春画先生のレビュー・感想・評価
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婦女子から腐女子へ…
フツーにウエイトレスとして働く婦女子が腐女子へ…
豊かな春画の〜めくるめく〜あられもないイザナい…
スマホで声を中継…
はあっ???
この春画先生、物腰の柔らかさからは想像もできない位のなかなかの下衆…
そりゃー壊れるわ。
いや、開拓者精神か!?
最中にメモりたくなるのは、まあ、わからんではない。。。論文であれ、何かを造り上げる事でひらめいたイメージって、メモらないとすぐに消えてしまう…。
眠ってしまうと、霞のごとく忘れるし
ただ結局の所、落とし所がSMなのは、ただの変態へのトーサクした鬼門をくぐるようなものだと思うと逆に安易な気がして、、、
冒頭の始まり方とか、春画の解説とか、良かったけどなぁ
とはいえ、ヒロインの体当たりの演技は良かったかな…。
せっかくの倒錯を描くなら
四十八手に重きを置いても良かったかな…。←こら!
無や削ぎ落とした事でその美しさをを引き立てる魅せ方
ラスト20分ぐらいまでは良かった
と言いながらもよくできた映画だと思う。
春画を見るマナー、口をハンカチで抑える理由がわからんけども
表情を隠すためなのか、それとも自分の穢れが、いやわからんから
調べよう。
なになに、
・恥じらいを隠す(見たい・恥ずかしいの葛藤を隠す)
・笑いを隠す(ユーモラス要素もあるため)
・話す、笑うを隠すための礼儀作法(口を開けて話す、笑う行為が不作法のため)
とな。
※以下敬称略
内野聖陽:芸名時の読み仮名を(まさあき)→(せいよう)に変えたことが印象的。
春画の第一人者役・芳賀一郎、どこかコミカルさが入り混じって面白い。
北香那:春野弓子、芳賀一郎と春画の世界に心ごとズブズブに没入していく。
で、ここに柄本佑と安達祐実が重なってくるから脇は十分。さらりと、白川和子なんかも脇の脇を固めていてよい。
物語のコミカルさと性的なドキッと具合、途中で流れる曲(なんと言えばいいのだろう)
そう、伊丹十三映画を彷彿させるあの「パーン」とした軽快な感じ。
軽快さとエロスが二人三脚なのが、小気味よかった。
ラスト20分からは性癖紹介ということで。
角煮を食べた後に、ほら煮汁まで飲みなさい、と言われているような
「げふっ」となるようなラスト20分だった。
ヘッドフォン推奨!
唯一の動機
大衆文化への冒涜
春画は人間の本能に根差し、古くは中国の王朝時代から平安、桃山時代に為政者など権力者から画家に託され、後に江戸時代になって大衆に支えられた絵師が数多く産み出した古典文化、芸術であることは理解できるが他の学術的研究と比べるとちょっと格落ちは否めない、春画研究を餌にして喫茶店のウェイトレス弓子を家に誘うオヤジ、春画先生、文化研究者の名を借りてやってることはナンパでしょう。それにドハマリな弓子も信じがたいほど男に無防備で俗っぽい、弓子は単なる尻軽女なのかもう少し人物像を生い立ちから深堀りして欲しかった。個人的には春画やポルノは好きな人がそれなりに愉しめばよいもの、ことさら声をあげて陽を当てなくてもよいでしょう、歴史に埋もれても大衆文化の多くはそういうものでしょう。ストレートなAVを撮らずに春画の力を借りてポルノを正当化したような原作・脚本・監督の塩田明彦の作家性の強さ、捻じ曲げには顰蹙しか感じません、大衆文化への冒涜でしょう。
春画が嫌いになるぜ
何だこの映画!
総合芸術としての春画を分からない髭面男のク❤️映画。
「春画」とは一つ前に見た映画であって貰いたい。
細密な絵画としてヤン・ファン・エイクやブリューゲルにも通じる凄さがあると思う。
だが、春画を始めとした浮世絵は肉筆で無い。それが、僕が春画などの浮世絵の評価を落とす要因だった。
しかし、「春の画」を見て、総合芸術としての凄さを実感していた所だった。それが、こんな変態如きになっちまって。しかも単なる男目線。
これでは、大和民族の映画もいずれ春画の如く忘れ去られるであろう。
あ!もうすでに時は遅しかなぁ?
追記
団鬼六先生の挿絵を描いていた画家の絵を、この髭面中年オヤジは、本屋のエロ本コーナーで幼少頃見ていたんだと思うね。それが発想だよ。あれはSMだぞ。それはそれで良い所はあるが、全く違う性癖。どちらがSで、どちらがMであっても、春画のエクスタシーとは違うと思うよ。
なかなか凄い
普遍的な部分とこじつけが入り混じる。
確かに、弓子の最後の言葉「感性を磨き、思い込みから解放されよ。精神と肉体を解き放て。幸福とはその先にあるもの」は普遍的だ。
弓子が月謝の代わりにお手伝いさんとして働きだしたころに、先生の書いたメモを見てそれが頭にこびりついていた。
これこそがこの作品を通して監督が言いたかった言葉だろう。
性とは人間の三大欲求にもかかわらず、古来から「教育」されてきた歴史がある。
物語にもあったが、日本では特にキリスト教文化の影響から春画なるものが厳しく抑圧された。
旧約聖書にもその在り方を厳しく説いている。
アダムとイブと知恵の実
「恥ずかしさを知った」ことは、後付けの嘘だということがわかっている。
成人となる儀式で、あのマサイ族はライオン狩りに出掛ける。
見事ライオンの首を持ってきた物だけが成人とみなされる。
彼らはモテる。
モテる彼らは夜這いにやってくる小学生低学年くらいの年齢の女の子と交わる。
しかし生理が来ると、結婚するまで性行為はしない。
これが彼らの在り方だ。
人間社会だけが、この性に対し厳しい倫理上の決まりを押し付けている。
ここにこの作品は切り込んだのだろう。
それはいい。
ただ、
男女の在り方はそれぞれだが、基本的な「もの」がなければすぐい価値観の違いという問題が生じる。
ここをこの作品は壊してみたかったのだろう。
それもわかる。
わかるが、どうしても納得できないことでもあったりする。
この作品の提案する世界観が正しいとは受け取れないのだ。
それを見込んでコメディタッチにしている点は素晴らしいと思う。
所詮、受け入れられないというのが大半だろう。
特に欧米人は「浮気」に関しては絶望的なほどの関係になる。
それだけキリスト教による性教育がしみこんでいるのだろう。
さて、
物語の内容はよく理解できたし、弓子の言葉は正しいと思う。
彼女がカフェでウエイトレスをしていた時に起きた地震が、人生の岐路だったという設定もコメディ故に面白かった。
弓子は自分の人生を変えたいと思っていた。
同時にこんなつまらない人生を歩くしかないとも感じていた。
弓子がそうなった理由が離婚だった。
それは彼女にとって、男という一括りにしたものとは幸せにはなれないと思っていたからだろう。
春画に見た男女の思考とその先に感じていたであろう物語が見えた時、弓子は興奮した。
いくつもの男女の絡み合いは相手のみならず、見えない背景、見えている背景の先までも映し出している文学的作品だということを知る。
その肌感は、紙の白だった。
こんな春画の奥深さと愛好家たちの存在
性への開放
なかなか面白いが、実際「その先」へなど進めるだろうか?
その先にはきっと一夫多妻制や一婦多夫性のようなことを想像してしまう。
物語にはLGBTや3Pまで登場した。
やはりそこにはソドムとゴモラのような文明の破壊を感じてしまう。
人には理解できないことや受け入れられないことがある。
性というものに対する倫理感は、時代や文明の要のようにも思う。
この作品が提案するように、確かにそれは普遍的な真理かもしれないが、性だけをクローズアップすることはできないのではないかと考えてしまう。
仮にこの作品のような世界が始まる場合、そこにはもっと美しい人間性であふれた世界になっている必要があるように思う。
マサイ族の文化は彼らの数百年の文化だが、彼らの自然との関わりと生き方だ。
そこにいわゆる犯罪はない。
全員が調和を求め、実際調和がある。
しかし現代社会は国から国際的標準を求める。
実際には多様でありながら、同じルールを求める。
この中で良いとか悪いとかが勝手に線引きされる。
この世界の中でこの物語のようなことを求めるのはやはり難しいだろう。
セキレイのつがいの話
イザナギとイザナミ
すべてが調和していたとき、性に対する開放もありになるのだろう。
江戸時代にはそんな考え方もあったようだ。
春画は、時代劇で見る「現代社会の常識」的側面から描いたものではない真実が隠されていた。
この点を突いたのは良かった。
不可能なことを提案するのもよかった。
そしてそれをコメディのような感じで表現したのもよかった。
特にあの鰹節 男根の象徴 コメディ
そして、現実の難しさを考えさせられた。
なかなかの作品だった。
何かを追求するということは『変態』『変体』『ヘンタイ』のどれかな?
自分と違う、世間と違う、世界観が違う。
変態だからそらぁ違うわ。でも変態だらけなら数少ないアナタが変態?
そんなくくりはどうでもいい。
大事なのは文化や芸術の美しさを観る心。
日本人には(世界の何処かにも点在するだろうけど)性に関する事にはタブー感や羞恥心の境界線を行き来する未発達の領域だったりするのかな。
でもこの作品は真っ向勝負に出てノーガードで撃ち合い切り合いに出ている。
男と女。まったくの別の生き物。
簡単には行かない生き物。
だから駆け引きや腹の探り合いなどが生まれて愛が深まる。
キズが浅いなら今のうちに身を引くのもそれで良し。
ビビってないで知らない世界に飛び込め!
北香那さんが実質的には主演
愛と性(癖)の物語
今の生活に満足していないとき熱中できるものを求めたり、劇的な変化をもたらせてくれる何かを待ち望むことがある。
多くの人はそれなりに若い時すでに熱中できるものを見つけるものだ。いわゆる趣味である。もしくは恋人などだ。
北香耶演じる主人公弓子は、ただ待っていた。自分を変えてくれるかもしれない何かを。
そして出会った。春画である。
春画の向こうには内野聖陽演じる芳賀先生がいる。もしかしたら最初から春画の虜となっている芳賀に惹かれたのかもしれない。
春画に夢中な芳賀を自分の虜にしたかったのかもしれない。
それは弓子自身も分かってはいない。物語が始まった時点では。
春画から振り向かせ、死別した妻からも振り向かせ、行き着いた先でやっと気付く。弓子の本当の望みを。
それは弓子の望みなのか、芳賀の望みなのか、はたまた互いに噛み合った望みなのか、作中の描写だけでは判断出来ないが、少なくとも最初に弓子が求めていた「変化」は2度の大地の揺れによりもたらされた。
観る前はユルい感じのロマンスコメディだと思っていた。雰囲気がそんな感じであったから。
しかし蓋を開けてみると、中々激しい愛と性(癖)の物語でびっくりした。
期待したものとは全然違ったけれど面白く観ることはできた。途中から春画がほとんど関係なくなっていくのは少々残念であるが。
変態に関する一考察
何やら知的で文化的薫りの漂うタイトル。
そういえば、何年か前に春画がちょっとしたブームになった時期があったような?
これは変態を描く映画。みんな真面目に一途に変態なので、それが可笑しい。
劇中で語られるように春画は「笑い画」と呼ばれていた。性をおおらかに笑い飛ばす社会の空気の象徴でもあった。この映画も性をある種、可笑しみを持って描いている。
弓子が春画先生のどこに惹かれたのかが、最後までいまいちよくわからないことと、最後の30分くらいがヘンテコな性倒錯映画になってしまっているのが残念だが。
私は、この作品を観て「変態」とは何ぞ?ということを真剣に考えてしまった(どうかしている)。
一体全体、他人には開かれていない秘密の営みについて、正確な国勢調査をしたことがあるのか?学術的研究はどれほど進んでいるのか?「これが普通」「これが変態」と誰がどう線引きするのか?
上記で「変態を描く映画」と書いたが、これは私の主観であって、大多数の人間がそう思うかどうかはわからない。多分大多数は変態と思うのではないか、相対的に、という条件付きでの主観的見解である。
春画先生は、性を視覚的に長年研究し続けた結果、その方面の感覚ではもう満足できなくなったが為に、聴覚方面に走ったのではないかと思われる。
受け身(M)であった弓子は、先生の本性(M)を知って自身がSに瞬時に転換するという離れ業をやってのける天賦の才を示した。いや、この女に目を付けた先生こそ、やはり天才と言えよう。天才と変態は紙一重。
ラストの弓が的を射止めるシーンが何を意味しているのか、しばらく考え続けたが、納得いく考えに落ち着かなかった。先生が弓子の名前を聞いて弓を射るジェスチャーがあったが、その射た弓が的に当たった、つまり、先生が狙った弓子を射止めた、という暗喩だろうか?
振り返ってみると、あ、春画の話だったか、というくらい変態について考えてしまった妙な映画であった(どうかしている)。
近年ワースト。
つまんない
クソみたいな映画。
観て損した。
時間と内野聖陽の無駄遣い。内野さんなんでこんなものに出たの?なんかガッカリだよ。
北香那はただひたすらにうざいだけ。もっと売れたくて仕方がないんだろうなって感じの芝居。犬みたいにキャンキャン喚いてるだけで、演技に全くペーソスや奥行きがない。そんなんで立派にやり切った私ドヤ!感出してんじゃねえよ。
どうせなら是枝裕和監督の「空気人形」みたいな、思い切り中二病なファンタジー系に振りっ切っちゃった方がよかったんじゃなかろうか。そっちのがよっぽど切なそうだし泣けた気がする。
もしくは柄本佑と北香那の配役を逆にするくらいの気概が欲しかった。
こんなんただの監督の願望&性癖発表やん。
塩田明彦センスなさすぎ。
真剣で純粋な変態の物語
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