「家族の内側を解剖する法廷劇で試される、私たちの曖昧さを抱えておく力」落下の解剖学 ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
家族の内側を解剖する法廷劇で試される、私たちの曖昧さを抱えておく力
本作はミステリーにカテゴライズされる作品なのだろうが、一般的なミステリーのイメージとひと味違うのは、最後まで「絶対的な真実」が提示されないことだ。
法廷での証言により、主人公夫婦の間に過去に起こったことが徐々に明らかになるにつれ、観客の目に映る主人公の印象が変遷してゆく。私たちの人を見る目のあやふやさ、不確かさを本作は暗に語りかけ、真実を見せないことでエンドロール後にもその余韻を残す。
冒頭、取材に来た女子学生に対応するサンドラの態度に不審な気配はほとんどない。ただ少し、取材を受ける側なのに女子学生に質問しがちなくらいだが、その時点ではそういう性格の人なのかな、くらいな印象だ。上の階では夫が音楽を大音量で流して取材に支障が出るほどだが、その事情も序盤ではわからない。
ところが、裁判で事件前の夫婦間のやり取りが明らかになるにつれ、最初の場面の印象がどんどん変わってくる。検察官が「女子学生を誘惑していたのでは」と言い出した時は邪推だなと思ったが、その後サンドラの隠していたこと(浮気の回数)や嘘(腕のあざ)が見えてくると、彼女を信頼出来なくなり、改めて冒頭のシーンを振り返ると、誘惑のニュアンスが入っていたようにも思えてくる。
(夫に通達した浮気はノーカンというのは特に酷いなと思ったけどフランスではアリなのか?と思ったら後で世論からも批判されててちょっと安堵)
そんな調子で、当初は気にならなかった裁判前のサンドラのなにげない振る舞いまでもが、法廷であからさまになった夫婦の内実を踏まえると全く見え方が変わってくる。ザンドラ・ヒュラーの演技の匙加減にうなった。万華鏡のように移り変わるサンドラの印象は、ヒュラーの演技のバランスがあってこそ成立する。
息子のダニエルの視力障害の程度がわかりづらかったり、母親をかばっているかのように証言を変遷させたり、弁護士ヴァンサンとの関係が微妙に思わせぶりだったり、といったことも見る側の憶測を呼び、惑わせる。サンドラは有罪か否か、という天秤が観客の胸中で不安定に揺れ動く中で、彼女の証言の変化が不審を誘い、あの壮絶な夫婦喧嘩の音声がとどめを刺す。
聞いてみれば、移住や息子のホームスクーリングはサミュエルの希望に沿ったものだ。ダニエルの面倒を見ることと教師の仕事で、作家としての創作の時間が取れなくなっているのも本人の行動の結果のように思える。作家として成功しているサンドラに対する不満には、嫉妬も混じっているのではという邪推も湧く。冒頭の大音量の音楽に、悪意の気配が醸し出される。
しかし、サンドラが夫のアイディアを横取りしていたこと(サンドラ自身は夫の許諾を得たと主張しているが、夫は奪われたという意識であり、認識のズレがあることもまた憶測の元)、言い争いの末サンドラが暴力をふるったこと、隠していた浮気のことなど、彼女の身勝手さも見えてくると、それまで見せられた曖昧な状況についてもことごとく天秤が振れ、彼女の有罪をほのめかすもののように思えてくる。
この流れなら、普通のミステリーであればサンドラが有罪になるか、あるいは判決自体は無罪になっても、内心の描写などにより彼女による犯行であるという「真実」が暗示されたりする、というのがパターンだろう。そういった「真実」の提示によって、観客の心中でも事件が終結する。エンタメ的には座りがいいはずだ。
だが本作では、サンドラは無罪判決を得るものの、観客にとってそれが「真実」であるという手応えはない。しかも判決後のシーンがしばらく続き、打ち上げの後でサンドラとヴァンサンが寸止め的な雰囲気になったりし、犬のスヌープが横たわるサンドラにぴたりと寄り添う場面で終わる。
パンフレットの評論家のレビューには、ラストで突然スヌープがサンドラに懐く様子を見せることから、序盤のスヌープとダニエルの散歩も、実はサンドラの意図(犯行のための人払い)が働いているのではという推測もあった。これもまた真偽は不明だが、ラストシーンが思わせぶりであることは確かだ。
(余談だが、スヌープがアスピリンで倒れた場面はどうやって撮影したのだろう。今時動物愛護的に薬物で眠らせたりすると批判されそうだが。ボーダーコリーはかなり賢いらしいが、まさかの演技だったらすごい)
観客はグレーな描写にあれこれ憶測をし、話が進むにつれその憶測のいい加減さも自覚する。私たちは主観で捉えられる情報だけで誰かをジャッジしたくなる。ひいては、その情報さえ無自覚に選別する。しかし、そのジャッジがいかにあやふやなものであるかについては得てして無自覚になりがちだ。
真実が明確にならないというありがちな現実をありのまま抱えることができず、急(せ)いて白黒はっきりさせようとする人間の悪癖。サンドラは無罪になったが、「無実」なのか、という疑いをあえて残すことで、本作はその悪癖を観客に自分ごととして突きつけているのではないだろうか。
私はこの映画を見て、今一つに感じたのですが、このレビューを読ませていただいて、自分が解釈しきれなかった部分もあるのかなあ、と思いました。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
ダニエルの最後の証言があっても、自分の中では、グレーのままです。
ニコさんがおっしゃる「万華鏡のように移り変わるサンドラの印象」に疑念を抱かざるを得ません。
> 家族の喧嘩は、逃げ道を残しておかないと家庭が崩壊するだけだと思います(自戒)。
ほんと、そうですよね。自分の場合は、トドメを刺される前に謝るテクニックで難を逃れていますが。
>真実が明確にならない…
この段落で書かれていること、おっしゃる通りで、私は見事に監督から突きつけられました、
私は『真実の行方』のエドワード・ノートンのようなことになったら、どうする?ダニエル❗️と絶叫するところでしたが、つまりは〝白黒ハッキリ〟を期待してる自分がいたということです。
決定的な判断材料がない事象に対して、何かを決断しなければならない時、ダニエルはああしたが、さて、お前は…