「なかなか凄い」春画先生 R41さんの映画レビュー(感想・評価)
なかなか凄い
普遍的な部分とこじつけが入り混じる。
確かに、弓子の最後の言葉「感性を磨き、思い込みから解放されよ。精神と肉体を解き放て。幸福とはその先にあるもの」は普遍的だ。
弓子が月謝の代わりにお手伝いさんとして働きだしたころに、先生の書いたメモを見てそれが頭にこびりついていた。
これこそがこの作品を通して監督が言いたかった言葉だろう。
性とは人間の三大欲求にもかかわらず、古来から「教育」されてきた歴史がある。
物語にもあったが、日本では特にキリスト教文化の影響から春画なるものが厳しく抑圧された。
旧約聖書にもその在り方を厳しく説いている。
アダムとイブと知恵の実
「恥ずかしさを知った」ことは、後付けの嘘だということがわかっている。
成人となる儀式で、あのマサイ族はライオン狩りに出掛ける。
見事ライオンの首を持ってきた物だけが成人とみなされる。
彼らはモテる。
モテる彼らは夜這いにやってくる小学生低学年くらいの年齢の女の子と交わる。
しかし生理が来ると、結婚するまで性行為はしない。
これが彼らの在り方だ。
人間社会だけが、この性に対し厳しい倫理上の決まりを押し付けている。
ここにこの作品は切り込んだのだろう。
それはいい。
ただ、
男女の在り方はそれぞれだが、基本的な「もの」がなければすぐい価値観の違いという問題が生じる。
ここをこの作品は壊してみたかったのだろう。
それもわかる。
わかるが、どうしても納得できないことでもあったりする。
この作品の提案する世界観が正しいとは受け取れないのだ。
それを見込んでコメディタッチにしている点は素晴らしいと思う。
所詮、受け入れられないというのが大半だろう。
特に欧米人は「浮気」に関しては絶望的なほどの関係になる。
それだけキリスト教による性教育がしみこんでいるのだろう。
さて、
物語の内容はよく理解できたし、弓子の言葉は正しいと思う。
彼女がカフェでウエイトレスをしていた時に起きた地震が、人生の岐路だったという設定もコメディ故に面白かった。
弓子は自分の人生を変えたいと思っていた。
同時にこんなつまらない人生を歩くしかないとも感じていた。
弓子がそうなった理由が離婚だった。
それは彼女にとって、男という一括りにしたものとは幸せにはなれないと思っていたからだろう。
春画に見た男女の思考とその先に感じていたであろう物語が見えた時、弓子は興奮した。
いくつもの男女の絡み合いは相手のみならず、見えない背景、見えている背景の先までも映し出している文学的作品だということを知る。
その肌感は、紙の白だった。
こんな春画の奥深さと愛好家たちの存在
性への開放
なかなか面白いが、実際「その先」へなど進めるだろうか?
その先にはきっと一夫多妻制や一婦多夫性のようなことを想像してしまう。
物語にはLGBTや3Pまで登場した。
やはりそこにはソドムとゴモラのような文明の破壊を感じてしまう。
人には理解できないことや受け入れられないことがある。
性というものに対する倫理感は、時代や文明の要のようにも思う。
この作品が提案するように、確かにそれは普遍的な真理かもしれないが、性だけをクローズアップすることはできないのではないかと考えてしまう。
仮にこの作品のような世界が始まる場合、そこにはもっと美しい人間性であふれた世界になっている必要があるように思う。
マサイ族の文化は彼らの数百年の文化だが、彼らの自然との関わりと生き方だ。
そこにいわゆる犯罪はない。
全員が調和を求め、実際調和がある。
しかし現代社会は国から国際的標準を求める。
実際には多様でありながら、同じルールを求める。
この中で良いとか悪いとかが勝手に線引きされる。
この世界の中でこの物語のようなことを求めるのはやはり難しいだろう。
セキレイのつがいの話
イザナギとイザナミ
すべてが調和していたとき、性に対する開放もありになるのだろう。
江戸時代にはそんな考え方もあったようだ。
春画は、時代劇で見る「現代社会の常識」的側面から描いたものではない真実が隠されていた。
この点を突いたのは良かった。
不可能なことを提案するのもよかった。
そしてそれをコメディのような感じで表現したのもよかった。
特にあの鰹節 男根の象徴 コメディ
そして、現実の難しさを考えさせられた。
なかなかの作品だった。