墓泥棒と失われた女神のレビュー・感想・評価
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古代浪漫の虜
墓泥棒っていうよりかは考古学者的な立場なのかなあと思いつつ観ていた。
泥棒って言う割には、ダウンジングの知識を活かし、金属がどこに眠っているかしっかり見極め行動に移している。考古学の知識を活かした泥棒を生業としているならばアーサーは泥棒を職業にしているパターンになる。
そんなアーサーが、キメラの首を切断するシーンでは断固反対。金になることはわかっていながらも、アーサーはキメラに虜になったのだろう。
仲間割れを起こしながらも、キメラの首を取り戻そうとするアーサーの姿には泥棒ではなく考古学者としての姿に見えてきた。
貧しいバラック小屋に住み、生計を立てていくには宝を盗み売るしかない。
知識を増やしていくうちに宝に魅入られ、ついには泥棒であることすら忘れて保存すべき遺産だということに気付いたとき、改めて女神の価値がわかったアーサーが宝に一切の拘り等捨てたようにも思えたラストが非常に印象的だった。
80年代、イタリア・トスカーナの田舎町。 英国人考古学者のアーサー...
80年代、イタリア・トスカーナの田舎町。
英国人考古学者のアーサー(ジョシュ・オコナー)は、ダウジングにより地中の墓穴の位置をあて、中の埋葬品を仲間と共に売りさばいていた。
アーサーは死んだ恋人のことが忘れらず、彼女の母(イザベラ・ロッセリーニ)のもとを訪れたりしているのだが、亡くなった恋人の姉たちからは、かなり嫌われている様子。
亡き恋人の母は音楽教師をしており、いまはやや音痴なイタリアという名の女性(カロル・ドゥアルテ)の指導をしている。
盗掘仲間からも慕われたイタリアは、次第にアーサーに惹かれるが、アーサーは未だに亡き恋人のことが忘れられない。
そんなある日、アーサーたちは紀元前に繁栄し、いまは消滅してしまったとされる古代エトルリア人の遺跡を偶然掘り出すことに成功したのだが・・・
といった物語で、あらすじを書いても、とりとめがない感じがするが、そのとりとめのなさ、ぞろっぺえないい加減さが本作の魅力。
映像の画角も素材も自在に変化し、観ているこちらも幻惑させるのだが、それに乗れるか乗れないか。
案の定、途中、ちょっとダレてしまいました。
垢ぬけないが人好きのするイタリアのバイタリティに惹かれて、幻想(これが原題の意)に生きるアーサーが、現実世界に戻って来る地に足が着いた話かしらん、と思っていたら、最終的に幻想の世界に戻ってしまうのは、ロマンチックといえばロマンチックだけど、ちょっと腰砕けといえば腰砕けの拍子抜け。
悪くはないが、絶賛するところまでは至らず。
冒頭と最後
少し難しいのでは?
けっこう眠くて、時折ウトウトしました。
冒頭が印象的で心奪われていると、何が言いたいのか分からない感じで、うっすら面白いのが延々と続いて、終盤やっと盛り上がって、ビックリする最後。
この最後で、評価が変わった。
冒頭と最後が秀逸ですね。
この冒頭と最後は、ずっと記憶に残ります。
終わってから、ここの皆さんの感想を少し読まさせて頂いたが、気付かなかった事や、なるほど…と唸る考察もあり、理解が深まりました。
ありがとうございます。
もう1回観てみたくなった。
イタリアのトスカーナあたり。 墓泥棒が、埋葬品を掘り出して日銭を稼...
イタリアのトスカーナあたり。
墓泥棒が、埋葬品を掘り出して日銭を稼いだり、時には凄い女神像を見つけたり。
生と死とか、私欲と他欲とか、
相反する考えの狭間を行ったり来たりする、
お伽噺のような、寓話のような、不思議な物語でした。
楽曲が鮮明で...
Kraftwerk "Spacelab" がそのまま聴けたり、
耳にも楽しい時間が過ごせました。
私には凡作としか感じなかった。
前作「幸福なラザロ」には、好印象を持った。それに期待して今作を観たのだが、結果は外れだった。レビューにはフェリーニの系譜に繋がる作品だとの評もあったので、私の期待度が上がりすぎたかもしれない。
唯一私が感心したのは、墓を暴かれた死人が私の副葬品はどこにあるのと主人公に問い詰める場面だった。
過去と現在を繋ぐ物語
最初は、あまりに歩みが遅く、さぞかし観ている皆さんは、眠くなったことでしょう。
イタリアのアリーチェ・ロルヴァケル監督は、過去(地下:墓の中)と現在(地上:現世)の二つの世界をつなぐ物語を構築しようとしています。メインは、あくまでトスカーナ地方の古代エトルリア人の遺跡(主にお墓の埋葬品)ですが、後半になって、主人公英国人のアーサーの操るY字形の木の枝(ダウジング)(中世的な概念)を介して、とんでもないものに出くわします。墓あらし(トンバローリ)自体が中世的な概念と思います。
それ以外にも、二つの世界をつなぐものが出てきます。
一本の赤い糸(かつての恋人と主人公で墓泥棒の中心となるアーサーを結びます)(まるで日本の歌謡曲みたい)
トロバトーレ(生と死、聖と俗をつなぐ吟遊詩人)が、歌で物語を進行させます。
公現祭の馬鹿騒ぎ。羽目を外して、過去と現代が交錯します。フランス北部だったら、ガレット・デ・ロワだから、むしろイースターのパレードに相当するのでしょう。
列車(最初に出てきて主人公を紹介し、最後に夜行列車が出て、人々の思いを伝えます)
タイトルは、やはり「ラ・キメラ」の方がよかったのでは。キメラは「異質な二つのものの合成」つまり、過去と現在を結んでいる主人公そのもの、あるいは彼がダウジングから得る独特の感覚を指すのだと思います。本来、キメラは女性名詞ですが、「幻想」あるいは「幻覚」と呼ぶことは許容されるでしょう。この映画では、イタリア語(と手話)英語の他、ポルトガル語とほんの少しのフランス語が聞こえてきて、異質なものの融合が感じられ、監督の目指しているものも、女性を中心にした共同社会と思われます。
私にとって、一番心に残ったのは「探しものをしてるんですが、ご存じないかな?」という列車の車掌の言葉でした。井上陽水の「夢の中へ」が思い出されます。
夢とうつつを行き来する男の悲哀
原題は「La chimera」。キメラである。ギリシャ神話に出てくる異種同体の怪物。そしてそこからの連想で幻想とか夢のことも指すらしい。だからこの映画は幻想に取り憑かれた男の話である。
墓泥棒の罪で刑務所に入っていた英国人のアーサー(イタリア語でアルチュール)。トスカーナに戻ってきたのは恋人ベニアミーナが忘れられないから。でも母親の家に行っても彼女はいない、どこに行ったのかも定かでない。アーサーはそのうち元の墓泥棒の一味とつるみ、また墓泥棒に手を染めることとなる。
アーサーはダウジングロッドを使ったりするが、これはやや格好つけであって、ほんとに大物の埋蔵品があるときは身体に直接、反応があるらしい。これは才能というよりも地下と何か呼吸が合っているような感じであまりよいことではない。古今東西、地上は生者、地下は死者の領分であって、お互い関わらないことになっている。地下を感じることができるということは、地下に執着されているということでもあるから。現に終盤、アーサーが死者たちに副葬品を返すように詰め寄られるシーンもある。
アーサーは、古代エトルリアの遺跡をみつけ、仲間たちとそこから女神像を取り出す。これは「キュビレー」。大地の母である。ベニアミーナの不在を埋める存在としてアーサーにとってはベニアミーナその人でもあるらしい。一方、親しくなるイタリアは、ベニアミーナの母の元で働いていたときから二人の子どもを育て、屋敷を去ったのちは廃駅で子どもたちを育てる。(誰の子どもなのかは分からない)その名前から言っても、地下のキュビレーと対比される、現代イタリアの母性の象徴である。
つまり、アーサーは地上と地下を行ったり来たりしながら、地上と地下の女神を愛し愛されるいささか難しい立場の人なのである。
最後、アーサーは地下の洞窟に閉じ込められる。でも地上から赤い糸が垂らされ、その先は「何故か」地上にベニアミーナがいる。糸は途中で切れるが、地上と地下は逆転し、アーサーはベニアミーナとともに「何故か」地上で抱き合う。
実に奇怪な夢想である。でも淡々としながら豊潤なイメージをもち、複雑な構造でありながらシンプルな物語でもある。墓暴きの際に聞こえる雷鳴や、鳩の鳴き声、といった禍々しいサインが印象的である一方で、ギターとトライアングルによる寿ぎうたもある。
重層的としか言いようがない、実に見ごたえのある作品だった。
異能を使っての墓地荒らしを生業とする男が、死んだ婚約者の母の下...
異能を使っての墓地荒らしを生業とする男が、死んだ婚約者の母の下で働く女と出会って…というラブストーリーとしても犯罪ものとしても、いくらでも面白くなりそうなストーリーはどうも散漫(差しはさまれるミュージカル的シーンの方が印象的なくらいだ)で、この映画の本筋はそこにはないらしい。むしろ強く感じられるのは、どこにも居場所のない、異邦人としての主人公の有り様だ。ビジネスの成功やコミュニティの獲得を、敢えて忌避するように彷徨いあるく彼が最後に行き着くのは…「赤い糸」のモチーフが、地下世界からの脱出・明暗の反転とともに、夢から醒めたような鮮烈なラストシーン。
良くも悪くも抽象的過ぎる
毎作品アリーチェ監督はイタリアの田舎を舞台に、
魔法のような演出方法で観客を魅了する。
まるで夢と現実が交錯する世界を描くかのように、
その美しさには息を呑む。
しかし、
その一方で、抽象的過ぎるシーンも多い。
例をあげると、
本作は登場人物が多いのに加えて、
盗掘チームの人数が多すぎる。
彼らの存在はシナリオにおいて意味があり、
それなりの役割も果たしているが、
その意味が観客には伝わりにくい分、
ストーリーを理解、追いかける妨げにもなるだろう。
反対に抽象的でも機能しているのは、
ギター弾きとトライアングラー。
歌詞とリズムが主人公の感情、
作品の狙い、
過去作までもトレースするようで、
結果的には良かった。
観客にとっては思考の拠り所として重要な手がかりにもなった。
他に機能していないシークエンス、
廃駅の占拠前と占拠後の意味はわざわざセリフにしたり、
電車の乗客と船の乗客のセリフの意味や、
法則のなさそうな解像度の違う絵、
お宝発見時に逆さまになる撮り方も、含意が観客を混乱させる。
逆イエスのシンボルは他の作品でも見られるが、
ワイダの「灰とダイヤモンド」へのオマージュか、
幸福のラザロと不幸のイエスの対比なのか、、、、
本作の流れとは無関係そうだが、
アリーチェ作品の流れとしては、
そう解釈しない方が不自然だ、不要な混乱を招く。
全体的に、
この作品で、
やらなければならない事、
不必要な事を整理し、
的確な描写方法を編み出して、
それが上手く機能していれば、
もっと素晴らしいものになっていた。
もちろんアリーチェ作品は、
シナリオも含め演出方法は多くのファンに愛されているので、
このままで良い、
このままでないと、
イザベラ・ロッセリーニも、
ジョシュ・オコナーも、
キャスティング不可能だったかもしれない、
という意見も十分に理解できる。
だが、
観たままの率直な意見の一部を言うと以上だ。
オールタイムベスト級になり得る可能性を秘めていると感じるだけに、
少し残念。
【蛇足】
イタリアの監督はシュールな作品を撮ると、
フェリーニやパゾリーニと比較されがち、
彼らとは時代も環境も評価軸もちがう。
パゾリーニは抽象的な作品は多いが、
ヨリのわかりやすいカットも多く、
聖書や神話の概略でも理解している人にとって、
評価が高い。
ソドムは表現の限界突破を試みている部門では、
技あり・・・ということで・・・
フェリーニは初期の「青春群像」「道」等の、
ゴリゴリのリアリズムを前提として好意的に観る人が多い、
なので晩年の抽象的な作品も受け入れられているが、
「ジンジャー&フレッド」のような胸熱作品も、
え!というタイミングで撮っていた。
時代的な事を言うと、
ネオリアリスモと呼ばれていた作品群の影響で、
シュールな夢のような作品が受けた背景も無かったとは言えないだろう。
チャリンコパクられた、パクリかえす、
捕まる・・・そんな作品はもうお腹いっぱい、
という人も多かったはず、
ロベルト・ベリーニ作品のような、
ベタベタの泣かせ作品が受けたのも、
上記の文脈はあるだろう。
評価軸で言うと、
抽象的な作品はタイミング、
キャスト、監督のキャラで、
どう転ぶか読めない場合も多いが、
興行的には苦戦するケースが多いのは、
半世紀前から変わっていない、
すばらしい企画でも億単位のリスクを取る個人も団体も、
少ないだろう。
でも、シュールな映画は観たい、
「百年の孤独」の文庫化がミリオンセラーになるように、
なんとか日本でも新作の公開が続く事を祈っています。
神話的?
2023年。アリーチェ・ロルバケル監督。イタリアの田舎町に刑務所から帰ってきたイギリス出身の男。実は、ダウンジングの力で古代遺跡の宝を盗掘する集団の一員だった。失った恋人を探し続けながら、盗みをやめられない男。しかし、近づきになったシングルマザーの女性の一言で、自らの行いを振り返るようになって、、、という話。
前半はアクションにも主観の深みにも映像にもうまく入り込めず、ただバカ騒ぎ的なノリばかりが気にかかっていたが、自省するあたりから急激にみられるようになった。ほとんど終盤だが。失った恋人ではなく目の前の女性へと気持ちが動いていったあたりからは、それまでごかごちゃしていた画面もすっきりと整ってきたのではないか。しかし、最後まで見てみれば、古代の女神の発掘と失われた恋人との再会が最初からの象徴関係のまま崩れないという恐ろしく安定した秩序を保った映画だった。(シングルマザーとの駅舎での生活はなんだったのだ)。なるべくしてそうなったという結末は「神話的」というほかない。巷間言われているように「フェリーニ風」とつぶやきたくなるのは無理もないことだ。
面白い!J.オコナーあっぱれ!
面白かった。ジョシュ・オコナー本領発揮。
埋葬品を売って商売する稼業でもどこか恋人の事が頭から離れなかったアーサー。
女神像を発見したが騒動に。
アーサー演じたジョシュ・オコナーの演技が素晴らしかった。彼の代表作になりそう。
終盤〜ラストは結末がわかってしまったのは残念だが、この作品に関してはこれでいいのかもしれない。
イタリア文化の匂いも感じる映画で見事な作品だった。
イタリア映画ファン、チャレンジャーズでジョシュ・オコナーファンになった方はおすすめします。
ネオリアリズモの墓泥棒
アリーチェ・ロルヴァケルが本作を製作するにあたり、以下の5作品からインスピレーションを得たことを公表している。元ネタ探しという、シネフィルの皆さんの手間というか楽しみをまんまと省いてくれたわけだ。アリーチェ曰く『夏を行く人々』『幸福なラザロ』に続く3部作として本作を位置付けしているらしく、「過去から現代へのつながり」をテーマにしているという。
・ロッセリーニ『イタリア旅行』(53)
・フェリーニ『フェリーニのローマ』(72)
・アニエス・ヴァルダ『冬の旅』(85)
・パゾリーニ『アッカトーネ』 (61)
・マルチェロ・フォンダート
『サンド・バギー ドカンと3発』(75)
鑑賞済みの上記2作品『イタリア旅行』『冬の旅』と本作との〝つながり〟についてまず述べさせていただく。本作にも顔を出しているイザベル・ロッセリーニの母親イングリッド・バーグマンが離婚秒読み夫婦の奥様役で登場、イタリアの名所旧跡を訪ねるシーンで案内係から〝首のない女神像〟を見せられいたく動揺する。
ヴァルダの最高傑作と呼ばれる『冬の旅』は、浮浪者の娘が自由を求め過ぎたあまり孤独死してしまう救いのないお話。アメリカヒッピー文化の影響を受け過ぎたフランス女子の悲劇と云ってもよいだろう。本作の古代エトルリア人の墓を探し求めるダウジングの達人教授アーサー(ジョシュ・オコナー)の泥棒仲間がまさにそれ。真面目に働くと寿命が縮まるとマジに信じている共産主義的怠け者たちなのである。
なぜアリーチェ・ロルヴァケルは、本作において過去作へのオマージュを我々にこんなにも多く並べて見せたのであろう。『TAR』などの“映画についての映画”である場合用いられやすい手法なのだが、この女流監督の場合はちょいとユニークだ。ネオリアリズモ映画監督の末裔として評されるアリーチェだけに、イタリアやフランスの巨匠たちに世代を超えて教えられた部分が今まで多々あったのではなかろうか。
フェリーニと比較されることにほとほと嫌気がさしているソレンティーノなんかとは違って、アリーチェの場合それをむしろ肯定的に受け取っている。つまり〝ネオリアズモの墓泥棒〟であることを自覚して映画を撮り続けている映画監督さんのような気がするのだ。マジックリアリズモとか評されることが多い監督さんではあるけれど、この人の35mmや16mmフィルムに拘った映像を見せられると古いイタリア映画の温もりが確かに感じられるのだ。
失踪した奥さまのことが忘れられず、古代エトルリア人の墓をまるで取り憑かれたように探し求めるアーサー。最後に掘り当てた(アリーチェの実姉アルバにそっくり⁉️な)女神像の首をアーサーが誰の目にも触れさようとしなかったのは、ロルヴァケル姉妹がお金や名声のためだけに映画に携わっているわけではないことを宣言したシーンとはいえないだろうか。この姉妹が運命の赤い糸に引き寄せられるように導かれた場所が、多分この映画業界(chimera≒cinema)だったのだろう。
「結末はわかりませんよ。」が伏線
キメラを追い求める墓泥棒たち。
生と死の境界を行き来するカメラワークとフィルム映像は視覚的に驚きの連続。
幻想的な旅、赤い糸が登場するなどロマンチックなラブストーリーでもありました。ラストは観る側の解釈次第になっていて魅力あふれる作品でした。
本年度ベスト1候補現れる 〜 フェリー二が蘇った
「墓泥棒と失われた女神」、原題は「La chimera」Wikiによると、キメラとは、同一の個体内に異なる遺伝情報を持つ細胞が混じっている状態や、そのような状態の個体のことらしいです。
邦題がひどいですが、キメラと言う題名もピンとこないので、仕方ないのかも。しかし、見終わると、まさに人生のキメラ、映画のマジックをこれでもかと感じさせてくれる大大大大傑作でした‼︎
「幸福のラザロ」で衝撃的な出会いを経験したアリーチェ・ロルヴァケル監督の最新作。前作は僕は2019年の洋画ベスト2に選んでました。ベストは「ローマ」。
最新作は、あまりの傑作ぶりに興奮して、今夜寝付けそうにありません。ヨーロッパ映画のあらゆる映画的な記憶で全編が塗り込められてます。冒頭の荒々しいカットの連続はジャンリュック・ゴダールを思わせ、ヌーベルバーグの香りがします。
そして次に登場するのはフェリー二。蘇りました、彼が姿を変えて‼︎フェリーニ映画に特徴的な豊満な女性もきちんと脇役で登場します。そしてフランソワ・トリュフォーも見事に調理されて登場します。更にはバスター・キートンまで引用され、最後にはビットリオ・デ・シーカにオマージュを捧げます。
物語は刑務所出所後の墓泥棒を迎えるワル友達との、更なる墓ならぬ遺跡探しの金儲け話。主人公は遺物の美しさに心を奪われるなど、単なる金儲けと違うロマンを求める人物。そして夢枕に現れるのは、かつての美しい妻。どう言う事情か、彼女は手の届かないところに。
語り口、編集の切れ、映像のギミック、突然と演者が観客に語りかける手法、美術の美しさ、演技どれをとっても、素晴らしいの一言。音楽もまた魂に染み入る歴史を感じさせるヨーロッパの民族音楽に、現代的なリズム感のある楽曲を組み合わせるセンスに脱帽。
脇役には、なんとイザベラ・ロッセリーニ‼︎ あの「カサブランカ」のイングリッド・バーグマンの娘です‼︎ 感激💦。そして、前作同様に監督の妹さんも出演してます。
監督は1980年生まれ、天才と同時期に生を受け、その天才の映画を見ることができる幸せに打ち震えています。
僕は映画を観ても、パンフレットを購入することはほぼないのですが、これは別物と思い手に入れました。まあ、当たり前ですけど、讃辞の嵐ですね。
さて本年度ベストワンなるか。100点満点の輝き120点といたします。いくら褒めても褒め足りない、「映画」と言う現代芸術の最高峰、ぜひ・ぜひ・ぜひ・ぜひ、お見逃しのないようお願いします。有休取得、必須です‼︎
*コストパフォーマンス +30,000円(チケット代対比)
絵面に反してロマンチック!
墓泥棒(逃げ遅れ)で服役していた刑務所帰りのアーサー。何度も夢に見るのは亡くなった恋人ベニアミーナの姿です。
前半とてもスローペースでなかなか物語が動かず、一体どうなっていくのか!?と少しハラハラしました。
しかし、とある墓で女神を発掘してからは、凄い推進力でラストまで持っていかれて、実に不思議な映画だなぁと感心しました。
あまりに貧しいアーサーの暮らし。泥棒仲間たちも貧しく、埋葬品の買い手は欲深く、皆、金と欲に目がくらんでいるのですが、それはミスリードであって、本筋は純粋なラブストーリー。
埋葬品をダウジングによって見つけるアーサーは、後になって気づいたのですが、恋人の姿を探し求めていたのです。
現実世界で盗掘を戒めてくれた女性と、幸せになる可能性もありましたが、彼はやめられませんでした。
それは失った彼女の幻想を追い求めることがやめられなかったからなのです。
そっと出ていくアーサーに気づきながらも、黙って見送るイタリアの姿が、とても切ないです。
彼女にはアーサーに好きな女性がいること、自分はその代わりになれないことを、感じ取っていたのでしょう。
それまで、アーサーが盗掘する目的が、お金のためなのか、仲間との友情のためなのか、考古学的興味なのか、いまひとつはかりかねていたのですが、そうか…ベニアミーナを探していたのか!とはっきりわかりました。
なんてロマンチックなんだろうとキュンキュンしました。
また、墓を暴いて破壊していく男性たちに対して、コミュニティを作って生活を作り上げていく女性たちの姿も対比として描かれていたのが印象的でした。
最後、アーサーは土に埋もれてしまったのだろうと私は思っています。
しかし、夢の中の彼女と再会して、最高に幸せそうなアーサーの姿が見られ、ほろ苦いながらも、素敵なラストシーンでした。
アーサー役のジョシュ・オコナーがとにかく素晴らしいです。寂しげな表情、ヨレヨレのくたびれ具合、どういう経緯でイギリスから来たのかよくわからないという謎感、木の棒でダウジングしたり、突然卒倒したり、不思議すぎる人物なのですが、とても魅力的に演じていました。
最近では『チャレンジャーズ』でも好演されていたので、他の作品も見てみようと思います。
余談ですが、劇中歌で状況説明するのが面白く、どこかで聞いたことがある曲だなぁ…と気になっていました。
後で思い出してスッキリしたのですが、ハナ肇とクレイジーキャッツの『悲しきわがこころ』のサビでした(笑)
女神の首をそこに投げてどうするのかと、小一時間問い詰めたい
2024.7.25 字幕 アップリンク京都
2023年のイタリア&フランス&スイス合作の映画(131分、G)
墓泥棒一味が古代遺跡を発見する様子を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本はアリーチェ・ロケバケル
原題は『La chimera』で「実現不可能な夢」という意味
物語の舞台は、1980年代のイタリア・トスカーナ地方
考古学愛好家のアーサー(ジョシュ・オコナー)は、盗んだ骨董品を美術商のスパルタコ(アルバ・ロケバレル)に売った罪で服役していたが、ようやく日の光のもとに釈放されることになった
彼には恋人のベニアミーナ(Yile Vara Vianello)がいたが、今は行方不明になってしまっていた
彼女の母フローラ(イザベラ・ロッセーニ)の元を訪れたアーサーは、そこで使用人として働いている彼女の弟子イタリア(カロル・ドゥアルテ)と出会う
彼女はフローラに内緒で娘コロンビーナ(ジュリア・ベッラ)と息子を育てていて、それがフローラの娘たちに見つかってしまった
彼女は家を追われ、路頭の身となって、近くの廃駅に身を隠すことになった
一方その頃、アーサーは住人からの依頼を受けて、墓の掘り起こしを行うことになった
そこで、かつての墓泥棒仲間のピッロ(ビンチェンツォ・ベモラート)、マリオ(Gian Piero Capretto)、ジェリー(Giuliano Mantovani)、ファビアーナ(Romana Fiorini)たちと行動をともにすることになった
映画は、アーサーが復活したことでスパルタコからの依頼も舞い込んで、墓泥棒を繰り返していく様子が描かれていく
そんな中でイタリアと親密になるものの、彼が墓泥棒と知ってショックを受ける
イタリアは副葬品は死者があの世に持っていくものであり、誰かの目を楽しませるような美術品ではないと断じる
その後、その言葉に引っ掛かりを持ち続けたアーサーは、エルトリア時代の女神像を見つけても、心ここにあらずとなっていた
だが、仲間は持ち出しやすいように女神の首を切り離してしまい、さらにそこに警察が来たことで、発掘は中断してしまうのである
映画は、わかりやすい物語であるものの、そこまで心を突き動かすこともなかった
副葬品を掘り起こすということ自体が文化的に考えられないので、それを今さら立ち返ったことで何が起こるというのだろうか
また女神の首を海に放り投げるのだが、そこじゃねえだろう感が凄い
元の場所に戻すように尽力するとか、そのために再度警察に厄介になって禊を落とすということもできると思うが、そういった方向にも話は進まない
ラストは亡き恋人の副葬品に自分がなるという感じになっていて、それで良いのかは何とも言えない
いずれにせよ、墓荒らしで得た美術品を好んで買い漁る金持ちもあれだが、その界隈がぜんぶエルトリアの呪いにでも罹ればすっきりするのにと思ってしまった
後半になって、冒頭の列車の客は実は死人とわかったりするのだが、このあたりもうーんという感じで、副葬品に手を出すと死者と対話ができるとか、そういう設定なのかなと思ってしまった
そもそも、アーサーが墓泥棒を生業にしている理由とか動機というものがよくわからず、儲かるからしているという感じにも思えない
影がありそうな過去も、恋人が死んでしまったことを受け入れられないというもので止まっているので、何とも取り留めのない物語だったように思えた
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