「オッペンハイマーの主観が終わった後には...」オッペンハイマー 終焉怪獣さんの映画レビュー(感想・評価)
オッペンハイマーの主観が終わった後には...
紆余曲折があったものの、遂にオッペンハイマーが劇場公開された事を嬉しく思います。
バービーとのネットミーム「バーベンハイマー」は、日本人として悲しい気持ちとなりましたが、ノーラン監督作品は、どうしても劇場で観たいと言う気持ちがありました。
結果論ではありますが、世界唯一の被爆国である日本が、最後の劇場公開国になったのも何かの縁なのかも知れません。
余談ではありますが、私はゴジラ信者でもあります。
多くの方々が仰ったようにオッペンハイマーと対になる作品は、公開時期が被ったと云う理由のバービーではなく、被爆国日本が生み出した「ゴジラ-1.0」です。
本国アメリカでは叶わなかったゴジラ-1.0とオッペンハイマーを同時期に鑑賞出来た事は運命だったと思います。
以下、印象に残ったポイントを紹介します。
○キリアン・マーフィーの熱演
ある程度には脚色されてはいますが、キリアン・マーフィーによるオッペンハイマーの人物像に説得力を持たせた演技は素晴らしかったです。
オッペンハイマーと言えば奇行が目立つエピソード。
現代で言う所の鬱病とも言える心の病を患っていた訳ですが、更に世界を変える兵器を生み出す環境下であれば、尚のこと精神のバランスが崩れてしまうのは想像に難くない。
実際のオッペンハイマーを知る訳ではないですが、彼の栄光と没落を追体験出来たのも一重にキリアン・マーフィーのお陰です。
○ノーラン監督の手法(視点の切り換え)
ダンケルクやTENETのように過去・現在が入れ乱れる時系列。
オッペンハイマーが公聴会で追求されている1954年、
同時期の水爆推進派にしてオッペンハイマーに対する私怨を持つルイス・ストローズの1959年、
そしてオッペンハイマーが学生時代から原爆を生み出し、反核活動へと至る過去の3つの視点が、交差しながら物語は進む。
過去作と比較するとそこまでの奇想天外な構成ではないです。
しかしオッペンハイマーは共産主義者なのか?
誰がソ連のスパイなのか?
ルイス・ストローズの策略等に迫るサスペンス仕立ての構成は、観ていて楽しかったです。
シチュエーションが反復する場面も、登場人物に新しい側面を見せる事で人物像が変化していく手法もノーラン監督らしく素晴らしい!
○原爆を墜とす者と墜とされた者
アメリカ人にとって原爆は戦争を終わらせた勝利の象徴。
トリニティ実験が成功した時、日本に原爆を投下した時、日本が降伏した時...彼等にとって輝かしいものだった。
日本人ならば誰しもが、彼等の歓喜に怒りとも哀しみとも何とも言い難い感情が湧き上がったはず。
キリアン・マーフィー演じるオッペンハイマーも自分の感情が整理出来ていない描写が良かったです。
あの描写は日本人として救われました。
○戦争による倫理観の崩壊
劇中で広島と長崎の名が出る度にやはり複雑な感情が込み上げて来ました。
「京都は思い出深いので目標候補から外す」、
「東京大空襲は10万人だった」...
墜とす側のユーモアを交えた議論は、被爆国としてホラー映画でした。
あの時代、何万人レベルの死傷者なんて当たり前だったのでしょうが、誰も彼も倫理観が壊れていた。
台詞の一つ一つにおぞましさを感じました。
○オッペンハイマーが惹かれた世界
量子力学に足を踏み入れるオッペンハイマーが学生時代より、量子に惹かれて行く描写が美しかった。雨粒や波紋、そして女性関係。
精神の不安定さを逆手に取った量子のビジョンだったり、女性関係の背徳感が際立った。
○赤狩りの時代
この作品では、当時の共産主義者の赤狩りの背景が描かれていました。
「赤狩りの時代を繰り返してはならない」...この側面が日本人的にはピンと来なかったのではないでしょうか?
このマッカーシズム(共産党排除)は、戦時中の日本の憲兵による少しでも疑われたら逮捕される状況のようなもの。
このオッペンハイマーは、この魔女狩りのような歴史への教訓も汲んでいる訳なんですね。
○オッペンハイマーとストローズの結末
1954年、カラーで描かれるオッペンハイマーの聴聞会(原爆/核分裂)。
1959年、モノクロで描かれるストローズの聴聞会(水爆/核融合)。
どちらも大敗する結末ですが、大きな違いがありました。
オッペンハイマーは、ストローズの徹底した包囲網により核への権限を失ってしまう。
しかし彼の名誉を守る為の証言が集まった。
対してストローズは、多くの不利な証言が集まり、更にはその傲慢さが暴露されて商務長官へとなれなかった。
そして後年、オッペンハイマーは1963年ではフェルミ賞を受賞。
原爆を生み出し、後年は葛藤し、核軍縮に尽力した科学者ロバート・オッペンハイマー。
とても波乱な人生でした。
○オッペンハイマーの主観は終わり...
ラストはオッペンハイマーが目を閉じて映画は終わりました。
ここまで徹底したオッペンハイマーの目線から離れ、今を生きる私達の目線に戻される。
核により危うい世界に生きる私達は、どうすればいいのか。
【最後に】
ノーラン監督が広島・長崎の描写を入れなかったのは、オッペンハイマーの主観を尊重したからだと発言していました。
また「簡単な答えは出ない、ただ問いかけたかった」とも言っていました。
未来に生きてる私達は、何とでも言える。
神の如く、あの時代の批評をするのは烏滸がましいとは思いますが、やはり原爆投下は正しかったとは言いたくないです。
あれから何も変わっていない人類。
変わらないからこそ問い続ける。
ゴジラやオッペンハイマーは、人類に必要な作品です。