「行政法の観点からは問題が山積していて何らの問題提起もされていない…。」夢みる校長先生 yukispicaさんの映画レビュー(感想・評価)
行政法の観点からは問題が山積していて何らの問題提起もされていない…。
今年274本目(合計924本目/今月(2023年8月度)13本目)。
(参考)前期214本目(合計865本目/今月(2023年6月度まで))。
去年の「夢見る小学校」の続編というかスピンオフ作品で、これに合わせて大阪市内でもこちら前作を放映する動きもあります。
内容的に映画というよりドキュメンタリーというか取材映画に近く、「映画館で流すものなのか」というのも謎ですが、かといって美術館でやるような内容でもないですし、「映像作品」という観点でいえばどうしても映画館、それもコアなミニシアターということになるかと思います。
趣旨としては賛同できる点は多々あるものの、その背景にある「子供の学習権」や、もっというと、「子供の小学校の選択権が存在しない」という教育行政が現状存在することまで考えると、このような取り組みを否定はしないものの、「(観念的な)有利不利の格差」が生じることについての何らの指摘もないのが痛いです。
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(減点1.0) 越境入学といった論点についての考察が雑か全くなく何を述べたいか法律系資格持ちに意味不明、ないし、激怒させる枠
6歳ころになると、教育委員会から「あなたのお子さんは何とか小学校に入ってください」というのが来ます。基本的に住所で機械的に決められます。それ以外の学校に通うことは通常できません(近い未来に引っ越しの予定がある、実際に入学したがいじめの事実が客観的に認められる等の個別事情は個別に判断されます)。そして、これは「行政」による、つまり、市立(いちりつ)による公教育のお話です。
そうであれば、いわゆる越境入学が禁止されている現状、一方で映画内での描写通り、小中の教育の最終決定権は(ある程度の制約は受けても=旭川学テ事件)校長にあるところ、「一般的な」市立の公立の小学校はおよそもってこんなことになっていないため、越境入学を認めない現状においては、有利不利が生じることについて何らの考察もない、つまり、「そういう運営をするのは自由だが、そのような学校に入れる子と入れない子がいることの格差の問題」について触れていないのは、どうなのか(換言すれば、そういった学校があるということを事前にしったうえで、事前に住民票を移して学校を「逆選択する」ということは、現在の行政による初等教育ではまるでもって想定されていない)というところです。
こういった点があるので、「校則が最低限」とか「自由な時間が多い」というのは当事者にとってはうれしいことでしょうが、一般的に学校への通学は住所によって機械的に割り振っている部分があり(この点は、こうした極端な偏りの排除も一つ論点にある)、そのような学校運営をするのは自由ですが、選択されなかった側にはたまったところではないところ、その取消し(指定のお知らせの取消し)を求める行政訴訟はまるでもって想定されていないところであり(なお、地裁から最高裁まで6年間たってしまうと卒業してしまうので、原告の「訴えの利益なし」で却下となるものと思われます。似たような判例はあります)、結局、「教育行政をおもちゃにするな」の一言に全部尽きてしまうところがあります。
※ ただまた一方で、例えば「通常の」小学校で給食費として充てられているものに対して社会通念を超えて高いものが毎日出されている、「ニンテンドースイッチで遊びたい放題」など、「明らかに支離滅裂が過ぎる」場合、平等権も問題になるような気がして、この映画が述べる「校長の裁量権による遊びの時間の拡大、いわゆる成績表をあまり厳しく管理しない」といった「中間的な部分」と言わざるを得ない今回のこの話について、こうしたことまで踏み込んで訴訟を起こしても、あるいは起こされても、どうにもやりにくいです(給食費が豪華すぎるといったような、金銭的に価値が比較できるものと異なるため)。
※ つまり、こういう「緩い教育」を否定するのではないが、越境入学を認めない建前においては、「そういう緩い教育」を市立(いちりつ)で行うのなら、すべての学校において「そうしないと」平等性の観点でやや問題になりうる(ただ、この映画におけるこの「平等」が何をもって「平等」なのかは、上記の通り概念の観念がしにくい)という特殊な論点があり、「住所をうつしてでも通う」といった潜脱的手段まで認めるのかといった面倒な問題も入ってくるため、(教育行政)の観点では何をしたいのかわからないにつきます(そのような潜脱的手段が横行すると、戸籍行政や税務行政も混乱を招きます)。
※ なお、地域によって機械的に小学校の指定がされるのは、偏りを防ぐこと以外に、小中学校の教師の質に極端な差がでないようにする(機械的に割り振れば、どんな子も平均的に入ってくるため)という「教師の質を向上させる」という意味での運用でもあり、その観点からも、「じゃどうしろというのか」というのかが謎です(市立学校の教員が、特定の学校に配属されるとは限らないし、希望を出すこと程度はできても最終的には行政が決めること)。
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(参考/私立小学(わたくしりつ)ならどうか)
私学の場合、私学の学校もあり、法の趣旨をちゃんとまもって、公立の小中高と変わらない教育をするなら、実質的にどちらを選んでも同じだし、私学は日本においては「教育行政による予算の限界からくる学校の設置の限界に対し、私学の運営者に法を満たす限り私学助成等が行われている」のは確かです(私学助成の合憲性の論点除く)。
その意味では、私学においてはいわゆる「ミッション系」「仏教系」といったように宗教系の学校があることは周知の事実で、この映画のように「教育に関して校長がゆるやかな感じで、法の満たす範囲でかなり緩やかに運営する」学校も実際にあります。ただ、それは少なくとも中学以降の話であり、小学入試でそのような選抜を大規模に行うことを教育行政は想定していないものと思われます(競争倍率が無茶苦茶になり教育現場が混乱したり、通常ありえない「小学浪人」(浪人生というより、過年度生というのに近い?)がおよそ想定されていないといった事情もあり、これも「私学がやっても困るかなぁ」案件です(ただ、法の満たす範囲でやる、と言われたら、行政側に私学の許認可の行政裁量の余地は少ない)。
※ 日本では、「教育を受けさせる義務」であり「教育を受ける義務」ではなく、学校に行かせず親が教授しても「教育を受けさせる義務を果たしたことにはならない」というのが最高裁判例ですが、この点での検挙例はまるで存在しない(換言すれば、検挙して無理やり小学校なり中学校なりにつれていくという、直接強制的なやり方は、人権侵害にあたる)のも事実だったりします(判例はあるがまるで機能していない)。