「ブッディズムと電脳を語る前に「PLUTO」を見よ」ザ・クリエイター 創造者 Zackさんの映画レビュー(感想・評価)
ブッディズムと電脳を語る前に「PLUTO」を見よ
折しも「PLUTO」(浦沢直樹氐)が配信され、「火の鳥」もまた映画になるという。
歴史、科学、生命、環境多くの点で予言を叶えた手塚治虫先生は多くのレガシーを生み、多くのジャパンクリエイターにもインスパイアを与えたことを感じずにはいられない。
「クリエイター」は、私には壮大なスケールと映像、叙情的な音響を用いたコラージュ作品だという印象だった。
迂闊にも知らずに「吹き替え」で見てしまったこともある。
よくある字幕ハリウッドの「下手な」日本語を耳にして興ざめするのを避けたのでは?と邪推したくなる。
タイトルやエンドロール、劇中のブレードランナーで見たような多国籍の町並みに日本向け(アジアというくくり)の視聴者を意識した作りが、そこかしこにうかがえる。
AI としての少女の表情は、彫刻家、籔内佐斗司のこどもの仏様のように無邪気というか、如何にも嘘でなさげなミディアムな愛くるしさを醸している。
AI(ヒューマノイド)を擁したアジア諸国を撲滅する西側諸国という構図。そこには、自らの傲慢さや文明発展の為に平和を軽視する態度への反省が見える。
あたかも「Fight or Fright(闘争か逃走か)」の二元論と「Flow(水は低きに流れ)」中庸を徳とするブッディズムの対立を想起させる。
はて対立?はたまた融合はありえることか。
とはいえヒューマニズムが安く見えるのは、スケールの壮大さと「素材のツギハギ感」のギャップから浮き出る、解りやすさからかもしれない。
中年男と少女の切ないストーリーも見飽きたし、シリコンバレーにおけるスピリチュアルブームつまり「アジア」っぽい神秘な物への畏敬の念も表面的に見えてしまう。
これを書くのと平行してに「Pluto」を見ているのだが、やはり手塚治虫作品は、平和や人の心、そして生命というものについて深い洞察をエンターテイメントに含ませている。
(解釈をそえて展開したのは浦沢直樹である。)
ディックの「アンドロイドは電脳羊の夢を見るか」を原点として、そこから多くのヒューマノイド、ロボット、電脳世界作品が生まれた。「ターミネーター」では、AIの反逆とその終末世界、「マトリクス」では、仮想世界と現実社会の反転。実際は人工知能が自らの意思で人類を支配や管理するのではなく、そこには必ず「誰か」の意思たるプログラムが介入するわけである。ただ、どちらもエンターテイメントととして突っ込みをいれようもなく、ただおもしろかった。
「マトリクス」も「攻殻機動隊」からインスパイアを受けた時にも感じたが、電脳世界をことなった解釈と派手な表現スタイルで全く別の大作と仕上げるところには、相容れない東西文化の違いを思い知るところとなった。
仏教は日本固有の宗教ではないし、こういう書き方はごうまんなのかもしれないけれど、
アジアというか如何にも日本人に向けて理解を示しています、という態度が見えかくれする限りは、こういう作品は妙に歯がゆさを覚えてしまう。