「『カリガリ博士』の舞台美術を現代に再現させた、こだわりいっぱいの連続殺人ミステリー」ヒンターラント じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
『カリガリ博士』の舞台美術を現代に再現させた、こだわりいっぱいの連続殺人ミステリー
もうポスターを見ただけで、これは何が何でも観ないとって感じ。
はたして、すごく面白かった!!
とにかく「絵画的」な映画だ。
「映像のセンス」というより、「絵画のセンス」で徹頭徹尾つくりこまれている。
それもそのはず、なんと本作、全編がブルーバック撮影らしい。
すなわち背景は「すべてつくりもののCG絵」なのだ。
そりゃあ、感覚が絵画的にもなろうというもの。
元ネタは一見してわかるとおり、『カリガリ博士』(19)や『巨人ゴーレム』(20)、『吸血鬼ノスフェラトウ』(22)といった1920年代ドイツ表現主義映画における「ゆがんだ」背景美術だ。
心理的要因で「ゆがんだ」形でとらえられた「世界の姿」を、実際に「ゆがめて」描写することで、視覚的に顕在化してみせようとする、きわめて実験的で悪夢的な手法。
不自然なパースと、ねじれあがるような形状で再構成された「ゆがんだ」背景セット。
本作ではその「ゆがみ」を、「ウィーンの街並の描写」にそのまま援用している。
多視点をひとつの画面に併存させたうえ、恣意的にデフォルメされた奇怪きわまる「ゆがんだ」建築物群。絵画作品でいうと、表現主義の画家シャイム・スーティンの描くうねるような街並の絵や、日本が誇る幻想画家・遠藤彰子の奇妙な建築絵画群(複数視点を組み合わせた非現実的なエッシャー風世界に大量の登場人物が配される)を想起させる。ちょっと昔の映画だと、エンキ・ビラルの『バンカー・パレス・ホテル』(89)も似たようなテイストを志向していたのではなかったか。
そもそも、主人公が部屋の真ん中に座っている冒頭のシーンからして、青みがかった色彩設定がすでに「映画」のそれではない。完全に「絵画」の手彩色的な色使いだ。
シンメトリカルな構図感や、漂うニューロティックなとげとげしさは、まさにフランシス・ベーコンの描く人物像を想起させる。ついでに、OPクレジットで散りばめられる戯画的な絵柄もベーコンっぽい。
全体を通じて、ヴィーネ&ムルナウ的ないびつなデフォルメの感覚と、青ベースの絵画的な色彩設定へのこだわりは、とことん徹底し尽くされており、これだけ画面内の美意識が「徹頭徹尾統一されている」と、それだけでもう観ていて非常に心地がよい。
『未来世紀ブラジル』にせよ、『デリカテッセン』にせよ、作品世界の美意識の統一性というのは、映画にとって本当に重要なのだ。
しかもこの「20年代のドイツ表現主義映画の背景美術を模倣する」という猛烈に手間のかかる手法が、「作品の舞台としての1920年代」との「同時代性」を根拠に、不穏で、不安定で、神経症的な時代の空気感を表現し得る最も的確な手段として、きわめて戦略的に選択されているというのが、じつに素晴らしい。
もともと、ドイツ/オーストリアのミステリ小説には、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期を舞台とした歴史ミステリーが意外に多い(女流作家アレックス・ベールのアウグスト・エメリッヒもの/未訳 など)。敗戦による価値観のゆらぎと、爛熟期に入ったウィーン文化、アメリカの「ジャズ・エイジ」の波及(本作でも描かれている)。
敗戦にうちのめされながらも、どこか高揚感のあった戦後すぐの不思議な時代を舞台に、捜査官のバディ二人組を投入して、戦争絡みの猟奇連続殺人を捜査させる。
まさに、ドンピシャの企画だといってよいだろう。
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僕が本作を高く評価するのは、単に美術的に高いレヴェルで絵画的な感性が透徹されているというだけでなく、純粋に本格ミステリとして面白かったからだ。
まず、猟奇殺人のテイストが好みだ。
ノリとしては、『薔薇の名前』(86)とか『セブン』(95)、『クリムゾン・リバー』(00)あたりと近いゴチック・テイストの人体損壊型だが、きちんと「見立て殺人」に狂人なりの意図とロジックがあって、わかる人間には間違いなくちゃんと伝わる「メッセージ」がしっかりこめられているっていうのが実に良い。
残念ながら、そのミッシングリンクは観客には看破できるようには作られていないし、探偵役が第三者として調査したうえで、ロジカルな推理によって真相にたどり着いているのではなく、探偵役自身が思い切り当事者というのも、少しずるい気がするけど。要するに、動機となっている事件の背景について探偵はアプリオリに知っているので、犯人のメッセージが誤解なくすんなり伝わってる、ともいえるわけだ。
ちなみに、「1本残してるのではなく、残り19本のほうが重要」というのは、いかにもチェスタトンっぽい「逆説」の発想で、おおおっと思った。あと氷柱ネタを見せられると、われわれ世代はどうしても江戸川乱歩の「氷柱の美女」を思い出しちゃう(笑)。
「帰還兵による、帰還兵の連続殺人」というテーマも面白い。
戦場&収容所という、殺人がいくらでも許容される異常なロジックで支配された場から、いきなり平和な街へと帰って来ても、なかなかそんなの順応できないよね、ということで。
(僕らの世代が、帰還兵の平和を享受できない苦しみと喪失感に創作物を通じて初めて向き合ったのは、ほかならぬ新谷かおるのコミック『エリア88』でした。結局、除隊してもみんな戻ってきちゃうんだよね、血塗られた戦場にw)
また、戦地もしくは収容所での許しがたい恨みを帰還後に平和な街で晴らすという趣向は、これまでにも何冊か海外翻訳で読んだことがあるが(そもそもホームズものの第二長篇『四つの署名』からしてそういう話だ)、今回のように被害者も被疑者も動機も実行手段も、すべてが「帰還兵」しばりというのはあんまりなさそうだ。
それから、真犯人の設定がふるっている。
へえ、そう来たかという感じ。
最初、なし崩しにこんな●●●●●する人物出してきてどうするんだろう??って思ったら、なるほど、そういう趣向だったのか。
意外と今回は油断していたので、ふつうにしてやられました。
また、こうやって事件の真相がはっきりすると、今まで見えていた事件の様相が根底から一変し、バディ役の若造警部が口にするとおりの「ペルク元刑事が黙してきたとある秘密」が浮き彫りになるという、アクロバティックな技をびしっと決めていて、そのへんも感心しきり。
やるじゃない、脚本家さん。
ただ、鐘楼にあがってからの流れは、犯人がペルクにやらせたいことにイマイチ無理があるし、ペルクが出がけに警察と情報を共有するだろうことは容易に想像がつくのに、犯人がわざわざ逃げ場のない塔のてっぺんに現れたうえ、退路すら確保できていないなど、ちょっとそこは無理やりな感じがしたかも。あとこういう時はいつも思うけど、犯人はべらべらしゃべってないでさっさと撃てよ、と(笑)。
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監督のステファン・ルツォヴィツキーは、パンフのコメントで「『ヒンターラント』はトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ=「男はこうあるべき」)をテーマにした作品です」と述べている。
すなわち、意気揚々と男性性を誇示すべく戦場へと向かった兵士が、一敗地に塗れて収容所で尊厳のすべてをはぎとられ、アルファメイルとしてのプライドをへし折られたまま帰還して、帝国の権威も国家の威信も失墜したウィーンの街で、「男はかくあるべし」という伝統的な概念を前にもがき苦しむ話、ということだ。
とはいえ、そういうガッツあふれる闘争心だとか、マウント取りに行く根性だとか、いっそないほうがいいってわけにもなかなかいかないから、難しいところだよね。
本作に登場する元刑事のペルクにしても、結局のところは「難事件をみずからの手で解決し」「最後の修羅場をなんとか生き延びた」ことで、持ち前のプライドを回復したうえで、ひりついた生きている実感を味わえて、ようやく前に進む勇気を再び持てたのであって、みずからのトキシック・マスキュリニティを克服できたわけでは全くない。
かといって、こういう「男性かくあるべし」論がこじれた結果として、京アニ事件の青葉みたいな暴発も起こり得るわけで、いちばん最適なジェンダーのバランスというものを、われわれは常に考えていかないといけないのだろう。
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徹底的に作り込んだ背景描写によって、「仮想のウィーン」(存在しない異境としてのウィーン)を舞台としたある種の幻想譚として成立しているがゆえに、この映画にはいかにも奇矯な「作り込んだキャラクター」が良く似合う。
たとえば、クセの強い元同僚のレンナー警視や、猛烈に感じの悪い貴族の元上官などは、それこそテリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』にでも出てきそうな俗悪な存在だ。
とはいえ、レンナーには一種の友情めいた感情もたしかにあって(罪滅ぼしの部分もあるのか?)、作中ほとんどろくでもないことしかしないにもかかわらず、妙に僕は気に入ってしまった。そのどうしようもない俗物性に、なんとなく愛嬌があるとでもいうのか。
それから、ヒロインのケルナー博士。可憐な美女ながら、しきりにタバコをふかしてはあたりかまわずグリグリ押し付けて火を消してみせるその姿からは、戦争で男手が減ったせいでたまさか得た法医学者の地位を保つべく、必死で背伸びして「男性と比肩する存在として」振るまおうとしている様子がひしひしと伝わってくる。
ラストまぎわで見せるペルクとの●●●のやりとりは、まさに西部劇に出てくる「●の友情の儀式」に他ならない。
一方で、田舎にひっこんで夫の帰還を待っている妻と娘は、玄関先でくつろぐ姿に「聖母子」の図像をそのまま借用することで、ある種の「聖性」をもって描かれる。
とくに奥さんは同僚と寝たことがわかっているにもかかわらず、なお「待ち続ける妻」としての威厳を神々しく放っているがゆえに、自らが穢れ、壊れてしまったと自信を喪っているペルクは、気後れしてなかなか迎えにいけない。
若造の警部パウルは、前半はやたら高圧的で感情的だが、中盤からは「バディ」としての輝きを見せる。まさに「ベテランと若手」ものでは一つの類型といっていい展開だ。あと、ミステリ要素の部分で、彼があんなに重要な役割を果たすとは正直思ってもみませんでした。ラスト近くで、殴りかかるかと思いきや●●するシーンは、個人的にたいへん眼福。
その他、やたら慇懃だが言うことは言う三つ編みの密告系家政婦とか、さまざまな形態で紹介される「薄汚い帰還兵」たち、その中でもとくに悲惨な収容所生活で心の壊れてしまった連中、『地獄に堕ちた勇者ども』にでも出てきそうなゲイの画家(彼が描いている絵はカラヴァッジョ風だが、カラヴァッジョもそっちの人だったともっぱら言われている)などなど、クセものキャラが勢ぞろいで、観ていて楽しくなってくる。
凝りに凝ったビジュアル面の挑戦を観るだけでも本作にはじゅうぶんに足を運ぶ価値があるし、ミステリドラマとしても、戦争をめぐる人間ドラマとしても、満足のいく見ごたえ。
おすすめです。