月のレビュー・感想・評価
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凶行を「理解できる」という危うさと「理解できない」という他人事。。それよりもむしろ。
「映画は、匂いを表現できない」
表現者のメッセージを受けた個人的な感想は一見大事なようで、結構どうでもいいことだった。
「挑戦を続ける監督」という謳い文句や、所謂「社会派」とか実際の猟奇犯罪をベースに、、などというセンセーナショナルななにかを期待するなら、評価は低いものになるだろう。しかし、そういった好奇心そのものが命に対する冒涜である。
きっと監督は途中で気づいたんじゃないか?
リアリティーを追求することの放棄こそ重要だと。
折しも中東での混乱の直後の公開はとても示唆的である。本当の暴力から遠くはなれた安全地帯から見下ろして批評するという傲慢さ足りうる。
自分は、この事件の責任は、あくまでも「個人」の犯行だとする。イデオロギーに支配されほころび探しの論理に囚われ「盲信」に陥った「個人」の犯罪だと思っている。
ただし、身体感覚の伴わない「死」や「暴力」が画面の向こうにあり、情報に溢れた「脳化」社会でロゴスに囚われた状況は誰にでもありえる。実際に行動するには勿論環境要因が伴うだろう。しかし凶行を「わかる気がする」とか「せっかくの才能が何故?」などと「理解しようとする」ことこそが、地獄への入り口だとしておく。
だってそれって、ただの好奇心ですよね?
誰もが陥りやすい評論社会。まさにイマココ(レビュー)の状況である。
逆に「こんなひどいことするなんて!信じられない❗」と自分とは一切に関わりがないと文字通り「汚物」に蓋をして想像を放棄する無責任を問うのが映画の主旨である。
その上で、この映画は社会を問う問題作としてではなく、ゾーンとしての感情を扱う映画として上質だと訴えたい。
私自身、ミステリー好きが高じて作品からなにかを読み取ろう、映画の醍醐味は考察にあり、などと一興に高じていた自分の愚かさに恥ずかしさを隠せない。だからこそ犯行そのものを主軸に添えず、平行した一つの結果とした作り手の良心に安堵した。
派手でも斬新でもなく、心象の揺れに効果的なカメラ運び、陰影、役割それぞれ演技の熱量バランス、「リアリティ」と「想像性」など、表現に対する作り手の真剣な態度を感じ取った。
扱ったテーマだけに事件そのものに触れずにはいられないが、筋そのものは難解ではない。しかし作り手の想いを「わかろう」とするのは容易ではない。「映画」としての味わい深さは、真剣に見るほど個々人それぞれの感想のグラデーションが浮き出るような奥行きのある仕上がりとなっていると思う。
物語の根幹には「汚れ」がある。「穢れ」ととるとイデオロギー臭くなるが、そのような気高いものでもない。
美しくもなく逆に過剰にえげつなくもない映像が「そこはかとない良心」を感じる所以だ。表情や台詞や声の調子、小道具を深く味わうべきだと思う。
そうすることで「謎解き」や「考察」に興じている自分の愚かさに気づく。
裏返して言えば、ミステリー好きこそ見るべき映画なのだ。がっかりするか内なる何かに気づくかで、人間を計られているとすら思う。
もし、収容された人たちを見て「目を背けたくなるのなら」なにも言わずに席を立って家でゆっくりワインでも飲んでいなさい。きれいなものだけを見て暮らせばよい。
もし、映像に「刺激の物足りなさ」を感じたなら、自分も病院に行く側足りえることを自覚しなさい。
と、ここまで散々不要な前置きをして、少しだけ感想を書く。
夫婦の物語である。
子どもを失って、横に並んで食事する二人の表現者は「同じ方向を向いて」もしくは「寄り添いながら」生きていこうとした。世にいうフランススタイルか。
(私は、夫婦は同じ立ち位置ではなく別の個人、平行線じゃなく、互いに補完し合うものだと思う。ただ、それができるのは間に子どもがいるからだ。などというと働く女性からはお叱りを受けるのだろう。)
対照的にラストでは、回転寿司店で「互いに向き合って」生きていくことを決意する二人に届くニュース。
絶望でも希望でもない。月と太陽が互いを照らして生きていく決意と深い闇。
ただ互いを見つめて「生きる」だけ。
「死ぬ」のは一度だけ。
実際に身近な死を見たり聞いたりもしないうちから
「人が死ぬってあっけないもんだよ。そんなに知りたいなら試しに死んでごらんよ。」
と知ったようなことを聞いて死んでいく子どもが増えているのかもしれない。
演出について。
「さとくん」の俳優は、変な色気を出さず真摯に役に向き合っていた。
ギラギラせず、冷徹でもなく、ただ観念と思い込みと想像力と偏った知識に飲み込まれただけ。ストイックに、嫌みなく、共感を呼び起こそうとせず、演じていた。
若かりし頃のはつらつとした宮沢りえから記憶が止まっている自分としては、主人公の「後ろめたさ」よく表していたと思う。場面によって、痩せこけた初老のようにも、洗練された少女のようにも見え、やがてそれこそトリアー作品の魔女狩りの主人公を体現していた。
若い頃から渋くてカッコいいイメージのオダギリジョーはシリアスどころか能天気に登場したが無論苦悩を背負っていないわけでもない。カッコよくない善人としての演技に好感をもった。
二階堂ふみも安定の振り幅のある演技で惹き付けられた。
さとくんの彼女のソフィーぶりは誰もが見逃さないよね。
(オマケみたいに書いた。)
モチーフとしての大量殺人犯、舞台装置としての恋人
原作未読です。
前半のさとくんの紙芝居のくだりや、施設長へ意見するなどの真面目な青年像と、大麻や刺青、金髪などの嗜好がキャラクターとして重ならず、違和感がありました。
観賞後、気になって事件記録を読み、実際の犯人に寄せた結果だとわかりましたが、無理に寄せない方が良かったのではないでしょうか?
犯行動機の安直な優生思想を観客に投げ掛ける崇高なテーマにしてしまったのはモヤモヤします。
聾唖者の恋人の存在はコミュニケーションの可否を犠牲者の選別に用いた犯人の身勝手さを際立たせる装置となっていました。フィクションに舵を切るのなら、普通の感覚の持ち主が、異常な思考に落ちていく過程を描いた方が良かったと思いますが、宅飲みシーンの異様さに「元々おかしな人だな」と印象づけられてしまいましたし、陽子の深酒発言が隣にいることで「ヤバイ人ばかりの職場だな」と思わされてしまったのも残念です。
俳優の皆さんの演技が素晴らしかっただけに、現実に引きずられてしまった設定が惜しいと思いました。
ハリボテの月
別名『ロストケア2』。
個人的にはまったく合わなかった。
登場人物全員が、「そんなこと言う!?」という台詞を連発してリアリティがない。
不穏感を煽るためか家も施設もいちいち不自然に暗い。
わざわざ爆音の店で愚痴を言ったり、逆に最後の回転寿司屋では有線すらかかっておらず、無音。
冒頭の文字演出からはじまり、すべて台詞で説明。(さとくんの彼女はさとくんに喋らせるのが役割の大半)
モブが丁度いいとこで丁度いい単語をわざとらしく話す。
洋子がもう一人の自分に言われた台詞は正鵠を射てたように感じたのに、何事もなく執筆を継続。
さとくんが事を起こすのにわざわざ白っぽい上着を着てるのも、血を際立たせるためだろう。
などなど、題材としては重いものではあるが台詞も演出もあざとすぎて響かず…
劇中で、洋子の小説は綺麗なところしか書いてないと言われるが、本作はその逆に感じた。
「こんなに昏いところまで描いているんですよ」という作為が見えて鼻白んでしまう。
そのくせ介護・介助のシーンは少なく、洋子がきーちゃんを特別視する様子も薄かった。
役者陣の演技は良かった。
特に情けなく子供っぽい昌平を演じたオダギリジョーは素晴らしかったと思う。
完成度は高い
ストーリーの良し悪し、善悪の話は一旦横にして、演技や関係性の描き方は良かったと思う。
誰に感情移入できるかと言うと、わたしはオダギリさんだった。辛いことがあったなかで笑顔でいようと努めるけれど心の傷は埋まらない、そんな描写がすごく刺さった。
二階堂さんの冷酷に淡々と事実をしゃべるところはさすがの演技力。『何者』を思わせる感情の昂り方で見入ってしまう。
磯村さん、宮沢さんのやりとりは臨場感があって、尚且つ「お前はどうなんだ」というメッセージも感じて考えることがたくさんあった。
ストーリーは実際の事件の全容を詳しく知らない身としてまさに目を背けていたことに目を向けさせるためのきっかけとして成立していると思った。事実とは違う点があるのかもしれないが、0から0.1にはなっているはずだと思う。個人的な考えだけれど、事実だけならドキュメンタリーにすれば良くて、物語になっているのは入り口としては大成功だろうとおもう。
気になったのは画面を2分割する編集で、そこまで入り込めていたのが一瞬で戻された感じがしてそこが残念だった。あと月明かりは本当にあの明るさでよかったのか(作品を通しての明るさの統一感について)は色々と思うところがあった。
みんなに見てほしい映画です。
元入所施設職員として、映画館で鑑賞して、1300円のパンフレットもしっかり読みました。監督、スタッフ、俳優さんの思いがつまっていて、取材や見学、そして、入所施設での労働を通じて、障害者施設の現状に向き合う作品で、なにより、当事者が俳優として、いきいきと参加をされていて、でも、施設のリアルな実態もリアルに表現されていて、作り手の表現に驚きました。
今の日本の抱えている問題について、議論するきっかけとして、多くの人に見てほしい。議論してほしい。
実際に起きた事件に向き合い、二度と起こさないために何ができるのかを考えていきたい。
素晴らしい映画をありがとうございます。
人を殺したいという「思考」は自由だが、殺人という「行為」は絶対に許されないのではないか?
意思の疎通ができなければ心がなく、心がなければ人間でなく、人間でなければ殺しても構わないのではないか?
これは、犯行に至る前、磯村勇斗演じる犯人が、宮沢りえ演じる主人公に投げかける問いであるが、それは、同時に、映画を観ている観客に向けた問いにもなっている。
「綺麗ごと」や「建て前」を抜きにして、こうした考えに真っ向から反対することはできるのか?仮に、近親者に重度の障碍者がいた場合、「当事者」として、こうした考えを完全に否定することはできるのか?
映画の中でも、主人公は、「私はあなたを絶対に認めない」と言うだけで、論理的に反論できないばかりか、障碍を持つ子が産まれてくることを望んでいない自分と犯人とを重ね合わせて、自分自身の中にも同じような考えがあることを自覚するのである。
こうしたシーンから、観客も、「重度の障碍を持つ人たちにどのように向き合えば良いのか」を深く考えさせられることになる。
しかし、その一方で、犯人に自分の考えを延々と述べさせることは、観客に「それも一理あるな」と思わせ、引いては、その考えを正当化してしまう危険性があるのではないだろうか?
あたかも、どこの障碍者施設でも、暴行や虐待が常態化しているかのような描写(冒頭のテロップも含めて)には疑問を抱かざるを得ないが、そうした劣悪な職場環境が、犯人の蛮行に正当な理由を与えてしまっているようにも感じられるのである。
施設を訪れる入所者の家族が、高畑淳子演じるきーちゃんの母親だけということにも違和感を覚えざるを得ない。こういう家族が沢山いたら、犯人が犯行に走る理由が弱められてしまうからなのだろうが、あまりにも家族のことを軽んじているし、薄情に描いているように思えてならない。
ドラマとしても、何のために二階堂ふみ演じる施設の職員を登場させたのかがよく分からないし、施設の入所者を虐待する2人組や先輩のマンション管理人のキャラクターも平板で薄っぺらい。
この映画の白眉とも言える犯人と主人公との対峙の後、一気にクライマックスになだれ込むのかと思いきや、一転、犯人は鑑定留置となってしまい、犯行に至るまでの流れがどうにも悪くて間延びしているようにも感じてしまった。
何よりも、犯人が多くの命を奪った理由が、「生産性のない者を税金で養うのは無駄だから」なのか、「意思の疎通もできずに寝たきりの状態で生かし続けるのは可哀想だから」なのかがよく分からないのは気になる。
そこは、あえて両方の台詞を言わせて曖昧にしているのかもしれないが、理由がどちらであるかで犯人に対する心象も変わってくるし、やはり、犯行の動機は明確にするべきだったのではないだろうか?
もしかしたら、色々な考え方を羅列して問題を提起し、観客に判断を委ねようとしているのかもしれないが、一つだけ間違いないのは、「思考」には正解がなくても、人を殺すという「行為」だけは絶対に許されないということだろう。
百歩譲って、犯人の思考や動機に同調できる部分があるとしても、その行為に賛同することは絶対にあり得ない。
この映画の最大の問題点は、ラストに至るまで、殺人という「行為」を明確に否定していないところであり、糾弾もしていないところであると思われるのである。
パラレルなノイズ(キャンセリング)
月
ジャンプスケアのような入所者の叫びのシーンは、突然入るのではなく閉じていく。集中するためのノイズキャンセリングのように、見たくないものに蓋をしていることを際立たせるためだ。
寝たきりの入所者に想像で感情移入して感性に思いを馳せる、皆同じ人間だ。その後に長回しのシーンで、非行の宣言と理由を聞く。日常の営みの温もりとの徹底された対比描写が続いていく。
彼は「最後は嘘をつかないで」という。見せかけの討論(自分の中の葛藤を含む)は嘘か。
墓参りで喜びを抑えられないように、皆何かを切り捨てて生きているのか。しかしそうして生きていること自体は辛いはずで、だからか小さな映画祭の受賞にも、涙が溢れ落ちている。
企画ありきで作った作品
どうしても、この作品を作らなきゃいけない理由が見つからないのが苦しいところか。
ベタ褒めしてる人は、たぶん映画関係者の身内か露悪な映画が好きな人な気がする。
スターサンズの名前があるので、例のプロデューサーが企画した後に監督として抜擢されたのが石井監督だろう。
故にこの物語の落とし所に苦戦してる様子が見て取れる。さすが石井裕也でそこら辺の監督よりは、見れる作品に仕上げてる。クオリティが高い。
しかし主演や二階堂ふみの演技は酷かったように思える。コレを熱演!と言って褒めるのはちょっといかがなものか?と思ってしまう。
やまゆり園の時は如何だったのか?少し気になるが、一方的な語り口な気がするのと、主人公の葛藤はどうなんだろう?落とし所がない気がする。
自分がどんな思想の持ち主なのか突きつけられた
気が滅入る題材過ぎて正直鑑賞を躊躇していました。
しかし、磯村君とスターサンズの作品なので観ない訳にはいきません。
朝イチの小さなハコでしたが何と9割入り!両隣に人がいるなんて何とも久しぶり。右は妊婦さん!だ、大丈夫かな。
原作「月」は、実際の障碍者殺傷事件をモチーフとし「事件を起こした個人を裁くのではなく、事件を生み出した社会的背景と、人間存在の深部に切り込まなければならない」←ここ大事
と感じた、辺見庸先生が「語られたくない真実」の内部に潜ることに挑戦した小説。
この問題作を映画化したのは実力派・石井裕也監督。
辺見先生の言葉通り、あの事件を主に描いているのではなく、「人間の尊厳」「福祉のシステムの在り方」を軸に我々に問う作品になっていたと思う。
私達が目を逸らしてきた現実の中の
「見ないようにしているだけで、確実にそこに存在している真実」を見せられて逃げ場を失った。
ハンデは入居者ごとに違ったようだが、ここはいわゆる「重度障碍者施設」
寝たきりだったり、自傷、他害があったり、24時間全介助の必要な人々が暮らす施設だ。
他施設や家庭では介護しきれない人々が最終的にたどり着く場所ともいえるのか。
以前読んだ重度障碍者施設で働く職員さんの手記を思い出した。
利用者同士、利用者から職員への
「暴力」は日常茶飯事。
もはや無法地帯だったそう。
そして過酷な労働で職員の入れ替わりが激しく、残された職員もいつも限界寸前で働いている。
休憩もなくサービス残業は当たり前。安全配慮もないに等しい。
施設は監査対策はするが、都合の悪い事は隠蔽。
労基法や労安法は守らない施設も実際に存在するとのこと。。
そんな施設ばかりではないのは承知しているが、実際に上手く機能が果たせていない場所があるのも事実だと知った。
施設の運営が健全でなければ、そこで働く人はキツイだろうなと思ったし、利用者も幸せではない。
職員の精神力でのみ安定が保たれている施設なんて破綻している。
本当に恐ろしい現実だ。
根本的な改革が必要な事は国も私達も知っているのに、臭いものには蓋。。
又、以前住んでいた場所の幼稚園の近くに、障碍者施設の建設の話しがあったが、近隣住人の反対運動が巻き起こり立ち消えとなった事も思い出した。
目につかない「森の中」ならあっても良いが、自分の生活圏内ならばどうか。。
この事も重なり、自分がどんな思想を持った人間なのかと、突きつけられた気がした。
本作の強烈なメッセージだと思った。
さとくん(磯村君)は、私には最初から壊れた人間に思えた。
彼の中での正義感や使命感といったものが、最初から異様な怒りを伴って見えたから。
これは私が、あらすじと、あの事件を知っているからなのか、起きる惨劇を想像できたからなのか、よくわからない。
でもさとくんはあの施設で働いていたから狂ったのではないと思えた。
最初から狂った思想を持った生き物だったのだと。。
いくら酷い現状の中にいたとしてもあの答えに辿り着くのは完全に間違っています。
それは大前提ですが。。
しかし、さとくんの、極端な考え方ではあるが、あの訴えには、全てを否定しきれない自分がいて動揺した。
同時に洋子(りえちゃん)も自らの心の中の本音とぶつかり対話する。
「本音と建前」「理想と現実」
私の心もぐらぐら揺れた。
そしてさとくんが言う
「がんばります」という言葉。
「がんばらなければいけません。
実行するには持久力が必要ですし、途中でやめるわけにはいきません。
だけど、がんばります。」
そして「がんばれ〜みんながんばれ〜」と口ずさむ。
ここが1番気持ちが悪かった。気持ちの持っていきようがなかった。
動悸がした。
震災や出生前診断、優生思想もテーマに組み込んでおり、強烈に重たい作品だった。
答えの出ない問いかけだが、人ごとではないとの確信もある。
未来なんてわからない。
私も事故にあったり、病気になって、寝たきりになるかもしれない。
それこそさとくんの言う「意思疎通が出来ないモノ」になる可能性だってあるのだから。
そして最後まで考えても見つからない答え。
あの夫婦の子供が病気がなく産まれてきて欲しいと願ってしまう私は、優生思想の持ち主なんだろうか。。
磯村君、りえちゃん、オダギリさんの演技は力強く、作品のテーマに負けない気迫を感じた。
りえちゃん代表作になるのでは。
⚪︎追記⚪︎
あるレビュアーさんのレビューを拝読し、考えた事があった。
洋子もさとくんも陽子も昌平もみな
「何かを作る人」だった。
しかし皆、それを批判されていた。
他者に評価されない不完全な物を生み出している所は、本作のテーマにもある「命の軽重」にも絡んでいるのかなと。
唯一、人間としての善性を保っていた昌平の作品が受賞した事も意味があったと思う。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
♪ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか
ニ・ニ・ニーチェかサルトルか
みんな悩んで大きくなった(大きいわぁ大物よぉ)
俺もお前も大物だ(そうよ大物よぉ)♪
BY野坂昭如「ソ・ソ・ソクラテス」 1976年サントリーオールドCM
ニーチェは1865年、ケルンにて娼婦から感染、最終的には神経梅毒の症状に冒される その病気の中、「病人や弱者は社会を弱体化させる有害な存在であるから、積極的に殺害すべき」だと主張した。
そんな男がナチスドイツ時代に生きていたら、たちまちT4作戦により処分対象だっただろう それとも実存哲学の先駆者たる彼は自分は違うと反論できたであろうか?
7月26日は幽霊の日
1825年7月26日に、実際に起こった事件がモデルとされる怪談劇「東海道四谷怪談」の初演が行われたことを記念して制定された日
この日に犯行に至った事を奴は知っていたのだろうか? 物言わぬ死者と勝手に断罪と称し禁忌を貪った奴は、物言わぬ無数の天使達に無慈悲に何度も何度も限りなく肉体と精神を雲散霧消とされ続ける悪夢を見続けて欲しいと願うばかりである
作中、何度も何度も問い続ける「お前も思っているのではないか?」
アバンの旧約聖書「コヘレトの言葉」3章15節 『今あることはすでにあった これから起ることもすでにあった』は、人間の思っていることは未来永劫消えぬ原罪を既に現わしている言葉だ
"相模原障害者施設殺傷事件"をモチーフとした原作本の映画化とのこと、原作未読である
今作を鑑賞して、気が付いた映像的特徴がある 初めて映画制作をした人でもないのに、多分恣意的にそのカメラワークが、安易な動きでアマチュア的手法を用いている それはアマチュアというより、運動会のホームカメラのような動きが随所に施されている これの意味するところは自分の能力の低さでは考察が困難である 他の考察サイトの批評を待とう 只の気付きである
モチーフであるから、実際の事件での関係者の心情や思考の遷移、そもそもの思想や主義の明確な解説は成されない それは多分どんなに研究してもし尽くせないことであろうし、そこに力を注ぐ必要も無いと考える
自分が社会的に劣っていると感じるとき、努力を惜しまず精進するか、諦めて日々をやり過ごすか、この世の未練を断ち切り旅立つか そんな大まかな選択であろう そしてその選択に他人を消極的に巻き込む(悲しませる等)ことはあるにせよ、自分の死を代替する対象を作るなんてことは考えない その考えないことを考えたらしめる環境がベースとなり、安易に結びつく萎縮した思考の欠如、想像力の閉塞 世間で言うところの『無敵の人』の誕生である ニーチェは『超人』を望んだがこれがそうなのか?
その悪魔に魂を売り飛ばした人間が常に切っ先を向けてくる、「お前も思っているのではないか?」 どんどんとジグソーの如く嵌められる日常の暴力
マスターピースを埋めない様、一体何が必要なのか? それは常に二股に分れる岐路の如く、天国と地獄を自ら課す 何が譲れて、何が譲れないのか? 自らのプライド?それとも家族の尊厳? しかしその抵抗は防御の為であり、より弱い者への矛先ではない 抵抗できない悔しさを晴らすための格好の獲物だと思ったのならば、そこに美辞麗句を飾っても何も響かない、届かない
猫も象も、自分が永くはないと悟ったのならば静かに退場する 本能で生きている動物ですら清々しい 東日本大震災、創作活動、重度障碍者介護、それぞれが天災やイマジネーション、極度の職場環境というMAXストレスの中でフラストレーションを如何にして鎮める事が可能か?
その答えを探す為の動機をこうして映像化し続ける事 常に弛まぬ持続を怠らない映画界で有って欲しいと願いつつ、丁寧且つ真面目で親切なしつらえを施した今作に最大限の称賛を送りたい
PS.勿論、観賞を保証してのレビューである 疑うならばコメント願いたい
大切なのは考えるきっかけ
障がい者とは。本音と建前。
覆い隠される不都合?な真実。
鑑賞中に主に感じたことです。
劇中で二階堂ふみが語る
東日本大震災に関する視点。
本作を制作する上での
覚悟のようにも感じました。
(パンフレットでは監督は陽子を
あまりいいイメージでは
語っていませんでしたが…)
本作を批判する人もいますが
自分は肯定します。
大切なのはきっかけ。
まずは自分が考えるきっかけ。
想像するきっかけ。
自分が当事者だったら。
近親者が当事者だったら。
友人が当事者だったら。
そして全ての健常者は事故などで
障がい者になる可能性があるということ。
映画化されることにより
ニュースでは見えてこなかった視点で
改めて考えるきっかけとなりました。
作品として残ればいつまでも風化せず
数年後に観た人が改めて
事件を知るきっかけにもなります。
障がいを個性と捉える福祉先進国の北欧とは
考え方や距離感が違う閉鎖的な日本だから
起きた事件とも思えます。
誰も本当の事を見たくない 〜 これが現実です
宮沢りえさん、オダギリジョーさん、磯村勇斗さん、二階堂ふみさんの渾身の演技に見入った。
誠意を持って入所者に接していた彼が、或る考えに至った後の言動に、思い込む事の恐ろしさを感じ、余りにも罪深いこの役を引き受けられた磯村勇斗さんの思いと覚悟に、心から拍手を送りたい。
さとくん( 磯村勇斗さん )、洋子( 宮沢りえさん )、陽子( 二階堂ふみさん)の問いかけが、観客である私達にずっしりと重くのしかかる。
鑑賞後も尚、第三者的思考をしている自分が居る。
ー私は嘘が嫌い
ー人の暗部
ー大丈夫、大丈夫
映画館での鑑賞
揺らぐ人権
辺見庸さんの同名小説を『月』を映画化。
相模原障害者施設事件がモチーフ。
お月様は人の気持ち、見方、捉え方に寄って
全然違うと別物にもなる。闇も光も導く影が
ある感じ。
さと君はもしかしたら、初め普通の青年だったかもしれない。皆と同じような月を観ていたかも。
それが、やがて職場の現実と実態、同僚、ネット上の影響をより受け、深い闇に入り込み優生思想を唱えるようになった気がする。あと、この社会が生んだのでは。
心があるから人間なのか?人間だから心があるのか?世の中には意志疎通が難しい方もいる。
彼は心を売ってしまい、別の心を取り入れて
しまった。
ずっと重くのしかかる作品で、この社会を行き写している形。実際世には隠され、隠蔽された
闇がある。人も心も同じく。出したいけど出せないし蓋も開けれない。
誰もが一度位、こんな人が居なくなればいいのにとか、死ねばいいのにと頭をよぎる事があると思う。昔より平等と言う言葉が薄まり、不寛容な時代の心になってきたメッセージ感が伝わる。
出生前診断もある時、夫婦に問われる。調べるのか、調べないのか、調べた後はどうするのか。
夫婦間の気持ちの疎通と精神を伝える時。色々な一生の覚悟が必要である。洋子と昌平。
全てが視聴者側に問いかけられている映画。
何故、7/26の日付だったのか…事件当日かぁ。
カレンダーに張ったお寿司の玉子シールが
可愛いかった。あの手と手が触れ合った時のように生きてて良かったと感じられる心が少しでも
広まる事を願う。月の明かりを灯すように。
監督さんや俳優人の方々、お疲れ様でした。
誰のせいでもない。
台詞に無駄がなく、多くの問いを頂きました。「人って?」「こころとは?」「生きる意味は?」。正確ではないかも知れないですが、そう記憶しています。いわゆる犯人役を演じた俳優さんは存じなかったのですが、不気味に変貌していく演技が素晴らしかったです。宮沢りえさん、オダギリジョーさんには不覚にも泣かされました。才能について語った「陽子」の役割も大きいと感じていました。直接の理由が不明ですが、「不条理、不運、不幸は、誰のせいでもない?」という感想を抱いた次第です。本作品と原作者に感謝申し上げます。
【”人間の心の無い奴はいらないです・・。”誤った優性思想の基に行われてしまった凶事。そして障碍者の鮮血を浴びた下弦の月。今作は鑑賞側に”命に軽重はあるのか。”と問い掛けてくる重くて哀しき作品である。
ー ご存じの通り、今作は2016年に相模原市の”津久井やまゆり園”殺傷事件に着想を得た辺見庸の小説の映画化である。
私事で恐縮であるが、この事件は出張帰りに購入した新聞で知り、そこに大見出しで映された犯人の植松聖がパトロールカーに収監される際に振り返った笑顔が悪魔のようであった事を鮮明に思い出す。
だが、今作では犯人の残虐性よりも見る側に対し、命に軽重はあるのかを問い掛ける構成になっている。-
◆感想
・作家のスランプに陥っている堂島洋子(宮沢りえ)と夫昌平(オダギルジョー)の間には三歳になる男の子がいたが、先天性の心臓の病で他界する。
洋子は再び妊娠するが、同じような状況の子が生まれないか担当医(板谷由夏)に相談しつつも、浮かない顔で新しく働き始めた障碍者施設に足を運ぶ日々。
だが、夫はその報告を聞き、”やったー”と喜ぶのである。
ー この夫婦の存在が、作品に”命に軽重はあるか”と言うテーマを鮮明に与えている。特に夫の昌平は唯一、人間の善性を強く保っているように描かれる。ー
・障碍者施設には家庭で厳格だが浮気を繰り返す父に対し、嫌悪感を持つ若い陽子(二階堂ふみ)や笑顔のさとくん(磯村勇人)、ことなかれ主義の院長(モロ諸岡)、障碍者に対し嫌がらせをする若手二人の職員がいる。
ー さとくんは紙芝居を作ったり、園内でも笑顔を絶やさない。
だが、洋子と同じ生年月日の”キーちゃん”の母親(高畑淳子)意外、親族は来ないし、何年も部屋に囚人のように閉じこめられた障碍者もいる。-
・さとくんはそんな状況を見て少しづつ考え方が変わって来る。彼は”ナチスは嫌いだ。”と言いながら誤った優性思想に染まって行く。
ー それは、さとくんが人間扱いされない障碍者を”解放”しようとし、結果的に世間の為になると思い込んでしまったようにも、私には見えた。ー
<さとくんは夜勤だった陽子を無理やり連れ”こいつは心を持っているか!”と問いかけ、障碍者に刃を突き立てる。
そして、且つて”キーちゃん”の為に壁に張った月にも、無情にも鮮血が掛かるシーンは哀しい。
今作は鑑賞側に”命に軽重はあるのか。”と問い掛けてくる重くて哀しき作品なのである。>
■補足
・障碍者施設員の描き方が、一方的過ぎるきらいは気になった。一生懸命、障碍者の面倒を見ている人もいると私は思うので。
声と、心の声。
三年前に幼い子を亡くしてる夫婦、洋子と昌平、現在書けなくなってる作家の洋子と自主制作で短編映画を作る昌平の話。
作家活動はしてなく、仕事になってない旦那、生活の為に障害者施設で働く事になった洋子、その障害者施設で働く者達の施設利用者への対応を目にした洋子は…
洋子の同僚のさとくん、素はちょっと悪い奴かもだけど施設では利用者に向き合い仕事真面目な奴、だけど周りにいる同僚に恵まれず真面目にやってる事をバカにされたことで…
利用者、意思の疎通、心のない利用者は…施設で働くことで作家活動を再開することになった洋子のストーリー。
リアルでもあるだろう施設で働く者が利用者を虐待、あってはならない事だと思うけど働く側の苦労って仕事とはいえ大変よね!間違いなく。大変だから、見きれないから家族側も施設へお願いするんでしょうし。
ただ真面目にやってる施設、真面目に働く方達はいるから何かこういった作品が流れる=イメージ悪くなるで気の毒と思ってしまう。
さとくんのとった行動は間違ってるけど、発したセリフは何か納得出来る部分はあったし、利用者側もあんな扱い、利用者側の一番いい答えって何なんですかね?私には分からない。
磯村勇斗君は大好きな俳優さんの1人なんだけどちょっとテーマが重たいね!(笑)
観てて何かしんどかったです。
サトクンに言い返せないだでけでなく、自分の中にもある優生思想にがく然とする。重度障害ということが全然分かっていないことを知る。
最初の方で洋子(宮沢りえさん)がきーちゃんに出会う場面で圧倒される。
きーちゃんはベッドに横たわったまま動けない。聞こえず話せず目も見えない。僕はきーちゃんが僕の親、子ども、パートナーだったら生きていてほしいと思う。しかし、自分がきーちゃんだったら生きていたいと思うのだろうか?
後半、洋子とサトクン(磯村勇斗さん)が対峙する場面。
サトクンの思想と問いに言い返す言葉を見つけられない洋子と僕がいる。
入所者に優しく寄り添っていたサトクンが洋子に問う、「きーちゃんは幸せだと思うか?」と。
つまり、サトクンは洋子に(そして僕に)、「自分がきーちゃんだったら幸せだと思うのか?」 と問うているのだ。 洋子は(そして僕も)言葉に詰まる。
「生産性がない」と言うサトクンにも何を伝えればよいか分からない。
この時もう1人の洋子が洋子自信に問うて来る場面も圧巻だ。
出生前診断で障がいが見つかったとき中絶するのは命の選別、優生思想ではないのか?サトクンは生きている障がい者を殺すつもりだが、生まれる前に選別して中絶する自分はサトクンと同じではないのか?洋子が洋子自身と僕に問うて来る。僕は「イヤ同じではない」と返す。 だけど、もし「サトクンと一体どこが違うんだ」と問われたら返す言葉がない自分にがく然とする。
色々なことを考えるキッカケになる映画だ。僕には答えが見つけられない問いも多い。
-_-b まずは、、、。
まずは上映館と上映枠を増やすべきです。なんだか少ないですよね。素晴らしい映画ですよ。
知的障害者は人の心を持っていないから殺した方が世のためだという犯人の主張。ダメに
決まってるんだろう、、、、、、、、。本当にそうですか?自分の子が知的障害者だったら、野獣のような声を出し、糞尿を撒き散らしてもそう思いますか?どうなの?犯人からの釜が今も私の喉元に引っかかってます。綺麗事を言えば喉元かき切られそうな映画ですよ。
宮沢りえはいい演技でした。紙の月での演技も好きでしたが、本作も抜群にいい。代表作になるでしょう。
回転寿司の平和
140分と少々長いけど、途中緩むことなく見続けることができました。役者のみなさんが本気で取り組んでいてとても良い演技を見ることができました。施設で勤務をする主人公は人間のココロの裏の声を聞くという課題を持ち、直面した時の対峙の方法に悩みます。自分も「早く殺せ!早く殺すシーンを出して!」という正直で真っ黒な自分のココロに気付かされた映画でした。安全なところに安穏としてますね。本当にごめんなさいです。ラストあたりのお寿司が平和に回っていながらTVで事件を報じるシーンはとても良かったです。
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