「主観映像炸裂のノーラン映画に応える術は?」オッペンハイマー 清藤秀人さんの映画レビュー(感想・評価)
主観映像炸裂のノーラン映画に応える術は?
原子爆弾の開発に成功した理論物理学者、オッペンハイマーが、アメリカの国家戦略に巻き込まれていくプロセスを、クリストファー・ノーランは3つの時間軸を行き来しながら描いていく。時間軸への執着はこれまでも『メメント』『ダンケルク』『テネット』等でも見られた手法だが、今回は3時間の物語の中で主に16人、脇を入れると50人以上の実在の人物が入れ替わり立ち替わり現れて言葉を発するため、観客の動体視力が追いつかない。人にもよるだろうが、それでも集中力はギリギリ維持できる。
理由は、ノーランが徹底してオッペンハイマーの主観に観客も巻き込んで、彼を取り巻くカオスを彼の視点で体験できるように工夫しているから、だと思う。客観ではなく、主観。それは、オッペンハイマーをしばしば悩ませる何かがチラチラと発火し、爆発するような幻覚や、原爆投下後の惨劇のイメージに代表される。演じるキリアン・マーフィーのあまり他者に興味がなさそうな表情や、その割りにはいつも見開かれた青くて大きな瞳が、殺人兵器の製造に関わってしまった人間の虚しさと迷いをうまく表現している。それだけに、見ていて複雑な気持ちにもなるのだ。
オスカー受賞後にノーランと会談した山崎貴監督が言っていたように、このモヤモヤを解消する方法は、山崎監督でなくても、誰か日本人の監督が、日本人の視点で、改めて原爆を描くこと、それ以外にない気がする。
もし日本の視点で描くなら、仁科研究所ニ号研究が原爆を開発できていたかもしれないことを主体に描くと良いかもしれません
悪魔の兵器を産み出してしまった側と産み出せなかった側、結局は産み出せなかったほうが長く第一線で活躍できた皮肉、大量破壊兵器については両者同じ結論に達しそうで面白いです
日本人が描いた原爆が、ゴジラでしょ。この作品は、それを造り、使用し、利用する人間の恐ろしさを描き、核開発競争の愚かさと戦争の愚かさと人間の愚かさを描き、この後、人間はどうするのかを問いかけた映画ではないかと思います。
はい。Mさんの意見に全面的に賛同します。ノーランの挑戦状ではないが、この問いかけに日本の映画人は応えなきゃいけないのでは?それこそ世界配信も見据えて!
「日本人の監督が、日本人の視点で、改めて原爆を描くこと」ぜひ実現して欲しいです。
と、同時に、ノーランに広島と長崎に来ていただき、被爆者の方々が元気なうちに、話を聞く機会を作って欲しいと思います。残されている時間はそう多くはありません。