エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命のレビュー・感想・評価
全61件中、1~20件目を表示
ゆったりした語り口で語られる、不条理なまでに翻弄された人生の物語
1858年にボローニャで起きた事件を題材にした歴史劇である。仲睦まじいユダヤ人一家に育つ少年がとある理由によって親元から引き離され、カトリック教徒としての生活を余儀なくされる。ストーリーの柱には、現代でもあらゆる争い事の火種となりうる「宗教上の違い」があり、教義のため、宗教上の権威のために是が非でも事を為そうとする、優しい顔をした非情さが本作を不気味な闇で覆う。その一方で、これはいたいけな少年の瞳を通じた年代記でもあるのだ。己の理解がまったく追いつかぬところで全てが目まぐるしく移ろうお伽話のような感触すら持ち、彼は数十年のうちに大きな精神的変容を辿ることになる。ベロッキオ監督曰く、この事件はイタリアにとって重要な歴史的瞬間だったとのこと。なるほど、描かれるのは、宗教的支配が近代史のうねりによって変わりゆく過渡期。ゆったりした語り口ながら、当時を生きたあらゆる人々にとっての激動の物語なのだ。
怖い映画だった
怖い映画。一言につきると思います。
宗教という名のもとで起こる理不尽な誘拐、洗脳、無知で純真な召し使いの浅はかさ、すべてが怖いです。
一番怖いのは、教皇庁の支配という現実的な障害が奇跡的に取り除かれ、革命が起こったというのに、洗脳されてしまった人の心は戻らないという現実です。
これをみて、ロシアに連れされられたウクライナの子どもや、北朝鮮に拉致された日本人とか思わずにいられませんでした。
これは昔の話でもなんでもなく、今の話ではないか。
そう思うと背筋が凍ります。
すごい映画だったけど、後味が悪かったので評価は低めです。
家庭に持ち込まれた宗教戦争
宗教は本当に平和のためなんだろうか?
バチカンにある美術品の数々に、教皇の権力の大きさに恐れを感じる。
こどもを拉致して改宗を迫るなど、本当に言語道断な話である。
当時はそれなりに行われていたのでは無いだろうか。
しかし洗脳とは恐ろしいもので、最終的に親子の仲を断絶してしまう様子に涙が出た。
権力にすがるローマ教会の傲慢さ
ユダヤ人家族の元に教皇の命を受けた人々が訪れ、“洗礼を授けられた”という理由でエドガルドを半ば強制的に連れ去る。浮き彫りになる権力の衰えに恐怖するローマ教会の傲慢さ。しかし、引き摺り下ろしたところで奪われたものは返ってこない。
永遠の宗教二世問題
1858年のイタリア。ユダヤ教一家の7歳の息子を「この子は赤ん坊の時に洗礼を受けたキリスト教徒だ」とローマ教皇が拉致したという歴史的事実に基づく物語です。現在からさほど遠からぬ時代にこんな横暴が許されていた事にまず驚き、イタリアの人々に及ぼしていた教皇の権力は斯くも甚大だったのかと知りました。でも、本作の訴えを本当に理解するには、イタリアの歴史とキリスト教・ユダヤ教の背景を知っていなくてはならないんだろうな。と、またまた自分の不勉強を恥じる。
「でも・・」
と、不信心な僕は思います。無責任な事を言ってはいけないし、教皇の行為は許されないのですが、子供に何を信仰させるのかと綱引きする姿は、現在の日本で取り上げられている「宗教二世問題」にそのまま被さって僕の目には映りました。
人間らしい
幼いころに不可抗力で連れ去られ
育てられ
教えを叩き込まれると
人間はやはりその道を信じるようになるのか。
本人にとっては自分の世界はそこにあるんだろうなぁ。
宗教との付き合い方は永遠の課題のような気がした。
悪いものではないけど、
付き合い方によっては、争いや悲しみの火種になる。
宗教に翻弄された一人の少年の人生を通して見えてくるもの
時代はまさに19世紀の近代、教会法から世俗法の時代。時の教皇ピウス9世はイタリア統一運動が巻き起こるさなか中世来の教会の権威保持のため洗礼を受けたユダヤ人エドガルドのキリスト教への改宗を迫り、彼の身を断固として手放さなかった。ヨーロッパやアメリカのユダヤ人社会をも巻き込んでの救出活動も実を結ぶことなく、教皇の手厚い庇護下で育てられた彼は敬虔なカトリック信者へと成長する。
統一運動のさなか、連れ戻しに来た兄に対して自分の人生は自分のものだと言い放つエドガルド。もはや手遅れだった。人生を奪われ、その奪った元凶であるカトリックに身を託した弟に対して返す言葉もなかった。
カトリックに傾倒し教皇に心酔、尊敬していたが、粗相をした自分への容赦ない教皇の仕打ち。敬愛しながらもどこかで彼を憎んでいる。信仰しながらも自分と家族を引き裂いた宗教を憎んでいる。
教皇の遺体に群がる暴徒から身を挺して守りながら、次の瞬間にはこんな教皇は河に放り投げろと言い放つ。このエドガルドの抱える自己矛盾。これは信仰する誰もが持つものではないのだろうか。いくら信心深い者でも心のどこかで常に信仰への疑念を抱いている、その疑念を打ち消すためにさらに信仰に没頭する、それこそが信仰の持つ罠なのではないか。自己欺瞞の沼にはまり込めばもはや容易には抜け出すことはできない。自分の中に疑念がわくたびにそれを打ち消そうと己をだまし続ける。信心と疑念が常に交互に訪れる。その疑念を打ち消すためにだけ人生は費やされる。
自分と家族を引き裂いた洗礼をエドガルドは今際の際の母に施そうとする。盲信の末の純粋な信仰心からなのか、そのあまりに純粋で無神経なエドガルドの姿に母は絶望して死んでゆく。信仰は何を信じようが自由だ、ユダヤ教徒として生まれたエドガルドが改宗することもそれが自己の自由意思で行われたのなら。しかしこのキリスト教への改宗で明らかだったのはこの家族に悲劇をもたらしたことだけだった。
幼き頃のエドガルドが夢の中でキリストを十字架から開放する。キリストはそのエドガルドに憐みのまなざしを向けて立ち去る。彼の境遇を憐れんでいるのか、あるいは歪曲された教義にただただ踊らされ翻弄されて、いまだ世界中で宗教に端を発した争いをやめれない人々を憐れんでの表情だったのか。
激動の時代、宗教に翻弄されたエドガルド。一人のその少年の姿を通して、今も宗教に端を発した争いを続ける世界の姿を垣間見た気がした。
権力者の言動に嫌悪感を感じた。
ユダヤ教に関する知識皆無、キリスト教に関する知識義務教育程度で鑑賞。
権力者たちの行動に反吐(へど)が出そうだった。
家族の情を絶って何が宗教だろう。
教育の怖さも感じた。ロシアに囚われた子どもたちも既に教育(洗脳)されているかもしれない。
人間が最恐であることを思い知らされた作品
ユダヤ教の子どもを国のお墨付きでさらうキリスト教。
家政婦が子どもに洗礼をしたため、というのがその理由です。
洗礼ってそんな軽いものなの?誰でもできるの?あるいは言いがかり?
人間って本当に恐ろしいなと率直に感じましたし、どんなホラー映画に出てくる怪物の類よりも
群を抜いて怖い存在だと思います。
さらわれて少しの期間は実家への思慕があるエドガルドですが、
徐々に少しずつキリスト教に感化されていきます。
6歳でしたから、ユダヤ教からキリスト教を上書きインストールすることができる年齢というのも
あったのでしょうね。
しかしながら、徐々に変化していくエドガルド少年に恐ろしさも感じた次第です。
子どもはこの頃の教育次第で、どういう大人になるのかが決まっていくのでしょうね。
そういう示唆もあるのかもなと思いました。なくとも私はそう受け取りました。
青年になってから、教皇を押し倒したり、教皇の死後に棺を運んでいる最中、
教皇への暴言を吐いたりするシーンは、キリスト教の信心はあるものの、教皇には恨み的なものがあるため
そういう行動に至ったのかな!?と、ちょっと考え込んでしまいました。実にエドガルドの矛盾を表現しているなと思い、
その真意は何だったのだろう?と考えてしまいましたね。それもまた映画の面白いところです。
母親の死に際に、キリスト教の洗礼をしようとするエドガルドですが、
母は凛とした態度ではねつけます。この母親の表情には死に際と言えど気概・迫力がありましたし
まさに信念を感じることができました。素晴らしいなと思いましたね。
ここが最大のみどころでしたし、ここでラストを迎えるというエンディングも素晴らしいと思いました。
19世紀末でもまだこういうことが事実として起きていることが驚愕でした。
今は表面上なかなかこういうことは表出しませんが、あるのかもしれないですよね。それはわからないなと思いました。
ある意味ホラー映画よりも現実の方が奇なり。
恐ろしい映画作品だと思いました。
19世紀半ば、ボローニャのユダヤ家庭にキリスト教徒が押し入り、7歳...
19世紀半ば、ボローニャのユダヤ家庭にキリスト教徒が押し入り、7歳になる息子エドガルドを無理やり連れ去ってしまう。
彼らの主張は、エドガルドはキリスト教の洗礼を受けたキリスト教徒であり、キリスト教徒はキリスト教徒以外に育てられてはならない、というもの。
エドガルドの両親は洗礼など受けていないと主張するも受け入れられず、かつて働いていたキリスト教徒の家政婦が、エドガルドが病気になった際に簡便な方式での洗礼を授けたことが判明する。
一方、エドガルドはローマにある寄宿の神学校で学び、着実にキリスト教徒としての信条を身に着けていく・・・
といった物語で、イタリアの近現代史を描き続けるマルコ・ベロッキオ監督ならでは映画。
ここで描こうとしているのは、宗教の理不尽さだけではなく、旧弊な宗教観から脱却する現代イタリアの入口のようなものなのだが、後者の方はあまりうまくいっていない。
人民の蜂起や暴動、戦争の様子が、エキストラ不足なのかもしれないが、うねるほどまではいっていない。
その分、エドガルドがキリスト教徒の神父になるまでの過程は丹念に描かれており、父母の死にも立ち会えなくなってしまうまでの様子は痛々しい。
直截は描かれていないが、枢機卿との間で、精神的なつながり以外のものがあったようにも感じられ、そこいらあたりも胸がえぐられる。
キリスト教徒でもユダヤ教徒でもない身としては、両方とも理不尽に感じるのだけれど、それらを信じていて、その中にいる者にとっては、理不尽さや矛盾を感じていないのだろう。
そのあたりが、いちばん恐ろしい。
どうして?生きてる内は答えがでないコトでは
何しろ映像が美しい、構成もドラマチック。役者さんも素敵な方ばかり。すご〜く満足!…したことでしょう今が昭和あたりなら。
昨今の映画にしてはとてもクラシックなつくりといわざるをえないというかなんというか。キライじゃないけど手ばなしで褒める感じではない。
にしても、宗教にからむ話題に触れる時、日本人でよかったなとつくづく思う。文化と信心は異なるもの。そうなった諸々の歴史はあるのだろうけれど
24-053
キリスト教って難しい宗教ですね。
特に中世から近世にかけての権力が国王や皇帝より強いなんて、訳がわからん。
布教、宣教、改宗、とにかく神のご加護を受ける子を増やしたい。
欺瞞と横暴に支配された教典が人々を救うとは思えないなぁ。
終始胸くそ悪い話でした😤
宗教めんどい。
当時のイタリアでキリスト教とユダヤ教の関係など多少知識が無いとさっぱりわからない。
なんでユダヤ教あんなに教皇にぺこぺこしてるんだろ?
宗教に上下あるんかい?
誰が?何故ユダヤ人家族の子にキリスト教の洗礼を?というミステリ仕立ての前半と、すっかり洗脳されたエドガルドが家族と信仰の間でブレまくる後半、、っという仕立てのはなしです。実話だってのが怖いよね。
本来宗教は人を救う目的で産まれた物だけど、組織化し拡大し始めると大抵ダメになるね。
迷信と支配
エドガルドに洗礼を与えた使用人(アンナ?)の言葉が時々イタリア語じゃなかったが、カッコついてたし、あれは何語だったんかな?
モルターラ家でのお祈りは、ヘブライ語よね?聞き分けられへんけど。
カトリック教会でのお祈りは、ラテン語よね?聞き分けられへんけど。
イタリアにドイツ語圏とかフランス語圏もあるけど、そのどちらでもなかったような…
方言かな?
カトリックもユダヤ教も結構迷信あるんやなぁと思った。ベッドに帽子を置くと不吉とか。忘れたけどモルターラ家でもなんか迷信信じてたような。
そんでやっぱ神が一緒やからアーメンっていうのもおんなじ。ユダヤ教でもアーメンてゆうの知らんかった。
頭に被るちっさい帽子も似てるし。
思考が苦手な人に、〇〇じゃなければ地獄に落ちる的な恐怖を植え付け、〇〇してれば救われるという優越感を植え付ける。しかも死後に救われる。
そう信じ畏れさせるのは、支配のため。
権力を振るうため。なんて醜い所業でしょう。
わたしはそのように受け取りました。
支配ってそんなに楽しいのかなぁ。美味しいのかなぁ。気持ちいいのかなぁ。権威を翳すのも楽しくなさそうなのに、なんでそんなことしてんのかなぁ。本当に神の意思?神って道理の通らないことさせるの?
死後に救われることを喜ぶ意味がわからないけど、死への恐れがつけ込まれるのかなぁ。生活が苦しいってのもあるよね。あまりに辛い現世を生きるために、死んだら救われると考えるのは、わからなくはない。
死んだら肛門緩んで便が漏れる肉の塊になるんや。地獄も天国も浄土もないと思う。
無宗教だと自認してるけど、仏教・神道ミックスの倫理観を植えつけられてるし、思考が苦手で信心深い(迷信深い)親と親戚に育てられてるし、多少の洗脳はされてるけどね。
セム系一神教の異教徒への蔑み・傲慢は、誠に見苦しい。
音楽がオペラやバレエの音楽のようで、迫力があった。1850年台はまだイタリア統一されてへんのかとか、世界史の資料集見直したくなった。
エドガルドは今っぽくいえば重ーいストックホルムシンドロームよね?教皇の遺骸を運ぶ道中で襲われた時、雰囲気にのまれて襲撃者に同調してしまうところが、恐ろしかった。
彼はとにかく周りの空気に合わせることで、生きてきたから、それしかできない。それが恐ろしかった。
子どもらが学んでいる教義?も、飛躍がすごいな、道理が通ってない…と思った。
観て損はないんだけど、私はちょっと飽きたかな。
教会/世俗のイタリアの断裂線を描く妙
イタリアの歴史に走る断裂線、教会/世俗の上にユダヤを配置して見事。カトリック教会の独善的な思考(あらゆる新思想を否定した誤謬表、教皇不可謬性)がピークに達した頃にリソルジメントの国家統一が重なった時期の問題性を一人の少年の運命により語ったのが見事。原作の力もあろうが、近代にぶつかったカトリック世界を絵巻物のように描いたのには感服するしかない。イタリア近代史を知る基点にもなる時期、教材にもよし。
熟練の作品
自由と平等を推し進める民衆と、それに対抗するカトリック教会。イタリア統一に一役買ったのは、広場の銅像になるような立派な英雄ではなく、無学な家政婦がきっかけだったという不合理で残酷な実話。
冒頭。ヘブライ語で赤子に祈りを捧げる父母。赤子の瞳は遠くを見通すように澄んでいて、まるで飼い葉桶に生まれ落ちた赤子のように特別な存在だった。それを覗き見る家政婦の視線は、その後の数奇な運命を示唆する重要なシーンだった。
ユダヤ人迫害、権力乱用というカトリックの傲慢さと凋落をあぶり出しながら、マルコ・ベロッキオは犠牲者の少年の痛みを現代社会に提示してくれた。
かくれんぼ遊びが家庭と教会で二度描かれる。イタリア統一という歴史の中で隠れてしまいそうなエドガルド。彼自身も自分がどこに居るのか分からない。
そんな彼を置き去りにせず、「あなたはどこにいるのか。どこにいようと我々はちゃんと見つけ出しますよ」とマルコ・ベロッキオの声が聞こえるようだった。
印象的なシーンは数多く。母のスカートの中、寝台のシーツの中、教皇の法衣の中、母との別れ。たった一枚の布切れが、少年の残酷な断絶を浮かび上がらせていた。
そして十字架から釘を抜いてキリストを解放するシーン。キリストは〝受難の象徴〟いばらの冠を捨てて歩いていく。
ユダヤ人でありながらユダヤ人に殺されたキリスト。キリストが磔になることで信仰者は罪から解放されるのに、キリストを十字架に掛けた責任はユダヤ人が負うべきだというのなら、ユダヤ人の僕がキリストを解放してあげるよ。
現実では宗教の和解は困難だが、少年の無垢な夢が、同腹の兄弟(ユダヤ教とキリスト教)をなんなく和合させたみたいで面白かった。
少年期、青年期の二人が良かった
6歳でユダヤ教徒の両親の元から離され、カトリックの教会に入った彼の心境…なかなか想像しにくいですが、私には相反する気持ちに揺れ続けているように見えました。
ピウス9世に対しては、尊敬や敬愛だけではなく、家族と引き裂かれた憎しみを心に秘めていたのではないでしょうか。
衝動的な行動に、理屈では説明できない彼の心の揺れを感じました。
青年エドガルドを演じていたレオナルド・マルテーゼは2023年の『蟻の王』がデビュー作です。
デビュー間もないとは思えない印象的な演技で、数日経っても表情が心に残っています。
まだ少し演技が硬いような気もするし、上手いのかどうかイマイチわからないのですが、記憶に残るタイプでとても気になります。
印象的なシーンも随所に散りばめられていて、よい作品だったと思います。
まさに、数奇な運命
個人的に久しぶりのイタリア映画。しかも19世紀のお話とのことで、映像の色彩がまさにクラッシックなイタリア映画。ただ、音楽がいまいち、モリコーネがもし生きていたら、名曲がついたのでは…と思ったりして。
実際にあったお話とのことで興味津々で鑑賞。因みにこれは描かれている宗教とイタリアの歴史について少し知識が無いと、誤解しそうなお話。キリスト教全般について調べたり理解を深めるきっかけとなる作品になると良いですね。
この頃のローマ教皇は絶大な権力を持ち、なんと横暴だったのか。信仰は誰にも押し付けられるものでも強制されるものでもなく、自分が知らないうちに儀式によって教徒になるものでもない。
ただ、印象的に描かれていたシーン、夢の中でエドガルドが、礼拝堂に掲げられている十字架の上のイエス・キリストの手、足から杭を抜き取ると、イエス・キリストが蘇って微笑み、歩き去って行くシーン。エドガルドがイエスと個人的に出会った、と言えるシーンだったのでは。
半ば誘拐され強制的に教育された少年は、実際に個人的にイエスに出会い、自らの意志でイエスの使徒となったということなのかもしれない。悲劇は彼が家族と平安や愛する心を分かち合えなかった事。
世界を知る上で、ユダヤ教とキリスト教は似てるけど、違う、ということは知っておく必要はありますね。
大きな政治的波に巻き込まれた少年エドガルドがとっても可愛らしく健気。それだけに、辛さに耐え無表情になるシーン、からの母の前で耐えきれなくなるシーンは涙涙でした。
全61件中、1~20件目を表示