「世の中に片付くものなど」落下の解剖学 Pocarisさんの映画レビュー(感想・評価)
世の中に片付くものなど
それは想像です。主観です。作中で繰り返される言葉。これがこの作品の要なのだと思います。
探偵(推理)小説とは、探偵役が事件を解決して終わるのではなく、バラバラに存在する「証拠」(物的証拠に限らずいろんな意味で)を繋ぎ合わせて一つのストーリーに仕立てて語り切った時に終わるという言葉があります。これには、すべての「解決」は偽りを含んでいるという含意があります。
この映画は事件を一つのストーリーに仕立てて「解決」することなどできないさまを描いてます。その意味でたしかに「羅生門」的とは思いますが、もう少し複雑です。
証言の一人称性(非客観性)だけでなく、テレビの報道(真実より面白い方がいい)、創作物と現実の境目(検察官が被害者の小説を事実を書いていると強弁して法廷で読みあげるという滑稽ともいえる暴挙)、などの複数の異なる層の問題が重ねられ、我々が「真実」だとうっかり思ってしまったり、思いたがったりしてしまうさまが取り出されて晒されていきます。
録音されていた夫婦の諍いも、警察は妻が夫を殺害した証拠として出してきますが、聞きようによってはむしろ夫がヤバい奴だと思う人もいるでしょう。
しかもここには、妻が仕事で夫が家事という、古い家父長主義的な夫婦が逆転した関係が見えてきて、また別のレイヤーも重なっています。
そもそも、フランスにおいて解剖学は、いわゆる文学の自然主義の方法論でもありました。(日本の自然主義はそれを受け継がなかった)
物語でありながら、現実の姿が浮かび上がることを望む。その時、きれいに片付いた結末などあり得なくなる。
漱石も「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。」と書いてますが、それを思い出しました。
しかしラストの犬の様子は……ここからもまた片付かない想像が始まります。