月のレビュー・感想・評価
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現代の日本映画界が成し遂げた偉業 本作の製作に関わった全ての人に敬意を表します
終始、全身が硬直状態、もの凄い熱量に圧迫され呑み込まれそうになる、とんでもない作品、これほどまでの経験はかつて覚えがありません
「”生きるとは何か”
”命の尊厳に斬り込んだ”
”人は一生懸命生きて、何になるのか”
などを突き付けられ考えさせられた」
などと表面づらのありきたりな感想やコメントはいくらでもできるけど、それでは到底終われない、
かと言って文章化もできない、何とも複雑な心境と 言葉にできない とてつもない余韻に包まれ、エンドロール後も暫く動けませんでした
映画館を出て帰り道で見かけた街中にごった返す人々を見かけた時、大いなる命の息吹を感じた反面、何とも言えない気分になりました、この感情は何か?今でも自分でも解りません
そんな本作、メインキャストの皆さんが本当に素晴らしい、彼らなくして本作はありえなかったでしょう
主役の洋子を演じた宮沢りえさん、大好きな女優さんです、彼女の圧巻の演技に感動しました、今や大女優の域に達していると思います
洋子の夫 昌平を演じるオダギリジョーさんも素晴らしかった、妻を必死で支えようと自らも苦悩しながらも静かに力強く、時に繊細に演じきった姿にさらに感動を覚えました
そして・・・さとくん
を演じた磯村勇⽃さん、優しくて明るい青年から始まり、自らの信念に突き動かされる”確信犯(これが人の最も恐ろしいところだと思いますね)”を見事に演じきっており、改めて凄い役者さんだなあと思いました
恐らく本作のクライマックスで一番の見どころであろう、後半の洋子とさとくんの対峙シーンは圧巻、思想の下、さとくんが確信犯へ変貌していくことに気がついた洋子が何度か繰り返す「私はあなたを絶対に認めない!」というくだりがやけに印象に残りました
緊張感たっぷりの暗めの重厚な映像が良かったけど、所々目を背けたくなる描写も出てきます
でも”事件の行為”自体は直接描写されていないなど、想像していたほどの酷い描写は少なく、わりと観やすかったと思います
最後に、この偉業に真っ正面から取り組み、その表現に一切の妥協を許さず、最後までやり遂げた石井裕也監督に心から尊敬の意を表します
また一つ、日本映画界にとても大切な作品が刻まれました
サトクンに言い返せないだでけでなく、自分の中にもある優生思想にがく然とする。重度障害ということが全然分かっていないことを知る。
最初の方で洋子(宮沢りえさん)がきーちゃんに出会う場面で圧倒される。
きーちゃんはベッドに横たわったまま動けない。聞こえず話せず目も見えない。僕はきーちゃんが僕の親、子ども、パートナーだったら生きていてほしいと思う。しかし、自分がきーちゃんだったら生きていたいと思うのだろうか?
後半、洋子とサトクン(磯村勇斗さん)が対峙する場面。
サトクンの思想と問いに言い返す言葉を見つけられない洋子と僕がいる。
入所者に優しく寄り添っていたサトクンが洋子に問う、「きーちゃんは幸せだと思うか?」と。
つまり、サトクンは洋子に(そして僕に)、「自分がきーちゃんだったら幸せだと思うのか?」 と問うているのだ。 洋子は(そして僕も)言葉に詰まる。
「生産性がない」と言うサトクンにも何を伝えればよいか分からない。
この時もう1人の洋子が洋子自信に問うて来る場面も圧巻だ。
出生前診断で障がいが見つかったとき中絶するのは命の選別、優生思想ではないのか?サトクンは生きている障がい者を殺すつもりだが、生まれる前に選別して中絶する自分はサトクンと同じではないのか?洋子が洋子自身と僕に問うて来る。僕は「イヤ同じではない」と返す。 だけど、もし「サトクンと一体どこが違うんだ」と問われたら返す言葉がない自分にがく然とする。
色々なことを考えるキッカケになる映画だ。僕には答えが見つけられない問いも多い。
-_-b まずは、、、。
まずは上映館と上映枠を増やすべきです。なんだか少ないですよね。素晴らしい映画ですよ。
知的障害者は人の心を持っていないから殺した方が世のためだという犯人の主張。ダメに
決まってるんだろう、、、、、、、、。本当にそうですか?自分の子が知的障害者だったら、野獣のような声を出し、糞尿を撒き散らしてもそう思いますか?どうなの?犯人からの釜が今も私の喉元に引っかかってます。綺麗事を言えば喉元かき切られそうな映画ですよ。
宮沢りえはいい演技でした。紙の月での演技も好きでしたが、本作も抜群にいい。代表作になるでしょう。
回転寿司の平和
140分と少々長いけど、途中緩むことなく見続けることができました。役者のみなさんが本気で取り組んでいてとても良い演技を見ることができました。施設で勤務をする主人公は人間のココロの裏の声を聞くという課題を持ち、直面した時の対峙の方法に悩みます。自分も「早く殺せ!早く殺すシーンを出して!」という正直で真っ黒な自分のココロに気付かされた映画でした。安全なところに安穏としてますね。本当にごめんなさいです。ラストあたりのお寿司が平和に回っていながらTVで事件を報じるシーンはとても良かったです。
断絶したまま繋がる世界
原作未読。
演劇的で詩的な作品だったように思う。
そうした意味でリアリティを求め鑑賞すると、肩透かしを食らうのではないかと感じた。
こうした作品で欧米型であればひとつ、問いかけや主張をまとめて投げるスタイルが多いように感じるが、本作はひとつの関係構造をあらゆる立場で再現し、それらをコラージュのように散りばめ絡め、互いの関係性の中から立ち上がるものをメッセージとして投げかけていると鑑賞した。
そのためあやとりの様に絡まり、引っ張り合い、大変曖昧だ。
どの方向から、誰に肩入れして物語を追うかで見えてくるものは全く違うと感じる。
似た感触の作品としてか、なぜか李相日監督の「怒り」をふと思い出した。
自身にとって不利益、不快をもたらす「もの」とどう共生して行くか。
のみこめず、さばけず、排除するのは合理的だが動物的で、
人はケモノでない以上、非合理をも当然と行えるものであるといいたい。
その時、互いのあいだに介在するものは何か。
ウソ、が多用されていた劇中。
アートや創作家も多く出てくる劇中。
共生できずとも、せめて互いに「穏やかなファンタジー、ウソの世界」に包まれ、断絶しつつも在ることができればいいのに。としか、結論としては出せなかった。
平和な誤解や、詭弁や、都合のいい○○があれば。
大変むずかしい。
主演の宮沢さんもさすがの迫力だったが、オダギリジョーさんの頼れそうで頼れない、人の好さげなダメ気味夫が好演だと印象に残る。
案外、あの夫が主役で、全ての要なのかもしれない。
追記
ウソの世界が隠蔽につながるのか、とも省みる。
だが一方、本当のせめぎ合いにヤラれて狂うのも地獄だ。
それら地獄を負う者が限られた少数だから個々を圧迫するのなら、この映画の意義はそれら重みをできるだけ多くで分担しようよ、そうすれば何とかしのげるくらいに軽くなるかもしれない、ということかもしれず。
だから主人公は1人でなく、夫婦として描かれていたのかもしれず。
わたしたちが主人公夫婦になれるかどうかは、この作品を語り続けることで少しは成されるかもしれず。
本質の解釈が大事
日常の出来事として描かれる凄み
日本最高峰の役者達が素晴らしい
テーマやストーリーに賛否はあるかと思いますが、作品としては素晴らしく、宮沢りえはいつもながら完璧で最高。迫真の演技だった「湯を沸かすほど〜」同様に代表作になりそうです。オダギリジョー、二階堂ふみの抑えた演技にしびれ、磯村勇斗は狂気すら感じる圧巻の演技で最高でした。サ道の時のイケメン蒸し男クンの時くらいから恐るべき成長力ですね。オダギリジョーの作る(設定の)モーションストップアニメもとても素晴らしかったです。大手作品でないこと取り上げにくい題材であることから番宣も難しそうで興行収入は厳しそうですが(頑張ってほしいが)石井裕也監督には今後も期待大です。角川原作だからか昨年9月14日にオリンピック関連疑惑にて逮捕されたKADOKAWA会長の角川歴彦がエンドロールの最初に出てきて違和感があった。
色々と
色々と思うところ、感じるところはある。とりあえず、目を離さず離れず、一気に見れた。他の作品の前に流れる宣伝を見て、「この題材でもう映画化するの⁈」が正直なところ。
どう見てもあの事件を参考にしているのはわかる作品で、犯人はまだ主張も変えずに生きている。
色々な意見があるのは当たり前で、ただ、このあらゆる事件がすぐに忘れらていく世界で、問題提起するのは必要かと。
後味が良いわけもなく、ずっしり重い。色々と考えざる得ない作品。
24年10月再見
重い話であるが、他の人のレビュー見たら、あーその辺はそういうふうに見えるのかと、人によって同じものを見ていても違うように見えるものなんだと感じた。特にさとくんの彼女の話。さとくんの彼女が健常者なら止めることができた、なんて表現には全く感じなかったけどな。さとくんは障害がある人を全て差別してるわけではないというのをわかりやすくするための、聴覚障害のある彼女だったのかと。
など、まあ色々おもったりした。
生きる、とは。
タイトルなし(ネタバレ)
かつて文学賞を受賞し、成功体験を持つ小説家、堂島洋子(宮沢りえ)。
ほとんど無収入のストップモーションアニメ作家の夫(オダギリジョー)とふたり暮らしだが、あることがきっかけで何も書くことができず、最近は食べるのにも一苦労な状態。
森の奥に人目を忍んで建てられたある重度障がい者施設で介護士として働くことにした。
若い同僚には、作家志望の陽子(二階堂ふみ)や絵の上手い「さとくん」と呼ばれる青年(磯村勇斗)ら入居者に向き合う介護士もいるが、そのほかの介護士の中には陰で入居者を虐待している者たちもいる・・・
というところから始まる物語で、描かれる内容は衝撃的なのだが、登場人物ひとりひとりの行動の奥底にあるものは、常に観る側にもあるものだろう。
その意味で、観るのが本当につらい。
洋子も彼女の夫も、陽子もさとくんも、生きていく上での存在意義を見つけられない。
見つけられない、というよりも、社会(というか、彼らが生きている世間、というか)の人びとが、彼らの存在意義・アイデンティを「簡単に」「安易に」否定しまうからだ。
さらに悪いことに否定する側は、そのことを「普通のこと」もしくは「相手にとって良いこと」と信じている(信じていないかもしれないが、否定することを自身の悪意の発露だとは感じていない)。
わかりやすいのは洋子の夫の場合で、まだ世に出ていない彼を、バイト先の先輩マンション管理員は「そんなアニメ、誰が見るんだよ」と安易に侮蔑する。
陽子も、敬虔なクリスチャン(で、かつ不道徳)な父親から否定され、文学賞にも落選している。
「さとくん」も、なんらかの事情で美術学校に進学できず、現在の職に就いているのだが、同僚たちは、入居者に寄り添おうとする彼を「変人」「厄介者」扱いする。
洋子の場合は・・・これは冒頭のシーンと絡んで来、かつ中盤で明らかにされるので書かないこととする。
世間から欲されない者は、存在すべきではないのではないか・・・
その考えが施設の入居者たちにも向けられる・・・
とそんな単純ではないのだけれど、存在意義を問う、というか、存在意義を問うことを問う、というか。
存在意義を問うことを問う、というのは「いま考えていることを問う」ということで、わかりやすい言葉でいうと「葛藤」ということになるのかもしれない。
その「葛藤」のシーンは随所に登場する。
しかし、「葛藤」することは、すなわち「生きている」ということであり、「我思う故に我あり」というではないか。
大量死傷事件を起こした者は、その「葛藤」を棄てた。
相手の中に自身を見、自身にとっての存在意義を棄てる。
殺してしまいたかったのは、自分自身なのだ。
映画は、それをワンショットでみせる。
このワンショット、監督としては相当な力技、相当な決断・覚悟が必要だったはずだ。
映画は安易な結末を設けない。
ささやかな希望は見せてくれるが。
観る側も相当な覚悟が必要な映画でした。
元津久井やまゆり園の職員として。
過去に津久井やまゆり園で働いており、7.26もそれ以降も法人に所属していた身として、色々なものを(無論、清濁併せ吞んで)見聞きしてきた人間としては書かなければならないと思い、筆をとっています。プロのレビュアーではありませんので乱筆乱文、ご容赦ください。
✴この作品を観た人、このレビューを見ている人、業界の方、できるならばここを起点に感想と議論を重ねて行って欲しいです。事件を風化させないためにも、自身の障碍者観を世間に照らし合わせるためにも。
公式には明言をしていないけれど、あの事件をモチーフとした映画であったらしく、
関係者さんのご厚意もあって7月に試写会で鑑賞させていただきました。
きつかったです。
冗談でも何事でもなく、上映中止にすべき作品だと思います。
その時もその後も感想は同じなんだけれど、あるライターさんから「思ったのならそれを文章にしないと」とアドバイスを受けたのでここにつらつらと書いてみる。
はっきり言って辛らつだし、思い切りネタバレなのでそういう意見を聞きたくないという方はここで回れ右を推奨します。
・はっきり言って辛い。それは同席された知り合いの映画監督さんとも意見は同じでした。
・大前提として、「これをもってやまゆり園事件というものを理解したと勘違いされるのは甚だ心外」ということです。それが全国上映をされて流布することが恐怖でしかない。
・ネタバレになっていきますが、個々のエピソードに連続性がないし、そのエピソード、いる?というものが多い。
・例えば宮沢りえは震災311を経験して小説にしたということだけど、その経験が映画本編のどの行動にもかかわってこない。
・二階堂ふみも作家志望の施設職員ということだけど、作家である必要性はほとんどないし、この辺りのエピソードも作中で触れられるけれども内容には全くかかわってこない。
・二階堂ふみの家族構成にゆがみがあった事や、キリスト教徒であることも作品の中で紐づけされているわけでもない。途中ワインを飲み干す場面があったけれど、あれはユダの裏切りのオマージュかな?だから??という感じ。
・さとくんの人となりについては当初利用者思いであった青年が壊れていく、という流れはあるけれどもその変化があまりにも唐突で、職場に人間関係との軋轢や誰にも言えない環境によって徐々に壊れていくというわけではなく、あるエピソードをもって唐突に「壊れる」表現になっている。
・しかも壊れる要因が利用者さんの行動によって。という感じでこれではまるで「障害のある人が原因で事件が起きた」という印象に観客をもっていこうとしているようにも見えてしまう。
・職場の環境は確かに劣悪であったように表現されているけれども、それも個々のエピソードとして捉えられているだけで連続性を持たない。
・その後さとくんは文字通り壊れていくわけだけど、それを止められていない周りというのも違和感が残った。ドキュメンタリーでない以上、どこかでアンチテーゼのような場面や意見を見せる事や何かしらの希望を残すような表現を盛り込むことだってできたはずなのに、そういったことはしないでひたすらにさとくんという人物を「巨悪なサイコパス」として暴走させていく事に製作者側が執心しているような感じであった。
・多分、現場では流れを止められるような出来事はなかったのだろうから、ある意味事件を題材とした映画としては正解なのであろうけれど、それでも抗った人たちがいた事は知っているし、優性思想というものにノーを突き付けようと必死に努力した人たちがいた事は知っている。そういった人たちの取り組みを載せないで、もしくは(文字通りの)暴力でねじ伏せてしまう作品の流れは、事件をモチーフにしていながらあえて客観性を捨てて製作者側の都合で事実を歪曲して伝えようという意図すら感じてしまう。
・そして作品中最も問題があると感じたところだが、さとくんの彼女が聴覚障碍者という設定についてだ。
・作品中、さとくんが彼女に事件をほのめかす場面がある。その場面があろうことか、聴覚障碍者でなければ事件を防ぐことができたような表現になっていた。これには唖然とした。まるで彼女が聴覚障碍者だったから事件は起きてしまった。と言わんばかりの最悪の改変だと思う。
・無論さとくんの彼女の描写の中で聴覚障害であることが作品のストーリーラインに関わってくるのはほぼこの場面だけ(他にもいくつかあるけれど、正直同じような表現。「耳さえ聞こえていれば…」と思わせたい意図が見える)。これはもう悪意があるとしか言いようがない。この場面は怒りを通り越してあきれた。
・この表現に関しては聴覚障害者の当事者団体ははっきり言ってクレームを入れるべき内容に思える。それは観終わった後同席した方々とも話題に上がった。
・かくして事件は起きて作品は終わるんだけれど、ここで終わらせて何がしたかったのかがより分からなくなる。事件を乗り越えようとか、何かが問題提起されるわけでもない。
・総じてこの内容で144分はまったくもって理解ができない。時間を無駄にしたと見終わって正直思った。
・無論「はっ」となった瞬間もあった。きーちゃんを殺したさとくんがきーちゃんの亡骸に「かわいそうに」という場面などは心のないと言っている障碍者にさとくんが無意識に「かわいそう」という感情を抱いている。イコール人として無意識ではまだ認識しているという心の動きを表しているようで良い?表現であったと思う。
・総じて薄い、テーマ性の乏しい作品でした。
・やはり不安なのはこれが10月から全国上映されて事件の背景が障碍者にあったんだと世論が信じてしまうことだろうな。と思う。本当にあった事はもっと根が深くて、現在はどうなっている。ということも知らずにやはりこの事件については闇に葬っておくべきだ。障碍者は施設に入れておくのが正解なんだ。という結論に至られてしまうのだけは避けるべきだと思う。
他の方がどう感じるのかは分かりませんが、私はこの作品、非常に危険性をはらんでいると感じました。
・同席した映画監督さんの話、「今世に出ている事や世間が知り得ている事は裁判の証言だけで、それを料理した場合、あれが限界。
『私達や関係者が知っていても世に出ていない』
事を出すわけには行かなかった。ある程度ノンフィクションに沿った映画というものは確定した事実以外は中々とりあげられないから」という言葉が悔しいけれど腑に落ちた。
・だからこそ、この事件がまだまったく掘り下げられていないのだということを知って欲しい。まだまだ世間には広がっていない事があるのだということを知ったうえでこの映画が投げかけている問題を一人一人が考える切欠になってくれる事を祈っています。
追伸
やまゆり園のスタッフルームは扇風機ではなくエアコン完備で机もちゃんと事務机でした。
あと、居室のドアに設けられている窓は丸じゃなくて四角でした。
そこだけは訂正しておきたい。
最後に、あの事件で亡くなられた19名の方々のご冥福を心よりご祈念いたします。
絶望の彼方
黒いカラスの夢と月
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