エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命のレビュー・感想・評価
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ゆったりした語り口で語られる、不条理なまでに翻弄された人生の物語
1858年にボローニャで起きた事件を題材にした歴史劇である。仲睦まじいユダヤ人一家に育つ少年がとある理由によって親元から引き離され、カトリック教徒としての生活を余儀なくされる。ストーリーの柱には、現代でもあらゆる争い事の火種となりうる「宗教上の違い」があり、教義のため、宗教上の権威のために是が非でも事を為そうとする、優しい顔をした非情さが本作を不気味な闇で覆う。その一方で、これはいたいけな少年の瞳を通じた年代記でもあるのだ。己の理解がまったく追いつかぬところで全てが目まぐるしく移ろうお伽話のような感触すら持ち、彼は数十年のうちに大きな精神的変容を辿ることになる。ベロッキオ監督曰く、この事件はイタリアにとって重要な歴史的瞬間だったとのこと。なるほど、描かれるのは、宗教的支配が近代史のうねりによって変わりゆく過渡期。ゆったりした語り口ながら、当時を生きたあらゆる人々にとっての激動の物語なのだ。
神は死んだ
史実を元にしながらも
自分の(宗教的)信念を他人に強要・強制することの恐ろしさと
洗脳の怖さを痛烈に描いた作品です
それは残念ながら心から愛する我が子に対しても同じであると
いかなる宗教も
宗教的権威も
宗教的儀式も
宗教的対立も
宗教裁判も
宗教教育も
破門も
神の裁きも罰も
後に整備された教義もしきたりも
欺瞞と矛盾に満ち満ちている
洗礼、布施、修行、巡礼、審判、改宗、教会……
人間が宗教に縛られ
宗教が人間を蹂躙する
理不尽・理不尽・理不尽
一体、宗教は
誰のためにあるのか?
何のためにあるのか?
神の名のもとに
拉致も 誘拐も 虐待も 洗脳も 服従も 裏切りも 贈賄も 策略も
何でもあり
そう、戦争や死刑さえもが正当化される
つまりそれは、人類を救おうとした神への冒涜に他ならないのでは?
「信じる者は救われる」との真理をついた美しい信条は、もろくも’権威’に悪用される
それは、この映画だけでなく歴史が証明している
創立?当初には
神や仏は本当に存在したのかも知れない
その組織や団体は希望に満ち溢れ、人々を救ったのかもしれない
でも皮肉にも
その組織が必然的に
大きくなればなるほど
世界に広がれば広がるほど
時が経てば経つほど
本来の光を失っていく
時の権力に利用されながら
宗教や宗派なんかよりも大事なもの、それは愛
そう信じたい
映画の終盤、それまでの信念を翻し、突然
「教皇の遺体を川へ投げ込め」と叫んだエドガルドは、いったい何だったのだろうか
一瞬だけ訪れた覚醒?
母の死に際に、彼女の洗礼を迫ったのは、もとの洗脳された自分に戻ったのか
誰か解説して欲しい
宗教が絆を断つものであってはならないと思う。
理不尽極まりなくて、腹立たしい。
この映画の不思議な点は、エドガルドの目線が殆どないこと。大人になっても彼は帰らない。これを、大概の人が洗脳もしくは、ストックホルム症候群と思うのだろうけど、親の元でユダヤ教であれば、洗脳ではないのかというと、これもわからない。
そして、彼は成人した後も、司祭として従事した。これは彼の判断だったのではないのか?その点の取材は明かされない。彼が明かさなかったのか、またも教会側の力が働いたのか、これも解らない。
理解はできないけど、彼の生きるための選択の一つということはわかる。でもそれは、誰でもそうなのではないだろうか。
理不尽でもブラック企業で社畜になる人も生きる為だ。だからこそ、雇い主や権力側の人は、思慮深い人格者であってほしい。
これを観てて思ったのは、近年の虐待に対する児相や警察などの対応の鈍さも、この視点で考えると頷ける。罷り間違えば連れ去りになるのだから。
警察だって権力組織だもの、一見すると正しく見える。それなら、この時代の教皇配下の警察のする事であれば、やはり抵抗するのは難しいということになると思う。
時代によって、立場によって正しいは変化し続けるけど、本当の意味での、宗教の持つ対話と寛容さを今後は実践してほしい。
たったそれだけで
【”家族が望まぬ幼き子への、強制的な改宗が惹き起こした事。”今作は、人間にとって宗教とは何であるかを観る側に問いかける、史実を基にした重く哀しき作品なのである。】
■1858年、ボローニャのユダヤ人街で、ローマ教皇ピウス9世から派遣された異端審問官に率いられた教皇警察たちがモルターラ家の7歳の息子・エドガルドを、彼が幼き時に洗礼を受けた事を理由に連れ去る。
世論と国際的なユダヤ人社会に支えられ、両親は息子を取り戻そうと奔走する。
だが、教会とローマ教皇はエドガルドの返還に応じず、時は流れエドガルドは成人し、立派なローマカトリック教徒になっていた。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・1800年代のヨーロッパは、国家体制の転換期であり、ローマ教皇の権威も揺らいでいた事が、事件の背景にある。
・エドガルドが生誕6カ月の頃、病に罹りそれを心配した使用人のアンナは”悪魔”から命を守ろうと、簡素な洗礼をするシーンが描かれている。
では、その事実を誰が知り、エドガルドをユダヤ教からキリスト教に改宗させようとしたのかは、ユダヤ教徒から告発された異端審問官がはっきりと言わないため、劇中では明らかにはされない。
が、上述した時代背景がある事は間違いないであろう。ローマ教皇ピウス9世は、自らの権威を誇示するために、幼きエドガルドをユダヤ教からキリスト教に改宗させようとしたのである。
■ご存じの通り、キリスト教はユダヤ教から産まれている。ユダヤ教徒だったイエス・キリストがユダヤの教えに疑問を唱えた所から発し、更にキリスト教の中でも厳格なカトリック、プロテスタント、正教会など多数の宗派がある。
日本でも、仏教、神道があるが、日本人は宗教には余り固執しない民族で、寺に行くことも神社に行くことも同じように捉えている人が多いし、クリスマスにはにわかキリスト教になったりする。
だが、これが欧米、アラブになると宗教は厳格に扱われ、古来から大掛かりな宗教戦争が多発している事は周知の事実である。
今作は、この欧米、アラブの厳格なる宗教観を前提に描かれている事で、重い面白さと怖さに満ちているのである。
・ローマ教皇ピウス9世が、強引にカトリック教徒にしたエドガルドが、ドンドン敬虔なカトリック教徒になって行く様を見る時の表情が、何とも言えず恐ろしい。まるで新興宗教の教祖の様である。
<哀しいのは、成人したエドガルドが老いた母の病床に行き、洗礼をしようとするシーンである。
あれ程、エドガルドを求めていた母は、エドガルドの手を振り払いユダヤの教えを呟いて、息絶えるのである。
今作は、人間にとって宗教とは何であるかを、観る側に問いかける史実を基にした重き作品なのである。>
怖い映画だった
家庭に持ち込まれた宗教戦争
永遠の宗教二世問題
1858年のイタリア。ユダヤ教一家の7歳の息子を「この子は赤ん坊の時に洗礼を受けたキリスト教徒だ」とローマ教皇が拉致したという歴史的事実に基づく物語です。現在からさほど遠からぬ時代にこんな横暴が許されていた事にまず驚き、イタリアの人々に及ぼしていた教皇の権力は斯くも甚大だったのかと知りました。でも、本作の訴えを本当に理解するには、イタリアの歴史とキリスト教・ユダヤ教の背景を知っていなくてはならないんだろうな。と、またまた自分の不勉強を恥じる。
「でも・・」
と、不信心な僕は思います。無責任な事を言ってはいけないし、教皇の行為は許されないのですが、子供に何を信仰させるのかと綱引きする姿は、現在の日本で取り上げられている「宗教二世問題」にそのまま被さって僕の目には映りました。
人間らしい
宗教に翻弄された一人の少年の人生を通して見えてくるもの
時代はまさに19世紀の近代、教会法から世俗法の時代。時の教皇ピウス9世はイタリア統一運動が巻き起こるさなか中世来の教会の権威保持のため洗礼を受けたユダヤ人エドガルドのキリスト教への改宗を迫り、彼の身を断固として手放さなかった。ヨーロッパやアメリカのユダヤ人社会をも巻き込んでの救出活動も実を結ぶことなく、教皇の手厚い庇護下で育てられた彼は敬虔なカトリック信者へと成長する。
統一運動のさなか、連れ戻しに来た兄に対して自分の人生は自分のものだと言い放つエドガルド。もはや手遅れだった。人生を奪われ、その奪った元凶であるカトリックに身を託した弟に対して返す言葉もなかった。
カトリックに傾倒し教皇に心酔、尊敬していたが、粗相をした自分への容赦ない教皇の仕打ち。敬愛しながらもどこかで彼を憎んでいる。信仰しながらも自分と家族を引き裂いた宗教を憎んでいる。
教皇の遺体に群がる暴徒から身を挺して守りながら、次の瞬間にはこんな教皇は河に放り投げろと言い放つ。このエドガルドの抱える自己矛盾。これは信仰する誰もが持つものではないのだろうか。いくら信心深い者でも心のどこかで常に信仰への疑念を抱いている、その疑念を打ち消すためにさらに信仰に没頭する、それこそが信仰の持つ罠なのではないか。自己欺瞞の沼にはまり込めばもはや容易には抜け出すことはできない。自分の中に疑念がわくたびにそれを打ち消そうと己をだまし続ける。信心と疑念が常に交互に訪れる。その疑念を打ち消すためにだけ人生は費やされる。
自分と家族を引き裂いた洗礼をエドガルドは今際の際の母に施そうとする。盲信の末の純粋な信仰心からなのか、そのあまりに純粋で無神経なエドガルドの姿に母は絶望して死んでゆく。信仰は何を信じようが自由だ、ユダヤ教徒として生まれたエドガルドが改宗することもそれが自己の自由意思で行われたのなら。しかしこのキリスト教への改宗で明らかだったのはこの家族に悲劇をもたらしたことだけだった。
幼き頃のエドガルドが夢の中でキリストを十字架から開放する。キリストはそのエドガルドに憐みのまなざしを向けて立ち去る。彼の境遇を憐れんでいるのか、あるいは歪曲された教義にただただ踊らされ翻弄されて、いまだ世界中で宗教に端を発した争いをやめれない人々を憐れんでの表情だったのか。
激動の時代、宗教に翻弄されたエドガルド。一人のその少年の姿を通して、今も宗教に端を発した争いを続ける世界の姿を垣間見た気がした。
権力者の言動に嫌悪感を感じた。
人間が最恐であることを思い知らされた作品
ユダヤ教の子どもを国のお墨付きでさらうキリスト教。
家政婦が子どもに洗礼をしたため、というのがその理由です。
洗礼ってそんな軽いものなの?誰でもできるの?あるいは言いがかり?
人間って本当に恐ろしいなと率直に感じましたし、どんなホラー映画に出てくる怪物の類よりも
群を抜いて怖い存在だと思います。
さらわれて少しの期間は実家への思慕があるエドガルドですが、
徐々に少しずつキリスト教に感化されていきます。
6歳でしたから、ユダヤ教からキリスト教を上書きインストールすることができる年齢というのも
あったのでしょうね。
しかしながら、徐々に変化していくエドガルド少年に恐ろしさも感じた次第です。
子どもはこの頃の教育次第で、どういう大人になるのかが決まっていくのでしょうね。
そういう示唆もあるのかもなと思いました。なくとも私はそう受け取りました。
青年になってから、教皇を押し倒したり、教皇の死後に棺を運んでいる最中、
教皇への暴言を吐いたりするシーンは、キリスト教の信心はあるものの、教皇には恨み的なものがあるため
そういう行動に至ったのかな!?と、ちょっと考え込んでしまいました。実にエドガルドの矛盾を表現しているなと思い、
その真意は何だったのだろう?と考えてしまいましたね。それもまた映画の面白いところです。
母親の死に際に、キリスト教の洗礼をしようとするエドガルドですが、
母は凛とした態度ではねつけます。この母親の表情には死に際と言えど気概・迫力がありましたし
まさに信念を感じることができました。素晴らしいなと思いましたね。
ここが最大のみどころでしたし、ここでラストを迎えるというエンディングも素晴らしいと思いました。
19世紀末でもまだこういうことが事実として起きていることが驚愕でした。
今は表面上なかなかこういうことは表出しませんが、あるのかもしれないですよね。それはわからないなと思いました。
ある意味ホラー映画よりも現実の方が奇なり。
恐ろしい映画作品だと思いました。
タイトルなし(ネタバレ)
19世紀半ば、ボローニャのユダヤ家庭にキリスト教徒が押し入り、7歳になる息子エドガルドを無理やり連れ去ってしまう。
彼らの主張は、エドガルドはキリスト教の洗礼を受けたキリスト教徒であり、キリスト教徒はキリスト教徒以外に育てられてはならない、というもの。
エドガルドの両親は洗礼など受けていないと主張するも受け入れられず、かつて働いていたキリスト教徒の家政婦が、エドガルドが病気になった際に簡便な方式での洗礼を授けたことが判明する。
一方、エドガルドはローマにある寄宿の神学校で学び、着実にキリスト教徒としての信条を身に着けていく・・・
といった物語で、イタリアの近現代史を描き続けるマルコ・ベロッキオ監督ならでは映画。
ここで描こうとしているのは、宗教の理不尽さだけではなく、旧弊な宗教観から脱却する現代イタリアの入口のようなものなのだが、後者の方はあまりうまくいっていない。
人民の蜂起や暴動、戦争の様子が、エキストラ不足なのかもしれないが、うねるほどまではいっていない。
その分、エドガルドがキリスト教徒の神父になるまでの過程は丹念に描かれており、父母の死にも立ち会えなくなってしまうまでの様子は痛々しい。
直截は描かれていないが、枢機卿との間で、精神的なつながり以外のものがあったようにも感じられ、そこいらあたりも胸がえぐられる。
キリスト教徒でもユダヤ教徒でもない身としては、両方とも理不尽に感じるのだけれど、それらを信じていて、その中にいる者にとっては、理不尽さや矛盾を感じていないのだろう。
そのあたりが、いちばん恐ろしい。
どうして?生きてる内は答えがでないコトでは
24-053
宗教めんどい。
迷信と支配
エドガルドに洗礼を与えた使用人(アンナ?)の言葉が時々イタリア語じゃなかったが、カッコついてたし、あれは何語だったんかな?
モルターラ家でのお祈りは、ヘブライ語よね?聞き分けられへんけど。
カトリック教会でのお祈りは、ラテン語よね?聞き分けられへんけど。
イタリアにドイツ語圏とかフランス語圏もあるけど、そのどちらでもなかったような…
方言かな?
カトリックもユダヤ教も結構迷信あるんやなぁと思った。ベッドに帽子を置くと不吉とか。忘れたけどモルターラ家でもなんか迷信信じてたような。
そんでやっぱ神が一緒やからアーメンっていうのもおんなじ。ユダヤ教でもアーメンてゆうの知らんかった。
頭に被るちっさい帽子も似てるし。
思考が苦手な人に、〇〇じゃなければ地獄に落ちる的な恐怖を植え付け、〇〇してれば救われるという優越感を植え付ける。しかも死後に救われる。
そう信じ畏れさせるのは、支配のため。
権力を振るうため。なんて醜い所業でしょう。
わたしはそのように受け取りました。
支配ってそんなに楽しいのかなぁ。美味しいのかなぁ。気持ちいいのかなぁ。権威を翳すのも楽しくなさそうなのに、なんでそんなことしてんのかなぁ。本当に神の意思?神って道理の通らないことさせるの?
死後に救われることを喜ぶ意味がわからないけど、死への恐れがつけ込まれるのかなぁ。生活が苦しいってのもあるよね。あまりに辛い現世を生きるために、死んだら救われると考えるのは、わからなくはない。
死んだら肛門緩んで便が漏れる肉の塊になるんや。地獄も天国も浄土もないと思う。
無宗教だと自認してるけど、仏教・神道ミックスの倫理観を植えつけられてるし、思考が苦手で信心深い(迷信深い)親と親戚に育てられてるし、多少の洗脳はされてるけどね。
セム系一神教の異教徒への蔑み・傲慢は、誠に見苦しい。
音楽がオペラやバレエの音楽のようで、迫力があった。1850年台はまだイタリア統一されてへんのかとか、世界史の資料集見直したくなった。
エドガルドは今っぽくいえば重ーいストックホルムシンドロームよね?教皇の遺骸を運ぶ道中で襲われた時、雰囲気にのまれて襲撃者に同調してしまうところが、恐ろしかった。
彼はとにかく周りの空気に合わせることで、生きてきたから、それしかできない。それが恐ろしかった。
子どもらが学んでいる教義?も、飛躍がすごいな、道理が通ってない…と思った。
観て損はないんだけど、私はちょっと飽きたかな。
教会/世俗のイタリアの断裂線を描く妙
熟練の作品
自由と平等を推し進める民衆と、それに対抗するカトリック教会。イタリア統一に一役買ったのは、広場の銅像になるような立派な英雄ではなく、無学な家政婦がきっかけだったという不合理で残酷な実話。
冒頭。ヘブライ語で赤子に祈りを捧げる父母。赤子の瞳は遠くを見通すように澄んでいて、まるで飼い葉桶に生まれ落ちた赤子のように特別な存在だった。それを覗き見る家政婦の視線は、その後の数奇な運命を示唆する重要なシーンだった。
ユダヤ人迫害、権力乱用というカトリックの傲慢さと凋落をあぶり出しながら、マルコ・ベロッキオは犠牲者の少年の痛みを現代社会に提示してくれた。
かくれんぼ遊びが家庭と教会で二度描かれる。イタリア統一という歴史の中で隠れてしまいそうなエドガルド。彼自身も自分がどこに居るのか分からない。
そんな彼を置き去りにせず、「あなたはどこにいるのか。どこにいようと我々はちゃんと見つけ出しますよ」とマルコ・ベロッキオの声が聞こえるようだった。
印象的なシーンは数多く。母のスカートの中、寝台のシーツの中、教皇の法衣の中、母との別れ。たった一枚の布切れが、少年の残酷な断絶を浮かび上がらせていた。
そして十字架から釘を抜いてキリストを解放するシーン。キリストは〝受難の象徴〟いばらの冠を捨てて歩いていく。
ユダヤ人でありながらユダヤ人に殺されたキリスト。キリストが磔になることで信仰者は罪から解放されるのに、キリストを十字架に掛けた責任はユダヤ人が負うべきだというのなら、ユダヤ人の僕がキリストを解放してあげるよ。
現実では宗教の和解は困難だが、少年の無垢な夢が、同腹の兄弟(ユダヤ教とキリスト教)をなんなく和合させたみたいで面白かった。
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