落下の解剖学のレビュー・感想・評価
全480件中、1~20件目を表示
自己検閲をせずに真実を明らかにすること
パルムドール受賞映画への期待値が大きすぎたのか、初見では物足りなさを感じたが、繰り返し観ると、実にスルメのように味わい深い作品であった。
ーーーーーーーーーーーー
■状況証拠しかない中での判断の危うさ
確定的な目撃情報や物的証拠がない。そのため、様々な状況証拠が集められる。
・「妻による激情殺人」の可能性を裏付けるため、直前の夫婦の会話が怒号だったのか、あるいは会話の延長線上だったのかを立証せんと、ダニエルに聞こえる声の限界を執拗に測る場面は、その微細な差異に固執する様が滑稽に映った。それぐらいしか糸口がないのは解るが。それにしても遠い。。。
・落下の再現テストをおこなった結果、血痕の位置から「突き落とされない限りありえない」と断言する調査官。たった3つの血痕だけで断言するのか。。。
・対して血痕分析の専門家は「窓から落ち、屋根に当たって頭を損傷したのだ。屋根にDNAが残ってないのは雪が洗い流したから。」と調査官の意見に反論する。
・薬を減らしたいと医師に相談していたサミュエルの行動を「自殺衝動」に結び付けたい弁護士と、それなら減らしたいと前向きな相談をしてくるのはおかしいと否定する医師。
・サンドラがゾーエを誘惑しようとしていたことを明らかにすることで「夫婦仲が終わっていたからだ。つまり妻による殺人はあり得る。」にもっていきたい検事。(遠いなあ。)
・前日の夫婦の口論の録音が提出される。生々しいやりとり。録音の後半にサンドラが激高しサミュエルを殴る音も。翌日の予行演習として決定的な証拠のように思うが、弁護士の冷静な一言。「されど、前日の話です。想像を事実と一緒くたにしてはならない。」
・次に検事は数年前にサンドラが書いた小説を引用。その中には泣き言をいう夫を殺そうと考える妻のフレーズが。弁護側はすぐさま「小説と事実は別物だ。S・キングは殺人鬼か。」と反論。(いや、ほんとに。)
・ダニエルがスヌープを病院に連れていくときに父親から言われた言葉を追加証言する。「スヌープはすごい犬だ。とても優れている。お前を危険から守り、お前に何が必要かを常に心を配っている。ただ、そのために疲れているかも。そしていつの日か力尽きる。つらいだろうが覚悟しておけ。それでもお前の人生は続く。。。。今考えると、あれは自分のことだったんだ。」あわてて検事が「過度に主観的でどう考えても証拠にはならない」と釘をさす。しかし、その言葉はブーメランのように自分たちに返ってきている。
検事側も弁護側も細い糸口で「殺人だ」「自殺だ」の主張を各々展開する。まるで悪魔の囁きのように。
混乱するダニエルにベルジェの言葉が響く。「材料が少なくて判断のしょうがなくても、決めるしかない。たとえ疑いがあっても一方に決めるのよ。1つを選ばないと。心を決めるの。」
そして裁判官の次の言葉も。「裁判の目的は自己検閲をせずに真実を明らかにすること」
(自己検閲とは集団内の同調圧力によって自分の意見を抑制してしまう心理現象や、表現や作品の作者が論議を呼びそうな部分を自分で削除してしまうことを指すこととのこと。)
ダニエルはスヌープの誤飲のことや、車の中での父との会話を証言する。自己検閲を排したのだ。そして心を決める。
「自殺だと思う。なぜならママがパパに飲ませる理由がない。何かが起きてその原因がわからない場合は裁判と同じで状況から考える。証拠を探しても確定的なものがないなら、自分で考える必要があります。」
悪魔の囁きを繰り返す検事は後ずさりするしかなかった。
しかし、証言の度にこうも推理が混じってくると裁判官は大変だな。(こりゃ冤罪もでるわ。)
ーーーーーーーーーーーー
■いたたまれない夫婦関係
妻のサンドラは、野心家で小説家として成功しており、現実主義で肉食系。見た目からしてザ・ドイツという感じ。
夫のサミュエルは、妻への嫉妬や焦燥感を抱いていたところに、ダニエルの事故の責任(妻からの暗黙の責めも)という十字架をさらに背負ってしまった。打開しようと山奥に引っ越ししてペンションをはじめようとするが、改装工事もうまく進まず空回りするばかり。
サンドラがサミュエルに言い放った下記の言葉。自分に言われているようで刺さった。。。
「今のあなたと話し合うのは時間のムダだと思う。グチグチ言って時間が経つだけ。
その時間を使って何だろうとやりたいことやったら?書けないのを私のせいにしないで。」
「(俺にも時間をくれという夫に対し)正気で言ってるの?私は何も奪ってない。 あなたは息子との関係悪化を恐れ、今の状態に陥った。ここに引っ越すと決めたのはあなた。自分で作った罠よ。私のせいにしないで。あなたが自分で、、、。」
録音テープを聞いている間、傍聴席の人たちと同じようにいたたまれない気持ちであった。
ダニエルの事故がなければ、この二人の関係はどうだったのだろうか。。
※父親の死、母親の過去の不倫、父親の焦燥。自分の事故が夫婦間を険悪なものにしてしまった一要因であること、赤裸々な内容をすべて聞いてしまったダニエル。「ママが帰ってくるのが怖かった。」 「ママも帰るのが怖かった。」 もう裁判前の親子間には戻れない。これからのダニエルが心配だ。
※スヌープ(飼い犬)の演技が凄い。本当に演技なのか?そりゃ賞獲るわ。
※夫がスピーカーから鳴らす爆音の「P・I・M・P」、息子がかき弾くピアノ。どちらも癇に障る。そういう心象を表現しているのだろう。
※サンドラの顔が苦手だ。これぞドイツという感じ。『関心領域』の印象もあると思うが。ただこういう「強く複雑な女性」を演じられる稀有な俳優であることには間違いない。
※2つの録音は、ちょっと都合良すぎかと。
※ラッパーみたいな検事が新鮮。さすがフランス。
冤罪はこうやって生まれるのかも
冤罪はこうやって生まれるのかも、と思った。
物的証拠がなく、証言だけで殺人か否かを決めなけれ ばならない。誰かを有罪にするか無罪にするか、人生を左右する重大な決定を、証言を根拠に決めなければならない。
往々にして人の記憶はあいまいだし、自分の都合や思 い込みや、信じたいことで改変されている。し、裁判での証言なんて、自分が世間からどうみられるか、なんて計算まできっと入るから、記憶からの証言の信ぴょう性なんてあってなきがごとき。裁判官らは信じたい方を信じ、有罪/無罪に票を入れる。その意味で、盲目の息子ダニエルが「子供(11歳)」つまり「ピュア」であり、「盲目=他者が見えない」つまり「他者からどう見られるかを気にしないでいい人」という意味で、打算的な記憶の改変が少ない、信頼できる人として描かれている気がしてならない。その彼の 証言がキーとなっただろうことには、鼻白む。
加えて、検察側が露悪的で印象操作に思えてならな かった。例えば、サンドラ(被告人)のセクシャリティを暴きたてて、学生との会話を誘惑だと言い立てる姿。 夫が無断で録音していた口論から、「サンドラ=悪」 を植え付けようとする姿(会話を密かに録音する是非は問わない)。たとえ、サンドラがいかに「世間的に」奔放で不道徳な人間だったとしても、それを殺人に結び付けようとする態度には違和感しかなく、とても不愉快で嫌悪しか持てなかった。
確かに私は女性で、同性であるサンドラに無意識に肩入れしている部分はあるにしても。
最後に、この夫婦の関係が「世間」と逆転していて、おわゆる男性側を妻・サンドラが、女性側を夫が担っている。仕事に集中し、 子育てや家事をしない方を女性が、家事や子育て、自分の時間が持てずストレスをため込む方を男性が担っている。この逆転に裁判官や裁判員がどう見るか。男性は「女のくせに」、女性は嫉妬に近い反感を持つのではないか。
こうやって証言から作り上げられた「被告人像」か ら、真相はどうであれ「有罪/無罪」が決まる。真相と判決が合致していればいいけど、違えば冤罪/無罪放免。
私の「被告人像」は「無罪」だったから、こうやって冤罪が生まれるんだろう、と思いながら見ていた。彼女を「有罪」だと思う人からしたら、この映画はどう 見えているんだろうか、と思う。
家族の内側を解剖する法廷劇で試される、私たちの曖昧さを抱えておく力
本作はミステリーにカテゴライズされる作品なのだろうが、一般的なミステリーのイメージとひと味違うのは、最後まで「絶対的な真実」が提示されないことだ。
法廷での証言により、主人公夫婦の間に過去に起こったことが徐々に明らかになるにつれ、観客の目に映る主人公の印象が変遷してゆく。私たちの人を見る目のあやふやさ、不確かさを本作は暗に語りかけ、真実を見せないことでエンドロール後にもその余韻を残す。
冒頭、取材に来た女子学生に対応するサンドラの態度に不審な気配はほとんどない。ただ少し、取材を受ける側なのに女子学生に質問しがちなくらいだが、その時点ではそういう性格の人なのかな、くらいな印象だ。上の階では夫が音楽を大音量で流して取材に支障が出るほどだが、その事情も序盤ではわからない。
ところが、裁判で事件前の夫婦間のやり取りが明らかになるにつれ、最初の場面の印象がどんどん変わってくる。検察官が「女子学生を誘惑していたのでは」と言い出した時は邪推だなと思ったが、その後サンドラの隠していたこと(浮気の回数)や嘘(腕のあざ)が見えてくると、彼女を信頼出来なくなり、改めて冒頭のシーンを振り返ると、誘惑のニュアンスが入っていたようにも思えてくる。
(夫に通達した浮気はノーカンというのは特に酷いなと思ったけどフランスではアリなのか?と思ったら後で世論からも批判されててちょっと安堵)
そんな調子で、当初は気にならなかった裁判前のサンドラのなにげない振る舞いまでもが、法廷であからさまになった夫婦の内実を踏まえると全く見え方が変わってくる。ザンドラ・ヒュラーの演技の匙加減にうなった。万華鏡のように移り変わるサンドラの印象は、ヒュラーの演技のバランスがあってこそ成立する。
息子のダニエルの視力障害の程度がわかりづらかったり、母親をかばっているかのように証言を変遷させたり、弁護士ヴァンサンとの関係が微妙に思わせぶりだったり、といったことも見る側の憶測を呼び、惑わせる。サンドラは有罪か否か、という天秤が観客の胸中で不安定に揺れ動く中で、彼女の証言の変化が不審を誘い、あの壮絶な夫婦喧嘩の音声がとどめを刺す。
聞いてみれば、移住や息子のホームスクーリングはサミュエルの希望に沿ったものだ。ダニエルの面倒を見ることと教師の仕事で、作家としての創作の時間が取れなくなっているのも本人の行動の結果のように思える。作家として成功しているサンドラに対する不満には、嫉妬も混じっているのではという邪推も湧く。冒頭の大音量の音楽に、悪意の気配が醸し出される。
しかし、サンドラが夫のアイディアを横取りしていたこと(サンドラ自身は夫の許諾を得たと主張しているが、夫は奪われたという意識であり、認識のズレがあることもまた憶測の元)、言い争いの末サンドラが暴力をふるったこと、隠していた浮気のことなど、彼女の身勝手さも見えてくると、それまで見せられた曖昧な状況についてもことごとく天秤が振れ、彼女の有罪をほのめかすもののように思えてくる。
この流れなら、普通のミステリーであればサンドラが有罪になるか、あるいは判決自体は無罪になっても、内心の描写などにより彼女による犯行であるという「真実」が暗示されたりする、というのがパターンだろう。そういった「真実」の提示によって、観客の心中でも事件が終結する。エンタメ的には座りがいいはずだ。
だが本作では、サンドラは無罪判決を得るものの、観客にとってそれが「真実」であるという手応えはない。しかも判決後のシーンがしばらく続き、打ち上げの後でサンドラとヴァンサンが寸止め的な雰囲気になったりし、犬のスヌープが横たわるサンドラにぴたりと寄り添う場面で終わる。
パンフレットの評論家のレビューには、ラストで突然スヌープがサンドラに懐く様子を見せることから、序盤のスヌープとダニエルの散歩も、実はサンドラの意図(犯行のための人払い)が働いているのではという推測もあった。これもまた真偽は不明だが、ラストシーンが思わせぶりであることは確かだ。
(余談だが、スヌープがアスピリンで倒れた場面はどうやって撮影したのだろう。今時動物愛護的に薬物で眠らせたりすると批判されそうだが。ボーダーコリーはかなり賢いらしいが、まさかの演技だったらすごい)
観客はグレーな描写にあれこれ憶測をし、話が進むにつれその憶測のいい加減さも自覚する。私たちは主観で捉えられる情報だけで誰かをジャッジしたくなる。ひいては、その情報さえ無自覚に選別する。しかし、そのジャッジがいかにあやふやなものであるかについては得てして無自覚になりがちだ。
真実が明確にならないというありがちな現実をありのまま抱えることができず、急(せ)いて白黒はっきりさせようとする人間の悪癖。サンドラは無罪になったが、「無実」なのか、という疑いをあえて残すことで、本作はその悪癖を観客に自分ごととして突きつけているのではないだろうか。
事実が力を持たない時代の法廷劇
事件の真実を明らかにしないままに終わる法廷劇というのも珍しい。しかし、極めて今の社会のあり方を的確に表出した作品と言える。要は、「人は信じたいものしか信じない」、事実が力を持たない時代になったのだということ。
夫の転落死は事故か、殺人か。決定的な証拠は見つからないまま物語は進んでいく。そして、事件をめぐる世の中の関心は、夫婦仲がどうだったかへと移り、法廷も主人公の女性に殺意を抱くような動機があったかどうかが争点になっていく。しかし、動機は事件性があったのかどうかの補強情報にはなるが、決定的な証拠とは言えない。下世話なスキャンダルのように世の中が騒ぎ立てるなか、目の見えない息子が証人となる。
タイトルには「解剖学」という言葉が使われている。解剖学は人体の構造を明らかにする学問だ。見えない人体の中身を「見える化」するものと言い換えてもいいかもしれない。
その言葉に反して、この映画で描かれる事件(事故)の真相は見えない。真相は見えないままに物語が進行し、観客である我々はそれぞれに「信じたいものだけ信じる」ように誘導される。
そんな、人の「信じたいものしか信じない」心の弱さを「見える化」している作品と言えるかもしれない。
脳の訓練とスリリングなメロドラマの融合
よくもわからない他人ごとなのに、すぐに答えを欲して雑な解釈に飛びついてしまう人間の勝手さ、愚かを「法廷劇」という体裁に置き換えた監督の手腕がみごと。劇中のできごとや登場人物の思惑について、細部を読み取って推理をしたり仮説を立てたりする作業はミステリーの醍醐味だし、その意味でも楽しめる作品になっていると思う。しかしこの映画の場合、どれだけ考えて「◯◯のように見える」「◯◯に違いない」と思ったとしても、結局は監督の手のひらでいいように転がされているともいえる。いずれにせよ、確たる結論が導き出せるわけではない状況に大切なのは、どこまで自分自身が対象を距離を取って、先入観に目を曇らされることなく思考ができるか。これは一種の脳の訓練であり、その訓練がスリリングなメロドラマを兼ねているという、刺激的でとても優れたエンタメだと思っています。
事件と夫婦関係の解剖によって浮かび上がる奥深い人間ドラマ
雪山に建つ山荘で暮らす3人の家族がいる。絵に描いたような幸せな暮らしに見えるものの、そんな中で夫が落下死するという悲劇が発生。捜査の過程で浮上した不審点によって、妻に殺害容疑がかかり・・・と、あらすじだけを見ると、謎解き、捜査、推理といったイメージが湧き上がってきそうだが、しかしこの映画の本質は紛れもなく「家庭ドラマ」だ。あるいは家庭生活という名のサスペンス。その上、この法廷劇によって周到にメスが入れられ一つ一つ明かにされていく状況は、恐らくどの家庭や夫婦でも身に覚えのある切実かつ根源的な問題なのだ。妻であり母であり、成功した作家でもある主人公役のサンドラ・ヒュラーの表情が鮮烈で、彼女が怪しいのか、それとも我々の偏見や先入観なのか、観る者もまた非常に不可解な境地に立たされる。と同時に、盲目の息子が手探りで真相を掴み取ろうとする健気な様が胸を打つ。まさに解剖の名にふさわしい人間ドラマである。
夫婦の愛と信頼が崩れ落ちるさまが、裁判の過程で解き明かされていく傑作サスペンス
転落事故か投身自殺か、それとも殺人か。自宅山荘の窓の下で、夫で父親のサミュエルが不審死を遂げ、その妻で小説家のサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)が殺人罪で起訴される。
法廷での証言や証拠で家族のこれまでが次第に明らかになる。作家として成功した妻と、教師の仕事をしながら作家の夢を捨てきれない夫。サミュエルは息子ダニエルが事故で視覚障害になったことの責任を感じ続け、山荘を宿泊施設にリフォームする目論見もうまくいかず、精神的に不安定になることもあった。
“解剖学”というと学問の語感が強くなるが、フランス語の原題Anatomie d'une chute、英題はAnatomy of a Fallはいずれもニュアンス的には「落下(転落)の解剖」が妥当だろう。第一義はもちろんサミュエルを死に至らしめた転落の真相を裁判で解き明かすことにある。だがそれだけでなく、愛と信頼で築かれていたはずの夫婦の関係が、社会的成功の差、家事育児の負担、息子が抱える障害などさまざまな要因によって崩れ落ちていったさまが裁判を通じてあらわになることも示唆するダブルミーニングになっている。
1978年に東ドイツで生まれたザンドラ・ヒュラーは、国際的な知名度を高めたドイツ・オーストリア合作「ありがとう、トニ・エルドマン」(2016)で、変人の父親に翻弄される真面目で少し不器用なキャリアウーマンを愛らしく体現。打って変わって本作では、複雑で陰のある主人公を繊細に演じ切った。昨年のカンヌ国際映画祭ではフランス製作の本作が最高賞パルムドール、さらにキャストの2番手にクレジットされた米英ポーランド合作「関心領域」(日本では5月24日公開予定)も第2席のグランプリを受賞するなど、国際派女優としての円熟期を迎えつつある。5部門にノミネートされた今年のアカデミー賞の結果も楽しみだ。
法廷物の形式であるがゆえ当然ながら裁定は下されるが、揺るぎない真実が明らかになってすっきり解決、という映画ではない。むしろ解釈の揺らぎや余白を観客側が想像で補うタイプの作品であり、いつまでも落ち続けているような、落ち着かない“もやもや”を堪能していただければと思う。
スティーヴン・キングは連続殺人鬼か?
劇中でかかる音楽は3つだけ。冒頭ではインタビューに山荘にやってきた学生ゾーエを追い出すために夫が大音量で流し続けた「P.I.M.P」という曲。元はラッパーの曲なせいか不快に感じること間違いなし。そして11歳の息子ダニエルがピアノで練習する「アストゥリアス」。元はギターのための曲であり、叙情的旋律によってだんだん感情が激しくなる雰囲気を醸し出してストーリーを盛り立てる。終盤、裁判が終わる頃に流れるショパンの曲によって皆の心に平穏が訪れるという仕掛けになってると思う。
法廷劇が中心となり、物的証拠が乏しいために夫婦の生活が暴かれ、夫が自分の小説のために録音していた事実。前日に口論していたのが予行演習だったのではないかと検察の主観尋問が鼻につく。そして妻サンドラの不倫を暴露する録音も流されるが、息子の事故の後は一度しかない。しかも相手は女性というもの。ドイツ人のサンドラがフランス人の夫とイギリスで生活をしていたり、ジェンダー差別、障がい者差別などのテーマも内包していた。サンドラが追い詰められたときに英語で証言するというシーンも面白い。とにかく検察側の主張は幾分横暴でもあり、こうして冤罪が作られるんだという色が濃い。
以前から知り合いだったヴァンサンをはじめとする弁護側は事故ではなく自殺を主張する方向で進め、証人である精神科医などと徹底抗戦する。主観と客観、曖昧な自殺癖を証明することも難しく、やがて証人となった息子ダニエルが母を守るための危険な実験を・・・
主演女優賞も獲って欲しいところでしたが、個人的には犬のスヌープに助演犬賞をプレゼントしたい。
ただただ息子が可哀想。
パパの事故の後、悲しみに浸る間もなく裁判の現場検証、証言台にまで立つことに。裁判の傍聴を決めたのは彼だが、それにしてもあの壮絶な夫婦喧嘩の録音を聞くハメになるとは、子どもの気持ちになると本当に不憫でならない。
開幕からミステリー路線での話かと思ったが、裁判の模様と家族達のヒューマンドラマがメインだったとは。
人物の表情をあえて映さないなどカメラワークが秀逸。
事実や曖昧な証言、夫婦の人柄がわかる出来事を小出しにすることで、事故なのか、他殺なのか、何回も手のひら返しで怪しんでしまう脚本の妙。事実を解き明かすのではなく、あえてわからない上で行う選択や、裁判の模様がテーマでとても面白い。
ダニエルの拙いピアノでさえ物語の雰囲気に絶妙に合っていた。
キネ旬よりは、カンヌ映画祭での評価順の方を納得する鑑賞に…
先日、「関心領域」という映画を観て、
全く知らない女優ではあったが、
この「落下の解剖学」と共に主演した
サンドラ・ヒュラーの2作品が
カンヌ映画祭のパルム・ドール
及びグランプリを受賞したとの話題性、
またキネマ旬報で共にベストテン入りした
と言うこともあり、
こちらの作品の方も初鑑賞した。
夫の自殺か他殺か事故かの裁判を
長尺に淡々と描くこの作品、ともすれば
間延びしがちな内容にも関わらず、
特に奇をてらう演出手法を使う訳でもなく、
公判においても、
冒頭の学生インタビュアーの証言、
続いて検死官~夫の精神科医の、
更にはUSBに録音された夫婦の会話の公開、
そして夫の友人の編集者の証言を経て、
最後には息子の証言、
等々、順を追って
事件の謎にせまっていくだけなのだが、
そのオーソドックスさの中での
次々と観客の興味を
先取りしていくかのような演出は、
私にとっても、鑑賞に向かう集中力を
全く途切れさせられることのない
濃密なサスペンスドラマに仕立て上げた
監督の力量には感服するばかりだった。
しかしながら、己の理解の及ばない場面も
多く、再鑑賞する羽目になったのだが。
それにしても、
母親の息子への愛情ゆえの苦悩。
また、息子の
父親の発言に自殺の可能性を見出すという
優れた洞察力が示されたものの、
彼の証言は、見えない真実の中で、
単なる選択として決断だけだったのか、
親子間の微妙な余韻の残る
エンディングだった。
ところで、話題となった
2作品共通の主演女優の話に戻れば、
「関心領域」では、髪型も違い、
ほぼクローズアップのないキャメラワーク
だったこともあり、
彼女のことはこの作品で初めて面相を拝見
するような感じだったし、
同じ女優との意識を持つこともなく
鑑賞することが出来た。
さて、キネ旬では「関心領域」の方が
評価が高かったのだが、
私的には、カンヌ映画祭での評価順通りで、
「関心領域」の場の設定における狙いは
見事ではあるものの、
演出と脚本の上手さの点においては
圧倒的に、この「落下の解剖学」の方が
優れているように感じた。
家族の絆と葛藤
犬と吐息
詳らかにする
感情が揺さぶられ、色んな思いが去来する
言葉にするのが難しい。
自分の性質は死んだ夫氏に近しいので、夫に感情移入しながら観ていました。なので終盤ダニエルの証言を聞く前から彼が自殺であると、思いました。本当の真実かどうかは別として。(視聴者にそう思わせる脚本?演技?すごい、素晴らしい)
エンタメ作品とは真逆で、つらくてしんどいしかない映画でしたが、観て良かった。
上手く言語化できない、とにかく凄い作品を観た。
あとスヌープの演技素晴らしかった!
アスピリン飲まされた後体調を崩すシーンで本当に犬に何がけしからんをしたのかと心配になる程でした。
視聴後に検索したらあの子がなんかすごい賞をとっていたのを知りました。納得です。
某か受賞というのは映画詳しい人に刺さったということなだけで
たまにしか映画みない一般人にはわからないです。
検察が嫌なやつで裁判官が裁判に無関心で決だけ下す感じの人で、映画は7割法廷のシーン。法廷映画。ドラマ「リーガル・ハイ」からテンポのいい台詞回しや勧善懲悪の爽快さを無くした映画好きが好きそうな映画。展開がゆっくりすぎて、オチは伝家の宝刀「わからずじまい」。結局なんなだったの?という感じ。
「他人からどう見えているか」を問うてる映画だとしたら、犯人は、弁護士だし、息子ふぁし、妻だし、インタビュアーの学生だし、犬がぶつかってどーんで落ちたもあるし、鑑賞者に委ねられる!的な……いやいやある程度は示してよ。
頭の殴られたあとの説明がないってことは、他殺の匂いを残すけど、下にぶつかったかもしれないし、もしかしたら不倫を知ってインタビュアー来て(またか!?)と無茶苦茶苛立って自傷して、妻に罪を着せようと夫が自殺したかもしれないし。無限のオチが考えられる。
人の形を暴く解剖学って当てにならないね。「落下の解剖学」、人生が落ちていくその様を解剖したのかな?哲学チックですね。インテリジェンスに振り切った映画で、だったら予告編もサスペンスサスペンスして煽らなくてもいいのにと思いました。予告編が悪いかも。
韓国版ポスターに犯人はこれだ!的な印象を抱くなら、このジャケットも「犯人はこいつらだ」という映画のコンセプトには乗っかってて見事なのだと想う。
賞を獲った事で完成に至った映画。これは賞を与えないと(難解な映画だーで終わるぞ)と、賞を与えたことで(何があるの?)という私みたいに深読みする一般人が増えていく。良質は良質、とても良質です。
疑わしくは被告人の利益に
カタルシスねぇ〜映画NO1
全480件中、1~20件目を表示