか、と言われるかもしれないが、他者の視点は、あくまでもオッペンハイマーの身近な人間やエリアの描写だけだ。だから、日本のことやナチスのことは話題には出てくるが、画面には登場しない。
原爆投下シーンの有無よりも問題なのは、これだけ話題になった割には、退屈しがちな作品だったことだ。
原爆が投下されて戦争が終わるあたりまでは、基本的に科学者同士の会話が延々と続くのだが、自分は物理学や核融合やらの理論を知らないので、どんな問題が発生しているのか理解できず、眠くなった。
物理学などのわかりにくい部分を説明しないのは、「インターステラー」の時もそうだったが、あの映画はハードSFながら、エモーショナルな家族愛や、SFらしい画面があった。今回はそういうものがない。いつものかっこいい映像や派手な音響があり、地味になりがちな伝記映画を洗練された映像で仕上げてあるのは見事だが、限界はある。
なぜ本作は大ヒットしたのだろう。
アメリカでは「バービー」とセットで売れた感じになっていて、ノーラン最大のヒットかと思っていたが、興行収入としては「ダークナイトライジング」「ダークナイト」に次ぐヒット。
製作費150億円。興行収入は1,480億円。すごい金額ではあるのだが、他の娯楽に比べてどのくらい儲かっているのだろう。たとえば世界中のディズニーランドの一か月分の入場チケットの販売金額と比べて、映画の売り上げは高いのだろうか。また、アメリカで大ヒットということだが、そもそもアメリカの映画人口ってどのくらいいて、本作は人口の何割が見たのだろう。
なぜこんなことを考えるかというと、本作が結構わかりにくくて、誰もが楽しめる映画ではないからだ。アメリカでは「オッペンハイマー」はみんなが大好きな英雄なのだろうか。それにしては今まで伝記映画がたくさん作られた形跡もない。
そんなことから、映画産業というのは、実は自分が思っているほどファン層も多くないのではないか、という疑問を抱いた次第なのだ。
いろいろ書いたが、今の時代に本作が発表されたのは明確な意図があった。それは映画を観ればわかることではある。アートも映画も、なぜこの時代に、この作品が作られねばならないのかという理由がなくては、製作費は出ないし、観客も評価しない。
本作を観た人はそれぞれの意見を持ち、議論するだろう。それこそが本作の存在意義なのかもしれない。
最新の理論を形にしたら悪魔の兵器になった
難しいことはよくわからない。
その時代の超天才たちが最新の理論を実践して実験を成功させた。そのプロジェクトは実は国の威信をかけた、大金と大人数を投資して作られた兵器で、たった一個の爆弾で数万の人を一度に消せる、とんでもない代物だった。
研究者として最新の理論を全力で試せる方向が結果的に兵器を作ることになったこと。
最初から作りたかったものは兵器だったわけではない。と信じたい。良心と自分の理論とその実践の成功を見たいという気持ちの中で揺れ続けていた心は、人間らしさがあった、と信じたいのだ。
アカになりたかったわけではなく、その思想の中の一部に共感していたことからも、彼は常に自分がその時その考えが正しいとか共感できる、つまり自分が興味を持った思想やらなんやらを突き詰めて考えたい人だったんだろうなと思う。
この映画自体は、原爆を作った人たちの倫理観を問うというより、オッペンハイマーがどういう経緯で原爆を作って、成功までどれだけの紆余曲折があったか、という、天才物理学者が原爆という悪魔の作品を制作する過程を描いた物語、に見えた。
作り上げたものがうまく機能し、希望した結果を出せたのをみた時、研究者たちの喜びは実験の成功だけであったことを信じたい。
同時にこれは大量殺人兵器であることも彼らはもちろんわかっていたので、実際に使うことに対しての葛藤は見え隠れしていた。
そして次なる水爆に繋がる、学者としての次の大作への、止められない新しい理論への挑戦と好奇心も。
もし違う種類の天才であったなら、こういう葛藤も賞賛もない人生だったろうなぁ。
天才は羨ましい。
がしかし、天才であるが故にある意味その頭脳を利用され続けるのは、そしてそれが世のため人のためという大義名分のもとに兵器を作らされるのだとしたら、それは本当に苦しい生き方だろうと思う。
オッペンハイマー、すごかった。
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