「サル、サル、サル〜 早瀬憩のサルっぽさが炸裂する愛おしいフィルム。原作漫画は読まなくても大丈夫だけど世界観を確かに受け止めるためには読んだほうが良いかも。」違国日記 あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)
サル、サル、サル〜 早瀬憩のサルっぽさが炸裂する愛おしいフィルム。原作漫画は読まなくても大丈夫だけど世界観を確かに受け止めるためには読んだほうが良いかも。
原作は54話ありネームがとても多い。基本的には会話劇。登場人物もそれなりにいるし独特の世界観がある。どのように映画化するのだろうと思っていたがカットするところは思い切ってカットし、設定も若干変えて、でも大事なポイントは残して、と実に上手い脚色がされていた。
原作は槙生視点であって生活に入り込んできたいわば異物として朝を捉えている。モノローグが多く全面で槙生ワールドが展開する。一方で映画は、これは結果かもしれないが、槙生の出番はやや少なく、朝中心の展開となっているようにみえる。15歳の少女としてはやや幼く、朝はよく寝る、よく食べる、よく動く。これを早瀬憩が全力で演じており全般としておサルっぽいのである。
朝は感情表現が上手にできない。というか未熟と混乱によって悲しみや寂しさ、怒りといった感情を導き出される機能がうまく働いていない。同じ15歳でももっと大人びた子はパフォーマンスとして涙の一つも流すことができるのだろうが、そのような器用な子でもない。
でも普段がサルっぽいだけに、かえって、心細さ、頼りたいけど頼れない迷いがチラチラとみえとても痛々しく愛おしい。この感じを圧倒的に早瀬憩が表現していて素晴らしい。
原作も映画も、人と人の距離の取り方、寄り添い方について語っている。親子であっても兄弟姉妹であっても夫婦であっても恋人同士であっても、人と人は別々、他人であるので、これは絶対という接し方はない。そこに一方通行の思い込みや押し付けがあるとそれぞれが傷つくこととなる。でもお互いを尊重することによって、槙生と朝のように、年が離れていても、境遇が全く違っていても、寄り添う、そしてひょっとして愛し愛される関係をつくることができるのではということなのだろう。
最後に、えみりの設定について。何でこの映画にわざわざLGBTについての言及が入ってくるのか不自然である、最近の映画ではそういった約束ごとがあるのか、という感想があったので以下の通り付け加える。
「違国日記」で、性指向は、主役である朝と準主役であるえみりの連帯を描写するにあたって非常に大事な設定であるので、映画でも取り上げるのは当然である。ただし当該感想に対するレスポンスとしては、森本千世が受けた進学についての女性差別も含め、それは「今ここにある私たちの問題」であるからというのがふさわしいだろう。「世界中で自分たちに関係のないことなどはない」というのは原作の中での森本千世の発言である(映画ではこのセリフはなかった)。
コメントありがとうございます。
読み慣れてない方はそう感じるんですね~漫画は不要な情報も多々書かれてますしね、それに女同士だと喋り方だけで把握するのは難しいかもしれませんね。
今途中まで無料立ち読みしていますが、ネームの多さ、漫画と映画の表現方法の違いに改めて気付かされますね。1巻から2巻へ、ページを戻る、いずれもソフト化するまでは出来ない鑑賞方法ですよね。