劇場公開日 2023年12月15日

「オフビート&ノスタルジック! 小津とブレッソンに捧げる、つましくささやかな恋愛映画。」枯れ葉 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5オフビート&ノスタルジック! 小津とブレッソンに捧げる、つましくささやかな恋愛映画。

2024年1月10日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

そういや、僕が学生時代、アキ・カウリスマキといえば「オフビート」映画の代名詞みたいな言われようをしてたんだっけ。

今あらためて、パンフを開けてみると、気づく範囲ではどこにも「オフビート」の単語が見当たらない。
カウリスマキ作品の評価が変わったのか。
「オフビート」の語を使う際の「語感」が、時代にしたがって変化したのか。
それとも評価語としての「オフビート」自体が、もはや流行らなくなったのか。
なんとも面白いものだ。

僕の感覚からすれば、カウリスマキというのは若いころから、そう大きく芸風が変わったわけでもない。
だから、相も変わらず一番ピンとくる彼の映画を形容する言葉は、
そう、「オフビート」だ。

― ― ―

今回20年ぶりくらいにカウリスマキの新作を観て、思っていた以上に小津の影響が強いことを痛感した。彼の映画に漂う「オフビート」な感じの淵源も、7割方そこに由来するのではないだろうか(小津を観ても1ミクロンも「オフビート」とは思わないんだけど)。

左右に割り振られた二人が、交互に会話を交わす。
ぶっきらぼうな言い回しだが、まるでリアルではない。
リアルではないが、かといって演劇調でもない。
あえて棒読みで、機械的に吐き捨てるような口調。
つくりこんだネタ感の強い台詞が、一定のテンポで積み重ねられる。

ああ、この感覚は、まさに小津じゃないか。
「なにげない日常」を「映画」として「聖化」してしまう、
儀式的に繰り返される「下手なセリフ」の絶妙の異化効果。
カウリスマキのオフビートのベースには、「小津ビート」がある。
改めてそれを思い知らされた。

逆に、偏執的な独自のカメラワークで世界観を練り込んでゆく小津と違って、
カウリスマキの撮り方は、自然だし、無理がないし、クセがない。
クセはないけど、十分に個性的。
でも、そこで殊更の自己主張はしない。
(しいていえば、セザンヌかミレーの絵のように向き合ってディナーを食べる二人とか、直立不動で歌う女性デュオと、それを棒立ちで聴く観衆あたりに小津っぽさはあるかもしれないが、むしろその作為的だが静的なやり口はブレッソンに近いかも。映画館のシーンなどは『たぶん悪魔が』なんかを想起させるし。)

パンフレットに、アキ・カウリスマキの言葉が巻頭言として引用されている。
僕の感覚でいうと『枯れ葉』の本編以上に胸にささる面白い言い回しだったのだが、そこで彼はこんなことを言っている。
「この映画では、我が家の神様、ブレッソン、小津、チャップリンへ、私のいささか小さな帽子を脱いでささやかな敬意を捧げてみました。しかしそれが無残にも失敗したのは全てが私の責任です」
ブレッソン、小津、チャップリン。
ああ、なるほど。
この三つをうまい具合に混ぜ合わせると、
即物性と、儀式性と、笑いとペーソスが組み合わさって、
いわゆる「オフビート」なテイストが醸成されるんだな。
なんだかとても、得心がいった。

考えてみると、新年早々観たのがヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』。
次に観たのがアキ・カウリスマキの『枯れ葉』。
立て続けに海外の名だたる小津フォロワーの新作を観たというのは、なんだか不思議な縁を感じる。
なんといっても、昨年の12月12日に小津安二郎監督は生誕120年を迎えた。
今年は記念行事も目白押しだ。
それを寿ぐかのように、ヴェンダースとカウリスマキが、「自分なりの小津」をベースに映画をつくって、それらがまさに小津生誕のメモリアルイヤーに日本で封切られている。
かたや日本が舞台。キャストも日本人で、扱われているテーマ自体が日本人の美徳だ。
かたや最初に流れてくる音楽が、まさかの「竹田の子守唄」ときた(すげえなおい)。
粋な洋画を観ながら、小津の偉大さをかみしめる。
いやあ、最高にイカす追善供養じゃないですか。

― ― ―

僕はもともと一滴も酒を飲まないので、アルコール依存に関してはよくわからない。
タバコも昔は一日50本喫っていたが、30代で入院したときに2週間喫わなくてもまったく禁断症状がでなかったので、会社の机で喫えなくなったのを機にすぱっと辞めてしまった。
それ以来、喫いたいと思ったことは一度もない。
(逆に言うと、喫おうと思えばいつでも喫煙者に戻れるし、タバコの香りは大好きだ。)
なので、正直、主人公ホラッパの抱えている問題には、ほとんど共感するところがない。

ヒロインのアンサ(アンザと僕には聞こえたが、パンフに準拠しておく)のほうも、まあスーパーマーケットのルールを破ってバレたんだからクビはしょうがないね、という感じ。少なくとも店の上司は「感じが悪い」だけで別段「理不尽」ではないし、僕は必ずしも虐げられている側に共感しない性質なので(無条件にプロレタリアートに肩入れするスタンスには与しない)、ヒロインへの共感も薄い。

そもそも、僕は「一目惚れ」という現象に甚だ懐疑的で、そんなカラオケバーで出会っただけで恋に落ちられてもなあ、という印象が先に立ってしまった。

ただ、そういう設定上の「遠さ」以上に、
一部の「演出」が妙に古くさく感じられて、
それが観ているあいだずっと気になっていた。

たとえば、電話番号がポケットから落ちて風に吹かれて飛んでくとか。
ふたりの恋心がもりあがると、チャイコフスキーの「悲愴」が流れるとか。
歓びいさんでかけつけようとしたら、トラムに轢かれるとか。
突然、「ベタすぎて引く」ようなことを、しれっとかましてくる。
なんだろう、この違和感? そう思っていた。

で、映画を観終わってパンフを読むと、映画評論家の川口敦子さんが批評記事を書いていた。曰く、「が、名指しされた3人以上にこの最新作に響いているのはメロドラマ、とりわけ先の評伝でもその分野で『ブレッソンに挑み続けていた』と称えているダグラス・サークのそれではなかったか」。
なーるほど、さすがはプロの視点、まったく気が付かなかった。
ダグラス・サークか!!

同じパンフにある、本国で掲載された雑誌記事の転載を読むと、
「『枯れ葉』のインスピレーションは、デヴィッド・リーン監督の『逢びき』、ひいてはビリー・ワイルダー監督の『失われた週末』に触発されていて、これらはいずれも1945年の作品だ」とあって、カウリスマキと「ノスタルジー」の関係について深掘りしている。
こちらも、なるほどと膝を打つ内容。『逢びき』か、たしかに!!

要するに、ひとしきりアクションものばかり撮って来たアキ・カウリスマキは、彼にとっては新機軸になる「小さくてつましい恋愛映画」を撮るにあたって、あえて40~50年代のハリウッド製メロドラマを意識的に引用し、それを換骨奪胎しているわけだ。
だからこそ、二人の恋の始まりは妙に「突然」だし、恋心が高まると比較的「唐突」に「悲愴」の第一楽章第二主題がベッタベタに鳴り響くのだ。で、当然のように主人公は撥ねられて病院送りになると(笑)。
カウリスマキのなかで、恋愛映画とは「そういうものだから」。
つくづく、さくっと撮っているように見えて、実はいろいろと作為的だし、敬愛する過去作品に関する知識を総動員して創る、シネフィル的アプローチを決して手放さない人だ。

― ― ―

シネフィル的といえば、ふたりが初めてデートするシーンは、まさにオフビートで面白かった。
なぜ最初のデート・ムーヴィーが、よりによってジム・ジャームッシュのゾンビ映画なのか(笑)。『デッド・ドント・ダイ』は、一目見れば分かるとおり、ロメロの一連のゾンビ映画のパロディ映画であり、ジム・ジャームッシュは昔からのアキ・カウリスマキの盟友だ。
で、映画鑑賞後、オッサンたちがブレッソンの『田舎司祭』を彷彿とさせるとか、ゴダールの『はなればなれに』だろうとか、猛烈な知ったかのマウント合戦をかましている。
偶然、どちらも最近のリヴァイヴァルで僕も観ているが、ゾンビ映画を語る流れで出てくるようなタイトルでは断じてない(笑)。
昔から、カウリスマキにはこういう「自虐的」なところがある。
どこか微笑ましくて、無性に愛したくなるような、自虐。
それは間違いなくアキ・カウリスマキの本質の一部だ。

それと、デート・ムーヴィーとして『デッド・ドント・ダイ』を選ぶセンス自体はたしかにオフビートといっていいものだが、この映画の「ゾンビ襲来」という主題と、ラジオから流れるウクライナ侵攻のニュースが合わさることで、理不尽な暴力や衆愚化、全体主義の恐怖にさらされている現代の恋人たち、というシリアスなテーマもまた浮かび上がってくる。
そして、そのシリアスなテーマを敢えて「笑い」を交えて描こうとする精神においても、ジム・ジャームッシュとアキ・カウリスマキの間には、なにか通じるものがあるのかもしれない。

以下、観ていて感じたよしなしごとを箇条書きで。

●正直、序盤は主人公二人には共感しかねるし、なんの交流もないまま恋愛が始まるしで、あんまりピンとこないまま映画を観進めていたのだが、途中でヒロインのアンサが職場に迷い込んだ犬を飼い始めてからは、がぜん見やすくなったし、画面に躍動感が出て来たし、各シーンに退屈しなくなった。犬ってのは最高のにぎやかし要員だねえ。まあ、それは実生活でもそうだけど。

●古風な恋愛映画を現代風に改築して呈示しつつ、全編を通じてウクライナ侵攻のラジオを流し、現代の愚かな戦争を照射してみせる。ネタとしては十分理解できるし、監督の言によれば、まさにウクライナ侵攻があったからこそこの映画は生まれたのであって必然性も十分あるのだが、個人的には仕掛けがあざとすぎるというか、愚直なド直球の演出すぎて、Too much な感じがした。

●カラオケバーのシーンは最高。ここでも「意図的な日本的文物の引用」が、小津リスペクトがらみで敢行されている。微妙に変わった形で日本のカラオケバーのカルチャーが北欧では定着してるんだな(笑)。どこか「のど自慢」ぽいっていうか。
ちなみに僕は20代のころから、カラオケではフランク・シナトラとアンディ・ウイリアムズあたりを絶唱するタイプで、猛烈に学生仲間からは浮いていたのだが、こういうカラオケバーなら大歓迎だ。すげえ楽しそう。

●カラオケバーで主役の二人を完全に食っていた同僚のフオタリも最高。
外見からゲイだと信じ込んで観ていたら、なんと「強い熟女」マニアだったか……。
ちょっと指揮者のアレクサンダー・リープライヒのような風貌に、若干アスペっぽい怪しげな挙動と距離感のおかしさ。出番自体はそうたくさんないのに、強烈な印象を残すキャラクターだ。
ちなみに彼はカラオケで「バスバリトンだ」と自慢していて、たしかに声自体は良かったのだが、音程はまあまあひどかったように思う(もちろんわざとそう演出されている)。
そのあとシューベルトの『セレナーデ』を歌ったオヤジは、ふつうに上手い上にドイツ語原詞で歌っていて、こっちはまあまあ感じが悪かったように思う(笑)。

●とにかく印象的なのが、ファッションの随所に導入された赤、赤、赤。
最初はさすがはフィンランド、貧乏人でも赤着るんだなあ、お洒落なもんだと素直に思っていたが、考えてみるとこれ、「小津レッド」なんだな。『彼岸花』みたいな。

●個人的に、貧困層の労働者たちの苦難をリアルに描いたような映画にはたいして興味がないので、しょうじき初期の『労働三部作』に関しても、僕は良き観客だったとはいいがたかった。その点、今回の『枯れ葉』は、つくりものめいた恋愛ドラマが主軸になっていて、さらに深刻でシリアスな社会認識の割に、不思議と軽みと前向きな楽観性があることもあって、意外なくらい楽しく観ることができた。

じゃい