落下の解剖学のレビュー・感想・評価
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冤罪はこうやって生まれるのかも
冤罪はこうやって生まれるのかも、と思った。
物的証拠がなく、証言だけで殺人か否かを決めなけれ ばならない。誰かを有罪にするか無罪にするか、人生を左右する重大な決定を、証言を根拠に決めなければならない。
往々にして人の記憶はあいまいだし、自分の都合や思 い込みや、信じたいことで改変されている。し、裁判での証言なんて、自分が世間からどうみられるか、なんて計算まできっと入るから、記憶からの証言の信ぴょう性なんてあってなきがごとき。裁判官らは信じたい方を信じ、有罪/無罪に票を入れる。その意味で、盲目の息子ダニエルが「子供(11歳)」つまり「ピュア」であり、「盲目=他者が見えない」つまり「他者からどう見られるかを気にしないでいい人」という意味で、打算的な記憶の改変が少ない、信頼できる人として描かれている気がしてならない。その彼の 証言がキーとなっただろうことには、鼻白む。
加えて、検察側が露悪的で印象操作に思えてならな かった。例えば、サンドラ(被告人)のセクシャリティを暴きたてて、学生との会話を誘惑だと言い立てる姿。 夫が無断で録音していた口論から、「サンドラ=悪」 を植え付けようとする姿(会話を密かに録音する是非は問わない)。たとえ、サンドラがいかに「世間的に」奔放で不道徳な人間だったとしても、それを殺人に結び付けようとする態度には違和感しかなく、とても不愉快で嫌悪しか持てなかった。
確かに私は女性で、同性であるサンドラに無意識に肩入れしている部分はあるにしても。
最後に、この夫婦の関係が「世間」と逆転していて、おわゆる男性側を妻・サンドラが、女性側を夫が担っている。仕事に集中し、 子育てや家事をしない方を女性が、家事や子育て、自分の時間が持てずストレスをため込む方を男性が担っている。この逆転に裁判官や裁判員がどう見るか。男性は「女のくせに」、女性は嫉妬に近い反感を持つのではないか。
こうやって証言から作り上げられた「被告人像」か ら、真相はどうであれ「有罪/無罪」が決まる。真相と判決が合致していればいいけど、違えば冤罪/無罪放免。
私の「被告人像」は「無罪」だったから、こうやって冤罪が生まれるんだろう、と思いながら見ていた。彼女を「有罪」だと思う人からしたら、この映画はどう 見えているんだろうか、と思う。
家族の内側を解剖する法廷劇で試される、私たちの曖昧さを抱えておく力
本作はミステリーにカテゴライズされる作品なのだろうが、一般的なミステリーのイメージとひと味違うのは、最後まで「絶対的な真実」が提示されないことだ。
法廷での証言により、主人公夫婦の間に過去に起こったことが徐々に明らかになるにつれ、観客の目に映る主人公の印象が変遷してゆく。私たちの人を見る目のあやふやさ、不確かさを本作は暗に語りかけ、真実を見せないことでエンドロール後にもその余韻を残す。
冒頭、取材に来た女子学生に対応するサンドラの態度に不審な気配はほとんどない。ただ少し、取材を受ける側なのに女子学生に質問しがちなくらいだが、その時点ではそういう性格の人なのかな、くらいな印象だ。上の階では夫が音楽を大音量で流して取材に支障が出るほどだが、その事情も序盤ではわからない。
ところが、裁判で事件前の夫婦間のやり取りが明らかになるにつれ、最初の場面の印象がどんどん変わってくる。検察官が「女子学生を誘惑していたのでは」と言い出した時は邪推だなと思ったが、その後サンドラの隠していたこと(浮気の回数)や嘘(腕のあざ)が見えてくると、彼女を信頼出来なくなり、改めて冒頭のシーンを振り返ると、誘惑のニュアンスが入っていたようにも思えてくる。
(夫に通達した浮気はノーカンというのは特に酷いなと思ったけどフランスではアリなのか?と思ったら後で世論からも批判されててちょっと安堵)
そんな調子で、当初は気にならなかった裁判前のサンドラのなにげない振る舞いまでもが、法廷であからさまになった夫婦の内実を踏まえると全く見え方が変わってくる。ザンドラ・ヒュラーの演技の匙加減にうなった。万華鏡のように移り変わるサンドラの印象は、ヒュラーの演技のバランスがあってこそ成立する。
息子のダニエルの視力障害の程度がわかりづらかったり、母親をかばっているかのように証言を変遷させたり、弁護士ヴァンサンとの関係が微妙に思わせぶりだったり、といったことも見る側の憶測を呼び、惑わせる。サンドラは有罪か否か、という天秤が観客の胸中で不安定に揺れ動く中で、彼女の証言の変化が不審を誘い、あの壮絶な夫婦喧嘩の音声がとどめを刺す。
聞いてみれば、移住や息子のホームスクーリングはサミュエルの希望に沿ったものだ。ダニエルの面倒を見ることと教師の仕事で、作家としての創作の時間が取れなくなっているのも本人の行動の結果のように思える。作家として成功しているサンドラに対する不満には、嫉妬も混じっているのではという邪推も湧く。冒頭の大音量の音楽に、悪意の気配が醸し出される。
しかし、サンドラが夫のアイディアを横取りしていたこと(サンドラ自身は夫の許諾を得たと主張しているが、夫は奪われたという意識であり、認識のズレがあることもまた憶測の元)、言い争いの末サンドラが暴力をふるったこと、隠していた浮気のことなど、彼女の身勝手さも見えてくると、それまで見せられた曖昧な状況についてもことごとく天秤が振れ、彼女の有罪をほのめかすもののように思えてくる。
この流れなら、普通のミステリーであればサンドラが有罪になるか、あるいは判決自体は無罪になっても、内心の描写などにより彼女による犯行であるという「真実」が暗示されたりする、というのがパターンだろう。そういった「真実」の提示によって、観客の心中でも事件が終結する。エンタメ的には座りがいいはずだ。
だが本作では、サンドラは無罪判決を得るものの、観客にとってそれが「真実」であるという手応えはない。しかも判決後のシーンがしばらく続き、打ち上げの後でサンドラとヴァンサンが寸止め的な雰囲気になったりし、犬のスヌープが横たわるサンドラにぴたりと寄り添う場面で終わる。
パンフレットの評論家のレビューには、ラストで突然スヌープがサンドラに懐く様子を見せることから、序盤のスヌープとダニエルの散歩も、実はサンドラの意図(犯行のための人払い)が働いているのではという推測もあった。これもまた真偽は不明だが、ラストシーンが思わせぶりであることは確かだ。
(余談だが、スヌープがアスピリンで倒れた場面はどうやって撮影したのだろう。今時動物愛護的に薬物で眠らせたりすると批判されそうだが。ボーダーコリーはかなり賢いらしいが、まさかの演技だったらすごい)
観客はグレーな描写にあれこれ憶測をし、話が進むにつれその憶測のいい加減さも自覚する。私たちは主観で捉えられる情報だけで誰かをジャッジしたくなる。ひいては、その情報さえ無自覚に選別する。しかし、そのジャッジがいかにあやふやなものであるかについては得てして無自覚になりがちだ。
真実が明確にならないというありがちな現実をありのまま抱えることができず、急(せ)いて白黒はっきりさせようとする人間の悪癖。サンドラは無罪になったが、「無実」なのか、という疑いをあえて残すことで、本作はその悪癖を観客に自分ごととして突きつけているのではないだろうか。
事実が力を持たない時代の法廷劇
事件の真実を明らかにしないままに終わる法廷劇というのも珍しい。しかし、極めて今の社会のあり方を的確に表出した作品と言える。要は、「人は信じたいものしか信じない」、事実が力を持たない時代になったのだということ。
夫の転落死は事故か、殺人か。決定的な証拠は見つからないまま物語は進んでいく。そして、事件をめぐる世の中の関心は、夫婦仲がどうだったかへと移り、法廷も主人公の女性に殺意を抱くような動機があったかどうかが争点になっていく。しかし、動機は事件性があったのかどうかの補強情報にはなるが、決定的な証拠とは言えない。下世話なスキャンダルのように世の中が騒ぎ立てるなか、目の見えない息子が証人となる。
タイトルには「解剖学」という言葉が使われている。解剖学は人体の構造を明らかにする学問だ。見えない人体の中身を「見える化」するものと言い換えてもいいかもしれない。
その言葉に反して、この映画で描かれる事件(事故)の真相は見えない。真相は見えないままに物語が進行し、観客である我々はそれぞれに「信じたいものだけ信じる」ように誘導される。
そんな、人の「信じたいものしか信じない」心の弱さを「見える化」している作品と言えるかもしれない。
脳の訓練とスリリングなメロドラマの融合
よくもわからない他人ごとなのに、すぐに答えを欲して雑な解釈に飛びついてしまう人間の勝手さ、愚かを「法廷劇」という体裁に置き換えた監督の手腕がみごと。劇中のできごとや登場人物の思惑について、細部を読み取って推理をしたり仮説を立てたりする作業はミステリーの醍醐味だし、その意味でも楽しめる作品になっていると思う。しかしこの映画の場合、どれだけ考えて「◯◯のように見える」「◯◯に違いない」と思ったとしても、結局は監督の手のひらでいいように転がされているともいえる。いずれにせよ、確たる結論が導き出せるわけではない状況に大切なのは、どこまで自分自身が対象を距離を取って、先入観に目を曇らされることなく思考ができるか。これは一種の脳の訓練であり、その訓練がスリリングなメロドラマを兼ねているという、刺激的でとても優れたエンタメだと思っています。
事件と夫婦関係の解剖によって浮かび上がる奥深い人間ドラマ
雪山に建つ山荘で暮らす3人の家族がいる。絵に描いたような幸せな暮らしに見えるものの、そんな中で夫が落下死するという悲劇が発生。捜査の過程で浮上した不審点によって、妻に殺害容疑がかかり・・・と、あらすじだけを見ると、謎解き、捜査、推理といったイメージが湧き上がってきそうだが、しかしこの映画の本質は紛れもなく「家庭ドラマ」だ。あるいは家庭生活という名のサスペンス。その上、この法廷劇によって周到にメスが入れられ一つ一つ明かにされていく状況は、恐らくどの家庭や夫婦でも身に覚えのある切実かつ根源的な問題なのだ。妻であり母であり、成功した作家でもある主人公役のサンドラ・ヒュラーの表情が鮮烈で、彼女が怪しいのか、それとも我々の偏見や先入観なのか、観る者もまた非常に不可解な境地に立たされる。と同時に、盲目の息子が手探りで真相を掴み取ろうとする健気な様が胸を打つ。まさに解剖の名にふさわしい人間ドラマである。
夫婦の愛と信頼が崩れ落ちるさまが、裁判の過程で解き明かされていく傑作サスペンス
転落事故か投身自殺か、それとも殺人か。自宅山荘の窓の下で、夫で父親のサミュエルが不審死を遂げ、その妻で小説家のサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)が殺人罪で起訴される。
法廷での証言や証拠で家族のこれまでが次第に明らかになる。作家として成功した妻と、教師の仕事をしながら作家の夢を捨てきれない夫。サミュエルは息子ダニエルが事故で視覚障害になったことの責任を感じ続け、山荘を宿泊施設にリフォームする目論見もうまくいかず、精神的に不安定になることもあった。
“解剖学”というと学問の語感が強くなるが、フランス語の原題Anatomie d'une chute、英題はAnatomy of a Fallはいずれもニュアンス的には「落下(転落)の解剖」が妥当だろう。第一義はもちろんサミュエルを死に至らしめた転落の真相を裁判で解き明かすことにある。だがそれだけでなく、愛と信頼で築かれていたはずの夫婦の関係が、社会的成功の差、家事育児の負担、息子が抱える障害などさまざまな要因によって崩れ落ちていったさまが裁判を通じてあらわになることも示唆するダブルミーニングになっている。
1978年に東ドイツで生まれたザンドラ・ヒュラーは、国際的な知名度を高めたドイツ・オーストリア合作「ありがとう、トニ・エルドマン」(2016)で、変人の父親に翻弄される真面目で少し不器用なキャリアウーマンを愛らしく体現。打って変わって本作では、複雑で陰のある主人公を繊細に演じ切った。昨年のカンヌ国際映画祭ではフランス製作の本作が最高賞パルムドール、さらにキャストの2番手にクレジットされた米英ポーランド合作「関心領域」(日本では5月24日公開予定)も第2席のグランプリを受賞するなど、国際派女優としての円熟期を迎えつつある。5部門にノミネートされた今年のアカデミー賞の結果も楽しみだ。
法廷物の形式であるがゆえ当然ながら裁定は下されるが、揺るぎない真実が明らかになってすっきり解決、という映画ではない。むしろ解釈の揺らぎや余白を観客側が想像で補うタイプの作品であり、いつまでも落ち続けているような、落ち着かない“もやもや”を堪能していただければと思う。
二転三転
フランスの雪山にある家の最上階から、夫が落下した死体を、犬の散歩から帰宅した弱視の息子が発見したことから、ストーリーがゆっくりと進みはじめる。
当初は自殺ではなく事故ではないか?と主張する妻のサンドラだったが、さまざまな状況証拠から、この事件は自殺でも事故でもなく、これは殺人ではないか?、と法廷でサンドラが追いつめられていき、見てるこちら側も最初はそんなことないだろうと優しそうな妻を信じていたにも関わらず、演出によって徐々に妻に疑いの目をかけ始めてしまうのだ。特に事件前日の夫婦喧嘩の録音を公開された際には、もしかしたら殺人かもしれないと確信に至りそうになる。
これらの経緯から、当初は母を信じていた息子のダニエルでさえも信じられなくなってくるのだが、法廷最終日に彼の発言により、全てがひっくり返ってしまう。
過去に飼っていた盲導犬が病気になった際、父親から盲導犬は目が不自由な息子のために、自分を削って生きていて、疲れているかもしれない。だからいついかなる時も病気で死んでしまうこともあるということを覚悟しておけと言われた事を思い出し、それは犬がいなくなるということを伝えたかったわけではなく、自分(父)がいなくなる可能性を暗喩していたに違いない、と発言したのだ。これによって殺人の疑いが薄れていき、最後の最後に、妻は無罪放免となる。
しかしながら夫婦関係が悪化していたことや、息子の面倒を夫に押しつけ、自分は作家として成功を収めていたという事実が消えるわけではないため、それぞれの登場人物が悩みを抱えながら、お互いに支えあって生きていくしかないという、なんともモヤモヤした、しかし「これこそが人間なんだ」と受け入れざるを得ない、ハリウッドの法廷物とは一線を画した独特のサスペンス映画であった。
夫の落下から始まり、妻の落下、息子の落下、そして見ている観客側の落下など、この映画だけでなく、人間にはさまざまな落下があるけれど、それさえも受け入れることによって、前を向いて生きていけるんだなぁと、しみじみ考えさせられた佳作であった。
自殺か他殺か事故か
裁判シーンが長いが、意外に飽きなかった。
映画を観ている側としては、彼の自殺説がいちばん納得できるし、実際そのような結末だったが、それでよかったのだろうか?妻が殺してはいなかったというはっきりした確信が持てない点が、ややモヤモヤした感があるので、いまいちすっきりしないエンディングだった。
スヌープ(犬)の演技がピカイチ
序盤にスヌープが家に入って行くところをカメラが追いかけるシーンで、わんこかわええ〜☺️と思っていたら、とんでもなく演技派犬だった。
アスピリンを飲んでぐったりしたり、吐き出したり、全部演技って後から知ったけど、すごすぎて目が釘付けになった!🐶
映画自体は、大きな展開があるわけではなく、ずっとこうじゃないか、ああじゃないか、って考えさせられる。
判決終わりで真相が明かされるのかと思ってたら、そういうのはなくエンドロールで、終わりかい!って突っ込んでしまった。もや〜っとした気持ちで終わるのは、あまり好きではない。
現実でも真相は本人しか分からないし、第三者が頑張って考えたところで、主観が入ってしまうよな〜ということかな。
日本がどうかは知らないけど、フランスの法廷ってあんなに憶測をぶつけ合うのかとびっくりした。
誘導尋問しまくりやん。
追い詰められた夫
解剖とは、家族(夫婦)軋轢の分析のことだろうか。映画を観ている私たちが分析(解剖)に携わっているよう。でも真実ははっきりしないまま。
夫サミュエルが転落死する前日に録音されていたという夫婦のいさかいを聴くと、夫が不憫でたまらなかったです。自尊心もボロボロ。傷口に塩を塗られたようなもの。仕事ができてベストセラーのサンドラは知的で冷静。バイセクシャルなので中性的でもあり、男が家に2人いるような感じ。サミュエルの精神科医が「去勢されたようなものだ」とサミュエルから聞かされたのもうなづけます。
以前読んだ誰かのエッセイに、芸術家同志のパートナーは不幸になる、みたいなことが書いてあり、そのことも思い出しました。
サンドラ・ヒュラーが見事に主役を演じていました。彼女だからこそ、この映画の良さ(もやもやさ?)が充満していたのでしょう。
パパが死んだ時はベッドで泣きじゃくっていたダニエル、最後は法廷で堂々と「車の中で父と語ったエピソード」を証言し、短い間に成長したなと感じさせられました。しかし、その証言ももしかしたら、ダニエルの作り話かもしれない、といった思いもありますが。ダニエルの証言で閉廷になったようですが、実際は証拠不十分で無罪となったのでしょう。
長い
合わなかった
終わり方まで丁寧
識者の深いレビューとは違う切り口の感想ですが、、
言葉の不自由な国で自分の思いを伝える必要のある局面のあったこと
クリエイティブを生業にする者として、他者と己の才能を正確に測れるほどにはスキルがあること
自死遺族として、今思うと、、という感覚のあること
自分を構成する要素に、スヌープのように寄り添ってくれた映画でした。
実感を重ねられなかったのは、自分はストレートなので、、ってところくらいか
❇️『決定打がない場合、犯人は自分が決めてしまう怖さ❗️』
落下の解剖学
🇫🇷フランス
❇️『決定打がない場合、犯人は自分が決めてしまう怖さ❗️』
★彡受け取り方は視聴者次第。絶妙なストーリーに感心しました。
🔵かーるくあらすじ。
家族三人で暮らすロケーションの良い冬山の家。教師の夫。作家の妻。目の見えない息子。
家からの転落事故で裁判になっていく。
自殺?事故なのか?殺人なのか!
★彡事件の真相、日常のどこにでもある細かい事夫婦の見えない闇が明らかになっていくミステリー
◉89B点。
★彡凄い映画だった。こんな演技や会話劇、風景、結末大好物です。🖐️
🟢感想。
1️⃣⭕️『雪景色の山のロケーションが好き』
★彡殺人事件なのに全編爽快がある不思議な映画。
2️⃣⭕️『夫婦の不満やり取りが素晴らしく良い』
★彡どっちの言い分が解り、どちらの味方にもなれない。絶妙でリアル‼️
3️⃣⭕️『瀕死演技賞受賞!スヌープさん🥇』
★彡と思うくらい素晴らしい演技でしたし。
ラストも夫人の横に添い寝が本当可愛かった🐶後で調べたらパルムドッグ賞を本当に獲っていた🤭
🚬🏠🏞️🏔️❄️🐶👱🏼🧑🏼🐕🎹🛋️🗣️🦻🏻😤😱👩🏼⚖️🩸💊❤️🩹💮💯🚬
女性の視点
夫婦喧嘩に出口は無い。喧嘩がリアル。女性が利己的かつヒステリックに見えるが間違った事は言っていない。
母親が有罪か無罪は最後まで明らかになりませんが、男性のプライドを傷つけるのは悪手だと身を持って知っている人の視点だと感じました。それが答えだと思います
ダニエルが最後証言しなかったら
ダニエルの最後の証言
「突然いなくなるかもしれないから、覚悟しておいて」
犬のスヌープのことをたとえてパパがダニエルに言ったことだが、ダニエルは今思えばパパ自身のことだったんじゃないか、と最後イレギュラーに証言した。
、、、もしこの証言がなかったら、
ママは殺害者とみなされ有罪になってたのか、、?
もしかしたらそうかもしれない
冤罪か?
結果は無実だが、無実が冤罪だったとしても、ダニエルが一人にならなかったから良かった💦
なんの証拠もなかった中で、
日ごとにママが疑われているような質問も増していた。
でも旦那のことは嫌いだったとしても、
殺すメリット無くない?
殺す→何かしら証拠が見つかる→捕まる→
ダニエルは一人になっちゃうよね
誰が育てるの?
誰が面倒見るの?
ましてや視覚障害がある、
いくら多忙の母親でもまだ小さい子供を一人にはさせないだろう。
母親はダニエルとの時間はあまり作らなかったのかもしれないが、愛しているのはもちろんだと思うし殺してないと私は推測する!
まあ色々と誤解されることをやってたから、
ママが疑われることは無理もない😂
腕の不審なアザ
前日の激しいケンカ
何度も不倫
子育ては旦那に任せっきり
↑
待てよ、
この4点を書いてたら
パパがママを殺す理由になるっぽくない?
ママに対して恨みがあると思われるパパ。
ママがパパを殺す理由になるよね、なんだかね。。
この親しそうな弁護士とは絶対過去に寝てるね。
へんに親密だし😏
スカッとはしない。
昨日はアフターサンを鑑賞したが、
うつ病→自殺
この二つの映画の共通点。
うつになると自殺したくなるのかな。。
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