枯れ葉のレビュー・感想・評価
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鋳型でできたブタより劣る生き物
そんな量産型な男たち(フィンランドも日本も同じですね)を、厳しくもWカップでフィンランドが決勝に進んでブラジルと戦うことになるファンタジーの世界で救ってみせる、素晴らしい映画でした。
いい年したおじさんおばさんがもじもじしながら距離を縮めて、良くなろうと決意する瞬間、生活を淡々と送る強い意志、よく考えるとどうして映画になるのか?と思うようなことがしっかりと映画になっていて、とても幸せな時間でした。
アキ・カウリスマキ作品の中で携帯電話が出てくるのは新鮮?で、まぁささいな小道具にしか過ぎず、待つ時間の切なさ、会う瞬間の愛おしさが何よりも代え難いものだと改めて描かれていました。
ロシアとウクライナの戦争は隣国フィンランドでは日本にいる我々とは比較してないくらい切実なものであろうし、その中で生活をする、自暴自棄にならないでいこう、と強い意志も感じました。
素晴らしい。
極私的“小津派”四方山話
本作は個人的にはお気に入りの作品ですが、感想は特別に書きたいことも無いのでパスしようと思ったのですが、軽く映画の四方山話でもしておきます。
時代は1980年代後期から90年代にかけて、日本では(大都市圏において)ミニシアターがブームとなり、今までと違う配給形態でそれまでは映画専門家しか知らない様な、様々な国や映画作家の作品が一般の映画ファンにも見られるようになりました。
それにより世界の映画の様々な情報も入るようになり、逆に日本映画を海外の映画作家達がどのように捉えているのかの情報も入って来て、ヨーロッパやアジアの人々や映画作家がどんな日本映画を見ているのかなども情報も入ってきました。
そこでクローズアップされたのが、日本の巨匠と呼ばれている監督の中でも特に小津監督の信奉者が多いという事がありました。なので、逆に当時の日本人(特に若い映画ファン)に小津監督が再評価され、ちょっとした小津映画ブームにもなり、そういう私もそれまでに数本の小津作品しか見ていませんでしたが、あらためて見直した記憶が蘇ります。
アキ・カウリスマキ監督もそれで有名でしたが、多くの信奉者と言われる映画作家全てが小津作品の様な映画なのか?というとそれはまた全く別次元の話で、それぞれの思う小津的スタイルの影響を受けてはいるものの、独自のスタイルの確立こそにその真髄があると捉えていた様な気はしました。
特にカウリスマキ監督作品は独特で(この人の映画スタイルは唯一無二であり)、多くの日本人もこのスタイルは初体験だったと思います。私が最初に見た彼の作品は『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』だったと思いますが、最初は良さは分かりませんでしたね(苦笑)
分らないままに、何本か続けて見て行くうちに表現スタイルに慣れてくる。次に癖になり、次に面白くなって来る(良さが分かって来る)というなんか段階がある様なのです。
勿論、元々内包しているモノにそれなりの魅力がある監督に限られているのですが、それこそが“スタイルの確立”する重要な意味が隠されているのかも知れないと、この頃の多くの映画作家の作品を見た結果、そういう法則を感じてしまいました。そういう意味に於いて小津監督は唯一無二であり頂点だった様に思えます。
あと、カウリスマキに特に小津を感じてしまうののは、タイトルと物語ですかね。まあ、どちらも何本かは違いますが、小津作品にしてもカウリスマキ作品にしても、私はタイトルだけを聞いても直ぐにどの作品でどんな物語だったのか思い出せないのですが、見返すとシミジミと良い作品だと感じてしまっているのです。
例えば黒澤作品でタイトルと内容が一致しない作品なんてありませんからね。その辺り不思議なんですよね。どの作品も同じようなものだと感じながらも、見る度にどの作品にも感動してしまうという、小津信奉者の作品についてはその傾向を強く感じられます。本作『枯れ葉』もまさしくその通りの作品でしたねぇ。
しかし、黒澤派の様に思われがちのスコセッシなどにもその傾向が強く、ひょっとしたら実は小津派だったのかも知れません(笑)
引退を撤回してくれて、うれしい。
この映画では、中年に差し掛かった魅力的な女性アンサ(アルマ・ポウスティ)と、アルコール依存症の金属工ホラッパ(ユッシ・バタネン)が出会い、これ以上ないほど不器用に仲を深めようとする。かなり古風な二人は、60-70年代から、ファッション、小物(タバコ)、家の室内(ポータブルラジオ(真空管)や固定電話)、工場の内景(工具など)、風俗(カラオケ(日本の初期のそれにそっくり)、ジュークボックス)、古い電車やバス停までを伴って、PC・携帯(あのノキアの小型の)からスマホに変遷している現代に(時空を超えて)移行し、我々の課題でもあるロシアのウクライナ侵攻に直面する。ちょうど、アキ・カウリスマキ監督の「ル・アーヴルの靴みがき(2011年製作)」と同じ。
二つの時代を繋げているのは、映画と音楽。映画としては、2019年のゾンビ映画「デッド・ドント・ダイ」を二人で古い映画館で見る。でも映画館の外には、軽蔑(63)や、デヴィット・リーンの「逢びき」のポスターが貼ってあり、観客は、ヌーヴェル・ヴァーグに言及する。音楽としては、地元フィンランドのややノスタルジックなデュオ(マウステテュトット)、表題のフランスの「枯れ葉」、ロシアのチャイコフスキー「交響曲第6番・悲愴」、オーストリア・シューベルトの「セレナーデ」、日本の「竹田の子守唄」(「赤い鳥」が歌った関西フォークの原点の一つ)など。いずれも背景にピッタリはまって、間然とするところがなかった。おそらくカウリスマキは、映画や音楽の背景にある感性(感情)は、二つの時代に共通していて、しかも国際的にも普遍的と言いたいのだろう。
もう一つ気になったこと、ホラッパは、いくらアルコール(ウオッカのストレート)を飲んでも、顔色一つ変えない(日本人との違い)。彼らは、アルコールの代謝活性が高い。では、何故、依存症になるのか。彼は、アルコールが体内にないと元気が出ず、仕事に打ち込んだり、人に会ったりもできない。ただアルコールに強いので、すぐ代謝してしまい、長く身体に残らない。だから、ウオッカをいつも持ち歩いているだけでなく、いろんなところにおいて、仕事を始める前も、仕事中も、いつも飲む。では、彼の身体は結局どうなるのだろう。高いアルコール濃度に晒され続けると、臓器の障害がおきて、やがて腫瘍をつくる。アンサの兄や父のように。しかも、それと前後して、アルコールによる脳の障害が起きる。これが本当のアル中。ヨーロッパの街頭には、たくさんいる。
アンサの部屋での二人の食事は、質素だけれど、本当に好ましかった。ホラッパは、隣人にジャケットをもらって着込み、花束を買って訪ねる。アンサは、食事の材料と共に、一人分のお皿と、カトラリーも買った。食事では、スパークリング・ワインを食前酒に、アスパラガスの前菜と肉料理。彼は、アルコールが足りず、当然のように隠し持っていたボトルに口を付ける。それを見たアンサは兄と父のことを告げて、ホラッパを拒絶し、買ったばかりのお皿もお払い箱に。ホラッパが依存症を克服するためには、アンサによる強い拒絶が必要だったのだ。
カウリスマキは、ノスタルジーに浸っているわけではなく、過去から現在を見ている。シベリウスの「フィンランディア」の国が、ロシアの侵攻を許せるはずもない。しかし、過去から現在を見ることは、彼が貧しい労働者階級の出身だからできたのだろう。きっと、現在から未来も見えるのだと思うから、次の映画も作って欲しい。その根底には、昔も今も共通し、国をも超えた感性の流れがある。私たちはホラッパと違ってアルコールに弱く、従って手ひどい拒絶に会うこともないが、この映画から学ぶこともまた多かった。
独特のまどろっこしい恋愛ストーリー
アキ・カウリスマキ監督作を初めて鑑賞しました。
アンサもホラッパもすごく不器用でまどろっこしいのだけれど、
それがいい!と率直に思いました。
この独特な世界観というか空気感というか、これがカウリスマキ監督のなせるわざなのだろうと。
初デートでゾンビ映画を選ぶホラッパ、それを面白いと言ってくれるアンサ、ステキです。
大事な女性の電話番号をなくすホラッパ、お互いデートした映画館の前で姿を探すところが、実によいです。
ところどころ、ロシアとウクライナの戦争のラジオが流れます。
そしてカレンダーを見ると2024年。少し未來の話だったんですね。それでも戦争は続いているけれども、
そんな最中でも、ささやかな幸せ、ラブストーリーがここにあり、とても救われる気持ちになりました。
それから、フィンランドでサッカーが国民にすごく根付いたスポーツであることも微笑ましいですし、
独特のちょっとした笑いをところどころで入れてくるあたりも、ツボでした。
犬の名前がチャップリンかぁ。アンサは本当に映画好きな女性なのかもしれませんね。
ホッとできる作品。私は好きです。
日々の暮らしに恵まれない男女の、出会いから共に生きようと歩き出すまでを描いた人間ドラマです。もの悲しさの中にも光を感じられる作品です。
ポスターに惹かれて、何か良さそうと思って鑑賞することにした
作品です。フィンランドの作品というのも鑑賞のきっかけでした。
今年最初の劇場鑑賞です。
作品紹介で、監督のアキ・カウリスマキという方を名匠と解説され
ていたのですが、不勉強にて全く存じあげませんでした。@_@;;
「労働者3部作に連なる作品」とも紹介されているのですが、当然
どんな作品なのかが分かりません。・_・;;
そんな訳で、" 楽しめるかな? " と不安半分で鑑賞したのですが
根本的に「楽しい」作品では無く、フィンランドの労働者の現状を
描いた話でした。どちらかといえば「薄暗い」雰囲気が漂っている
ように感じました。 @_@;;
◇
主な登場人物は、主人公の男女ふたり。
男の名はホラッパ。
アル中予備軍。溶接工(?)の仕事の途中に隠れて飲酒している
のがバレて、職場をクビに。 …う~ん。これはダメでしょ。
女の名はアーサ。
スーパーで働いていた。消費期限切れの食品(本来は廃棄する)を
持ち帰っていたのがバレて解雇される。 …う~ん。ダメ…なのか?
そんな二人がカラオケバーで出会う。
ささやかな出会いなのだが、互いに心に響くものがあったらしい。
女の家に食事に招かれた男は友人から上着を借り、一輪の花を求め
女の家に向かう。女は客用の食器と、食前酒の小さな瓶を買い求め
男の訪問を待つ。
ぎこちない会話と、たどたどしい雰囲気での食事。
緊張の中、男は酒のおかわりを求める。
だが、最初の一本しか用意は無い。そう答えると
男は自分の持ち込んだ酒瓶を口にし始める。
” ここはパブではないのよ? ” と女。
” 俺は指図されるのがキライだ ” と男。
男は女の家を出て行く。終わった。
客用の食器をごみ箱に放り込む女。 (あの…分別は?)
これで終わり。何もかも元のまま。何も残らない…
…という訳ではなかった。
今のままではダメだ。変わらなければダメだ。
やがて男は酒を断つ決心をする。
酒のボトルをゴミ箱に放り込む。 (あの…分別…)
禁酒。断酒。 …そして
女の電話が鳴る。…誰だろう。 電話に出る。
” 俺だ ”
” … ?”
” 酒は止めた ” しばしの沈黙。そして
” ウチに来る? ”
” いいのか? ”
出会いは偶然。
継続は人の意志と努力。
このままハッピーエンドへと向かうのかと思われたのだが…
◇
この監督の作品全般がそうなのかは全く分からないのですが
・フレームに収めたような構図で (きちっとした感じ)
・静かに落ち着いた場面展開の中に (穏やかな雰囲気)
・ゆったり流れるような場面を撮る (スローテンポ)
そんな特徴のある作風のなのだろうか と感じた次第です。・-・
※ 的外れならゴメンなさい。
反論しません(できません) @_@;; デス
◇あれこれ
■この作品の時代背景
がいつなのだろうかと、まだ悩んでいます。
今から50年くらい前の社会を描いているのかと思って
観始めたのですが、ラジオから流れてくるニュースは
ロシアのウクライナ侵攻でした。@_@;ビックリ
あれ? もしかして現代?
そう思ったのですが、アンサが部屋のラジオを選局する動作
を見ていると、” アナログ ダイヤル式 ” なのです。
日本なら1980年代のラジカセまではそんな感じだったかと
思うのですが、フィンランドでは違うのでしょうか?
う~ん。そんな訳でいつのお話なのかが掴めておりません。
作品の本質とは異なる箇所で悩んでいる気がします… ×_×
■「信仰上の妹」って?
病院に入院したホラッパを見舞うアンサ。
病院の窓口でホラッパの病室を尋ね、患者との関係を聞かれて
「兄です。信仰上の」
信仰上の兄(兄弟姉妹?)とはいったい…??
一種の義兄弟みたいなモノなのか
それともキリスト教的な特殊な関係なのか
(もしくはアンサの冗談なのか…)
こんなところも頭に引っかかって悩んでいます。@_@
◇最後に
この作品が「薄暗い」印象とレビュー冒頭に書いたのですが
ラストシーンから感じたのは「希望」でした。
男と女,そして女が飼い始めた犬。
その二人と一匹が、広々とした通りを歩いていくシーン。
ただそれだけの場面なのに、二人の行く末に希望を感じさせる
終わり方のように思えました。不思議です。
それが、この監督の思惑通りだったのなら 脱帽です。・_・;
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
またしても
斬新なポートレイトショットやこれでもかというハードな人物ライティング。そして配色センス抜群の衣装とセット。暗い内容なのになぜか少し明るい気分で鑑賞できてしまうアキカウリスマキ作品。
今回も堪能しました。
劇中に出てくるバンドのマウステテュトット(Maustetytöt)は、ヘルシンキ在住の姉妹デュオ。この楽曲も最高だぁ。
オフビート&ノスタルジック! 小津とブレッソンに捧げる、つましくささやかな恋愛映画。
そういや、僕が学生時代、アキ・カウリスマキといえば「オフビート」映画の代名詞みたいな言われようをしてたんだっけ。
今あらためて、パンフを開けてみると、気づく範囲ではどこにも「オフビート」の単語が見当たらない。
カウリスマキ作品の評価が変わったのか。
「オフビート」の語を使う際の「語感」が、時代にしたがって変化したのか。
それとも評価語としての「オフビート」自体が、もはや流行らなくなったのか。
なんとも面白いものだ。
僕の感覚からすれば、カウリスマキというのは若いころから、そう大きく芸風が変わったわけでもない。
だから、相も変わらず一番ピンとくる彼の映画を形容する言葉は、
そう、「オフビート」だ。
― ― ―
今回20年ぶりくらいにカウリスマキの新作を観て、思っていた以上に小津の影響が強いことを痛感した。彼の映画に漂う「オフビート」な感じの淵源も、7割方そこに由来するのではないだろうか(小津を観ても1ミクロンも「オフビート」とは思わないんだけど)。
左右に割り振られた二人が、交互に会話を交わす。
ぶっきらぼうな言い回しだが、まるでリアルではない。
リアルではないが、かといって演劇調でもない。
あえて棒読みで、機械的に吐き捨てるような口調。
つくりこんだネタ感の強い台詞が、一定のテンポで積み重ねられる。
ああ、この感覚は、まさに小津じゃないか。
「なにげない日常」を「映画」として「聖化」してしまう、
儀式的に繰り返される「下手なセリフ」の絶妙の異化効果。
カウリスマキのオフビートのベースには、「小津ビート」がある。
改めてそれを思い知らされた。
逆に、偏執的な独自のカメラワークで世界観を練り込んでゆく小津と違って、
カウリスマキの撮り方は、自然だし、無理がないし、クセがない。
クセはないけど、十分に個性的。
でも、そこで殊更の自己主張はしない。
(しいていえば、セザンヌかミレーの絵のように向き合ってディナーを食べる二人とか、直立不動で歌う女性デュオと、それを棒立ちで聴く観衆あたりに小津っぽさはあるかもしれないが、むしろその作為的だが静的なやり口はブレッソンに近いかも。映画館のシーンなどは『たぶん悪魔が』なんかを想起させるし。)
パンフレットに、アキ・カウリスマキの言葉が巻頭言として引用されている。
僕の感覚でいうと『枯れ葉』の本編以上に胸にささる面白い言い回しだったのだが、そこで彼はこんなことを言っている。
「この映画では、我が家の神様、ブレッソン、小津、チャップリンへ、私のいささか小さな帽子を脱いでささやかな敬意を捧げてみました。しかしそれが無残にも失敗したのは全てが私の責任です」
ブレッソン、小津、チャップリン。
ああ、なるほど。
この三つをうまい具合に混ぜ合わせると、
即物性と、儀式性と、笑いとペーソスが組み合わさって、
いわゆる「オフビート」なテイストが醸成されるんだな。
なんだかとても、得心がいった。
考えてみると、新年早々観たのがヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』。
次に観たのがアキ・カウリスマキの『枯れ葉』。
立て続けに海外の名だたる小津フォロワーの新作を観たというのは、なんだか不思議な縁を感じる。
なんといっても、昨年の12月12日に小津安二郎監督は生誕120年を迎えた。
今年は記念行事も目白押しだ。
それを寿ぐかのように、ヴェンダースとカウリスマキが、「自分なりの小津」をベースに映画をつくって、それらがまさに小津生誕のメモリアルイヤーに日本で封切られている。
かたや日本が舞台。キャストも日本人で、扱われているテーマ自体が日本人の美徳だ。
かたや最初に流れてくる音楽が、まさかの「竹田の子守唄」ときた(すげえなおい)。
粋な洋画を観ながら、小津の偉大さをかみしめる。
いやあ、最高にイカす追善供養じゃないですか。
― ― ―
僕はもともと一滴も酒を飲まないので、アルコール依存に関してはよくわからない。
タバコも昔は一日50本喫っていたが、30代で入院したときに2週間喫わなくてもまったく禁断症状がでなかったので、会社の机で喫えなくなったのを機にすぱっと辞めてしまった。
それ以来、喫いたいと思ったことは一度もない。
(逆に言うと、喫おうと思えばいつでも喫煙者に戻れるし、タバコの香りは大好きだ。)
なので、正直、主人公ホラッパの抱えている問題には、ほとんど共感するところがない。
ヒロインのアンサ(アンザと僕には聞こえたが、パンフに準拠しておく)のほうも、まあスーパーマーケットのルールを破ってバレたんだからクビはしょうがないね、という感じ。少なくとも店の上司は「感じが悪い」だけで別段「理不尽」ではないし、僕は必ずしも虐げられている側に共感しない性質なので(無条件にプロレタリアートに肩入れするスタンスには与しない)、ヒロインへの共感も薄い。
そもそも、僕は「一目惚れ」という現象に甚だ懐疑的で、そんなカラオケバーで出会っただけで恋に落ちられてもなあ、という印象が先に立ってしまった。
ただ、そういう設定上の「遠さ」以上に、
一部の「演出」が妙に古くさく感じられて、
それが観ているあいだずっと気になっていた。
たとえば、電話番号がポケットから落ちて風に吹かれて飛んでくとか。
ふたりの恋心がもりあがると、チャイコフスキーの「悲愴」が流れるとか。
歓びいさんでかけつけようとしたら、トラムに轢かれるとか。
突然、「ベタすぎて引く」ようなことを、しれっとかましてくる。
なんだろう、この違和感? そう思っていた。
で、映画を観終わってパンフを読むと、映画評論家の川口敦子さんが批評記事を書いていた。曰く、「が、名指しされた3人以上にこの最新作に響いているのはメロドラマ、とりわけ先の評伝でもその分野で『ブレッソンに挑み続けていた』と称えているダグラス・サークのそれではなかったか」。
なーるほど、さすがはプロの視点、まったく気が付かなかった。
ダグラス・サークか!!
同じパンフにある、本国で掲載された雑誌記事の転載を読むと、
「『枯れ葉』のインスピレーションは、デヴィッド・リーン監督の『逢びき』、ひいてはビリー・ワイルダー監督の『失われた週末』に触発されていて、これらはいずれも1945年の作品だ」とあって、カウリスマキと「ノスタルジー」の関係について深掘りしている。
こちらも、なるほどと膝を打つ内容。『逢びき』か、たしかに!!
要するに、ひとしきりアクションものばかり撮って来たアキ・カウリスマキは、彼にとっては新機軸になる「小さくてつましい恋愛映画」を撮るにあたって、あえて40~50年代のハリウッド製メロドラマを意識的に引用し、それを換骨奪胎しているわけだ。
だからこそ、二人の恋の始まりは妙に「突然」だし、恋心が高まると比較的「唐突」に「悲愴」の第一楽章第二主題がベッタベタに鳴り響くのだ。で、当然のように主人公は撥ねられて病院送りになると(笑)。
カウリスマキのなかで、恋愛映画とは「そういうものだから」。
つくづく、さくっと撮っているように見えて、実はいろいろと作為的だし、敬愛する過去作品に関する知識を総動員して創る、シネフィル的アプローチを決して手放さない人だ。
― ― ―
シネフィル的といえば、ふたりが初めてデートするシーンは、まさにオフビートで面白かった。
なぜ最初のデート・ムーヴィーが、よりによってジム・ジャームッシュのゾンビ映画なのか(笑)。『デッド・ドント・ダイ』は、一目見れば分かるとおり、ロメロの一連のゾンビ映画のパロディ映画であり、ジム・ジャームッシュは昔からのアキ・カウリスマキの盟友だ。
で、映画鑑賞後、オッサンたちがブレッソンの『田舎司祭』を彷彿とさせるとか、ゴダールの『はなればなれに』だろうとか、猛烈な知ったかのマウント合戦をかましている。
偶然、どちらも最近のリヴァイヴァルで僕も観ているが、ゾンビ映画を語る流れで出てくるようなタイトルでは断じてない(笑)。
昔から、カウリスマキにはこういう「自虐的」なところがある。
どこか微笑ましくて、無性に愛したくなるような、自虐。
それは間違いなくアキ・カウリスマキの本質の一部だ。
それと、デート・ムーヴィーとして『デッド・ドント・ダイ』を選ぶセンス自体はたしかにオフビートといっていいものだが、この映画の「ゾンビ襲来」という主題と、ラジオから流れるウクライナ侵攻のニュースが合わさることで、理不尽な暴力や衆愚化、全体主義の恐怖にさらされている現代の恋人たち、というシリアスなテーマもまた浮かび上がってくる。
そして、そのシリアスなテーマを敢えて「笑い」を交えて描こうとする精神においても、ジム・ジャームッシュとアキ・カウリスマキの間には、なにか通じるものがあるのかもしれない。
以下、観ていて感じたよしなしごとを箇条書きで。
●正直、序盤は主人公二人には共感しかねるし、なんの交流もないまま恋愛が始まるしで、あんまりピンとこないまま映画を観進めていたのだが、途中でヒロインのアンサが職場に迷い込んだ犬を飼い始めてからは、がぜん見やすくなったし、画面に躍動感が出て来たし、各シーンに退屈しなくなった。犬ってのは最高のにぎやかし要員だねえ。まあ、それは実生活でもそうだけど。
●古風な恋愛映画を現代風に改築して呈示しつつ、全編を通じてウクライナ侵攻のラジオを流し、現代の愚かな戦争を照射してみせる。ネタとしては十分理解できるし、監督の言によれば、まさにウクライナ侵攻があったからこそこの映画は生まれたのであって必然性も十分あるのだが、個人的には仕掛けがあざとすぎるというか、愚直なド直球の演出すぎて、Too much な感じがした。
●カラオケバーのシーンは最高。ここでも「意図的な日本的文物の引用」が、小津リスペクトがらみで敢行されている。微妙に変わった形で日本のカラオケバーのカルチャーが北欧では定着してるんだな(笑)。どこか「のど自慢」ぽいっていうか。
ちなみに僕は20代のころから、カラオケではフランク・シナトラとアンディ・ウイリアムズあたりを絶唱するタイプで、猛烈に学生仲間からは浮いていたのだが、こういうカラオケバーなら大歓迎だ。すげえ楽しそう。
●カラオケバーで主役の二人を完全に食っていた同僚のフオタリも最高。
外見からゲイだと信じ込んで観ていたら、なんと「強い熟女」マニアだったか……。
ちょっと指揮者のアレクサンダー・リープライヒのような風貌に、若干アスペっぽい怪しげな挙動と距離感のおかしさ。出番自体はそうたくさんないのに、強烈な印象を残すキャラクターだ。
ちなみに彼はカラオケで「バスバリトンだ」と自慢していて、たしかに声自体は良かったのだが、音程はまあまあひどかったように思う(もちろんわざとそう演出されている)。
そのあとシューベルトの『セレナーデ』を歌ったオヤジは、ふつうに上手い上にドイツ語原詞で歌っていて、こっちはまあまあ感じが悪かったように思う(笑)。
●とにかく印象的なのが、ファッションの随所に導入された赤、赤、赤。
最初はさすがはフィンランド、貧乏人でも赤着るんだなあ、お洒落なもんだと素直に思っていたが、考えてみるとこれ、「小津レッド」なんだな。『彼岸花』みたいな。
●個人的に、貧困層の労働者たちの苦難をリアルに描いたような映画にはたいして興味がないので、しょうじき初期の『労働三部作』に関しても、僕は良き観客だったとはいいがたかった。その点、今回の『枯れ葉』は、つくりものめいた恋愛ドラマが主軸になっていて、さらに深刻でシリアスな社会認識の割に、不思議と軽みと前向きな楽観性があることもあって、意外なくらい楽しく観ることができた。
「観たかったカウリスマキ」を観させてくれる
独特の色彩とノスタルジックな画面、印象的な歌と音楽、仏頂面の登場人物たちと最小限の台詞回しと、何から何までカウリスマキ印で、久しぶりに彼の新作を観られたということだけで幸せを感じてしまった。
ラジオからは、常にロシアによるウクライナ侵攻のニュースが流れ、どこか不穏な空気が漂っている。主人公の男女にしても、何度も職を失い、経済的にも、社会的にも、決して恵まれているとは言い難い。
そんな状況下で、運命のいたずらに翻弄され、すれ違いを繰り返す主人公たちの姿が、どこかトボけていて微笑ましいのも、カウリスマキらしくて嬉しくなる。
今回は、映画館が重要な舞台になっていて、カウリスマキの「映画愛」の一端が垣間見られるのも楽しい。
ラストで、「枯れ葉」のBGMが流れる中、枯れ葉の上を歩き去っていく2人と1匹の姿からは、ほのかな幸せと、そこはかとない希望が感じられ、「観たかったカウリスマキ」を観させてくれたという点において、満足のいく一作だった。
映画愛に心躍らせて
映画愛と驚きと感動の渦中へ!『TOVE/トーベ』でムーミンの作者として魅了したアルマ・ポウスティと、『アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場』での熱演が記憶に新しいユッシ・ヴァタネンが、カウリスマキの最新作で恋人役を熱演!名前も知らないまま恋に落ち、運命のいたずらを乗り越えようとする二人のストーリーは、まさに心躍るロマンスの極み。
アルマは現代女性の強さと脆さを、ユッシは憎めないダメ男の魅力を見事に表現。ウクライナの現実を織り交ぜたこの作品は、喜劇と悲劇が織りなす現代ラブストーリーの傑作。
また観たくなること間違いなし!🎥💫 #カウリスマキ新作 #アルマポウスティ #ユッシヴァタネン #映画愛 #ラブストーリー #現代映画 #映画レビュー #再観必至 #映画の夜 #ロマンス映画 #映画好きと繋がりたい
幸せはそれぞれ
人物は無機質な感じだが、背景や小物といった周囲はカラフル。
小ネタでくすっと笑わせる。
初デートがゾンビ映画、しかも、ジム・ジャームッシュのあれで、映画館から出てきた訳知り顔の観客のおっさんふたりが、昔の映画を持ち出して格調高く例えちゃって、ゾンビなのに! 「あんなに大量のゾンビがいて警官が勝てるわけ無いじゃん」(うろ覚えですがこんな意味)というアンサの感想に笑った。
映画館のポスターが昔の映画ばかりで、ここは街の名画座だろうか。
テレビもなく、スマホもない。連絡先の交換は、電話番号を手書きのメモの受け渡し。
ファッションからも労働環境からもいつの時代なのか伺えず、唯一分かるのが、ラジオから流れるロシアのウクライナ侵攻のニュース、ゼレンスキー大統領という言葉で、ようやく現代と分かる。
アンサは粉塵が舞う中マスクもせずに働いており、ホラッパの方も似たようなもので労働環境は良くないどころか悪い。ホラッパはその上アル中。ふたりとも短期で転職を繰り返す。いわゆる底辺労働者だが、それでも働いて自力で生活している。友だちもいるしカフェやバーによったり映画を見に行ったりはできる。不満も鬱屈もあるが、そこそこの日常がある。
若くないふたりだが、人生を悟って諦めているわけではなく、人任せでもなく、できる範囲で幸せを探している。
無機質だから人々の内面がわからないけど、よく考えたら人はそんなもので、表情があってもなくても、実は内面はその人本人だけものもで、表したいものだけを外に出す自由が、本人にはあるはず。お互いが相手を分かりたい、分からせたい気持ちが均衡が取れたら結構相性がいいんだと思う。
アンサが引き取った犬が、カラーリングがアンサに似ていて、コーディネートしたみたい。
これもなんかおかしみがある。
チャップリンってなんでかな。ふたりとも昔の映画が好きそうです。
アル中はそう簡単に克服できないようだけど、ふたりの今は、おそらく幸せだと思う。
大して面白いところはないが、味があって好きです。
普段観客が少ない映画館が、席の8割方が埋まっていた。
ここで両隣に人がいるなんて、と面食らいました。
「竹田の子守唄」って、しみじみいい曲ですね。
日本語じゃなくても心にしみしみします。
"Mambo Italiano"
独りより二人の方が良い、ラジオからは仕切りに今起きている戦争のリアルが悲惨な現実でありながら日常を生きる他国民には非現実的にも、寡黙な印象から徐々にズレた男でもあるホラッパの"結婚しかけた"なんて呆気に取られてしまうようなセリフを吐き、電話番号を書いたメモは紛失するし、どんな状況で轢かれたのやら、おまけにアル中で宿無し、とにかくタチが悪過ぎながらも粗野な感じは全くしない、ウィンクをするアンサが全てを掌で転がしているような、そんな余裕が垣間見れて彼女は幸せになれるかも、と、ホッとする瞬間にも思えたり!?
異彩を放つ存在感と不穏ながらも可愛らしい姉妹デュオであるマウステテュトッドの演奏シーンが物語と逸脱しているようで見事にハマっている世界観が素晴らしい、カウリスマキの新作を観てジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』が映る不思議な感覚、久々に観たい気分になったり、独りより二人でいる方が良いそんなシンプルな恋愛映画、どんな形でもその方が良い、それぞれで良いのだけれど。。。
めぐりあい
不運にも仕事を失った女と、酒がやめられない男が、惹かれあっているのに、タイミングが合わなかったり、少しの事にカチンときて喧嘩したり。人間同士なので分かりますが、タイミングってあるのですよね。でも、めぐりあいと言うのは不思議なものです。
二人の内面に触れることができる素敵な作品
叙情的な雰囲気が印象的で、言葉と体の裏にある心情がスクリーンを通して伝わります。
あと映画にでてくる言葉も特徴的でしたね。
短くありきたりな言葉だけど、クスッとしたり、切なくなったりしました。
それが表情や雰囲気と合わさり、唯一無二の世界観が作り上げられています。
苦しく複雑な世界。切なくなることもあるが、優しく暖かいものが確かにある。そんな素敵な映画です。
ロシアがウクライナに侵攻してます!
まさにカウリスマキ。中年の肉体労働者とスーパーの店員(途中から工員に転職)の恋。ラジオから聞こえてくるニュースはロシアのウクライナ進攻(執拗に繰り返し繰り返し流される。もしかしてフィンランド人カウリスマキはこれをやりたくてこの映像を撮った?)。流れてくる音楽や映像のなかで映される映画(ポスター)が今じゃない、1960年代?アンサが自宅で過ごす様子を映す画像はまるでエドワード・ホッパーの絵画のよう(無機質で古臭くて-50年代?-僕にはとても心地よいわけです)。ストーリーは極めてシンプルで(アル中男なんてあり得ないという人には拒絶だろうけど)底辺で足掻く男と女のハッピーエンドな恋愛。ぐっときました。これまで観たカウリスマキの映画のなかで一番好きかも。
寒そうな空気感でした
久しぶりのアキ・カウリスマキ監督映画。「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」以来、大ファンになっていました。81分という短さもいいですよね。
登場人物がみんな無表情なのが可笑しいし、カラオケバーのMCが老婦人だったり、美声自慢の友達がめっちゃ歌下手だったり、ずっと可笑しかったです。
でも、アルコールガバガバとタバコプカプカ、これって20年くらい前?と思ったら、ウクライナ戦争を伝えるラジオに「えっ⁉︎令和?」となりました。工事現場でタバコ吸ったりアルコール入れて重機操作は絶対ダメでしょうと、安全管理の仕事をしていたから、ここは笑えなかったな。
それに、食事に呼ばれて「お酒はこれだけ?」「ベッドが狭い」くらいしか発語せず、アルコール依存を指摘されると黙って出て行くなんてなぁ。少ないセリフでも、もっと可愛いげのあることを言ってくれないと応援する気にはなれなかったです。女友達の意見には大いに同意しました。
でも、映画館(名画座?)のポスター、デートで観た映画、電話番号を書いたメモを失くすエピソード、ロッカー室の綺麗な色のコート、レトロ感満載のラジオ、ラジオから流れる音楽、めっちゃ可愛いワンコ、路面電車など、寒そうな空気感含めて好きでした。
ラストシーンは、チャップリンの遺作(?)と同じだったような(遠い曖昧な記憶で確かすみません)。
ほんのり良い
初カウリスマキでフィンランド映画はほぼ初見。
ヘルシンキの労働階級ってこんなに貧しいのかとひたすら驚き。建物やら機械やらカラオケバーやらやたら古びている。
情報ソースがラジオで、アンサはパソコンもスマホも持ってないとは。ウクライナ紛争のニュースがなければ完全に昭和の時代?と思ってしまう。
ホラッパもその日暮らしでお金ないのにタバコと酒の消費はすごい。吸い殻バカスカ捨てる姿も気になってしまう細かい日本人…
アンサとホラッパはお互い気になるけど、名前も知らず、スマホもお互い使わないので無駄にすれ違い激しく、「君の名は」(佐田啓二岸恵子)か!と叫んでしまいそうな昭和感。
登場人物はみんな無表情だが、ときおりボソッと吐く冗談に一寸笑う。ホラッパの友人のセリフがいちいち可笑しかった。
アンサが野良犬を引き取って暮らし始めてから、彼女の優しさが垣間見えて、ストーリーに血が通ってきたような印象。
(ところで使ったお皿をキッチンの下の袋扉みたいな所に突っ込んでたがあれはどうなるの?)
ホラッパは踏んだり蹴ったりの人生だがエンディングには少しだけ明るい未来が見えてきて、応援したくなった。
無表情+寡黙な登場人物と、ある種淡白なストーリーの合間を縫って奏でられる音楽は多種多様且つ雄弁で、豊かな彩りを添えている。竹田の子守唄が、流れてきたのには驚いた。
全体としてすごく心を動かされるわけでもないが、観て良かったとほんのり思わせる作品だった。
「名前は?」「チャップリン」「ワンッ!」
シンプル、とゆうより殺風景な風景、相変わらず無愛想な人々、壁際の会話‥。赤や青の差し色でおしゃれなインテリアや洋風。クスッと、あるいはニヤッと笑ってしまうシーンに楽しませてもらいました。アキカウリスマキ監督、また、次回作も作ってくださいね!
音楽もよかったですねー🎵女の子のバンドの音楽(マウステテュトットとゆう姉妹デュオだとか)、チープで、可愛くて、好きです。
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