ふたりのマエストロのレビュー・感想・評価
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父子という最も身近な理解者であり、ライバルでもあるふたり
父子そろって人気と実力を兼ね備えたオーケストラ指揮者という特殊な立場のふたりを描きつつ、そのストーリーの基本軸は父子モノならではのシンプルな流れによって貫かれている。クラシック音楽好きにはこの設定、キャラクター造形、それに観客によって埋め尽くされた劇場の臨場感など、たまらないものが多いのではないだろうか。本作はイスラエル映画『フットノート』のリメイクにあたるが、実のところ設定は全く違っていて、よくもまあ、こうしてクラシック音楽の世界に応用したものだと、その脚色力には感心させられる。一方、物語の要である”人違い”は、コメディの典型として本来ならクスクス笑いすらこみ上げる部分だろうが、父役のアルディティのうまさゆえか、ちょっと気の毒になってしまうほど人間味と哀愁が浸み出している。結局のところ、二人は親子として、音楽家として分かり合えたのかどうか。落とし所に納得できるかどうかも評価が分かれそう。
宗教学者親子のドラマを大胆にリメイク。クラシック入門的な楽しさは〇
2011年のイスラエル映画「フットノート」は、ユダヤ教の聖典タルムードを専門とするライバル研究者の父と息子(共に大学教授でもある)が、名誉ある賞の受賞の通知ミスを巡り、もともと不仲だった関係がさらに面倒なことになって……というあらすじ。題名は論文や研究書の“脚注”を意味し、宗教学研究の文章表現が物語の鍵になるなど、かなりアカデミックな要素を含む原作だ。これをフランスでリメイクするにあたり、父子の職業をクラシックの指揮者に置き換え、ミラノ・スカラ座音楽監督就任の依頼電話が間違って父にかかったことから巻き起こる騒動に変えることで、名曲の数々とともに気軽に楽しめるエンタメ映画に仕上がった。
原作映画の方はカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞するなど、親子の確執や心の機微を伝える台詞のやり取りや賞選考と発表をめぐる物語構成が高評価されたが、フランス版リメイクは娯楽要素を重視するあまり、オリジナルにあった細やかな配慮がかなり損なわれた印象だ。一例を挙げると、イスラエル版では本来受賞するはずの息子がなんとか父に賞を獲ってもらおうと裏で尽力するのだが、本作では息子ドニがスカラ座の音楽監督の依頼が本当は自分に来たという真相を父フランソワになかなか打ち明けられないくらいで、どちらかと言えば恋人のバイオリニストをミラノに連れていくかどうかの悩みの方が深刻そうに映る。宗教学より音楽、学問研究より恋愛という具合に、大衆が好むわかりやすい要素に改変したのもフランスのお国柄か。
相対的に深みの足りない脚本にはなったものの、劇中で演奏される音楽は、ベートーヴェンの「交響曲第9番」やモーツァルトの「フィガロの結婚 序曲」をはじめ、耳馴染みのあるポピュラーな曲をかなり長めの尺でしっかり聴かせてくれるので、クラシック好きなら演奏場面だけでも相当楽しめそう。個人的には、女性歌手(フランス人メゾソプラノ歌手のJulie-Anne Moutongo-Black)の独唱つきで演奏されるモーツァルトの「ラウダーテ・ドミヌム」が美しくて聴き惚れた。ネットで歌詞を調べたら「父と子と聖霊に栄光あれ」という一節を含むようで、父と息子の物語にかけた選曲なのかもしれない。
音楽に救われた父と子の再生物語
指揮者として互いに成功を収めた父と子の芸術家として譲れない対立と、それによる葛藤をシンプルに描いた音楽映画。父親フランソワは40年のキャリアを積んだベテラン指揮者で、息子のドニはフランスのグラミー賞にあたるヴィクトワール賞を受賞して将来を嘱望されるマエストロ。小さい時から意思疎通がうまく出来ず、父親は息子の栄誉に嫉妬し、息子は父親に認めてもらえず疎ましく思っている。この歪んだ関係を修復できず長く引き摺っていたのを一気に浮き彫りにするのが、ミラノ・スカラ座の音楽監督就任の依頼の人違い。世界三大歌劇場のひとつのスカラ座が、デュマールの姓だけで秘書が勘違いするというとんでもないミスをしてしまう。しかし依頼を受けたフランソワが疑問に思わないのがリアリティに欠けるためストーリーとして軽く、またスカラ座側も訂正と謝罪をしないのも無責任極まりない。40年第一線で活躍する指揮者なら、自分の実力も扱われ方も心得ているはずだし、息子に限らずどんな指揮者の才能というものにも敏感であるのが当然だ。これではフランソワのベテラン芸術家らしからぬ、ぬか喜びの一人芝居に終わってしまう。この時点で、この作品の脚本は評価出来ないと思った。
救いは役者の演技が良かったことと、美しいクラシック音楽を全編に効果的に配置した構成の丁寧さ。息子ドニを演じたイヴァン・アタルの知性的な佇まいが指揮者役に嵌り、父フランソワに直接真実を告げられないもどかしさにドンの人間味も感じられる。しかし恋人ヴィルジニの機嫌を取ろうと大太鼓を抱えて彼女のアパートを訪ねるエピソードの何たる陳腐さ。これでは役者が可哀想。父フランソワのピエール・アルディティは頑固で強権的な巨匠指揮者の貫禄は無いものの、何処か憎めない愛嬌があるフランソワの人間性を醸し出していて深みのある演技。でもこの作品で地味ながら最も良い演技を見せているのが、母親エレーヌのミュウ=ミュウだった。個人的には「夜よ、さようなら」(1979)の演技が忘れられない。片意地を張る夫と自立した息子の間に挟まりながら、問題が大きくならないように気遣うエレーヌの心の豊かさを的確に表現していた。キャロリーヌ・アングラーデが演じる恋人ヴィルジ二は、難聴を抱えたヴァイオリニストの設定の意図が意味不明。努力と才能の狭間で苦悩する音楽家で権限を持つ男性に媚びない生き方は、如何にもフランス女性を思わせるが一寸独りよがりにも見える。それに対してパスカル・アルビロが演じた元妻でエージェントのジャンヌが、一番生き生きしていた。仕事と私生活のバランスが取れた生き方は、女性に限らず誰もが望むもの。祖父と父が指揮者として対立するのを観てきた孫のマチュウは、家柄に拘らず料理人を目指すという。またルス・オトナン=ジラールの作為のない演技が自然で今風な趣もある。脚本上、祖父フランソワに宛てた父ドニの手紙を読む役割の人物設定でキャスティングされたものだろう。
ドボルザークの「母が教えてくれた歌」、ベートーヴェンの交響曲第九番第二楽章、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、“カッチーニ”の「アヴェ・マリア」、モーツアルトのヴァイオリン協奏曲第五番と「ラウダーテ・ドミヌム」そしてクライマックスは「フィガロの結婚」序曲で、エンドロールにシューベルトの「セレナーデ」。美しいメロディの音楽の饗宴でした。
驚きは約5分の「フィガロの結婚」序曲をカットせず父子鷹の指揮で通し切ったことです。正式のコンサートで2人の指揮者が同時にタクトを振るのは有り得ないし、オーケストラ奏者も戸惑う事でしょう。これはあくまで映画の大団円としてのサプライズの演出でした。望むなら息の合った指揮のやり取りの演出が欲しかったと思います。
(クラシック音楽について)
今年亡くなられた小澤征爾さんがミラノ・スカラ座で指揮した映像が使われています。日本の指揮者がクラシック音楽の本場の欧米で活躍することが如何に難しく、大変な事であるかをこの作品で再認識しました。パリ音楽界のそのハイソサエティーな豪華で贅沢な生活様式を見ても、音楽の溢れる才能だけでは通用しないことが解ります。小澤さんは、若くしてフランスで認められたご縁もあってか、フランス音楽を得意にしていたように見受けられました。ドイツ音楽が好きな小生は、一度だけ小澤さんのコンサートでベートーヴェンの「田園」と「運命」の美しくバランスの整った演奏を聴くことが出来ました。その「田園」では余りに美しい音色に睡魔に襲われて、珍しく寝てしまいました。その代わり「運命」では感動的な名演を堪能したのはいい思い出です。
指揮者は巨匠の時代が終わったとも言われます。ベーム、カラヤン、バーンスタインの時代を少しでも共有出来たのは幸せでした。本当は、その前のトスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラーの時代に生きて生の演奏に触れたかったと思ったこともあります。現代では独裁的で強権な指揮者は社会が許さなくなり、よく言えば演奏レベルの高い奇麗な音楽に溢れて、悪くいえば個性のない均一的な音楽が増えてしまった。これはクラシック音楽だけではないかも知れません。
フランソワが憧れるミラノ・スカラ座は、小生が敬愛するカルロス・クライバーの来日公演で2度ほど経験しました。今思うととても贅沢な事でした。幕間にステージの前のオーケストラピットを覗きに行くと、緞帳の裏で大道具のイタリア人スタッフが大きな声で作業指示するのが聴こえてきました。その雰囲気にも酔えたことが今でも深く印象に残っています。
二人の確執の本当の意味
<映画のことば>
話すのは、いいものだ。
洗いざらい話すのは。
すっきりする。
父子の確執は、お互いがお互いを認め合っていることの反面だったように、思えてなりません。評論子には。
お互い、お互いに認め合っているが故に、お互いに「素直になれない」ということは、あり得るのではないでしょうか。
これも、ハリネズミのジレンマ」の一種なのかも知れませんけれども。
(ハリネズミは、離れているとお互いに寒いのだけれども、さりとて身を寄せ過ぎると、針のように鋭い体毛で、今度はお互いに痛いーというジレンマ)
そして、父親は子(息子、娘)に対しては、いつまでも子供を導く「親」でありたいと願う反面、いつかは自分を乗り越えて欲しいとも思っています。
(子の男親でしかない評論子には、母子関係にも同じような気持ちがあるのかどうかは、分かりませんけれども。)
本作でも、自分に音楽監督の話が来た(と思い込んだ)フランソワは、息子ドニに対して、自分がまだまだ「親」であることに安堵したでしょうけれども、反面、その話がドニに来たものでなかった(と誤解したこと)には、一抹の寂しさも覚えたはずです。
しかし、結果が分かって落胆した部分よりも、ドニが自分を乗り越えてくれたことに、むしろ大きな喜び・満足を感じていたはずです。フランソワは。
ラストシーンで、ドニの指揮に、わざわざフランソワが割り込んだのも、親子の「引き継ぎ」という心情があってのことでしょうし、その時のフランソワの満足そうな表情も、上記の意味で、評論子には、理解・納得ができました。
そういう点も含めると、秀作といえる一本だったと思います。
評論子は。
【親子のマエストロに届いた一通の間違った手紙が惹き起こした事。名指揮者である父親を追い越す勢いの息子が、父を思って行ったラストシーンが、心に響く作品である。】
■共にオーケストラ指揮者である父・フランソワ(ピエール・アルディティ)と一人息子のドニ(イヴァン・アタル:ナント奥さんはシャルロット・ゲンズブールである。羨ましいぞ、この野郎!!。ホントスイマセン・・。私、シャルロット・ゲンズブールの中坊以来のファンなんです。
「なまいきシャルロット」の時から好きなんです・・。
CDは全部持ってます。
あのウィスパーヴォイスが好きなんです。
一応書くが、家人のウィスパーヴォイスもナカナカです。
あ、今、私のフォロワーさんの十数名がフォロワー解除した音が聞こえてきました・・。)
大ベテランの父と破竹の勢いを見せる息子は擦れ違ってばかりの日々。
そんなある日、フランソワにミラノ・スカラ座の音楽監督就任の依頼が舞い込む。だが、それはドニへの依頼の誤りだった。
◆感想
・今作で弾かれる、楽曲の数々。
1.ブラームスの「間奏曲第7番」
2.ベートーベンの「協奏曲第9番」
3.モーツアルトの「フィガロの結婚 序曲」
4.ドヴォルザークの「母が教えてくれた事」
5.モーツアルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番」
6.ラフマニノフの「ヴォカリーズ」
7.シューベルト「セレナーデ」
を背景に物語は進む。
■物語構成はシンプルで、オーケストラ指揮者である・フランソワに対し、同性であるが故に間違ってかかって来たミラノ・スカラ座の音楽監督の就任の依頼の電話。
・それまで、父・フランソワは、破竹の勢いでマエストロの座を確固たるものにして行く、息子ドニへの、若干の嫉妬心と、ドニの父に対する複雑な想いを持っていたが・・。
<だが、二人はそれまでの齟齬を解消するかのように、ミラノ・スカラ座でモーツアルトの「フィガロの結婚 序曲」のタクトを、親子で振るうのである。
シンプルな構成ながらも、ラスト、親子でタクトを振るうシーンは沁みる作品である。>
両雄並び立つポスターの「鼻」にほのめかされる、「ユダヤ系映画」としての本質。
最初にポスターを見て思ったのが、
「これが正真正銘の“ユダヤ系の鼻”ってやつか!」
ってことでして。
なんでも、ブラッドリー・クーパーが、近々公開予定の大指揮者レナード・バーンスタインの伝記映画『マエストロ』(ちなみに『ふたりのマエストロ』の原題は『マエストロ(ズ)』!)で主役のレニーを演じた際、「つけ鼻をつけて演じた」ことが「ユダヤ系に対する侮蔑的なステレオタイプに迎合するものだ」として、ユダヤ系芸能人・評論家の一部からメチャクチャ叩かれたらしい。(2023年8月23日の記事)
名前(~スタイン)からもわかるとおり、レニーの家系はウクライナ系ユダヤ人移民の出身である。
たとえば、イギリス出身でユダヤ系の俳優トレイシー=アン・オーバーマンは、クーパーのつけ鼻をブラックフェイスにたとえて批判し「ブラッドリー・クーパーが演技力だけでできないなら、彼をキャスティングしなければいい。ユダヤ人の俳優を使えばよかった」とインスタグラムに書いたそうな。
これに対して、当のレニーの遺族はブラッドリー・クーパーの鼻について徹底的に擁護し、「パパの鼻が素敵に大きかったのは事実だもの」とメイクアップで補ったことをむしろ大いに評価してみせたとのこと。
まあ、この議論の是非については置いておくが、このニュースでわれわれは改めて痛感させられたわけだ。やはりユダヤ系の「お鼻が大きい」ってイメージは、欧米ではきわめて堅固なんだな、と。
そう思っていたら、ちょうど『ふたりのマエストロ』が公開され、
ポスターには立派な鼻のふたりが横顔を見せて並んでいたという次第。
なんで、こんな話を長々としているかというと、
もちろん、単にこの映画の主演二人の鼻が
ガチで大きくて立派だからという「だけ」ではなくて、
『ふたりのマエストロ』という映画が、実はリメイク作で、
ベースとなっている元作が「イスラエル映画」だからなのだ。
元になったのは監督兼脚本家のヨセフ・シダーが撮った『フットノート』。
しかも、主人公の親子はトーラー(ユダヤ教の教え)を専門とする大学教授で、彼らの研究に対する賞の授与に関して「取り違い」が発生するという、バリバリの「ユダヤ教」映画だったりする。それをクラシック業界に「移し替えて」このリメイクは作られているのだ。
おわかりだろう。
だ・か・ら、本作の主演はイスラエル出身のイヴァン・アタルで「なければならなかった」し、父親役は「ユダヤ系」マルセイユ出身の画家を父にもつピエール・アルディティで「なければならなかった」。
「音楽家」という主題も、単なる思いつきで選ばれたわけではないはずだ。クラシック音楽の世界において、作曲・演奏の両面で、ユダヤ人の遺伝的優位性はほぼ認められているからだ。かの大ピアニスト(もちろんユダヤ系)ウラディーミル・ホロヴィッツは言っていたものだ。「ピアニストには3種類しかいない。ユダヤ人とホモと下手糞だ」と。
映画製作者はこの「裏のルール」を表面化させることを、必ずしも良しとしていない。
パンフでは、リメイク元の映画について軽く監督インタビューで触れている程度だし、出演者紹介でも解説でも、ユダヤ系に関することはほとんど書かれていない。
映画内で使われる音楽にしても、ど真ん中のユダヤ人作曲家であるメンデルスゾーンとマーラーはなぜかあえて忌避しているし、登場人物たちはみな、ごくふつうの「フランス人」として描かれ、ユダヤっぽさは完全に排除されている。要するに、「基本は」ユダヤ系映画として本作を観てほしくはないわけだ。
でも、ポスターアートにおける、あえて横顔でとらえた二人の「大きな鼻」は、間違いなく本作が「イスラエル映画のリメイク」であることを印象付けるための「誇り高きアイコン」に他ならない。
そのことを、僕はB.クーパーの「つけ鼻」騒動で再確認できた。
ユダヤ系の配役には、ユダヤ系の俳優を。
ブリュノ・シッシュ監督は、まさにその要請に「正しく」応じてみせたのである。
― ― ― ―
映画としてどうだったかと言うと、
まあ普通に面白かったかな、と思う。
家族劇としては、とてもオーソドックスな「フランスらしい」ノリで、過不足ない仕上がりだったのではないか。特に、
「離婚家庭の元奥さんが、仕事でのパートナーを続けている」
「三世代の家族が出て来て、それぞれの世代感が強調される」
「性交渉が恋愛の重要な要素として映画内に散りばめられる」
といったあたりはまさにいかにもな感じで、トリュフォーやらロメールやら『ラ・ブーム』やらクロード・ミレールやらで散々観てきた、「これぞフランス家族映画」というノリをいやでも感じさせてくれる。
出演者も演技派ぞろいで、安心して観ていられる印象。
多少、なぜか表情に乏しいというか、みんな眠そうな眼差しで見つめ合ってるシーンが多い映画なので、あまり溌溂とした感じはないけれど、それぞれの苦悩やらやってられない感じはとても上手に表現されていたように思う。
とくにお父さん。浮かれ立ってエラそうに回りに吹聴してまわってたら、ぜんぶただの勘違いのうえ、家族はみんな先に知ってたとか、それはさすがにツラいよなあ(笑)。
一方で、クラシック音楽を扱った映画としては、しょうじき「どうかな」と思わされるところも多かった。
パンフで今をときめく鈴木雅明・鈴木優人親子が「音楽に関する不必要で余計な描写がなくて、ストレスなく観れましたね」(優人)「不自然な演奏場面が少ないのが良かったです」(雅明)と言っているから、そこまで気にすることはないんだろうけど……。
そもそも、パリで活躍しているフランス人の大物指揮者が、スカラ座の音楽監督になるのが夢って設定自体、そんなことふつうにありうるんだろうか?と思ってしまう。
かつての、アカデミーによる「ローマ賞」授与があったグラン・ツアーの時代ならまだしも、現代において、フランスの芸術家がイタリアを目指す流れは、あまりないような気がする。むしろ総じてイタリア・オペラとか、ひそかに下に見ているのではないかと。
たぶん念頭に置いているのはダニエル・バレンボイムなんだろうけど(2007年より客演指揮者、2012~17年にイタリア人以外では初めての音楽監督。彼はユダヤ人でもある)、彼は望まれたからスカラ座に行っただけで、本当はパリ・オペラ・バスティーユの音楽監督のほうになりたかっただろうし、明らかにべルリン国立歌劇場での音楽監督としての仕事のほうが比重は大きかったように思う。
結局、「ユダヤ人の」バレンボイムがフランスから初めてスカラ座に行ったから、この映画の設定もそうしただけなんじゃないだろうか。
実際、映画のなかで親子ともオペラのピットに入っているシーンがまるで出てこないのに、父ちゃんがスカラ座に執着している理由がよくわからないし、スカラ座のコンマス(正確にはコンサート・ミストレス)がパリに来ているとか、パリから逆に一人連れていくとか、歌手ではなくてヴァイオリニストに焦点があたっているのもイマイチ解せない。もちろんスカラ座オーケストラはコンサート活動も行うが、基本はあくまで座付きのオケなので、オペラの上演がメインで、就任公演にしてもふつうはオペラを振るのがふつうではないかと思う。だから、コンマスに話の焦点があたるのはどうにも違和感があるわけだ。
コンマスついでにいうと、映画のなかでは「第一ヴァイオリニスト」みたいな言い方をしていたような気がするが、第一ヴァイオリンというのは、ヴァイオリンで主に上部の主旋律を担うパート全体を指す呼称なので、混乱するのでふつうは言わないと思う。
あと、自分の愛人なり婚約者なりを、指揮者を務めるオケで重用するばかりか、コンマスにまで抜擢しようとするなど、それこそ言語道断で(いや、実際にないことではないんですが(笑))、その女性を今度は、新任で音楽監督になるスカラ座にも引き抜いて連れてくとか、まさに公私混同も甚だしい。
彼女が難聴であるという設定も、センシティブな題材のわりには映画内でうまく活かされているとは思えなかった。単純に朝起きて補聴器をはめるとブラームスが聴こえてくるシーンと、指揮者が大太鼓叩きながら迎えに行くシーンがやりたかっただけのような気がする。
ミラノ座に話を戻せば、自分の秘書が仕出かした電話のかけ間違いの後始末を、これから招聘する指揮者に丸投げで押し付けるとか、さすがにそれはちょっとあり得ないだろう。
なので、この映画はそもそもの大前提の部分からしておかしい、ということになる。
これが、たかだかユダヤ教の宗教学者に与えられる賞に関する話なら、事務局がうっかりのうえ適当で、留守電から逃げ回ったすえ息子になんとかならないかと泣きつくって話もあっていいかもしれない。だが、それがミラノ・スカラ座で事が音楽監督の招聘ともなると、話は別だ。パンフで鈴木親子が、かつて一度マジで「オファー間違い」があって息子の代わりに父親が振ってしまったケースがあったことを紹介していたが、音楽監督のオファー間違いともなると、ふつうに陳謝するべき案件だし、あんな偉そうに息子の指揮者に問題解決を一任したりは絶対にしないはずだ。
加えて、ゲルギエフが単純に「ロシア人だから」という理由で、奥さんがアルツハイマーになったから退任とか、下賤で卑劣な愚弄ネタをかましていいわけは、断じてない。
このあいだ観た『TAR』でも、現役のドミンゴやデュトワやガッティを性犯罪者として下げまくるネタを連発してたが、何? 最近クラシック界ではこういうの流行ってるの?? ぜんっぜん面白くもなんともないんですが。
その他、映画内で使用されている楽曲が、モーツァルトとかラフマニノフのヴォカリーズとか、比較的軽めの通俗よりの楽曲ばかりなのはどうなんだろうかとか、
どんだけ横暴で偉そうな指揮者であっても、リハにやって来て『第九』の第二楽章の冒頭だけさらって、いきなり帰るなんてありえないんじゃないかとか、
小澤征爾のリアルな映像を挿入しておきながら、そこに小澤が振ったのではない他人の演奏をくっつけて流すのは、さすがに失礼なのではないかとか、
とにかくいろいろとひっかかるところは多いんだけど、
親子をつなぐピアノ曲としてブラームスの間奏曲(それも後期の)が使われていたのはポイントが高かった。通常、こういう場合って通俗曲だとショパンとか使われそうだし、渋めの選曲でもシューベルトもしくはシューマンってケースが多い気がするが、ブラームスの曲にあたったのはブニュエルの『自由の幻想』でラプソディ第2番を聴いて以来かも。
何度聴いても良い曲だよね。
この映画の主題である「指揮者親子」というのは結構な実例があって、鈴木親子や尾高一家、ヤルヴィ一家のほか、ザンデルリンク親子、チョン・ミョンフンとチョン・ミンなどが良く知られるが、何と言っても最も有名なのはエーリッヒ・クライバーとカルロス・クライバーの親子だろう。父親がきわめて厳格に拍を刻むタイプで、息子は曖昧に雰囲気で「踊る」タイプだったのも含めて、今回の役作りの参考にしているのではないか。
ただ「音楽家親子」という話は、99%「才能の遺伝」という話でもあるので、この話のラスト近くで明かされる「とある秘密」というのは、個人的には今一つ承服しがたかった。
はっきりいって、僕は環境や教育だけで指揮者になれる才能が育まれる可能性があるとはまったく思っていないので……。そのオチにするなら、そもそもなんで音楽家を題材にしたんだ?? って思ってしまう。
あと、ラストのネタ。
あれは……えーっと、どうなんだろうね?(笑)
ふつうに考えれば噴飯もののネタで、たとえば小澤とメータだって「交互」にやってたから成立したんだと素人考えでは思うんだけど、だからこそ「見たことのない圧巻のエンディング」なわけで(だれもこれまでそんな演出やろうとしなかったっていうw)、まあこれはこれでいいのかなあ?
一応、会社の後輩の元学生オケ出身者に、あれで本当に弾けるものなのかはぜひ確認しておきたい。
音楽好きの人にお薦め。
この頃、ストーリーがやや深みに欠けるフランス映画の公開が続いている。世間の評判は必ずしも悪くないが(パリタクシー、テノール!人生はハーモニーなど)この映画もそうした一本。テロや暴動が続いてきたパリでは、来年オリンピックが予定されていることと関連するのだろうか。
それなのに、なぜ感想を述べるのか。偏に私たちの誇り、小澤征爾さんへのオマージュが感じられるから。あのスカラ座でのブーイングは、パバロッティのアリアと合わなかった時のことか。小澤さんは、ウィーン国立歌劇場のトップに就かれた折にも、ニューイヤーコンサートが話題になったけれど、ご苦労も並大抵ではなかったのでは。それにかも拘わらず、コラボレーションとして、この映画に名を連ねている。何というクラシック音楽への献身。
それでは、ストーリーのどこに不満が。
冒頭から指揮者のドゥニの周囲には、美しい女性が3人も出てくる。元妻で現マネージャーのジャンヌ、恋人で難聴のヴァイオリン奏者、ヴィルジニ。ひときわ美しいスカラ座のコンサ―ト・ミストレス候補者のレベッカ。ドゥニは、この3人に、全くフラットに接する。いくらヨーロッパ社会とは言え。でも、それは許せる。最初は、なかなか3人の顔の区別もつかなかったが。
問題は、ドゥニと同じ指揮者で父親のフランソワとの相克。いくら同業者が家庭内にいて、様々な事情があったとは言え、本人に行くべきオファーが間違って父親にあった時、なぜ解決できないのか。逡巡が目立ちすぎ。まるで、エリック・ロメールの青春映画の一場面みたいで情けない。
ドゥニの母に扮するミュウ=ミュウは、眼光も鋭く名優の貫禄十分。背景はさもありなん、でも活躍する場面がほとんどなかった。
ドゥニの息子マチューは優しいのは判るけど、一体、何をしたいの?調理師希望って、本当なの?試験(バカロレア?)の準備も、ピアノの練習もじゃあね。
それでも楽しめるのは、音楽が流れるところ。音楽は3種類に分かれる。
一つは、オーケストラのコンサートに出てくるような傑作。「フィガロの結婚」序曲、ベートーベンの交響曲第9番(第2楽章)、モーツアルトのヴァイオリン協奏曲第5番など。
二つ目に、クラシック・ファンなら誰でも知っているが、小品ゆえに名曲コンサート、TVの名曲アルバム、著名な歌手や演奏家のアルバムに出てくる曲たち。ドヴォルザークの「母が教えてくれた歌」、ラフマニノフの「ヴォカリ-ズ」など。
三つめが知る人ぞ知る名曲。ブラームスの作品76,8つのピアノ小品から第7番の間奏曲。グレン・グールド(映画の中でも出てきた)の名盤ブラームスの「間奏曲集」の中の一曲でもある。特に、ドゥニとマチューが右手部分と左手部分を二人で分担して弾くところ。ヨーロッパでは、如何に音楽が根付いているかわかる。それから、モーツアルトの宗教音楽ヴェスペレスに含まれる「ラウターデ・ドミヌム」、女性歌手(ジェシー・ノーマンを小柄にしたような)と室内楽で演奏される。ちょうどヴィルジニの生硬な演奏(そういう演出だろうけど)の直後だけに、心に染みた。
そう言えば、最後の場面も、征爾さんとズビン・メータの来日時のコンサートの逸話からヒントを得たのかも。
ストーリーはともかくとして、音楽が好きな人には、お薦め。
初期設定に不備在り。(゙ `-´)/
うーん。
この映画は音楽がテーマではない。確かに二人のマエストロの音楽感はお...
親子関係の描写が物足りず
同じ仕事を選んでしまった親子(この辺を題材にするならば夫婦とか兄弟とかでもありだが)の間にある、嫉妬、憧れ、尊敬、競争心、などなど様々な心情と確執。
複雑な心境が入り混じり、本音で話し合うことができず、両者に溝ができてしまうのはよくあること。
その辺りの心の描き方が、フランス映画ならウィットでユーモアあるものになるかもと予告編で気になって観に行ったのですが……
やたら長い尺をとった主人公の離婚した元妻や今の恋人との関係に関するエピソードが邪魔して、肝心の親子関係の描写が物足りなかったです。
つまらなくはないし、音楽のシーンはよいしと悪くはないけど、フランス映画らしい「心情は感じてくれ、あんまり説明やセリフに尺は取らない」「生きるには恋愛が至上」ってのが悪い方向に出たケースが苦手な人には(つまり私のようなタイプには)おすすめしません。
どうなることかとハラハラジリジリさせる展開はよくできていましたが、唐突な終幕は驚くよりもキツネにつままれたように感じ
映画『ふたりのマエストロ』作品レビュー
クラッシックと映画が同時に楽しめるオーケストラ映画は大好きです。しかも『オーケストラ』(2009)や『ラフマニノフ ある愛の調べ』(2008)など名作が多々あります。
数々のオーケストラ映画の中でも、本作の音楽面のクオリティは高いと思います。先ずはラストを飾る世界最高峰〈ミラノ・スカラ座〉の豪華絢爛、大迫力の熱い演奏シーンは必見です。
主人公ドニを演じるのは『ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール』で実生活でも夫婦であるシャルロットと共演・監督を果たしたイヴァン・アタル。ピエール・アルディティやミュウ=ミュウなどフランスを代表する名優たちが家族の葛藤を見事に描き出す。監督は俳優としても活躍するブリュノ・シッシュ。プロデューサーにはアカデミー賞作品賞受賞『コーダ あいのうた』のフィリップ・ルスレらが参加しています。
■STORY
フランスのクラシック界で、父子で活躍する指揮者のフランソワ(ピエール・アルディティ)とドニ(イバン・アタル)。ある日、フランソワに世界最高峰のミラノ・スカラ座から、音楽監督を依頼する電話が入る。歓喜するフランソワ。しかし、実際に依頼されたのは息子のドニで、父への連絡は誤りだった。ドニは父に真実を伝えなければならず苦悩するという物語です。
■さらに詳しく
父も息子も、パリの華やかなクラシック界で活躍するオーケストラ指揮者の親子。父・フランソワは、40年以上の⻑きに渡り輝かしいキャリアを誇る大ベテラン。ひとり息子のドニ(イヴァン・アタル)も、指揮者としての才能を遺憾なく発揮し、今やフランスのグラミー賞にも例えられるヴィクトワール賞を受賞するほど破竹の勢い。だが、栄えある息子の授賞式会場に、父の姿はありませんでした。祝いの言葉のひとつもよこさない父の素振りに呆れ果て、受賞パーティもそこそこに、恋人のヴァイオリニスト・ヴィルジニ(キャロリーヌ・アングラーデ)との情事に耽るドニ。
いっぽうのフランソワも「自慢の息子さん、快挙ですね!」と仕事仲間からたびたび煽られることが癪に触り、「今日の演奏は最悪だ!」と周囲に当たり散らす始末。そんなある日の練習中。突然、父・フランソワの携帯電話が鳴るのです。それは夢にまで見た世界三大歌劇場であるミラノ・スカラ座の音楽監督への就任依頼でした。
奇しくもこの日は、フランソワの誕生日。彼の妻でドニの母・エレーヌ(ミュウ=ミュウ)や、ヴィルジニらが一同に会した誕生パーティは、一転して「スカラ座に乾杯!」と、家族全員が父の快挙を祝福する最高の一夜となったのです。
しかし、歓喜の美酒に酔い痴れる老いた父の様子に、息子の表情はみるみる険しくなっていきます。やはりこの日も、父と息子の間には、相変わらずの不協和音が鳴り響いていました。
翌日、息子はスカラ座のマイヤー総裁に呼び出され、父への依頼は“デュマール違い”で、実はドニへの依頼の誤りだったことを告げられます。驚きを隠せずに動揺するドニ。彼は、スカラ座の音楽監督の重責を担うには、まだ経験不足のため依頼を固辞したいという思いが強かったのです。
いっぽうの父は、ドニの高校生のひとり息子・マチュー(ニルス・オトナン=ジラール)の自動車教習所代や、ACミランのシーズン・チケットまでいつの間にか手配していた。そんな浮き足立って大盤振る舞いしている父に、真実を伝えなければならないという難題を課されたドニは、人生最大の窮地に立たされます。やがて、初めて親子が腹を割って本音で語り合うためにシャンパンを傾けたとき、父の口からこれまで語られなかった衝撃の真実が明かされるのです……。
■感想
輝かしいキャリアを誇る大ベテランと、才能にあふれ飛ぶ鳥を落とす勢いの実力派。父子はライバル同士のためか、互いに打ち解けられません。2人の葛藤、それを包み込むフランソワの妻。三者三様の深みある演技が見どころでした。
そして2人の葛藤の根底にあるのが、ライバル関係ばかりでなく、ドニの出生の秘密にまで話が及んで、修復不能にまで父子の不協和音は高まります。
しかし、フィナーレのコンサート場面でわだかまりを一掃されます。それは圧巻というより驚きが先んじる展開でした。互いが心を開いたかは定かではありませんが、タクトで語り合う親子の会話が想像でき、高揚感が押し寄せてきました。
但し、数十年来の夢が間違い電話でぬか喜びとは、老いたフランソワにはキツい話です。誤解を解くよう託されたドニも可哀そうです。どうなることかとハラハラジリジリさせる展開はよくできていましたが、唐突な終幕は驚くよりもキツネにつままれたように感じました。演奏場面は心地けれど、それでメデタシと言われてもねぇ~(^^ゞ
■本作で使われている名曲について
モーツァルトやラフマニノフらの名曲も彩り、音楽への深い愛情も十二分に感じさせる一本でした。
・ブラームス「間奏曲第7番」
・ベートーヴェン「交響曲第9番」
・シューベルト「セレナーデ」
・ラフマニノフ「ヴォカリーズ
・モーツァルト「フィガロの結婚 序曲」
・ドヴォルザーク「母が教えてくれた歌」
・モーツァルト「ヴァイオリン協奏曲第5番」ほか多数
なかでも凄く感動したのが、エンディングで流れた、オーケストラ編成でのシューベルトの『セレナーデ』です。これは素晴らしい演奏でした。
「ダララダー」という低い音を奏でる曲は、しっとりとしたエンディングにぴったり。 父と息子との関係を描く上で、しっとりとした雰囲気を感じさせるシーンが多かったことを思い出させてくれる感じがしました。一定のリズムを刻みつつ、弦楽器の音が処々に入っていく演奏と共にスタッフロールが流れました。
劇中ドニの彼女が弾く同曲の練習シーンで、あまりに無機質で感情のこもっていない演奏を見せつけられていたので、余計にそう感じられたのかもしれません。
【参考】シューベルトの『セレナーデ』(チェロ独奏)
※リンク不可なので検索してください。
【小澤征爾も登場!】
劇中ドニがスカラ座の演奏を聴くシーンで、指揮していたのは小澤征爾でした。流れた曲は、Giulio Cacciniの『Ave Maria』です。
ドニはフランソワに「指揮者に選ばれたのは自分だった」と言えずにいるなか、小澤征爾が指揮するスカラ座の演奏を見ていましたのです。これも素晴らしい演奏と音です。
【参考】『ふたりのマエストロ』本編映像_スカラ座で指揮する小澤征爾の映像が登場!
※リンク不可なので検索してください。
【参考】映画『ふたりのマエストロ』予告編
※リンク不可なので検索してください。
コンパクトにまとまってて良いんだけど、 悪くないんだけど、 今ひと...
コンパクトにまとまってて良いんだけど、
悪くないんだけど、
今ひとつすっきりしないのは、
終わりよければすべてよしみたいな雰囲気からか、
予想がつかないラストという説明(とタイトル)で
逆に予想できてしまったせいか
それにしても、
あれだけのことしておいて謝らない秘書ってどうなの?
⒊.5に近い3
超シンプルなストーリー、いかにもフランスらしい映画
逆に新鮮
いつも何かとツラツラ書いている映画評ですが、今回は殆ど書くことがありません。
題材は古典ですから、あとはどう料理されるのかが見どころ。実際、ツッコミ所は多々ありますが、そこは論点ではありません。また、オフィシャル側が思いっきりネタバレしているのもご愛敬なのでしょう。
私が本作を最後まで観て感じたのは「ハートフルなコント(フランス語では寸劇)」。余計な演出は入れずにリズム感がいいし、大事な音楽は割と長く聴かせてくれるので、音楽映画としてもちゃんと楽しめます。
評価は揺れているみたいですが、ここまで振り切れば逆に新鮮。モヤモヤしなくて、これはこれでアリと思える作品と感じました。
とは言え、さすがに3.5は付けられないかな。まぁ、気楽にいきましょう。
尺が短い分、掘り下げ不足だったかな
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