月のレビュー・感想・評価
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誰もが承認欲求のある当事者
序盤で、宮沢りえ氏演じる洋子が障がい者施設に初めて足を踏み入れていく場面の異様な雰囲気には、私自身が初めて訪問教育の臨時講師として重症心身障がい児施設に足を踏み入れたときも同じような雰囲気を感じていて、それはまた、『夜明け前の子どもたち』の序盤にも重なる。本作のパンフレットの評にも、二通諭氏がその作品を比較して取り上げているが、きー氏と誕生日が同じところから共感し、コミュニケーション可能性を感じた様子は、その作品だけでなく、『ジョニーは戦場に行った』『潜水服は蝶の夢をみる』等にも通じるであろうし、発達保障論の肯定的な面を拾い上げるのも重要ではあるけれども、職員の重労働という観点からの退職者の続出という共通な面にも目を向けるべきであろう。『人生、ここにあり!』等のように、当初感じていた異様性が、付き合いを深めるに従って変容していく作品もあるけれども、それらとは最終着地点が違うのだろうとも思った。育てた子どもの疾患のためにわずか3年で命が失われた痛みから立ち直れず、再びの妊娠にも、躊躇し、迷い、分身に言い負かされそうな描写は良かったと思う。虐待から利用者たちを救おうとした行動は、『トガニ』やテレビドラマ『聖者の行進』の支援者たちにも連なるが、そうした努力が途絶してしまうところにも、現実の悲劇の遠因があったのであろう。最後に洋子が「きー」の母のことを思い遣って走り出す姿に、現実の事件後にも、同じような行動をした職員たちの姿が反映されていると思われた。
二階堂ふみ氏演じる陽子は、そうした序盤の異様な雰囲気に連なる異常行動者の一人かと思ったが、健常者の職員であった。しかし、関係を深めてみると、洋子の経歴に賞賛を向けながら、やがては洋子の作品にも、出産への躊躇いにも批判的な意見を述べて追い詰めていく二面性をもった人物として描かれていて、事件の発生に際しては、「さと」の犯行に脅迫と自身の同調によって動かされつつ、利用者の命を奪うことには躊躇いをみせながら立ち会い続けた様子にも、現実の事件後に、同じような行動をした職員たちの姿が反映されていると思われた。
『波紋』でもろう者の恋人のいる青年を演じた磯村勇斗氏が演じる「さと」は、当初は利用者たちに優しい心根をみせ、『花咲か爺さん』の紙芝居を語りきかせていたが、その結末が「汚いもの」と表現していたところが引っかかっていた。それはよくばり爺さんの心だったと思われるのに、その志を喪失したのが残念なところである。先輩職員たちによるいびりによって、理想を失っていく様子は、現実の事件発生の経緯説明とも共通するのであろう。自分との線引きを始めるきっかけとなった重度利用者の姿との遭遇は、漫画『ブラックジャックによろしく(精神科編)』、さらに遡っては有吉佐和子氏作の小説『恍惚の人』での同様の症状の患者を想起したが、その姿に絶望するとは、今日的には学修によって身につけておくべきプロ意識の欠如と指摘されても仕方ないだろうし、2005年2月に石川県内の高齢者グループホームにおいて発生した職員による利用者殺人事件の課題が解消されていないとも思われた。ろう者の恋人との会話にも、手話を使わない部分が目立つように態度が変化していた。洋子と昌平にも同調を求めながら、それぞれの反論を論破した後、政治家に手紙を書いて持論の承認を求め、精神科病院に強制入院させられ、事件直前に退院していた経緯も、現実の事件発生までの経緯と一致していた。"PLAN'75"や『ロストケア』と大きく異なっているのは、特にこの、持論の承認を求めている点であり、あるネット評にも、登場人物それぞれに承認欲求があると指摘されたものがあり、実行犯の本質に最も迫っていることであると言えよう。また、殺される側からの視点で撮影する方法も、観る側を引き込む上で、工夫が凝らされていると思われる。同様に、施設の異様な雰囲気を醸している作品の一つでもある『閉鎖病棟』でも殺人事件が描かれるが、加害者の立場や理由が大きく異なっている。
オダギリジョー氏演じる昌平は、様々な悩みを抱える洋子の夫としては、当初、かなりすれ違っている印象が強く、社会人としても自信なげであったけれども、警備員の仕事をしていて、先輩からの揶揄に反論できるようになって、少しずつ自信を取り戻し、「さと」の言動にも同じように反論していたが、どうも殴り返されたようで、説得には失敗したようであった。終盤で昌平は、ささやかながら先に挙げた承認欲求を満たされた人物として描かれている点でも救いを見出せるとともに、この夫婦は、『福田村事件』における主人公夫婦と同じように、部外者から当事者へと巻き込まれる立場として描かれているとも言えよう。
序盤の場面での異様な雰囲気で連想したまた別の映画作品には、大江健三郎氏原作の『静かな生活』もあったが、改めて観直すと、妹ですら障がい者が社会に迷惑をかけるかもしれないという疑いの目を向けることがあったり、教師への恨みを晴らすために障がいのある家族への支援を装って近づいた男性が、障がい者の無能性をみくびって反撃を受ける様に、障がい者の不思議な能力の一端を描写しているのを改めて見出すことができ、大江氏が障がいのある息子への絶望と意識の転換を見出した経緯を綴った小説『新しい人よ眼ざめよ』にも、改めて光が当てられるべきであろう。
利用者やろう者の恋人役に当事者が抜擢されたのも、評価されるべきであろう。
月の元に晒す
太陽の元に晒すべき事件、隠蔽してもならないし、忘れてしまってもだめだ。
だけど、ドキュメンタリーではないから、リアルでなくていい。あくまでもフィクションとして月の元に晒した感じ。
映像は終始暗い。
満月でもなく三日月の明度の陰鬱とした映像が続く。
殺人というのはだれを殺したとてどんな理由があったとて今の世の中の場合は罪に問われる。
だが、時代が変われば違う。戦時は殺したことが勲章にもなった。
戦国時代は、大河ドラマなんかでも堂々と首を取ったことが誉となっているし、みんな見てるでしょ?
つまり、歴史の教科書に乗るくらい歳月が流れていない、数年前の事件は取り扱い注意は当たり前!
そこに切り込むことは大変危険で怖いことだが、風化させてはならない問題を提起をすることに強い意義は感じる。誰もが忘れるほどに遅くてはダメだ。
宅間孝行が普段はタクフェスでいい芝居を作っているが、今年はタクラボ名義で「神様お願い!」という舞台で安倍総理襲撃事件を描いた。パーフェクトな出来で衝撃を受けたし知らぬ間に泣いていた。あまりの素晴らしさに2回観た。
直近の事件を扱うのはとても勇気のいること。
この映画はタクラボのレベルには達してはいないけど勇気は買う。
宮沢りえ、オダギリジョーが演じる夫婦が毒消しになっている。
だってさ、〈犯人が障がい者を殺しました。〉だけじゃ映画にはならないからしょうじきじいさんと正直ばあさんが必要なのだ。
回転寿司で普通は大人は玉子のお寿司なんて取らないよ。そこが被った2人の手の触れた瞬間!素敵じゃないか。2人とも小説やストップモーションアニメの夢追い人、子供のような心を持つピュアな人物だから玉子に手が伸びるのだ。
オダギリジョーの夫がほんとに優しく妻を師匠と呼ぶほど尊敬していて、妻を包み込んでいる。
二階堂ふみがまたいい味出している。嘘つきな嫌な女が素晴らしい。
事件の真相は?真実は?それを微妙に誤魔化してしまう嘘の象徴。彼女は浮気をしてる父や浮気を知ってて知らない顔してる母と、家庭も全て嘘だ。
そして一番拍手を送りたいのは磯村勇斗。まあ、難しい役をよく頑張りました。花丸!
花咲かじいさんの紙芝居を作って利用者に読んであげる優しい顔、刺青に大麻に大量殺人の裏の顔。聞こえない彼女に愛してることも告げつつこれから殺しに行くことを告げるシーンには射抜かれた。
正直じいさんだったのに意地悪じいさんになってしまった悲しい人物だ。
施設内の糞尿にまみれ裸のモザイクのかかった男の姿は衝撃的だ。見てしまったが最後、たがも外れる。
ここ掘れワンワンで糞尿を掘らされたことに怒り意地悪じいさんはポチを殺してしまう。
そこだ!磯村勇斗はそこで意地悪じいさんに豹変の演技を見せたのだ。
昔話の中では、正直じいさんはポチを葬った灰で枯れ木に花を咲かせる。
この映画で咲いた花は久しぶりに完成した小説とフランスで受賞したストップモーションアニメだ。
また、お腹の赤ちゃんを堕胎せず物語は終了する。どうしたかは想像に委ねられる。
もう一度回転寿司に行けた2人だもの。きっと1年後2人の間には可愛いベビーがいるはずだ。
施設には監視カメラが着いたのだから、もう月ではなく太陽の元に晒そう。
多くの人が観るべき映画
重度障害者施設を舞台にした映画で、観た後は重い問いかけを渡された感覚に陥ります。
出生前検診で障害がある可能性があるとわかった場合に中絶をするのと、生まれてから殺すことはなにが違うのか。さとくんはそう問いかけます。
頭では違うことが分かっていてもそれをうまく言葉で説明ができない。この問いかけがとても印象的でした。
さとくんは心があるかないかで殺す基準を設定していましたが、洋子はそれなら私の息子は心がなかったってことかと聞きます。この時さとくんはなにも返事をしませんでした。
返事をしなかったのはなぜなのか。洋子に対して情があったから心がないとは言えなかったのか。それともわからなかったのか。
全体的にみる側がさとくんに同情する様なストーリーになっているため、もう少し施設入居者やその家族の話を入れてもよかったと思います。
ストーリーは重いですが、
多くの人が観るべき映画であると思いました。
人間の絆
すべての人間に共通する思いとして健康で幸せに暮らしたい、周りの人からあなたがいて良かったと望まれる人生を送りたいという願望がある。裏を返せば心身が健康でなく周りの人に世話をかけたり、もっと言えば疎まれるような人生は不幸だし、欲しくない。フランス革命から長い時間を経て2008年5月、ようやく障害者にも順番が来た。国連の権利条約を機に当事者が発信する機会が増えた結果、障害による社会的不利は健常者が解消することがルールとなるはず、だった。でも口に出さないけれどそれはあくまでも条約とか世界基準の大きな話であり、自分のこととなるとそれは受け入れられない苦痛となる。
さとくんの言動に胸騒ぎを覚え、非番にもかかわらず職場に出向き忠告する洋子。これに対するさとくんと洋子の声が混ざった本音の問いのシーンが強く印象に残っている。公に口にできない、しかし人間に共通する帯のような負の感情といった意味でS.モームの小説「人間の絆」のテーマにつながる。
しかし希望はある。今まで見たくないものとして隠されていたことがこの映画が公開され、生物の宿命として人間には生まれながらに持つ心身の条件があること、平等でないことが明らかにされた。この事実が白日にさらされ、目の前に突きつけられたことで人間は変化への一歩を踏み出すことができたと感じる。
意義はあったけど残念
優生思想について問いたかったんじゃなかったっけ?と、映画館を後にした時に首を傾げてしまったのは、終わり方が夫婦の物語にまとまっていたからなのかもしれない。
難しい内容で間違えたら障害者の人、親を傷つけてしまうのでそこに配慮したのかなとも思われたが、出産をテーマに入れた事でテーマが分散され、事業所で勤務する職員のネガティブキャンペーンになってしまったのだと思います。
もう少し絞ってもよかったのに。
ただ、なかなかメスを入れられないテーマを映画にした意義はあったと思います。
また、二階堂ふみさんが障害者の方と深い関わりをとっていたせいか女性の障害者の方の表情が明るかったのが救いで、光だったと思います。
平たくいうと惜しいって感じです。
次回はぜひ2020年のコロナ禍で、差別とコロナと戦い、収束まで辞める職員が出さなかった船橋の知的障害者施設の話をテーマに映画を撮ってもらえたらなぁと思います。
なぜ職員が頑張れたのか。そこがみたいです。
気になったところ
序盤、子供を失ったことを示唆する描写はもう少し削っても良いと思いました。
パトカーと消防車のおもちゃにあそこまで何度もピントを合わせなくても、さりげなく画面に映る程度で良かったかなと。むしろ、最初の朝食のシーンの最後だけで十分だったかなと。私はそう思いました。
それと、映画があそこで終わってスタッロールで、少し置いてけぼり感がありました。もう少し事件後の描写が見たかったです。
全体的にはおもしろかったです。
心って?
重たい内容の映画なので、早い時間に鑑賞🎬
最初、夫婦会話のセリフがなんかぎこちなさを感じる。
子供を亡くしたからか、もともとそうゆう夫婦なのか。
奥さんが師匠だからか?
話せない障害者は人じゃないという言葉がある。
心がないからと判断されていた。
なんとも悲しい。
その人ではない生き物は価値のないと勝手に判断され、排除される。
自分は実質手を下す事はないが、道を歩いていたら、障害を持った人とすれ違う事がある。目を合わせないように、話しかけられないようにしている。何か危害を加えらるかもしれないと思っているからだ。
それは実質的に排除になるのか
それは差別かもしれない
施設で働いている人は
本当に凄いと思っていた。
唾をかけられたり、噛まれたりする事がある事は聞いていた。
他人の下の世話もする。
大変な仕事なのに低賃金。
施設の大量殺人と同時進行に進む
二人の夫婦の問題
障害を持った子なのかを検査するか、どうするか、また健康な子を産めないかもしれない。
高齢出産のリスク
私も、とても考える問題だ。
障害を持った子が生まれるかもしれないなら中絶をするというのと、生まれてから殺めるのとは何が違うのかという問題を突きつけられる。
私は見たくないものには蓋をしたいタチだ。この映画みて、突きつけられている。
あと、きーちゃん役って宮沢りえさんだった?
ある施設の事件という事でなく
ある事件をきっかけに作られたもののようですが、今の社会の本質を突いていると感じます。
ただ、事件の関係をそこまで深く知った上での発言ではないです。
まず思ったのは‥宮沢りえさんって、こんなに疲弊したおばちゃんになれるんだ😳
メイクなのか、ご本人の演技なのか分かりませんが、本当にびっくりしました。
私が感じた事というレベルでしかありませんが、宮沢りえ演じるようこ夫婦とさとくんを対比(?)しながらストーリーが進んでいく感じです。
以降は、私感です。賛否あると思いますが、書きます。
昔は、ちん◯、びっ◯、つん◯…それは今は差別用語として使うことはない言葉ですが、ある意味このような言葉を使っていた時は、障害者をインクルーシブしていた気がします。
それが、障害者になり、障がい者になりまた障碍者に、表記の上では良く(?)なってきたと認識しています。
それと同時に、障がい者が普通の世間から隔離されてきました。
隠蔽というか、無かったことにしたい人の思いがあったのでしょうか。
施設の隠蔽体質はそれはそれと置いておいて、私たちは社会に効率的に貢献できない人たちを、見なかったことにして、置いてきぼりにしてたと思います。
できる人できない人、いろんな人がごちゃ混ぜで生きられる社会だったらいいなと思います。
また、本当に障害も高齢者もそこの現場で働く人たちはとても高度な技術を求められながら、低い賃金で働いている事実を、そのままにしてはならないと思います。
この国は、どこに向かっていきたいのか分かりませんが、小さなチカラでも良き方向に向かっていけたらいいなあと思います。
最後に、映画に自身のありのままを曝け出して出演された障害をお持ちの方々に敬意を表します。
まとまりませんが。
向き合うということ
いつもの映画館①で
好きな監督の最新作なので楽しみにしていた
主演宮沢りえだし磯村勇斗も出ているしこれは観るしかない
全編に一貫する暗いトーンこれで2時間半はさすがに辛かった
退屈したとかそういう意味では全然なくてむしろ全集中して疲れた
本来この監督の作品にみられる
そこはかとないユーモアは抑え目だったという意味
オダギリジョーが殴るシーンで
次の画面でキズだらけになっていたところは唯一笑えた
あと宮沢りえとオダギリが最後の方で向き合うシーンで貰い泣き
向き合うということもこの映画のテーマなのだろう
エンドロールで原作モノだったと改めて知る
辺見庸の小説は前に読んだことがあって
やはり暗くそれ以来何となく遠ざけていた
外形上のストーリーはやまゆり園の事件に似ているので
実際の犯罪者もこのような境遇で
実は深い考えを持っていた人物だと誤解する恐れはある
オラはそうは思わない もっと短絡的な犯罪だったととらえている
映画では入院するまでで話を終えて
あとは観客の想像に任せても良かったような
入院のときに車いすに乗せられているところの意味がよく分からなかった
施設の中の描写のおどろおどろしさはやりすぎ
いまどきはもっと明るいだろう
最近武田鉄矢の朝のラジオでこの事件のことに触れていて
犯人が問う障害者に生きる意味があるかといった言葉に巻き込まれてはいけない
という論に共感する 犯罪者の思う壺論と似ているのだがちと違う
なぜヒトを殺してはいけないのかという問いも同じ類いだと
そんな質問に付き合う必要はないと
ちなみに清水義範はエッセイの中でちゃんと答えていて
それを許すと社会が壊れるからと明言していた
磯村勇斗を始めこの映画に関わった役者とかスタッフのタフさには敬意を抱く
この人たちみたいに長いものに巻かれず自分の足でしっかり立つ人物になりたい
終わったら22時
映画とは違うが半月が西の空に見えてキレイだった
明日は休暇だ 日帰り入浴とビールで健康を謳歌するのだ
しんどい
2016年、実際に起きた事件をモチーフにした本作は、
戦後最大の被害者数を出した殺人事件として、
また、その被害者が施設に入所していた障がい者の方々だったという事でも衝撃的な事件でした。
冒頭から不安を掻き立てるような映像。
暗くジメっとした湿度を感じさせられ、
食物連鎖、弱肉強食を印象付けられます🐍
漂う空気が常にしんどい。
宮沢りえ・オダギリジョー(夫婦)の関係性に
歪さを感じ(最終的には好転するが)
二階堂ふみの不気味さが秀逸でめちゃくちゃ怖い(褒めてる)
磯村勇斗、よくこの役を受けたなぁと感心し、
教師を目指していた好青年が「闇(病み)堕ち」する姿は、
フィクションとして捉えて見る「さとくん」には
少し同情も覚えてしまいます。
この事件を風化させないための作品ではなく、
根強い差別、慢性的な人出不足、いじめ、
人間関係、薬物など、近年の日本の闇深さを
掘り下げまくっていました。
洋子(宮沢りえ)と陽子(二階堂ふみ)の背景は
本当に必要だったか?と疑問に思うところが多々あります。
あえて震災や宗教について触れたのだと思いますが、
あらゆる情報が盛りだくさんな割には、
物語全体への繋がりには欠けていたように感じるし「不要」と思うところも散見されます…。
この手の作品は、もう少しシンプルに描いてもいいんじゃないのかなぁと個人的には思いました。
厳しい現実と向き合うことの過酷さ。
この映画は相模原障がい者施設での事件を題材にしており、犯人である”さとくん”の主張(優生思想)は誰しもが少なからず心のどこかに持っているような気がした。しかし、その主張はいくら綺麗事と言われようとやっぱり認めるわけにはいかないということをこの映画からは強く感じた。
”さとくん”も初めからそのような思想を持っていた訳ではなく、なぜそのような思想を持つに至ったのかということが細かく描かれていた。労働内容の過酷さは勿論、労働に見合わない低い賃金の問題、同僚からのイジメなどそういった様々に絡み合う厳しい現実から逃れるために事件を起こしたという背景がある気がした。どういった背景があるにせよ、犯行自体は身勝手極まりなく、到底理解できるものではない。厳しい現実を生きる人にとって現実と向き合うというのは残酷なほどに過酷なのもまた事実である。誰しも厳しい現実と対峙せざるを得ないときが来ると思うが、そういった時にどういう態度を選ぶのかという普遍的なテーマを扱っている映画だと思った。障がい者施設で働かれている方々には尊敬の念を強く持った。また、この世に生きる全ての人にどうか幸あれ。
みずからの内に潜む優性思想とどう向き合うか
相模原殺傷事件から7年、植松聖の死刑が確定して3年半が経過し、議論が尽くされずに事件が風化しつつあるなかでの本作品の公開の意義はとても大きい。
当然ながら、本作品は事実をもとにつくられたフィクションであり、辺見庸の原作からも石井監督によって大幅に手が加えられている。これは石井監督によるひとつの問題提起だ。
映画を通して、石井監督が伝えたかったこと、考えて欲しいことを、観客が丁寧に掬い取っていくことが強く求められる。要求に対するストレスや、彼の問題提起の手法に反発する意見が多いことも理解できる。
事件当時からパンデミックを経て、日本の社会環境はますます閉塞感や息苦しさが感じられるものになってしまった。自分が社会的弱者になりかねないなか、誰もまわりの弱者に手を貸す余裕はなく、いっぽうで政府や社会からも更なる「自助」が強く求められている。
作中の洋子と昌平は、自分たちが生産性を求め続ける社会システムからこぼれ落ちることを恐れている。そして、あらたに授かった命の存在をめぐっての「迷い」を、さとくんに見透かされ、大きく動揺する。
さとくんも、洋子も、昌平も、私たちの内面を暴き出す「鏡」だ。
私たちは、人間社会のなかに潜む「優性思想」に知らず知らずのうちに影響を受けており、そしてパーソナルな問題に直面したときに自分自身の内なる「優性思想」がたちあらわれてくる。
私たちの多くは、二項対立線上の端々にいるよりも、そのグラデーションのなかで生きている。対立する議論の渦中にいることを避け、深い森のなかに隠された存在に目をつぶり、そこに在るものが存在していないように振る舞う私たち。
洋子がさとくんと議論するなかで、対面する相手が途中から内面に潜むもうひとりの洋子になっていくシーンは印象的だ。どんなに消し去ろうとしても、自分の内に潜む「悪意」を消し去ることはできないのか。
そんな虚無的な結論に陥ってしまいそうななかで、私たちは人間という危険で危うい存在を、どう救うことができるのか、簡単に出せない問いに真摯に向き合うことを求めてくる作品だ。
🎵 月は流れて、東へ西へ 天狗舞よりも月桂冠「つき」
石井裕也監督らしい鬱映画である。
独特の世界感の表現に成功したかも。
深い森の奥の社会から隠ぺいされた障がい者養護施設を舞台に、ひとりよがりの優越感(相手を見下す心理や態度)や優生思想について、メビウスの輪の上を歩くが如く出口のない迷路から逃げ出せない感覚にハマる。
クセの強い俳優(二階堂ふみ、モロ師岡)の洋子に対する辛辣なセリフや馬鹿みたいにワンパターンのマウントを取ってくるマンションの管理人などはとても不愉快。
心臓病の子供を手術中のトラブルから3年間の植物状態の末に失った夫婦。妻のことを師匠と呼ぶ気弱な夫と処女作後まったく書けなくなった小説家の妻。今後妊娠しても生むかどうか、出生前診断するかどうかの答えも出せない。父親から虐待されながら育ちながらも実家を出ないひねくれ女。ネガティブなことを言わせたら右に出るものはいない。軽度の知的障害があり、その素直さゆえに物事に執着しがちな若い介護職員のさとくん。
これらの少ない登場人物に閉鎖的な舞台設定。
一番恐ろしいのは劣等感の裏がえしの根拠に乏しい優越感。
それに優性思想がかぶってくると鬼に金棒。
施設の所長は現実を見なさいと言って職員を丸め込もうとする。
さとくん(磯村勇斗)は陽子(二階堂ふみ)の毒にまずやられてしまったような気がする。
不快な匂いと音は視覚以上に感情に訴えてくることを滔々と話したり、はなさかじいさんの悪い爺さんの話などがループして、おかしくなってゆく。
自分とコミユニケーションを取れない心のないものは人間ではないと決めつける。
一方、ろう者の彼女は障がい者でも手話でコミュニケーションとれるからと
都合のいい線引きをする。
そんなさとくんはわざとろう者を恋人にした気がする。
さとくんが歌う井上陽水の「東へ西へ」。
このころの陽水のアルバムの曲は憂鬱な歌詞で溢れている。
🎵 がんばれ みんな がんばれ 月は流れて 東へ西へ
オダキリジョーが三人に負けじ?と、すごく真面目な演技。
よかった。短編映画で賞もらえて。
でも、天狗になるときっと離婚することになる予感。
回転ずしの玉子のエピソードも石井裕也の独特の世界感。
誰も取らないのでぐるぐる廻っている玉子は最終的には廃棄されるのか?
あなたが今取ったのは~ 金の皿ですか? 銀の皿ですか?
私はつつましく謙虚に暮らしております。
600円の金の皿はがまんして、100円の皿。
天狗舞よりも月桂冠「つき」
残酷な現実と人の傲慢さ
凄まじい内容の映画だった。
これは見たくない現実に蓋をする現代社会に対する挑戦的な作品だ。
この映画を観た誰しもが考えさせられる。
自分は見たくない現実に目を背けてなどいないと本心から言えるかどうかを。
綺麗事では残酷な現実を変えることは出来ない。
受け取り手によっては障がい者を殺すことを決めた男性職員に同調する者もいるだろう。
彼の言葉を真っ向から否定する洋子の意見がまさに綺麗事にしか過ぎないのだから。
なのでこれは非常に危うい作品であるとも思った。
書けなくなった元有名作家の洋子は障がい者施設で働き始める。
物語が始まってすぐに洋子と夫の昌平の心の中に何らかのわだかまりがあることに気づかされる。
彼らは一人息子を難病によって失っていたのだ。
息子は口をきくことも立ち上がることも出来ずにこの世を去った。
洋子は自分と同じく小説家を目指し、ネタ集めのために働く陽子や、絵が得意な心優しいさとくんと共に障がい者たちと向き合っていく。
陽子にはこの仕事を軽んじているわけではないと話す洋子だが、昌平の前では思わず自分にはこの仕事ぐらいしか出来るものがないのだと本音をもらしてしまう。
本来なら社会貢献度のとても高い仕事であるはずなのに、やはり社会としては直視したくない現実なのだろう。
給料も安ければ感謝されることも少ない。
これは介護士などに限ったことではなく、世間は直視したくない現実と向き合う仕事を冷遇しがちだ。
そしてこの障がい者施設は世間からまるで隠されているように存在するため、中では信じられないような暴力行為が行われている。
障がい者をケアせずに閉じ込め、憂さ晴らしのために暴力を振るう。
もちろんここに描かれているものが障がい者施設の現実のすべてであるとは思わないが、これが見たくないものから目を背ける社会が作り出した残酷な現実の一端であるのは確かなのだろう。
最初は障がい者たちの手助けをするために働き始めたはずのさとくんが、やがてこの残酷な現実に触れて心が歪んでいくのも無理はないと思ってしまった。
いつしか彼は、障がい者は社会に対して生きる意味も価値もないのだと思い込むようになってしまう。
そして彼は社会に貢献するために彼らを殺害することを計画する。
そんな彼を止めるための言葉を洋子は持たない。
ただ認めるわけにはいかないと抗うことしか出来ない。
確かにさとくんの意見は一見正当性があるように感じられる。
しかしどうして彼に意志疎通の取れない障がい者には心がないと言い切れるのだろうか。
そして何故彼が生きる意味や価値がないとジャッジ出来るのだろうか。
個人的には人に対してだけでなく、自分に対しても生きる意味があるかどうかを考えるのは傲慢であると思っている。
陽子がこの施設の障がい者が幸せかどうかを洋子に尋ねる場面があるが、なぜ人の幸せを他人が判断できるのか。
この世界に役割のない人間はいない。
そして自分が望んだものでなくても、人はその役割を担って生きていかなければならない。
この世界はとても理不尽で残酷だ。
この世に生きている限り、どんな人でも苦しみから逃れることは出来ない。
どんな人にも闇はあるが、逆にいえば光も絶対に存在する。
この映画は苦しみの中の光と闇を絶妙に描き出している。
これは洋子と昌平の再生の物語でもあり、彼らの未来には一筋の光があった。
しかし、さとくんによって多くの障がい者たちは光を奪われてしまう。
何故彼を止めることが出来なかったのか。
どうして適切な言葉で彼を諭すことが出来なかったのか。
さとくんの心の闇も理解出来るだけに、最悪な結末にただただ虚しさだけが残った。
しかしこれはモデルになった事件があるように、現実にあり得ることなのだ。
もっと人が自分の傲慢さを捨て、そしてもっと他人に寄り添う気持ちを持てれば、社会は変わっていくのだろうか。
観終わった後もずっしりと余韻の残る映画だった。
かなりモヤモヤ
フィクションと言ったとしても、明らかに元となった事件があって、それも関係者の方々がご存命な訳で、もうちょっと配慮した出来にして欲しかった。
施設なら責任者が必ずいて、ある時は新米?三人で宿直してて、事件の時は一人だったり。大きな音がしたから見に行ったのに、音の原因も調べない。扉に窓あるから、鍵開ける前に窓から照らして確認するよね。
二階堂さんが小説家って意味あった?。犯人の彼女が聾唖というのもとってつけたような感じで、本当に聞こえないよね、みたいに確認してたけど、仕事してるくらいだし、二階堂と飲んだ時の感じから、唇の動きは読めるでしょ。いろいろ、無神経な映画だと、思いました。
モヤモヤ
『舟を編む』の石井裕也監督だけあって、間や演技力を使い、セリフ過多にしない演出はよかったです。
役者陣の演技も素晴らしかった。
しかし、複雑かついろんな感情が同時に芽生える、異様な作品でした。
まだ関係者の記憶も生々しい今の段階で、(時代を切り取る意図の)小説はともかく、目に見える「映像作品(映画)にするなよ」という否定的な気持ちと。
「テレビじゃ踏み込めない心情表現をここまで踏み込んだ」上で、問題提起したことに対する賞賛に似た気持ちと。
(さらに、後述しますが、なんだか気持ちを弄ばれたような不快感も)
まず否定的に感じた要素として、いくら創作小説を原作にしたとはいえ、題材は露骨に2016年の「相模原障害者施設やまゆり園殺傷事件」です。
なにしろ作中の犯行日時が、実際の事件と同じ2016年7月26日未明ですから。
犯人の愛称が、実際の犯人の名をもじったものですし。
ナチスは悪と言いながら、優生思想そのものの犯人の思考。
社会的生産性を有さず、自らの意思を他人に伝達する能力がない障害者を、独善的かつ主観のみで生かしていいか、心があるか、と決めつけ選別し、「効率的」に処理する。
その異常さを見せつけられて、胸糞が悪かった。
一方で、誰の心の中にも、無意識に差別的な意識は存在するので、その心のありようや生き方を選ぶのは自分自身なんだということを見せることは社会のためにも必要で。
原作小説は、身体を目ひとつ動かせない入所者「きーちゃん」と、犯人の一人称で、「心があるって何なのか」を問うような内容なのだが…映画だとモノローグだらけで映像に向かないので、元作家の洋子(宮沢りえ)を設定していました。
このキャラの内面を描くことで、犯人の心理を肯定する気持ちと、許さない・許されないという気持ちの両方が誰にでもあると見せたのは、大いに意義はあると思いもしました。
特にラスト近く、洋子の自問自答のシーン(宮沢りえの演技)は圧巻でありました。
同時に障害者施設の職員たちがいかに心を病んでいくかを描写していて、社会そのもの(および国の在り方)に病理の根源があることを指摘していたのは重要。
とはいえ、(追い詰められているのはわかるが)職員たちが入所者たちへ虐待を恒常的に行うのは、ある意味仕方なく、悪者のように描くと受け取れもしました。
こんなに忍耐とプロ意識が必要な、精神的にきつい仕事に、非正規雇用のパートをあて、正規雇用でも月手取り17万程度の低賃金、だれからも感謝されず、家族も見舞いに来ないで評価もされない……
というご指摘はごもっともではあるが。
それは全国の同様の施設に勤務する人々に対する侮辱ではないのかとも感じ、腹が立ちました。
この点が最も手放しで褒められず、私の中にはこの作品を否定したい気持ちが生まれた原因だと思いました。
そのほかに、不快感を生んだ正体はいくつか心当たりが。
自分の中の差別意識へスポットライトをあてられたからかもしれませんし。
もしくは、こんな気持ちが制作側の掌で転がされたから生まれた気もして、作り手側の「俺たち頭いいんだぜ」みたいな癇に障るこざかしさを感じ取れてしまったのかもしれない(これは故・河村光庸氏の企画・プロデュース作全部から匂ってくる共通点ではあります)……と冷静に分析してはいますが。
なんかこう、一言で言い表せません。
あえてまとめるなら「モヤモヤした」かな。
凶行を「理解できる」という危うさと「理解できない」という他人事。。それよりもむしろ。
「映画は、匂いを表現できない」
表現者のメッセージを受けた個人的な感想は一見大事なようで、結構どうでもいいことだった。
「挑戦を続ける監督」という謳い文句や、所謂「社会派」とか実際の猟奇犯罪をベースに、、などというセンセーナショナルななにかを期待するなら、評価は低いものになるだろう。しかし、そういった好奇心そのものが命に対する冒涜である。
きっと監督は途中で気づいたんじゃないか?
リアリティーを追求することの放棄こそ重要だと。
折しも中東での混乱の直後の公開はとても示唆的である。本当の暴力から遠くはなれた安全地帯から見下ろして批評するという傲慢さ足りうる。
自分は、この事件の責任は、あくまでも「個人」の犯行だとする。イデオロギーに支配されほころび探しの論理に囚われ「盲信」に陥った「個人」の犯罪だと思っている。
ただし、身体感覚の伴わない「死」や「暴力」が画面の向こうにあり、情報に溢れた「脳化」社会でロゴスに囚われた状況は誰にでもありえる。実際に行動するには勿論環境要因が伴うだろう。しかし凶行を「わかる気がする」とか「せっかくの才能が何故?」などと「理解しようとする」ことこそが、地獄への入り口だとしておく。
だってそれって、ただの好奇心ですよね?
誰もが陥りやすい評論社会。まさにイマココ(レビュー)の状況である。
逆に「こんなひどいことするなんて!信じられない❗」と自分とは一切に関わりがないと文字通り「汚物」に蓋をして想像を放棄する無責任を問うのが映画の主旨である。
その上で、この映画は社会を問う問題作としてではなく、ゾーンとしての感情を扱う映画として上質だと訴えたい。
私自身、ミステリー好きが高じて作品からなにかを読み取ろう、映画の醍醐味は考察にあり、などと一興に高じていた自分の愚かさに恥ずかしさを隠せない。だからこそ犯行そのものを主軸に添えず、平行した一つの結果とした作り手の良心に安堵した。
派手でも斬新でもなく、心象の揺れに効果的なカメラ運び、陰影、役割それぞれ演技の熱量バランス、「リアリティ」と「想像性」など、表現に対する作り手の真剣な態度を感じ取った。
扱ったテーマだけに事件そのものに触れずにはいられないが、筋そのものは難解ではない。しかし作り手の想いを「わかろう」とするのは容易ではない。「映画」としての味わい深さは、真剣に見るほど個々人それぞれの感想のグラデーションが浮き出るような奥行きのある仕上がりとなっていると思う。
物語の根幹には「汚れ」がある。「穢れ」ととるとイデオロギー臭くなるが、そのような気高いものでもない。
美しくもなく逆に過剰にえげつなくもない映像が「そこはかとない良心」を感じる所以だ。表情や台詞や声の調子、小道具を深く味わうべきだと思う。
そうすることで「謎解き」や「考察」に興じている自分の愚かさに気づく。
裏返して言えば、ミステリー好きこそ見るべき映画なのだ。がっかりするか内なる何かに気づくかで、人間を計られているとすら思う。
もし、収容された人たちを見て「目を背けたくなるのなら」なにも言わずに席を立って家でゆっくりワインでも飲んでいなさい。きれいなものだけを見て暮らせばよい。
もし、映像に「刺激の物足りなさ」を感じたなら、自分も病院に行く側足りえることを自覚しなさい。
と、ここまで散々不要な前置きをして、少しだけ感想を書く。
夫婦の物語である。
子どもを失って、横に並んで食事する二人の表現者は「同じ方向を向いて」もしくは「寄り添いながら」生きていこうとした。世にいうフランススタイルか。
(私は、夫婦は同じ立ち位置ではなく別の個人、平行線じゃなく、互いに補完し合うものだと思う。ただ、それができるのは間に子どもがいるからだ。などというと働く女性からはお叱りを受けるのだろう。)
対照的にラストでは、回転寿司店で「互いに向き合って」生きていくことを決意する二人に届くニュース。
絶望でも希望でもない。月と太陽が互いを照らして生きていく決意と深い闇。
ただ互いを見つめて「生きる」だけ。
「死ぬ」のは一度だけ。
実際に身近な死を見たり聞いたりもしないうちから
「人が死ぬってあっけないもんだよ。そんなに知りたいなら試しに死んでごらんよ。」
と知ったようなことを聞いて死んでいく子どもが増えているのかもしれない。
演出について。
「さとくん」の俳優は、変な色気を出さず真摯に役に向き合っていた。
ギラギラせず、冷徹でもなく、ただ観念と思い込みと想像力と偏った知識に飲み込まれただけ。ストイックに、嫌みなく、共感を呼び起こそうとせず、演じていた。
若かりし頃のはつらつとした宮沢りえから記憶が止まっている自分としては、主人公の「後ろめたさ」よく表していたと思う。場面によって、痩せこけた初老のようにも、洗練された少女のようにも見え、やがてそれこそトリアー作品の魔女狩りの主人公を体現していた。
若い頃から渋くてカッコいいイメージのオダギリジョーはシリアスどころか能天気に登場したが無論苦悩を背負っていないわけでもない。カッコよくない善人としての演技に好感をもった。
二階堂ふみも安定の振り幅のある演技で惹き付けられた。
さとくんの彼女のソフィーぶりは誰もが見逃さないよね。
(オマケみたいに書いた。)
モチーフとしての大量殺人犯、舞台装置としての恋人
原作未読です。
前半のさとくんの紙芝居のくだりや、施設長へ意見するなどの真面目な青年像と、大麻や刺青、金髪などの嗜好がキャラクターとして重ならず、違和感がありました。
観賞後、気になって事件記録を読み、実際の犯人に寄せた結果だとわかりましたが、無理に寄せない方が良かったのではないでしょうか?
犯行動機の安直な優生思想を観客に投げ掛ける崇高なテーマにしてしまったのはモヤモヤします。
聾唖者の恋人の存在はコミュニケーションの可否を犠牲者の選別に用いた犯人の身勝手さを際立たせる装置となっていました。フィクションに舵を切るのなら、普通の感覚の持ち主が、異常な思考に落ちていく過程を描いた方が良かったと思いますが、宅飲みシーンの異様さに「元々おかしな人だな」と印象づけられてしまいましたし、陽子の深酒発言が隣にいることで「ヤバイ人ばかりの職場だな」と思わされてしまったのも残念です。
俳優の皆さんの演技が素晴らしかっただけに、現実に引きずられてしまった設定が惜しいと思いました。
ハリボテの月
別名『ロストケア2』。
個人的にはまったく合わなかった。
登場人物全員が、「そんなこと言う!?」という台詞を連発してリアリティがない。
不穏感を煽るためか家も施設もいちいち不自然に暗い。
わざわざ爆音の店で愚痴を言ったり、逆に最後の回転寿司屋では有線すらかかっておらず、無音。
冒頭の文字演出からはじまり、すべて台詞で説明。(さとくんの彼女はさとくんに喋らせるのが役割の大半)
モブが丁度いいとこで丁度いい単語をわざとらしく話す。
洋子がもう一人の自分に言われた台詞は正鵠を射てたように感じたのに、何事もなく執筆を継続。
さとくんが事を起こすのにわざわざ白っぽい上着を着てるのも、血を際立たせるためだろう。
などなど、題材としては重いものではあるが台詞も演出もあざとすぎて響かず…
劇中で、洋子の小説は綺麗なところしか書いてないと言われるが、本作はその逆に感じた。
「こんなに昏いところまで描いているんですよ」という作為が見えて鼻白んでしまう。
そのくせ介護・介助のシーンは少なく、洋子がきーちゃんを特別視する様子も薄かった。
役者陣の演技は良かった。
特に情けなく子供っぽい昌平を演じたオダギリジョーは素晴らしかったと思う。
完成度は高い
ストーリーの良し悪し、善悪の話は一旦横にして、演技や関係性の描き方は良かったと思う。
誰に感情移入できるかと言うと、わたしはオダギリさんだった。辛いことがあったなかで笑顔でいようと努めるけれど心の傷は埋まらない、そんな描写がすごく刺さった。
二階堂さんの冷酷に淡々と事実をしゃべるところはさすがの演技力。『何者』を思わせる感情の昂り方で見入ってしまう。
磯村さん、宮沢さんのやりとりは臨場感があって、尚且つ「お前はどうなんだ」というメッセージも感じて考えることがたくさんあった。
ストーリーは実際の事件の全容を詳しく知らない身としてまさに目を背けていたことに目を向けさせるためのきっかけとして成立していると思った。事実とは違う点があるのかもしれないが、0から0.1にはなっているはずだと思う。個人的な考えだけれど、事実だけならドキュメンタリーにすれば良くて、物語になっているのは入り口としては大成功だろうとおもう。
気になったのは画面を2分割する編集で、そこまで入り込めていたのが一瞬で戻された感じがしてそこが残念だった。あと月明かりは本当にあの明るさでよかったのか(作品を通しての明るさの統一感について)は色々と思うところがあった。
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