月のレビュー・感想・評価
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とにかく暗い場面の映像が多い。
神奈川県にあった障害者施設での障害者は社会には要らないという理由から大量殺人事件を起こしたのをモチーフに描かれている。
小説家の洋子が障害者施設に就職して、その施設の現実を目の当たりにする。
部屋には鍵をかけ、暴力的なことも日常茶飯事、不都合なことは見て見ぬふり、衛生的にもかなり厳しい。
陽子の言葉に「洋子の東北の震災をテーマにした小説には現場のおいや音が感じられない」みたいなことがあったが、まさに外向きには障害者がその人らしく・・・みたいなことを謳い文句にしているものの、現実との乖離がある。
洋子は3歳で亡くなった、寝たきりでしゃべることのできない男の子がいた。その子と目の前の障害者の扱いにだんだん不信感を持つようになる。わが子がそんな扱いをされたらどう思うんだろう、と。
でも、そこしか行くところがない、という現実もあり、不都合なことは目をつぶらないといけないことも出てくる。
そして、スタッフもそんな環境で働いていると、障害者への憎悪や偏見、メンタルの崩壊も生まれてくる。そんなメンタルの崩壊が事件につながってしまったのがこの作品のテーマになっている。
事件そのものよりも、そこに至る雪崩のようにメンタルが崩壊し、一過性の思いではない事件への決意の狂気が静かに描かれていく。
回転ずしのような食事はよく幸せの象徴で描かれることが多いが、食べている時に事件が中継されているのは、事件もメンタル崩壊も幸せもすべて紙一重で、きっかけさえあれば誰でもそっち側になってしまうということである。
2時間半ほどだが、あっという間に感じた。
やりすぎ感は否めない
石井監督の映画は初めて鑑賞
まず最初に、皆さんのレビューのように整理した内容にはならない。
映画を見直さなくても、これからも似たような事件は起こるのだろうけど、
そんな時に時々思い出しては書き加えていきたいと感じています。
始まりの震災イメージのショットから暗闇に懐中電灯の光が当たっているところしか
見えない状況が続く。ここにも意味があるのだろうなと思いながら観進めていく。
観終わって時間が経つが、改めて思いなおしても、問われているのはそこで、
人は見える世界しか理解できないということ
映画の感想としては、こんなに暗い病院ってあるの?
ちょっとリアリティーなくない?
こんな職場なら誰でもおかしくならない?
そこらへんはちょっとやりすぎ感が否めない。
さと君が、耳の聞こえない彼女に「今から…」と宣言するシーン、
その前に一度「本当に聞こえないの?」と聞くシーンがある。
さと君はどこかで彼女に止めてほしくて、奇跡でも起こって止めてくれ
と心の底では思っていたのではないかと思うのです。
汚い自分を汚くてはいけない。と思うのではなく
汚いことをありのままに受け入れる。
本当に難しいです。
ひとまず終了
考えたくないものを見せつけてくる
私が今まで観てきた映画の中で、これ程心苦しく自分自身に刃が突き付けられるような映画はありませんでした。
自身の中の差別意識や見ない、考えないようにしてくる部分を容赦なく見せつけてきます。施設の中の残酷な現実と一見平和な、しかし各々の登場人物たちの歪みや苦しみが察せられる生活のシーンの対比が生々しいです。
障がい者とは何か?を考え、現実に起こってしまったラストのとある犯人の行動。視聴者にもあなたはどうするのか?を問いかけてきます。
もっと広く
見たくないものには目を背けてしまうという趣旨のセリフが出てきますが、この映画が短期間でさして話題にもならず限られた上映館で終わってしまうことが惜しまれます
障がい者の問題に正面からぶつかった映画です。事件を起こす元職員の描き方もリアルです
妄想的解釈や幻覚らしき症状もかなりリアルに描かれ、モデルになった事件の犯人と重なるところが多々あります。元職員の考えを独善的妄想的と批判するのは簡単ですが、それでは済まされないよと問いかけてきます。やや説明的なセリフもありますが、この問題の深さ、難しさを考えさせられます。
残念なのは、結局、世間はこの映画に背を向けて、見ざる、聞かざる、言わざるになるだろうなということです。この映画がヒットするような社会であってほしいです。
レビューを書いている人も内容を見ると施設の関係者や患者等の経験を持つ人が多く、関係のある人以外のコメントが少ないのです。それ以外の人に多く勧めたいのに。
私は施設の関係者ではありませんが、就いていた仕事の関係で、この映画で思い出されたのは、見学などの経験がある、特別養護老人ホーム、刑務所の保護房、家族の要望に従って監禁しているだけではないかと疑いたくなるような劣悪な私立の精神病院、障がい者施設などです。声や音、臭いも含めて。虐待をする職員も出てきますが、低賃金で、入所者に振り回され、なかなか生きがいを見出しがたい環境で待遇も悪いことからすれば、強くは責められません。最近では一番考えさせられる映画でした。
恐怖の中に垣間見える現実
津久井の障がい者施設で起こってしまった殺傷事件がモチーフの映画です。
相模原市出身者として、これから社会の障害をなくしていく者として、
見なければならない作品だと思っていました。
上記の事件がなぜ起こってしまったのかはわからないですが、原因と思われるいくつかがこの作品の中に散りばめられていたと思っています。
・施設で働く職員が、まるで障がい者を人ではないかのような扱いをする場面。
・暴れる障がい者を鍵付きの個室に監禁する場面。
・差別的な発言をする職員を、冗談だとして無視する施設長。
・働いている職員の、逃れようもない家庭の現実。
・悲しみにくれる主人公がその悲しみの答えを求めて、映画の障がい者施設で働くさま。
それらいくつかのプロットが混じり合った結果、映画の世界に引き込まれていき、
鑑賞が終わった後も、まるで現実感のないような気持ちが続きました。
振り返ってみると、過去に私が精神科の閉鎖病棟に入院した時に感じた苦しみと似ている点がいくつもあったかなと思います。
入院中は心も頭も重苦しい状態でしたが、暴れた患者が鍵付きの個室に移動されるさまを見たときは、どうしようもなく やるせない気持ちに心が覆われたものです。
そして、いつ出られますかと医師に聞いても、もう少しと言われ続け、先の見えない毎日。
これが病気なのか・病気でないのか、障がいなのか・障がいでないのか...
迷って迷って答えを決め続けた延長線上に、今の生活があります。
入院していた頃と変わらない自分の核は、障がい者と同じ、とも言えます。
ただ、安易に同じと言っては、映画で、施設長が開けるのを禁じている扉を磯村君が開けた後のワンシーンのように同調しすぎてしまう危険性があると思います。
ただ、多少誇張している部分はあるかもしれないけど、この映画で表現されたことは、経済成長ばかり追い求める社会の裏で起こっている現実に近いものだと思ってます。
だからこそ、この映画で監督が伝えたかったことを、現実を知らない多くの方に知ってほしいと願っています。
そこで知った感覚が、最後のシーンで宮沢りえ さん・オダギリジョーさんが決意したのと同じように、どうしようもない現実を変える力になると信じています。
これだけは言えます。
最高の映画でした。
PS: 映画で昌平のセリフを聞きながら、節々で感じる空元気の演技に、オダギリジョーさんの凄さを感じました。
とにかく救われない映画
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東日本大震災を題材に本を書いたら売れた宮沢。
だがやがて書けなくなり、障害者施設でパートで働くことになる。
震災を取材に行った時には、汚いものや臭いものも多く見た。
但しそれらをありのままに書くことは編集者が許さず、美化して書いた。
それで書けなくなったのだった。日の当たらない障碍者施設を経験すれば、
また何か書けるのではないかという期待も持っていた。
しかし働いてみると最悪で、職員が利用者に障碍者を振るうこともあった。
また近づくことを禁止されてた部屋に、夜勤時に行くと衝撃の光景を見た。
閉じ込められて糞尿まみれで放置されてる障碍者だった。
一緒に目撃した職員の青年のスイッチが、これで入ってしまった。
心を失った者はもはや人間ではなく、存在する価値などない、
だから施設の260人ほどを全部自分が殺す、と言い出したのだった。
もちろん宮沢らは、それは間違ってるとか色々言って止めようとする。
が、結局予告通り最悪の事件が起こってしまい、ジ・エンド。
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とにもかくにも、救われようのない映画。
上記の悲惨な本筋以外にも、色んなエピソードが描かれる。
同僚で小説家の卵の二階堂ふみの話、売れない映画監督の夫が受賞する話、
夭折した2人の子供は病気で「心を失ってた」話、宮沢がまた妊娠した話、
宮沢が障碍者施設を題材にまた書き始めた話・・・。
が、どれも本筋とはそんなに関係して来ない。
青年は言った。誰かがやらなければならない、これは国のためでもある。
ほとんどの人間は単にラクな選択だから善を選んでるだけであり、
本当は手を下す勇気がなかったり、責任を負いたくないだけ。
確かにその主張自体は鋭い所をついてると思う。
またこの青年の、生きる姿勢自体は素晴らしいと思う。
見てはならないものを見て方向性がおかしくなってしまっただけで、
もともと真面目で一生懸命、思いやりもある優しい人間。
また事件を起こした理由に私利私欲が一切ないだけに、救われない。
心を失った者は本当に人間なのか?難しい問題である。
施設での描写を見てると、心のない人間に存在価値は感じない。
周囲に迷惑をかけるし、本人も暴れたりして苦しんでる。
そのまま存在が消えたらいいのにと思ってしまう。
そして普段から目を向けないようにしてる。
これは、きっとほとんどの人間がそうだろう。
自分が被害を被ってないから、殺そうとまでは思わないし、
また殺すなんて可哀想という気持ちがはたらいてそう行動しないだけ。
この映画を見て、こういう問題が実際にあるであろうことを知った。
でも、これからも目をそらし続けたいと思ってるズルい自分がいる。
とにかく色々と考えさせられる映画。そしてとにかくやるせない。
扱うべき題材なはずなのに、テーマそして構造、描き方が陳腐
人種差別、人間と非人間という思想、優生思想、生が気持ち悪くて臭いということを認めること、あるいはそれを認めずに無いものにすること、「自分とは違う」存在を受け入れられないということ、無いものにすること。今まさに世界で起きている虐殺と限りなく近い思想の種について考えている題材であるはずで、語らなければならないことについて語っているはずなのに、なぜかこの映画を最後まで観ても考えが深まらなかった。残念だった。
それぞれの存在が鏡になって、どちらがどちらなのか誰が自分で、自分ではないのか、そんなふうに問われていく演出はふさわしかった。
しかし、最後まで、「自分は人間」って思っている人たちからの視点でしか描かれないままで、施設の中で生きている人々のこと、この映画を作っている人たちはちゃんと見ていたの?聞いていたの?本当に、葛藤を描いたの?
結局、この映画は「刺さんなかった」。
この映画を作った人も、悲しみ?で言葉を失ってしまっていたのかな…?
すごく、残念です。
結局は何も描けず、すべった感じ。
俳優さんたちも、それぞれの役の人生に向き合って演じたはずなのに。
でも、じゃあ、殺された人たちの人生には誰が向き合ったの?この映画を作る人たちの中で。
最後まで、ミミズや蛇が暗示するだけ?
結局、「人間」に靴で潰される存在のままでしか描かれていない。
何が日の光にあたって美しい、スローモーションで映される障がい者たち、ですか?
そういうカットでしか、彼らを描けませんか?
「側」という、構造を崩さないまま、最後まで「得体の知れないもの」をどうしようか迷う「人間側」の心情しか描かれませんでした。
何を描きたかったの?テーマが謎です。
最後の、入所者の方のお母さんが泣くシーンとかも、悲しい、という感想を抱かせるだけだし。
自分の、子供たち(亡くなった子供と今お腹の中にいる子供の2人)に対する思いと障がい者に対する思いを重ねて揺れる心がテーマ?
うーん…薄い…
自分の心の中の優生思想に気が付かせるのが魂胆…?
それだけ…?
もっと描くべきものがあったはず。
こんなことは事件を知っている人なら考えることなはずです。映画の中ですべきなのは、その先の対話だと思います。
〈月〉も、ハイタッチも、二階堂ふみさんの役の存在(〈嘘〉について考えさせるとか、汚いものを見るとか)も、映画のテーマの中で結局はほとんど意味がないままだった。
本当に残念な映画です。
重要な映画になり得たはずなので、とっても残念です。
残念であることについて書きたかったので、評価すべき点については書きません。
もうすでに賞も取っている映画なので、されるべきところはされていると思います。
そういうわけで、テーマとしては表面的に似てしまっている『ロストケア』の方が考えるに値する映画だと思いました。
でも、この映画『月』が考えるべきなのは、「見たくない現実を見ないようにしている人々 ー あなた」ではなく、差別、と、それが罷り通ってしまっている社会のありようですよね。「あなたも犯人みたいなことを考える人の一人かもしれない」などと刃を向けるのが目的になってしまっていては、問いかけ、考え続けることにはなりません。
問題は、個人の思想だけに問われているのではないと思います。この映画はそこまでいけなかった。
最後に。
「この人話できますか?」
と訊くさとくんのことは、
心に残り続けるかもしれません。
彼が何に葛藤していたのか、のヒントとしては。
結局、作り手は、ほとんど彼の思想についてしか興味がなかったのではないでしょうか。
目を背けてならない事実
普段、障害者の支援の仕事に携わっています。同僚から山ゆり園のことが映画化されたと聞き、しかも磯村勇斗さんが植松被告役と聞いて、普段映画やドラマでの磯村さんの悪役を演じる演技が好きだったので、これはハマり役だろ!と思いすぐ見に行きました。
作品の感想としては登場人物全員が闇を抱え、ただただすごく暗い、特に序盤の展開はダルく長ったらしいと感じます。
不謹慎なのかもしれませんがやはりサト君の心情の変化、そしてそれがどんどん捻じ曲がっていき、最終的に犯行に及ぶその心情に物語の一番のクライマックス的な盛り上がりがあるように思いました。
あくまで山ゆり園のことをそのままやってるわけではなくその事実の題材をベースにしながら物語が作られています。
どこまでが本当でどこまでがフィクションかはわかりません。
題材がフィクションではなく、本当にあったことでまだ終結していないので物語はものすごく中途半端なところで終わります。
ただ、この作品は普段障害者支援に関わる自分にも、いや世の中全体にもサト君の言葉はすごく投げかけられてるようなメッセージがありました。彼のやったことは許されないことではあるけど、彼の言っていた言葉や思い、世の中が目を背け、臭いものに蓋をする、そんなことに誰もが無関係ではないと思います。世の中がこれからも考えていかなければならない、目を背けてはならない問題がこの作品には詰まっています。
そして何より磯村勇斗さん本当に大変な役どころをしっかり演じてくれていました。脇を固める役者さんもどれも皆素晴らしい役者さんばかりで演技としては安心して見れました。
自分の中の優生思想に気付かされる
公式には言われていないが、やまゆり園事件をベースにした映画。あくまでフィクションという線引きはわかりつつも、現実の植松にいささか肩入れしたストーリーと感じた。植松は決してヒーローではなく、自己愛の強い異常者だったと思う。
一方で、「じゃあ自分には、サトくんを批判することはできるのか?」という問いに否が応でも向き合わされる。まさに洋子が直面する「障害があるかもしれないから堕ろす」という考え方は、サトくんと同じなのではないか?と。
サトくんと洋子と洋子の内面がぶつかり合うシーンは、素晴らしい緊張感でした。
できれば、洋子と昌平がくだす決断までをこの映画で見届けたかった。
そして、二階堂ふみさんは、ザラつき感のある女を演じさせたらほんとにピカイチです。
さて…どおしたものか。
さて、作品についてだけども…皆様、熱演だった。
のっけから重苦しい雰囲気で物語は始まる。
あのご夫妻は、区切りをつけきれずにいたんだろうなぁと思う。時間も足りなかったのかもしれない。
宮沢さんが自問自答するシーンに圧倒される。同じように自問自答してた。そしてやっぱり彼の事は止めると思う。命がどうのと言う観点ではなく、一職員が決行していい事ではないからだ。
患者に意思表示が出来ないのならば、それを決断していいのは血縁者だけだ。患者の命と将来に責任を持てるものだし、その責任を背負っていけるものだけだ。
磯村氏も素晴らしかった。
台詞の抑揚といい佇まいといい…自身の正論を述べる人であり、他者にとってはそれが異常だと思える人だった。
二階堂さんに至っては、この人こそ天才だと思えてしまう。冒頭の宮沢さんとのカットバックから既にギリギリの人の目をしてた。
冒頭の旧約聖書の解釈は人によるのだろうけれど、作品を見て「え?」って思ったのが、彼による1人目の殺人の次のカットがご夫婦の「おめでとう」「ありがとう」ってカットだった。そして血塗れの彼にカットは移る。わざわざソレを被せる意図は何なんだと驚いた。
ニュースが流れるシークエンスでも、回転鮨のレーンの描写がある。
何故、こんな物の描写が入るのかと首を傾げる。止めどなく起こる悲劇の暗喩が回転鮨なのかと思ったりするが、それにしてお気楽な感じもしなくはない。
けれども何かハッピーな事とは紐付けられないような雰囲気でもあって…考えれば考える程、厄介な事しか浮かんでこないような気もするので追求しないでおこうと思う。
高畑さんの登場には驚いた。
面会に来るご家族がいる設定なんだと。
ここでまた話がややこしくなる。いや、話自体はややこしくはならないのだけれど、保護者の立場も考えねばならぬのかと憂鬱になったのだ。
思うところはありはするが、当事者ではないので何を言っても余計なお世話なので、自身の胸の内に秘めておこうかと思う。
⭐︎の評価はほぼ俳優陣の演技に敬意を込めて、だ。
作品自体は宮沢さんの自問自答のシーンが、そのまま監督の葛藤にも見えなくはなかった。
▪️余談
※当初、冒頭に書いていたのだけれど感想よりは「私見」に近いので前後を入れ替えた。
俺も精神病院に行かなければいけないのかもしれない。彼の考え方を真っ向から否定できない。
行動に移す程思い詰める前に俺なら辞めてはいるが。
自分の死生観による所も大きいのだけれど、それを他人に当てはめる程、乱暴ではないとも思ってる。
17万って給料に驚いた。
大変な仕事だと思うし、何故それを選んだのだろうと疑問にも思う。俺には分からないだけでやり甲斐はあるのだろう。職員の方々には使命感みたいなものもあるのかもしれないと勝手な事も想像してはいる。
臭い物には蓋、なんて事を作中で言われるのだが、ちょいと異論がある。確かに向き合ってはいないが向き合う必要が今の俺にはないからだ。
自分の人生だけでも精一杯なのに、わざわざ関わりのない問題を抱え込みたくはない。
俺には俺がやらなくちゃいけない事が山程あるんだ。
それを卑怯と言うならば、そうなのだろう。その他の事は自分が当事者になった時に考えようと思う。
理想と現実は違うし、理想を押し付けるのはもっと違うのだと思う。ただ、17万は安過ぎると思う。
俺はやれないし、やりたくない。
やらなければならない時はやらざるを得ないのだろうし、当事者達の苦悩や葛藤も知らずに、意見を述べる程愚かではない。
3.11についても触れてはいたけど、別に忘れてないと思ってる。電気代は上がってるし、復興税なんてものも払ってる。それが支援なのだと思ってるし、それ以上に協力出来る事も今の俺にはない。
再三言うが、抱え込まなくていい問題は、抱え込まない方がいいと思ってる。
「忘れる」って事にしたって、忘却は脳の防衛本能だとも思ってる。100受けた悲しみや傷を100持ったままでは生きていけない。0になる事はないけれど、せいぜい20くらいにはなってくんないと明日に進めないように思う。
作中では中絶と安楽死を同列に語ってはいたけれどいかがなものかと思う。「要らないから殺す」は両者ともにいささか乱暴すぎる。極論、根っこは一緒だろと言われても承服しかねる。そもそも両者とも赤の他人に決定権はない。故に彼が言う「安楽死させてあげる」なんて文言に正当性などないのだ。
本人から意思表示がなければ患者であれ赤児であれ、その内側も慮るしかないのは同じで…何を投影するかなのだと思う。
そう思い込みたいのだ。
笑顔になれば楽しそうと思いたいし、言葉に反応すれば通じてると思いたいのだ。
実際は分からない。なんせ確かめる方法がない。
目が開いてれば見えてると思いたいし、耳があれば聞こえてると思いたい。それは願望でしかない。
切実な願望だ。
後は、患者の行動なりリアクションなりを推し量る観点が間違ってる。彼の場合、自分を基準にしてはいけないのだ。彼の観点からすればそう思うのは至極当然ではあるけれど、元々動ける人間が10年寝てるのと、最初から動けない人間が10年寝てるのとは価値観からして違うと思うのだ。
彼が行った犯罪は世直しのような類いではなく、暴走した自己主張なのだと思う。
テロリストと似たようなモノだ。
決して容認できるものではない。
見て良かったとも思わないけども、見なければ良かったとも思えない衝撃的な作品だった。
月の明かりに照らされて・・・‼️
この作品は介護施設を舞台に、光、喜び、葛藤、トラウマ、劣等感、妬み、狂気など、人間の様々な感情と人間性をあぶり出した傑作‼️物語全体を包み込むような月の明かりが印象的な作品でもあります‼️宮沢りえさん扮するするヒロイン洋子と、オダギリジョーの夫・昌平。3歳の息子を先天性の心臓病で亡くした辛い過去を持つ夫婦‼️人形アニメーションの制作に励む昌平と、作家でありながらデビュー作以降書けないでいる洋子‼️そんな洋子が介護施設で働くことになり、息子を失ったトラウマと再び対峙することに‼️洋子の息子を失ったトラウマと、介護施設で直面する葛藤を表現する宮沢りえさんの演技力は素晴らしいと思います‼️二階堂ふみさん扮する介護施設の職員・陽子。幼い頃から体罰を受けてきた父の浮気を知る陽子‼️そんな父や母との家族関係に悩み、作家になるという夢も、まったく芽が出ない時に出会った洋子への、劣等感と妬みを増幅させてしまう‼️そして磯村隼斗扮する介護施設の職員・さとくん‼️患者たちに手製の紙芝居を読んでやる心優しい男‼️しかし、同僚たちからは余計な仕事を増やすなと馬鹿にされ、その同僚たちの患者たちへの虐待を目の当たりにした時、狂気の世界へと堕ちてしまう‼️このさとくんがヒトラーと比べられるシーンがあるのですが、さとくんの彼女は聾唖者の女性‼️さとくんは障害者を社会に必要ナシと判断し、殺害を計画するのですが、自分の彼女みたいに意思疎通ができる人間は必要であり、介護施設の患者みたいな人間は必要ナシとラインを引いているところが恐ろしい‼️悪の論理ですね‼️最近の無差別殺人の犯人は、さとくんみたいな悪の論理が存在してるんじゃないかと思うと戦慄です‼️舞台となる介護施設も夜の闇に雷が響いたり、森の中にポツンと建っていたり、周りをヘビが徘徊していたり、クモなどの虫の描写があったり、まるで幽霊屋敷のような描写がなされており、この作品の世界観の構築にひと役買ってます‼️そして介護施設で日常的に行われている虐待‼️ここでは虐待のシーンを直接観せることなく、夜の闇に響き渡る物音や叫び声で表現していて、想像力を煽るという意味で秀逸‼️ただ部屋に閉じ込められた患者さんが便まみれで放置されてる描写は、強烈なショック度です‼️そして虐待をする職員たちの罪の意識の無さ‼️見て見ぬフリをし、現実を直視しない職員たちの後ろめたさ‼️その辺の描写も丁寧に描かれ、好感が持てます‼️そんなさとくんも精神病院に収監され、洋子も新しい小説の執筆を始め、妊娠も発覚‼️昌平も小さな映画祭で自分の人形アニメーションが賞を受賞‼️全てが順風満帆に向かっていた時、思いのほか早く退院したさとくんによってもたらされる悲劇‼️惨劇‼️ラスト、記念日に回転寿司屋で、今後の人生について前向きに話し合おうとしていた洋子と昌平‼️さとくんによる凶行がどんな影響を及ぼすのか❓観る人の判断に委ねられるラストですが、どちらに転んでも洋子と昌平にとって新たなトラウマとなるはず‼️恐ろしい終幕です‼️
たとえ大事なことがわからなくても
「みんなちがって、みんないい」と言う。
金子みすずの、詩の一節だ。
ぼくはひとつの疑問として、その〝ちがった〟中に、
本当の〝まちがい〟や、
かえって本当の〝ただしさ〟があった時、
人は「それ」を、見分け、守ることが出来るだけの
決意と、それに伴う判断、
を持ち合わせているのだろうか、
という個人的な、疑問を思ってしまう。
「月」に出てくる、事件を犯した〈さとくん〉は、
「みんなちがって、みんないい」という考えよりも、
その手前か、ましてや奥か、
自分の〝ただしさ〟を他人の命に当てはめた
とぼくは思う。
それは劇中のオダギリジョーの役が指摘するする通り、
矛盾を持っていると感じる。
〝まちがい〟であると、一個人としてぼくも思う。
〈さとくん〉は言う。「わからないから」と。
わからない人は、そうしていいと述べる。
だが、ぼくは思う。
世の中には、たとえ大事なことがわからなくても、
代わりに〝わかっている〟人を見つけること、
その者を頼りにすることで、
世界を理解する人がいる、
と、ぼくは思う。
ぼくはあるワークショップに参加した時の
ある親子の方を思い出す。
障害をもっているお子さんは、
たとえそのご本人が作業を出来なくても、
代わりに作業をしているお母さんが楽しそうにしているのを見て、
とても喜んでいた。
それを思うと、人は決して、
自分ひとりで何もかも理解する必要は無いんじゃないかと思う。
だから、「わからない」からといって、人の命を勝手に決めたりするのは、〝まちがい〟であると、ぼくは思う。
社会の中で、
〝まちがい〟も、
その〈さとくん〉における〝ただしさ〟も、
「みんなちがって、みんないい」という、『負』の観点からのある種の多様的考えによって、
逆に防ぐことも、できなかったのではなかろうか。
「個性」というのは、いつしか、ただ人の特徴や長所を指摘するだけでなく、
人の短所や、かなり間違ったことでさえも、
「個性」として指し示すようになってしまったのではなかろうか。
そうした意味でも、「月」の中に出てくる職員たちは、
「個性的」と言わざる得ない。
ぼくはそうした役柄をあえて登場させたのか、観ていて分からなかった。
また一観客として、何故このように暗く、施設内を映すのか、とても疑問をもって観た。
ぼくは今作を、作り手の文芸的作品として捉えた。
そうした意味で、事実性がどこまで事件の本質を捉えているかは不明であると感じる。
こうした映画の見方も、ぼくの「個性」として捉えられるのだろう。
言葉や気持ちにおける普遍性よりも、有名度や評価的観点からの、個性における普及性の方が、社会により影響を及ぼす可能性を思うと、気持ちも暗くなる。
こうした投げかけの中でも、せめても「記憶」し、生きて行かなければならない。
ラストの、事件に対する思いか、現実への気持ちか、
決意を確かめる二人が印象的だった。
その思いには、事件を忘れないこと、その中には未来に生きようとしていた人々、生きていた人々の思いも含まれているのは確かだ。
ぼくはそう思う。
重くて、苦しい。
自分は昔、障害者施設で働いた経験があるため、支援者としての視点で、この映画を観たいと感じ、観に行きました。
実際の事件は、当時もかなりのショックを受けたため、覚悟はしていましたが、映画の内容はかなり重たく、事件をモチーフにしたシーンは目を背けたくなるほど、苦しかったです。
あと、映画に出てきた支援員がみんな虐待だったり、マイナスな気持ちを抱えて支援をしてるように描かれてるのが、モヤモヤしました。支援員の仕事がしたくて、働いている人もいるのに、どうしてマイナスな面ばかり描くのか、辛かったです。
私はこの映画を観て、とても絶望的な気持ちになりましたが、津久井やまゆり園の事件を忘れずに、自分に何が出来るか考え続けたいと思いました。改めて考えるきっかけをつくってくれた作品なので、多くの人に観てもらい議論出来たら良いなと思った。><
うん〇に触ってない奴がうん〇を描くな
この映画の感想はこれに尽きる
一緒に観た介護福祉士の娘と、ケアマネジャーしてる私の感想
映画を観終わって、しばらく無言で映画の内容に触れなかった娘が、堰を切ったように『本当にデカさない映画、世の中に出してはダメな出来、監督の自己満』と言い切った長女
私、本当はレビューはマイナスにつけたい!
ぐしゃっと自分のう〇〇を握りしめてから臭い嗅いでみろ
自分たちも毎日排泄してるでしょう?それをさも自分たちは排泄とは無関係かのような描かれ方に、大きな違和感しか感じない
宮沢りえが演じたようこ、最後まで実際に介護してるシーンはなく見学してるようなスタンスだし、苦虫を噛み潰したよう顔で利用者を見るだけ
あそこまで不適切なケアだけを描くのは現場をあまりに浅く見ただけの人が脚本描いたからだと思う
さとくんを演じた磯村、もう一人のようこを演じた二階堂ふみも、本当に働いている人に見えなかった
カレー食いながらう〇〇の話する現場なんだ!
う〇〇さえ愛おしい、う〇〇の臭いでどの利用者なのかがわかる!そんな世界なんだ
この人にとって、今日が最期になるかもしれないからと介護している大勢の私たちは、この映画には描かれていない
あの5人の職員以外の職員が描かれてないの、なぜ?
ああいう5人みたいな人も入り込む世界だけど、なぜ一生懸命利用者に話しかけながら介護して、ぐちも言いながらだけど、笑って働く職員が描かれてないのはなぜ?
5人を描くなら、大勢のちゃんと仕事してる介護職員を描かない?
う〇〇まみれになってしまった利用者を、見なかった事にする介護者3人のシーン
もう介護職の私たち二人は失笑しちゃった
あんな暗く描くシーンなの⁈
現場の私たちなら、一度扉を閉めたとしても『さぁ、やるか!』って協力し合って介助に入り、のちには大当たりだった話しとして労い合うヤツ
あんな苦虫を噛み潰したような顔しながら働いている介護職員だけじゃない!
現場知らない人がみたら、ああいう人しかいないんだと、誤解するだろう
誰にだって老いや死はやってくる
健常者なら、ずっと健常者で生きていられるような
障害者になる確率がないような描き方も非現実
誰にだって障害者になる可能性があるってことが描かれてない
大勢の私たちは反応ない利用者に、笑顔で話しかけながら介護してるよ
介護職員だけ『なぜ〇〇者に?』という話しになるの?警察だって自衛官だって消防だって、教員、保育士だって、どんな職業の人だって、そういう〇〇者になる人はいる
植松が入り込んで、ああいう事件を起こしたのは、陰惨な介護の現場、最低な仕事へのモチベーションしか持ってない低俗な職員のせいかのような描き方も許せない
国の決めたギリギリな人員配置基準や介護報酬のせいで、労働の対価として見合った待遇を得られず、常に質の高さを求められながら、踏ん張っている大勢の介護職員たちを、おおいに失望させてくれたわ
綺麗事じゃないことを突きつけられた、みたいなレビューがたくさん出ている事にも『いや、これは介護の現実じゃないよ!』と大きな声で言いたい
監督さんの言いたいことを表現するのに、大幅に勝手に都合よく切り取られたりつぎはぎされて利用された気持ちがして、とっ散らかってまとまりのない映画だと思う
これをフィクションと思わない大勢の人たちが、出てしまうことに危惧しか抱けない
観ることができて良かったです。
地元の映画館では公開終了してしまったので、高速乗ってわざわざ観に行きました。
観ることができて本当に良かったです。
【かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起きる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。】
旧約聖書の一節から始まりました。
いきなり考えさせられました。
原作は読んでいませんが、事件のことは少し調べました。
重いテーマです。
目をそむけたくなる場面もありました。
生きてるって何?
簡単なことは言えません。
映画の作りとしては、
事件と宮沢りえさん夫婦のことが、リンクしている描写に無理がなくて、
わかりやすかったと思います。
宮沢りえさんは、ちゃんと年齢を重ねた女性を演じていて、
とっても良かったです。
磯村勇斗君も、かなりの覚悟で演じたのだと想像できます。
ワンテイクで撮影したという長台詞も、見事だと思いました。
あのシーンは、すごかったです。
このテーマを映画にしたことが凄いです。
重いけど、見た方がいいと思う作品です。
事実とは違う物語。事件そのものに引っ張られないよう注意。
実在した事件をベースにした小説をさらに映画化する、という「メタメタ物語」なので、それを念頭に入れて見た方がいいです。wiki読んだり、元の小説を書いている人の情報を仕入れたり。
鑑賞後のシンプルな感想は「立場によって善悪は変わるな〜」でした。
特に印象的だったのは、さとくんの「じゃあ僕を排除しますか?」の一言。
事実ではどうか分かりかねますが(wiki情報しかないので)さとくんは自分のことを「生産性がない」と心のどこかで思ってたんじゃないでしょうか。
私たちはあくまで「命を奪うことがいけないこと」というのを演繹的にしか学びません。
虫などを(意図的でないにしろ)殺して大人に怒られた人は多いのではないでしょうか
のちに道徳の授業や社会の授業などで「命を奪うのはいけないこと」という道徳原則を強化していきます。
もちろん違う道徳原作を学んでいる国もあります。例えば日本と違い厳格なカトリック教徒の多い州では中絶は禁止だったりします。
さとくんは事実ベースでは確定死刑囚であり、罪を償うために死ぬのは確実です。
私は死刑廃止論者ではありませんが、さとくんを取り巻くさまざまな意見の中に
「こういうサイコパスや頭がおかしい人間を、終身刑にして税金で生かしておくのは許されない」
と考える人もいるでしょう。
そもそも危害とはなんなのでしょうか?身体への傷はもちろん、心への傷もそうでしょう。
さとくんを擁護するつもりは毛頭ありませんが、さとくんに石を投げられるのは、今まで人を傷つけたことがない人だけです。
そして、宮沢りえの方のヨウコ。彼女もまた出生前診断をある種肯定している人間の一人なのです。
エンタメにケチつけるのは寒いなと思いますが、宮沢りえがお化粧したまま寝てたり、施設職員がドカスだったりして、細かいところに集中が難しくなる要素がありました。お寿司を2人で取ろうとするのもなんか…蛇足っぽいです。
様々な意見はあると思いますが個人的には石井裕也監督の決意と覚悟を尊重したいと思います。
話題の作品をやっと鑑賞しました。
なかなかタイミングが合わなかったんですが、出張先の札幌の「シアターキノ」にて鑑賞。サービスデーで1200円だからでしょうか、場内はほぼ満席。
で、感想はと言うと…重い。でも見応えはずっしりとあります。
正直、この作品のレビューを書くのにあたり、注意は払ったつもりではあります。「じゃあ、書かなければいいじゃん」と言う御意見もあるかと思いますが、鑑賞したら書きたくなると言うか、書きたくなるだけの想いを募らせる何かがこの作品の中身の濃さかと思います。
表現での言葉使いには出来るだけ気をつけて書いてますがもしお気に障る表現があればご免なさい。稚拙な文章でのレビューと御了承頂ければと思います。
実際に起こった「津久井やまゆり園事件」をベースに描かれた今作は事件での詳細を綿密に描いていて、細かな点でも符合する事が多く、これが実際に起こったのか?と思うと改めて驚愕してしまう。
だけど、実際に起こっていることに目を背けている人が多い中(自分も含めて)、現場で対応している人達にはフィクションの延長でもなく、現実の中で起こり選ることに常に背中合わせと考えるとさとくんが言った「ここは社会の縮図」は言い得て妙。
見てるようで見ていない。知っているようで知ろうとしていない。社会の暗部の縮図がこの作品には詰まっており、匂いが伝わってくる作品かと思います。
特に立ち入り禁止とされる長年入所していた方の部屋での描写やクライマックスのさとくんの行動は正直目を背けたくなるようなショッキングな描写。
個人的にはさとくんのクライマックス描写は凶器を手にした時点で止めておいても良かったのでは?と思ったりしますが、社会人としての良識と社会的考慮。そして映画人としての作品の在り方に悩み、決断した石井裕也監督はそれ相当の覚悟をされたと思います。
だからこそ、それ以上に踏み込んだ石井裕也監督の決断は個人的には鑑賞者として尊重したいと思います。
立ち入り禁止部屋の様子は重度障がい者施設が全てそうでないと思うし、そう信じたいと思うが綺麗ごとでは済まされないと思うし、憶測にはなりますが大小なりにもあるのかも知れない。
直接関わってない者が正論を立てたところでそれは綺麗事であると思うし、かと言って何もやらないなら口を出すな!と言うのもなんか違う気がする。
本当はさとくんが怒りを向ける所は障がい者施設のスタッフの行動やそれを管理する責任者や責任施設。詰まるところには国になるのかも知れないがそこは見て見ぬふり、聞かないふりで「臭いものには蓋をする」が蔓延した体制の結果かと思う。
この辺りは公開中の「福田村事件」とも似ている。
でも、雇用条件の低さやそれを良しと考えなければ、やっていけない状況にさとくんはある意味洗脳され、そういった曲解の解釈に至ってしまったと言うのが悲しい。
ここでは実際の事件はどうであったと言う点は敢えて考慮せずに作品から観た感想で述べさせて頂きますので御了承頂ければと思います。
様々な実力派の俳優が重厚なテーマの中で伝えるべきテーマでの表現の比喩や誤解を恐れずに演じているのはやっぱり流石。
特にオダギリジョーさん演じる昌平は最初オダギリジョーさんとは気が付かなかった。オダギリジョーさんと言えばクールかつスマートな演技のイメージですが、昌平のような何処か頼りない夢追い人はちょっと想定外。
でも洋子と子供のことや生活のこと。様々な事で夫として父親のしての責任が現れていく様はやっぱりお見事かと。それにしてもバイト先の同僚(先輩)はめちゃくちゃムカつく! 自分は同居者様と思っていないのに、新人にそれを過剰に押し付けるのには腹が立ちますが良いアクセントですw
ただ、話に様々な要素を取り込んでいるので些かブレが無い訳でもない。
・元、小説家の洋子が障がい者施設に勤める。
・夫の昌平がクレイアニメ作家
・同僚で作家志望の陽子の家族の背景
特に二階堂ふみさん演じる陽子の件は物語に含みを持たす為の演出かと思いますが、クリスチャンの家系で厳格な父親が浮気をしていたと言う伏線は特に回収もされないし、前半で怪しかった陽子は事件に加害者的には関わっていない。(間接的には関わっている感はありますが)
そうするとちょっと横道に逸れる感があるのと、中盤で酒を飲んで洋子に暴言を吐くのはかなり胸糞。酔っ払ったからと言って何を言っても良いと言うのは酒飲みからするとちょっと腹ただしいw
洋子が小説を書けなくなる件は良いとしても、オダギリジョーさん演じる昌平が売れないクレイアニメ作家としての件に洋子の件はちょっと詰め込み過ぎかなと。
3つの伏線的な件があることで磯村勇斗さん演じるさとくんのバックボーン描写が少なく、どうしてこうなった?が薄くなっているんですよね。
ちょっと伏線要素が詰め込み過ぎには感じますが、そうしないと重すぎるテーマに終始圧迫されるのかな?と考えたりしますが、如何でしょうか?
さとくんが壊れていく(敢えてそう表現しますが、そうでもないと正直理解出来ない行動と御理解下さい)ところから物語が急に進んでいき、不謹慎ながらにも目が離せなくなってきますが、いろんな事件をテーマにした作品はそのバックボーンはどれも闇深く、悲しい。
不平等で矛盾が蔓延している世の中を描いた作品だからこそ、ラストの昌平の受賞や洋子が小説を改めて書けたこと。回転寿司のシーンはちょっとほっこりするし、なんか嬉しい。
重いテーマで観る人にとってはあの事件と重ね合わせることが多分にある為、その認識に差異があることで異議を唱える方もいると思いますが、自分は観てよかったと考えますがそれは石井裕也監督の作品で実力派の俳優陣が出演している映画としての魅力であり、あくまでも個人的な感想と考慮して頂ければ幸いです。
追記:今更ながらなんですが、石井裕也監督が「愛にイナズマ」も担当されているのにやっと気がつきましたw
正直、作品の在り方やジャンルが違い過ぎて、気がつかなかったと言うか、正直「…うそ?」「同姓同名?」と今でも半信半疑ですw
撮影した時期は多分違うと思いますが、公開されたのがほぼ同時期なのでちょっとどころかかなりビックリ。
改めてですが、石井裕也監督の振り幅の広さに感服します。
チャレンジングな映画だが、障害者施設殺傷事件そのものの考察からは逃げた脚本の印象
石井裕也 監督による2023年製作(144分/PG12)の日本映画。配給:スターサンズ
劇場公開日:2023年10月13日
相模原障害者施設殺傷事件を題材にした辺見庸の「月」を原作とする映画。「新聞記者」や妖怪の孫」で知られる河村光庸氏(2022年6月心不全で死亡)が企画。
重要だが難しく映画にしにくいテーマに取り組んだ、とてもチャレンジングな映画とは思った。作家役の宮沢りえによる東日本大震災を題材にした小説が綺麗ごとだと二階堂ふみに語らせ、この映画は綺麗な表面的描写にとどまらないぞという石井裕也脚本・監督の意気込みはこちらに伝わってきた。
そして、この原作を映画化するにあたって、石井監督が苦闘した結果が、原作には無い宮沢りえとオダギリジョー夫婦の設定ということらしい。彼ら夫婦の子供は、心臓に障害があり3歳で亡くなってしまった。ずっとベッドで寝たきりで、全く言葉も発することなく亡くなってしまった存在。それは、意思さえ示せない障害者を社会にとって無用なものと決めつけて殺害した優生思想へのアンチテーゼとなっている。息子は懸命に生きようとしていたと訴える、オダギリの言葉は胸に刺さった。
子供の死をずっと引き摺って引き裂かれそうになっていた夫婦が、新たな妊娠を得、障害者出産の恐怖にも打ち勝ち、二人で新たな関係性で生きていこうとする姿は、二人の好演もありかなり感動的ではあった。妻はずっと書けなかった著作を再開し、夫はずっと制作し続けてきたアニメーションで受賞し、創作者としての石井監督自身の拘りの様なものも感じた。
しかし、この夫婦再生の物語と障害者の殺人事件とは基本的には全く別物で、暗いこの事件に真っ正面からたち向かうことからは逃げて、希望のある話題を無理矢理とくっつけた印象を持ってしまった。聖書の「かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる」(旧約聖書「コヘレトの言葉」)が、宮沢りえの障害者出産への恐怖の増幅、即ち個人的出来事の再現に矮小化されてしまう様なつくりも、とても残念に思えた。
宮沢りえの言葉を発せない障害者との対話、障害者も大切にすべき vs 障害者と関わりたくないのせめぎ合いは、石井監督自身の葛藤の正直な吐露の様に思えた。そして、監督自身が充分に消化しきれていないものをそのまま観客に提示するのは、自分の好みでは無いことを改めて感じさせられた。もう少し、題材と真正面から格闘した末のものが欲しかった。
障害者思いの生真面目な施設職員の青年が、国のためと使命感を持って障害者を次々と殺害する人間に変貌するさまを見事に演じていた磯村優斗の演技は、強く印象に残った。ヤクに手を出していた等、殺人犯の描写も現実には則していた様。ただ、彼の優生思想がどこから来たのかは不明で、モヤモヤ感は残った。綺麗事に嫌悪感を持ち磯村の殺人の立ち会わされる女性職員を、ほぼノーメイクで演じた二階堂ふみにも女優としての心意気の様なものを感じた。それだけに、ラストの回転寿司の皿に乗った3つの寿司でりえ家族の幸せを暗示し、事件の本質的部分との格闘から逃げた様にも見えた石井裕也脚本には、とても残念な思いが残った。
監督石井裕也、原作辺見庸、脚本石井裕也、企画河村光庸、エグゼクティブプロデューサー
河村光庸、製作伊達百合 、竹内力、プロデューサー長井龍 、永井拓郎、アソシエイトプロデューサー堀慎太郎 、行実良、撮影鎌苅洋一、照明長田達也、録音高須賀健吾、美術原田満生、美術プロデューサー堀明元紀、装飾石上淳一、衣装宮本まさ江、ヘアメイク豊川京子、
ヘアメイク(宮沢りえ)千葉友子、特殊メイクスーパーバイザー江川悦子、編集早野亮、
VFXプロデューサー赤羽智史、音響効果柴崎憲治、音楽岩代太郎、特機石塚新、助監督
成瀬朋一、制作担当高明、キャスティング田端利江。
出演
宮沢りえ堂島洋子、磯村勇斗さとくん、長井恵里、大塚ヒロタ、笠原秀幸、板谷由夏、
モロ師岡、鶴見辰吾、原日出子、高畑淳子、二階堂ふみ陽子、オダギリジョー昌平。
闇を照らす 【追記済み11月7日】
フィクションとしても耐え難い描写が並ぶ本作は、モチーフになった事件が永遠に忘れ去られることのないように道を探すため、相当の覚悟で照らす〝月〟になったのだろう。
主人公夫妻の物語に絡めてひとの気持ちのちいさな単位が集まり成り立つ社会の闇の部分をはっきりと突きつけられ、立ち止まらずにいられる人がどのくらいいるのだろうか。
【追記】
哀しみの過去、思うように進まない現在を労わりあうように暮らす夫妻にとって、洋子があの対峙で深く自分に向き合ったことがどう作用したか。
事件に沿わせてひとつの夫妻の人生のシーンを描くことの意義は少なからずその流れを感じとるところにあるようにおもうのだ。
もちろん誰もが同じ境遇や状況ではないが、何かをきっかけに自分の心に向き合うことの大切さがニュースを知ったふたりの行動がそれまでと違うところから見えてくる。
そして、答えをみせずに終わるラストは、それに至る誠実な向き合い方に意味があると言っているような気がしてならない。
照らされるべき闇はまだまだ深く無数だ。
社会の1ピースである私たちのこのあとの人生も続く。
並んでいく時間にいる。
何を捉えてどうすごすか。
強く厳しく問う作品だ。
……………
【洋子と昌平】
冒頭から感じる夫妻は、お互いに相手を思い自分の気持ちは奥へやる。
妻・洋子は、あえて光があたりにくい場所に佇むことで過去をそっと包みこんで何かを守っているかにみえた。
夫・昌平には耐え難いだろうと考え、新たな妊娠を告げることを躊躇するのだが、それは彼女が持つトラウマの深さでもあろう。
はじめて介護の仕事につき疲弊をためながらも家計を支え、昌平に夢を叶えさせたいという気持ちと現実的な生活の切実さ。
後半、彼の作品の入賞を知ったときの体の奥から込み上げてくるようなほっとした泣き笑いに、それまでのすべての感情の解放がある。
ひとり呑み込んできたものの深さが堤防を決壊した川の水のごとく頬の皺を越えて流れ落ちる姿を宮沢さんが鳥肌が立つほどの演技でみせる。
一方、昌平がどこか気楽そうにみえるのは、そうみせているからだ。
洋子に深刻さを見せないようにする彼なりの愛情と優しい人柄なのだと思う。
それでなければ、妻が辛い思いを蒸し返さないように捨てられた三輪車の前で必ず覆い立ち隠す姿はない。
妻に小説を書く意思がでてくると察知し環境を整え協力できるのは、状況をきちんと把握しているからだし、
自分一人でいるときにだけ息子の写真を眺めるのも妻に負担をかけずにいたい妻子への気持ち。
嫌味な職場の先輩にいらついても未来を考えぐっと我慢し、妻をおびやかす危険を感じればすぐに自分が盾になって守る。
そして、妻から妊娠を打ち明けられ歓喜する姿や賞を獲り安堵する様子は、封印されてたきっと本来の姿だ。オダギリジョーがもつ抜群に自然体なのびやかさがやさしく穏やかな愛を伝え涙を誘う。
【洋子の同僚、陽子とさとくん】
施設にはじめて来た洋子を明るく出迎えた人懐っこい陽子。
職場を案内しながら、不安気な洋子に笑顔でここは「誰もが平等」だと言った。しかし陽子もあきらめられない夢を胸に職場の裏腹な現実を黙認し、家庭でも同様に父の裏切りにあきれ、爆発寸前な心理状態で酔えば悪態をつく。
日々、自分がつく嘘や理不尽さでストレスにゆがめられていく眉。
酒を飲み干す様子には、コントロールできない状況の苛立ちや嫌悪が隠せない。
洋子の内心を見透かすような顔つきで自分と似ていると言ったのは牽制なのかもしれない。小説家として名を馳せた洋子に対する嫉妬心や対抗心が、うまく行かない自分の焦りを煽り皮肉めいた発言もしてしまう。
世間から閉ざされたような施設から薄暗い帰路を行く陽子の真っ赤な服の後ろ姿は、夢とは遠い現実にいながら意地を保つための武装にもみえた。
誠実で温厚、真面目に働く印象のさとくんが、事件を起こす危うい思考に囚われていく過程に施設の入所者への対応に疑問を持ちながら、洋子のように相手にされなかったことがある。
あがいても変わらない行き詰まりを味わい続けた正義感は方向を間違えて増大していく。
また、彼の挫折を同僚はそのきっかけと呼んでいたがどうか。責任の所在をきめつけて、我が身を振り返らない周りがつくる危うい構造もまる見えだったように思う。
得意な絵を活かして紙芝居をした時に1番好きなシーンだと言いながら、いらないものがザクザクと出てくる絵を彼はやたらと強調した。
さとくんはきっと感じたかったのだとおもう。
そして彼らにも感じて欲しかったのだ。
自分が置かれ、扱われている状況にもっと疑問を、異議を、と。それぞれに心があることをわかっていたからこそだ。
反して、彼の紙芝居をみている人の反応はまばらでうつろにうつった。
その様子は以前であれば介護士の理解の範疇であるはずが、彼はすでに歪んだ壁をよじ登っている異常な事態だった。そのてっぺんの手前で、期待する手応えを感じられなかったあのとき、ある種の〝不憫さ〟と〝やりきれない切なさ〟が決意になってしまった瞬間だったように思うのだ。
命の尊厳などもはや判断できないほどの悲壮感が彼を満たし切った様子が何を展開していくのか…私は自分の血の気がひいていくのがわかった。
そして、聾唖の彼女を障害はあるが心があると言い、話ができない人には心がないと発言したり、洋子の家で人の死について不気味なくらいたのしそうに興奮気味に話す姿は見逃せない悪い兆候だったのだろう。
………
そんなさとくんの異変に洋子が確信を持ち咎めに行く。
迫真の2人の掛け合いでさとくんは洋子のことも責める。
反論する洋子の相手が洋子自身になり、心のなかとの対峙がものすごい圧を帯びて押してくる。
いつしか、洋子を見据える洋子は、まぎれもなく私の心中を正面から覗き込み問い出した。
とめた呼吸の数が逆流するように押し戻され積み上がる。
私の動揺を捉えてなお、この相手は容赦するつもりがないと肌で感じると、
私の本音がポツリポツリと頭に浮きあがってくる。
目を背けたほうが楽なこと…
たしかにある。
うわずみをさらったように通りすぎようとした…
したかもしれない。
葬り去る社会の一部になってないか…
ないと言いきれない。
ならば
改める覚悟を。
さもなけば、同じような悲劇が起きる。
逃げ道なく考えさせるための投げかけの演出はすごい。
そしてなにより洋子を通じて表した宮沢さんが圧巻だ。
それは、まぎれもなく闇を照らす凛とした月のごとく。
………
夫妻が将来の道を決める回転寿司屋。
洋子の背後に映るニュースをみた
昌平は唖然とする。
私は洋子が気がつく前にまたいつものように立ち塞がるのだろうと思った。
しかし、違った。
躊躇いなく洋子は「できることをしに行かなくちゃ」と駆け出す。
そしてすぐに昌平に思いを告げに引き返した。
〝かつてあったことはこれからもあり、かつて起こったことはこれからも起こる。〟
印象的な旧約聖書の言葉を改めて洋子が不安いっぱいに口にした時点では、彼女が自分につけた足枷が見えた気がしていた。
しかし、それまでとは異なる二人がラストにいたのを見届け、公開日から現在。
洋子を縛っていたあの言葉は、さとくんが起こしてしまった事件に生々しくリンクしていること、月の光に照らされたものが胸を締めつけ立ち止まったままだった私。
ようやく今日、片足が一歩出はじめたかんじだ。
修正済み
【追記】に書き表せていなかった部分を追加しました。
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