劇場公開日 2023年10月13日

「等身大の物語」キリエのうた R41さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0 等身大の物語

2025年12月5日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

名前を捨てても、魂は歌う――映画『キリエのうた』をめぐる小さな真実の話

約三時間の長い呼吸のような物語を見終えたとき、私の胸に残っていたのは、形容しがたいこの世の不条理と、失われても決して消えない想いの残響だった。
この映画は、大きな事件の連続で心を揺さぶるのではない。むしろ、誰かの小さな喜びが剝ぎ取られ、なおその人が生きるために握りしめた微かな確信が、歌となってこちらの胸に届いてくる――そんな、静かで激しい作品だ。

Ⅰ 名前を捨てる、という幻想
物語は、結婚詐欺を続けながら都会の波を軽やかに泳ぐイッコ(マオリ)が、路上でギターを抱え眠るルカを見つけるところから始まる。
翌日、ルカは気づく。派手な衣装のイッコが何者なのか、そして彼女が「イッコ」と名乗るのは、過去を捨てるための別名であることを。ルカもまた、自分を「キリエ」と呼ぶ。過去を捨てた者の新しい名で。
だが、過去を捨てるというのは、あまりにも甘美な幻想だ。
自分という意識が消えるほどに過去を切り落とすことは、ほとんど不可能である。むしろ、捨てたはずの過去は、名を変え、姿を変え、影として寄り添い続ける。
この映画の背景に流れる感覚――“それでも生きていかなければならない”――こそ、私たちの共感を呼び覚ます適温であり、同時に残酷な温度でもある。
イッコとキリエ。二人は別名を纏いながら、同じ匂いに惹かれ合う。
イッコは、ルカの放つ独特のオーラを見たとき、おそらく自分の裏側を見た。悲しみの輪郭。孤独の深さ。呼吸の仕方。
だから手を差し伸べたのだろう。高校時代、図書室にいるルカを見つめていたときと同じように。あの頃、家庭教師の塩見に頼まれたこと――それは行為としては些細でも、彼女の生にとっては方向を決めるほどの大きな力だったのかもしれない。

Ⅱ 「さよなら」と「自由だね」――歌が先に知っていた未来
冒頭、ルカが歌う「さよなら」。
あの歌は、未来のマオリに手向けられた伏線だったのではないか。歌はときに、言葉より先に未来を知る。
「さよなら」「僕らは自由だね」――この二つの言葉は、マオリの生き方を決める羅針盤になった。自分らしく生きるための手段としての結婚詐欺。倫理としては誤りでも、彼女の生においては“やむなく選んだ自由”だった。
東京でルカと再会したとき、マオリは自分の秒針の音を聞いたのだろう。使命――ルカを羽ばたかせること。
高校時代に塩見から聞いたルカのこと、父のギターを渡したこと。その父は“勝手な男”の象徴でもあり、恨みきれない存在でもあった。
「女の武器」と「勝手な男」。苦しみながら生きるより、楽しんだ者が勝つ――そんな思いが芽生えたのは、東京の大学に出てからだ。東京の男たちは、地方とは違う速度で“勝手”だった。
イッコの終わり方は、無情だった。恨みによる殺人は、端から見れば因果応報だ。だがイッコにとっては、「生きることの精一杯」だった。
その生き方を誰かが憐れむことはできる。けれど、キリエにとってはそれが恩である。
雪に寝そべって聞いた「さよなら」を、彼女はいつかの海辺で思い出す。歌は過去を連れ戻し、未来に手を伸ばす。

Ⅲ 小さな喜びを奪う社会、それでも届く魂の声
路上ライブ――学び合うよろこび。
歌を教えてくれた男性が警察に連行される。小さな喜びが、制度の名のもとに剝ぎ取られる。
キリエにとって、人は信用に値しないものだった。再会した塩見と引き離され、施設で暮らし、牧場で働こうとした矢先に、自動保護団体が押しかけて保護する。
この世界は、彼女のささやかな喜びを根こそぎ奪う。誰が、彼女に向かって「心を開け」と言えるだろう?
「行けば、迷惑になる。」
その心の叫びが、歌声となって人々の心を動かす。ミュージシャン同士が彼女の声でつながり、いまのキリエの等身大が輪郭を得ていく。
フェスは警察の介入で中止が宣告された。だが、その雑音は、キリエの魂の声に追いやられた。
社会的には間違っている――そう言われる生き方でも、イッコは満足したように見えた。何よりも、自分の暗さの象徴だったルカが、路上ライブを通して自分自身を取り戻し始めたからだ。
狭い寮生活へと移ったキリエの歌は、他の寮生の耳に届く。魂の歌は、雑音とは違い、魂を持つものに届く。
それは、美学でも理屈でもない、経験の真実だ。

Ⅳ 塩見夏彦というグレーゾーン
塩見の心理は、解釈が乱れる。
恋に積極的だったキリエに押され、やがてそれは恋になる。だが、医学部への進学、そして彼女の妊娠――高校生であることも含め、“男であれば誰でも考える時間が必要だ”という現実が、ここにはある。
言い寄られての関係は一般的にありふれている。けれど妊娠は、生活を捻じ曲げる現実の重量を持つ。医学を志す彼にとって躊躇は自然で、だからこそ、彼がどう経て“結婚しよう”に至ったのか――映画はそこを語らない。
この作品は、過去の視点を本人に委ねない。特にルカの過去は、先生と小川くんの視点で語られる。
過去の回想や夢は、本人の視点であるべきだ――その原則を外れることで、物語の中心が少しぼやける。
しかし、そこを深掘りすると、見えてくるものがある。不条理な社会の中にも、思いやりの心を持つ人がいる――という真実だ。
この“悩ましさ”が、この作品の核に絡みついている。

Ⅴ 言霊としての歌、嘘のない芸術
言葉も歌も、本心が込められるとき、人の心を揺らす力を宿す。
かつて尾崎豊が同世代の心を根底から揺るがしたように、キリエの歌も人々の心を根底から動かす。
それは、おそらく、真実だからだ。何も足さず、何も引かない。
どこかのCMの言葉に似ているが、彼女の歌はそれを真正面から実践している。嘘がないということ――それは、すでに芸術の域にある。
形を持たない魂の叫びは、今この瞬間にしか届かない。
その一瞬を、私たちは“視聴者”というかたちで共有した。
この本心の叫びこそ、現代社会に欠けてしまったものなのかもしれない。
制度や常識の名で、人の小さな喜びを奪い、痛みの声を雑音と混同する世界で――それでも届いてしまう声がある。
それが“歌”であり、“言霊”であり、名を変えても消えない魂の証だ。

結び――「自由だね」と言える世界へ
イッコは、社会の尺度では間違った生き方をしたのかもしれない。けれど、彼女の秒針が示していたのは、誰かの魂を羽ばたかせることだった。
キリエは、過去を捨てるために名を変えた。けれど、名は皮膚であって、魂ではない。最後に残るのは、嘘のない声だけだ。
「さよなら」「僕らは自由だね」。
この二つの言葉が、映画の最初と最後で、別々の重さを帯びて立ち上がる。
誰かの自由が、別の誰かの不自由を呼ぶことのある社会で、なお「自由だね」と言える瞬間を、彼女は歌で掴みにいった。
それを聞いた私たちが、どう返すか――その応答こそが、作品の外側で続く物語のはじまりなのだと思う。

R41
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