枯れ葉(2023)のレビュー・感想・評価
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男はみんな同じ鋳型。ブタに乾杯🍻
やっと公開された〜なのに1日一回って…そら満席やわな。
なんやろ、このはじめてなのにどこか懐かしい感じ。地味やのに野暮ったくない、ほぼ無表情やから最後のアレだけで全部伝わってくる。小物のビビットな色遣い、後を引く画づくり、そして溢れる映画愛。まさかのジャームシュ!しかもデッド・ドント・ダイ!確か勝てない(^^;;
そして箇所箇所で入ってくる現状への怒り!
こら〜浸るしかないわ。恐れ入りました。
ぜひ次もお願いいたします!
しかし今日観た三本とも英語愛に溢れてたな〜
12 I-4
ああシャンソン 恋のうた~
枯れ葉
神戸市の元町映画館で鑑賞 2024年1月17日(水)
パンフレット入手
フィンランドの首都ヘルシンキ。古いアパートに一人で暮らすアンサ。街中のスーパーマーケットでゼロ時間契約で働いている。友人は少ない。スーパーマーケットから持ち帰った賞味期限切れの総菜で夕食を済ませるつましい生活。
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ホラッパはブラスト工として金属工場で働いている。人付き合いが苦手であり、生活の中心は仕事、漫画、酒であった。いつしか勤務中にも隠れて飲酒するようになった。
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ある金曜日の夜、カラオケバーへ行ったホラッパは、アンサと出会う。一目で運命の出会いと感じたが、シャイなふたりは視線を交わすのが精一杯。
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警備員の密告で廃棄食品の持ち帰りを咎められたアンサは事前通告なく解雇された。職業安定所で見つけたのは”パブ・カルフォルニア”の皿洗い。アンサの初の給料日にオーナーが麻薬の密売で逮捕されたところ、ホラッパがビールを飲みに来たのだ。
リッツという映画館へ「デッド ドント ダイ」(ゾンビの映画)を見に行くことに。
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帰り際に、また会いたい言うホラッパに、アンサは電話番号を書いたメモをわたした。アンサはホラッパの額にキスして立ち去るが、メモを失ってしまう。
さらに勤務中の飲酒がばれてホラッパは解雇となる。
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すれ違いの末にようやく映画館の前で再開したふたり。アンサはホラッパを自宅でのディナーに招く。心地よい食卓だが、「アル中はごめんよ」と戒める。弱みをつかれたホラッパは「指図されるのはゴメンだ」と言い出て行ってしまう。
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ある日アンサは職場に迷込んだ犬を引き取ることに。「チャップリン」と名付ける。アンサの孤独を和らげることに。
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酒をやめたホラッパはアンサのもとに電話をかけると「すぐ来て」と、だが、交通事故で意識不明となった。
アンサは寄り添ってやがて眼を覚ます。
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退院の日、秋の枯れ葉舞う中を、アンサ、ホラッパ、犬のチャップリンが前へあるいて行く・・・
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フィンランド生まれのアキ・カウリスマキ監督作品
音楽をふんだんに使用し、作品のシーンに合わせた選択で 歌詞が流れるという特徴がございます。
パンフレットには使用された音楽がすべてかかれています。
最後の楽曲が「枯れ葉」
フランスのシャンソンの曲を、フィンランド語で歌っているものです。
アンサ、ホラッパ、チャップリン、これからもどうか、お幸せに 日本の映画館から、そう伝えたいと感じた。
「ああシャンソン 恋のうた~」
木洩れ日の次は枯れ葉
満席で入れず観られなかったシネマカリテで今回は事前に席を予約で確保して観る。
ここ何年か北欧の映画に注目していて、作品に触れるたびに書いてきたが、本作もフィンランド映画だ。
「PERFECT DAYS」同様に小津の影響が感じられる映画で市民の日常を淡々と描く。
フィンランドのカラオケバーは、司会のおばさんがいて皆の前で曲紹介されて唄を歌うらしい。そこで出逢った二人の物語。初めてのデートで行った映画(名画座?)が「デッド・ドント・ダイ」。この映画館が旧作のポスターが色々貼ってあって前を通る度に作品が変わっていて仲々面白い。
この後、二人は再会を約束するが、彼女は名前も住所も教えず電話番号だけを教える。彼はそのメモを失くしてしまい二人は再会出来ない。そして、やっと再会したものの、…。
監督は小津とチャップリンが好きらしいが、ラストはチャップリン作品的だ。出演者が皆んな無表情だが、それだけにラストの彼女の微笑が際立つ。
木洩れ日の後は枯れ葉だった。
映画愛溢れる映画‼️
懐かしい恋愛物語なのですが‥
アキ日和
台詞もアクションも尺も少ない、相変わらずミニマルな文体のアキ・カウリスマキの映画だ。
(“アキ・カウリスマキ”は以下“アキさん”と略。“ミカ・カウリスマキ”を“ミカさん”にすると、叶姉妹みたいだ。)
ラジオからロシアのウクライナ侵攻が伝えられるから現代の話なのだろうが、「竹田の子守唄」や「マンボ・イタリアーノ」が流れたりする不思議な世界。ロシアと1,300kmにわたり国境を接し、何度か占領された歴史も持つフィンランドにとっては、現在の切迫感は日本とは桁違いなのだろう。
映画館にはロベール・ブレッソンの「ラルジャン」やジャン=ピエール・メルヴィルの「仁義」のポスターが貼られていて、こちらも名画座だからなのかもしれないが、単なるアキさんの好みという気がしないでもない(寡黙な作風が共通する)。
主役の女性は、かつてならカティ・オウティネンが演じていた役どころだろう。マッティ・ペロンパー似の人物もいたので、もしやと思ったが、彼は既に1995年に亡くなっていた。合掌。
主役の二人が初めて会った時のまなざしのラリーが奥ゆかしい。アルコール中毒の心情にはあまり寄り添えなかった。フィンランドは世界幸福度ランキングで1位になっているけど、アキさんの作品ではあまり幸せそうな人は登場しない。
私が見た回はほぼ満員だった。上映回が少ないせいもあるだろうけど、アキさんの映画で映画館が満員になるなんて!とびっくりした。
p.s.アキさんの映画では「真夜中の虹」が一番好き。
大きな世界の小さな世界
数字
独特な素朴と独特なユーモアと独特な間
とにかく余計なものを削ぎ落としたラブストーリー。今時、こんなにシンプルな映画があるなんて。
アキ・カウリスマキ監督作品が見せる素朴の表現と独特のユーモア、そして間。それはもうカウリスマキ節とでも表現するしかないのでしょう。多くを語らない登場人物たちに「なんでこんなに台詞がないの?」と思いますし、その台詞回しは半世紀以上前の映画作品のようです。
ただよくよく考えれば、我々の普段の生活で他の映画のようにベラベラ話す方が珍しいのだとも気付かされ、この作品のような会話こそ、人々の日常を捉えたカウリスマキ監督目線の際たるものと言える気がしてくるから不思議です。
シンプルゆえに美しいようでもあり、一方では物足りなさも感じてしまう、決して「古き良き」を描いているわけではないのですが、それを感じずにはいられない、そんな作品。
悲恋のままで良かったのでは?
最後まで結ばれない二人であって欲しかった。
私は始めてアキ・カウリスマキ監督の映画を見ました。私は数十年前からミニシアター系の映画も鑑賞していて何時かは、同監督の映画を見てみたいと思っていました。
同作品を鑑賞される方はビム・ベンダース監督さんの作品と比較しつつ鑑賞される方もいらっしゃるのではないでしょうか?
あまのじゃくの私からすると当作品の中で主人公、ヒロインの人生の厳しさ不条理さを見せつけられる中で最後ハッピーに終わると今までが何だったのかと思いました。
最後は結ばれないか別々のパートナーと結ばれる方が作品の重さに繋がるような気がしました。
当週に上映されていたビム・ベンダース監督の「PERFECTDAYS」の方が何も足さない何もひかない抑揚のない作品で印象に残った。
ユーモアが理解できなかった
鋳型でできたブタより劣る生き物
そんな量産型な男たち(フィンランドも日本も同じですね)を、厳しくもWカップでフィンランドが決勝に進んでブラジルと戦うことになるファンタジーの世界で救ってみせる、素晴らしい映画でした。
いい年したおじさんおばさんがもじもじしながら距離を縮めて、良くなろうと決意する瞬間、生活を淡々と送る強い意志、よく考えるとどうして映画になるのか?と思うようなことがしっかりと映画になっていて、とても幸せな時間でした。
アキ・カウリスマキ作品の中で携帯電話が出てくるのは新鮮?で、まぁささいな小道具にしか過ぎず、待つ時間の切なさ、会う瞬間の愛おしさが何よりも代え難いものだと改めて描かれていました。
ロシアとウクライナの戦争は隣国フィンランドでは日本にいる我々とは比較してないくらい切実なものであろうし、その中で生活をする、自暴自棄にならないでいこう、と強い意志も感じました。
素晴らしい。
極私的“小津派”四方山話
本作は個人的にはお気に入りの作品ですが、感想は特別に書きたいことも無いのでパスしようと思ったのですが、軽く映画の四方山話でもしておきます。
時代は1980年代後期から90年代にかけて、日本では(大都市圏において)ミニシアターがブームとなり、今までと違う配給形態でそれまでは映画専門家しか知らない様な、様々な国や映画作家の作品が一般の映画ファンにも見られるようになりました。
それにより世界の映画の様々な情報も入るようになり、逆に日本映画を海外の映画作家達がどのように捉えているのかの情報も入って来て、ヨーロッパやアジアの人々や映画作家がどんな日本映画を見ているのかなども情報も入ってきました。
そこでクローズアップされたのが、日本の巨匠と呼ばれている監督の中でも特に小津監督の信奉者が多いという事がありました。なので、逆に当時の日本人(特に若い映画ファン)に小津監督が再評価され、ちょっとした小津映画ブームにもなり、そういう私もそれまでに数本の小津作品しか見ていませんでしたが、あらためて見直した記憶が蘇ります。
アキ・カウリスマキ監督もそれで有名でしたが、多くの信奉者と言われる映画作家全てが小津作品の様な映画なのか?というとそれはまた全く別次元の話で、それぞれの思う小津的スタイルの影響を受けてはいるものの、独自のスタイルの確立こそにその真髄があると捉えていた様な気はしました。
特にカウリスマキ監督作品は独特で(この人の映画スタイルは唯一無二であり)、多くの日本人もこのスタイルは初体験だったと思います。私が最初に見た彼の作品は『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』だったと思いますが、最初は良さは分かりませんでしたね(苦笑)
分らないままに、何本か続けて見て行くうちに表現スタイルに慣れてくる。次に癖になり、次に面白くなって来る(良さが分かって来る)というなんか段階がある様なのです。
勿論、元々内包しているモノにそれなりの魅力がある監督に限られているのですが、それこそが“スタイルの確立”する重要な意味が隠されているのかも知れないと、この頃の多くの映画作家の作品を見た結果、そういう法則を感じてしまいました。そういう意味に於いて小津監督は唯一無二であり頂点だった様に思えます。
あと、カウリスマキに特に小津を感じてしまうののは、タイトルと物語ですかね。まあ、どちらも何本かは違いますが、小津作品にしてもカウリスマキ作品にしても、私はタイトルだけを聞いても直ぐにどの作品でどんな物語だったのか思い出せないのですが、見返すとシミジミと良い作品だと感じてしまっているのです。
例えば黒澤作品でタイトルと内容が一致しない作品なんてありませんからね。その辺り不思議なんですよね。どの作品も同じようなものだと感じながらも、見る度にどの作品にも感動してしまうという、小津信奉者の作品についてはその傾向を強く感じられます。本作『枯れ葉』もまさしくその通りの作品でしたねぇ。
しかし、黒澤派の様に思われがちのスコセッシなどにもその傾向が強く、ひょっとしたら実は小津派だったのかも知れません(笑)
引退を撤回してくれて、うれしい。
この映画では、中年に差し掛かった魅力的な女性アンサ(アルマ・ポウスティ)と、アルコール依存症の金属工ホラッパ(ユッシ・バタネン)が出会い、これ以上ないほど不器用に仲を深めようとする。かなり古風な二人は、60-70年代から、ファッション、小物(タバコ)、家の室内(ポータブルラジオ(真空管)や固定電話)、工場の内景(工具など)、風俗(カラオケ(日本の初期のそれにそっくり)、ジュークボックス)、古い電車やバス停までを伴って、PC・携帯(あのノキアの小型の)からスマホに変遷している現代に(時空を超えて)移行し、我々の課題でもあるロシアのウクライナ侵攻に直面する。ちょうど、アキ・カウリスマキ監督の「ル・アーヴルの靴みがき(2011年製作)」と同じ。
二つの時代を繋げているのは、映画と音楽。映画としては、2019年のゾンビ映画「デッド・ドント・ダイ」を二人で古い映画館で見る。でも映画館の外には、軽蔑(63)や、デヴィット・リーンの「逢びき」のポスターが貼ってあり、観客は、ヌーヴェル・ヴァーグに言及する。音楽としては、地元フィンランドのややノスタルジックなデュオ(マウステテュトット)、表題のフランスの「枯れ葉」、ロシアのチャイコフスキー「交響曲第6番・悲愴」、オーストリア・シューベルトの「セレナーデ」、日本の「竹田の子守唄」(「赤い鳥」が歌った関西フォークの原点の一つ)など。いずれも背景にピッタリはまって、間然とするところがなかった。おそらくカウリスマキは、映画や音楽の背景にある感性(感情)は、二つの時代に共通していて、しかも国際的にも普遍的と言いたいのだろう。
もう一つ気になったこと、ホラッパは、いくらアルコール(ウオッカのストレート)を飲んでも、顔色一つ変えない(日本人との違い)。彼らは、アルコールの代謝活性が高い。では、何故、依存症になるのか。彼は、アルコールが体内にないと元気が出ず、仕事に打ち込んだり、人に会ったりもできない。ただアルコールに強いので、すぐ代謝してしまい、長く身体に残らない。だから、ウオッカをいつも持ち歩いているだけでなく、いろんなところにおいて、仕事を始める前も、仕事中も、いつも飲む。では、彼の身体は結局どうなるのだろう。高いアルコール濃度に晒され続けると、臓器の障害がおきて、やがて腫瘍をつくる。アンサの兄や父のように。しかも、それと前後して、アルコールによる脳の障害が起きる。これが本当のアル中。ヨーロッパの街頭には、たくさんいる。
アンサの部屋での二人の食事は、質素だけれど、本当に好ましかった。ホラッパは、隣人にジャケットをもらって着込み、花束を買って訪ねる。アンサは、食事の材料と共に、一人分のお皿と、カトラリーも買った。食事では、スパークリング・ワインを食前酒に、アスパラガスの前菜と肉料理。彼は、アルコールが足りず、当然のように隠し持っていたボトルに口を付ける。それを見たアンサは兄と父のことを告げて、ホラッパを拒絶し、買ったばかりのお皿もお払い箱に。ホラッパが依存症を克服するためには、アンサによる強い拒絶が必要だったのだ。
カウリスマキは、ノスタルジーに浸っているわけではなく、過去から現在を見ている。シベリウスの「フィンランディア」の国が、ロシアの侵攻を許せるはずもない。しかし、過去から現在を見ることは、彼が貧しい労働者階級の出身だからできたのだろう。きっと、現在から未来も見えるのだと思うから、次の映画も作って欲しい。その根底には、昔も今も共通し、国をも超えた感性の流れがある。私たちはホラッパと違ってアルコールに弱く、従って手ひどい拒絶に会うこともないが、この映画から学ぶこともまた多かった。
独特のまどろっこしい恋愛ストーリー
アキ・カウリスマキ監督作を初めて鑑賞しました。
アンサもホラッパもすごく不器用でまどろっこしいのだけれど、
それがいい!と率直に思いました。
この独特な世界観というか空気感というか、これがカウリスマキ監督のなせるわざなのだろうと。
初デートでゾンビ映画を選ぶホラッパ、それを面白いと言ってくれるアンサ、ステキです。
大事な女性の電話番号をなくすホラッパ、お互いデートした映画館の前で姿を探すところが、実によいです。
ところどころ、ロシアとウクライナの戦争のラジオが流れます。
そしてカレンダーを見ると2024年。少し未來の話だったんですね。それでも戦争は続いているけれども、
そんな最中でも、ささやかな幸せ、ラブストーリーがここにあり、とても救われる気持ちになりました。
それから、フィンランドでサッカーが国民にすごく根付いたスポーツであることも微笑ましいですし、
独特のちょっとした笑いをところどころで入れてくるあたりも、ツボでした。
犬の名前がチャップリンかぁ。アンサは本当に映画好きな女性なのかもしれませんね。
ホッとできる作品。私は好きです。
日々の暮らしに恵まれない男女の、出会いから共に生きようと歩き出すまでを描いた人間ドラマです。もの悲しさの中にも光を感じられる作品です。
ポスターに惹かれて、何か良さそうと思って鑑賞することにした
作品です。フィンランドの作品というのも鑑賞のきっかけでした。
今年最初の劇場鑑賞です。
作品紹介で、監督のアキ・カウリスマキという方を名匠と解説され
ていたのですが、不勉強にて全く存じあげませんでした。@_@;;
「労働者3部作に連なる作品」とも紹介されているのですが、当然
どんな作品なのかが分かりません。・_・;;
そんな訳で、" 楽しめるかな? " と不安半分で鑑賞したのですが
根本的に「楽しい」作品では無く、フィンランドの労働者の現状を
描いた話でした。どちらかといえば「薄暗い」雰囲気が漂っている
ように感じました。 @_@;;
◇
主な登場人物は、主人公の男女ふたり。
男の名はホラッパ。
アル中予備軍。溶接工(?)の仕事の途中に隠れて飲酒している
のがバレて、職場をクビに。 …う~ん。これはダメでしょ。
女の名はアーサ。
スーパーで働いていた。消費期限切れの食品(本来は廃棄する)を
持ち帰っていたのがバレて解雇される。 …う~ん。ダメ…なのか?
そんな二人がカラオケバーで出会う。
ささやかな出会いなのだが、互いに心に響くものがあったらしい。
女の家に食事に招かれた男は友人から上着を借り、一輪の花を求め
女の家に向かう。女は客用の食器と、食前酒の小さな瓶を買い求め
男の訪問を待つ。
ぎこちない会話と、たどたどしい雰囲気での食事。
緊張の中、男は酒のおかわりを求める。
だが、最初の一本しか用意は無い。そう答えると
男は自分の持ち込んだ酒瓶を口にし始める。
” ここはパブではないのよ? ” と女。
” 俺は指図されるのがキライだ ” と男。
男は女の家を出て行く。終わった。
客用の食器をごみ箱に放り込む女。 (あの…分別は?)
これで終わり。何もかも元のまま。何も残らない…
…という訳ではなかった。
今のままではダメだ。変わらなければダメだ。
やがて男は酒を断つ決心をする。
酒のボトルをゴミ箱に放り込む。 (あの…分別…)
禁酒。断酒。 …そして
女の電話が鳴る。…誰だろう。 電話に出る。
” 俺だ ”
” … ?”
” 酒は止めた ” しばしの沈黙。そして
” ウチに来る? ”
” いいのか? ”
出会いは偶然。
継続は人の意志と努力。
このままハッピーエンドへと向かうのかと思われたのだが…
◇
この監督の作品全般がそうなのかは全く分からないのですが
・フレームに収めたような構図で (きちっとした感じ)
・静かに落ち着いた場面展開の中に (穏やかな雰囲気)
・ゆったり流れるような場面を撮る (スローテンポ)
そんな特徴のある作風のなのだろうか と感じた次第です。・-・
※ 的外れならゴメンなさい。
反論しません(できません) @_@;; デス
◇あれこれ
■この作品の時代背景
がいつなのだろうかと、まだ悩んでいます。
今から50年くらい前の社会を描いているのかと思って
観始めたのですが、ラジオから流れてくるニュースは
ロシアのウクライナ侵攻でした。@_@;ビックリ
あれ? もしかして現代?
そう思ったのですが、アンサが部屋のラジオを選局する動作
を見ていると、” アナログ ダイヤル式 ” なのです。
日本なら1980年代のラジカセまではそんな感じだったかと
思うのですが、フィンランドでは違うのでしょうか?
う~ん。そんな訳でいつのお話なのかが掴めておりません。
作品の本質とは異なる箇所で悩んでいる気がします… ×_×
■「信仰上の妹」って?
病院に入院したホラッパを見舞うアンサ。
病院の窓口でホラッパの病室を尋ね、患者との関係を聞かれて
「兄です。信仰上の」
信仰上の兄(兄弟姉妹?)とはいったい…??
一種の義兄弟みたいなモノなのか
それともキリスト教的な特殊な関係なのか
(もしくはアンサの冗談なのか…)
こんなところも頭に引っかかって悩んでいます。@_@
◇最後に
この作品が「薄暗い」印象とレビュー冒頭に書いたのですが
ラストシーンから感じたのは「希望」でした。
男と女,そして女が飼い始めた犬。
その二人と一匹が、広々とした通りを歩いていくシーン。
ただそれだけの場面なのに、二人の行く末に希望を感じさせる
終わり方のように思えました。不思議です。
それが、この監督の思惑通りだったのなら 脱帽です。・_・;
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
全194件中、81~100件目を表示














