「労働者を護る重大性」私はモーリーン・カーニー 正義を殺すのは誰? 雨雲模様さんの映画レビュー(感想・評価)
労働者を護る重大性
スキャンダルを告発したことにより敵視されたカーニーは、自宅にいたところを背後から襲われ気が付いたら地下室で椅子に拘束されていたという言い分も襲われた記憶がハッキリと覚えていないことも災いしたのか襲われたという言い分を聞いて貰えないカーニーは厳しい取り調べが続くことに精神的に疲弊してしまった結果、ついに自作自演だと認めてしまう。それが間違いだと後々発言を撤回しても認めて貰えず結果検察側の言い分が勝利してしまう。
被害者から加害者へ。
立場が無くなったカーニーは英語講師として新たなスタートを踏むのだが、そこに再び事件の操作に携わった女性捜査官がやって来ると過去に会社の不正告発をした技術者の妻がカーニーと似たようなケースの被害に遭っていたことを知り、事情を知るべくカーニーが訪れてから事態は変わってゆく。
無罪が勝ち取れるかもしれない。
可能性を信じ、弁護士を変え、新たに隠蔽していた証拠があることも分かって臨んだ裁判でついに無罪を手にすることが出来た。
6年の歳月が立ち、やっと加害者の汚名を晴らすことが出来たが、問題は再捜査が行われず犯人が弛れなのかが未だに分かっていない。つまり、同じようなことがあれば同じことが起こり得る可能性があるということで、結果巨大権力に楯突くことはこういう仕打ちが待っているぞと言わんばかりのもので、まさに正義を殺すのは誰?となると、それはもう巨大利権に対し溺れた人達が正義を捻じ伏せてまで、間違いを追及しようとした人間を弾圧する。
事件が2012年12月17日に発生とも考えたら、男性社会の女性に対する差別が未だあるのか、犯人が捕まらずに悠々と過ごしていることも含め間違ったことが正当化されてしまう世の中であって欲しくない。カーニーが危惧していた雇用者を守るということもアレヴァ社が解体されたことにより失業者が大量に出たが、犯人が誰なのかハッキリしないまま事の顛末の責任を誰も取ろうとしないのは、カーニーが望んでいたことなのだろうか?
スキャンダルを明るみにするのはやむを得ない手段の一つならば、そのために誰かが犠牲を払う形で解決するのならば、都合の悪いことには目を瞑り強い者に巻かれて事なかれ主義に走れば良いということか。何だか、そんな世の中を皮肉りつつも問題視している、そんな映画だとわたしは思った。