関心領域のレビュー・感想・評価
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関心領域というタイトルが、どうしても気になって観てしまった
オープニングの不気味すぎる音楽から、野鳥がさえずりまくる《のどかな家族のピクニック風景》に変わっちゃう、台詞のやり取りによる展開もなく、わかりやすい説明もなく、意味ありげなエピソードだけが断続的に展開する、そうしたイメージの断片が無暗に想像力をかきたててくる、エンディングロールの不気味な音楽まで、あっという間だった(という気がする?)
ごくごく当たり前に幸せな家族の日常生活って大事だけど、無関心じゃいけないものってのも世の中にはあって、そうしたものがごく普通に並んでいる状況なんだよね、すぐ隣にとんでもない施設があるんだけど、ヘス一家にとっては、目に入っていないというか、気にもしていないようなんだよね、ヘス夫人ときたら、自然に囲まれていて子供たちにとっては最良の環境とさえ思っている節があるね、
で、その相反する二つのものが普通に並んでいて、ギリギリのところでシンクロしたりするシーンが、これでもかと繰り返されるところが怖いし、それが監督の意図だろうね、
こうした忘れてはいけない悲惨な歴史について、そのまんまのリアルでなく描ききっているところが凄いんだけど、もう最初にアウシュビッツの焼却炉の性能みたいな話を淡々としているとこでキツくなったわ、いい映画であり、戦争の理不尽さと不条理さをこれまでとはまったく違う方法で喚起させる役割は充分果たしている、本当に痛いとこをうまく突いているよね、
久々の超難解作品
穏やかな生活
スマホ一つで無惨な出来事を知れる現代への風刺画
2024年劇場鑑賞61本目 凡作 40点
類を見ない意欲的な作品
故意に取り込むも、わざとらしく無い不穏な音や声、でも広がっている絵はそれを感じさせない豊かな暮らしを送る家族
壁を隔てた先には残酷非道な仕打ちがされていることを疑問にも思わない、無関心であり何も気にも留めない子供達の黄色い声がなんとも悍ましい
スマホ文化が生まれて早15年ほど経過しているが、日に日に便利になっていく一方だ
というのも、スマホ一つで近所も地方もまだ見ぬ世界のどこかでさえも、無惨な出来事をスクロール1つで知り得ることが出来てしまうこんな現代が、それをへぇ〜と消化して、当事者意識は無いにしても、まるで一つの映画を見終わった後に多くの人が感じる、エンタメを一つ消化した程度に過ぎ去ってしまう、そんな我々のこんにちを子供たちから感じた
そんな風刺画ともとれる今作を、もっと気づき受け取れる部分もあったに違いない、、、無念
胸に迫る音響。ずしりずしりと響く。流石アカデミー賞音響賞!
ホラーの様にすごく恐かったです。グロいシーンが無いのに恐い。
戦争というものの本質を突いているというか…。平気になってしまうことが恐い。
音響、流石にアカデミー賞を取る筈です。素晴らしかったです。
600頁に及ぶ音響の為だけの脚本を元に構築された音響見事でした。シーンシーンに見事にマッチしてグイグイ心に迫ってくる。映画館で観て本当に良かったと思いました。
グロいシーンは全く無いのにちゃんと反戦映画として訴えかけてくる。世界のあちこちで戦争が起きててもいつの間にか無関心になって当たり前になってしまっている我々へのメッセージを受け取りました。
人間の醜さ
セカンドオピニオンを
こわい
「ナチスの残虐行為の断罪」ではない
この映画の核心にあるテーマは、我々の「関心領域」と「無関心領域」の対比だ。舞台となるアウシュヴィッツ収容所の隣にある豪邸は、実際には家族にとって壮絶な現実から切り離された場所だ。ヘートヴィヒと彼女の家族は、ナチス体制によって与えられた豪華な生活に浸りながら、収容所での恐怖や苦しみを「関心領域」として扱っていない。この態度は、現代における私たちの無関心にも通じるものがある。
この映画は、単にナチスの残虐行為やその恩恵に浴した人々を断罪するものではなく、我々の「無関心」を批判している。戦争や人道的危機、気候変動といった地球規模の問題に対して、私たちは知識を持っていても、それが日常生活に直接影響を与えない限り、行動を起こすことは少ない。この「無関心領域」の存在が、映画を通して浮き彫りにされ、我々の社会的・倫理的責任を問いかけている。
「ホロコーストを知っている」ことが重要ではなく、我々が自身の「無関心」を直視し、世界の問題に対する意識を持ち行動することの必要性を訴えている。そのように思えてならない。
全文はブログ「地政学への知性」でご覧ください。
現在の関心領域
アウシュヴィッツの絶滅収容所から塀一枚隔てた豪奢な家で穏やかに暮らすルドルフ・ヘス所長一家の日常を淡々と描いた皮肉で恐ろしいホーム・ドラマです。収容所で起きている事は全く描かれず、収容者の姿すら殆ど見られません。ただ、塀の向こうに見える煙突からは止むことなく煙が立ち上り、銃声や人の悲鳴と思える「音」が微かに聞こえるだけなのです。家に集まるドイツ婦人らは、収容ユダヤ人から巻き上げたドレスや宝飾の品定めに余念がありません。
収容者の中から選んだのであろうユダヤ人家政婦に対し「夫があなたを灰にして辺りに撒き散らすから」と冷静に言ってのける夫人の穏やかな暮らしの直ぐ隣で進んでいる現実に対する想像力を観る者は試されます。安易な手持ちカメラは用いず、構図を決めた固定カメラの映像が冷ややかな美しさを湛えます。2月頃、本作の上映情報が出た時、「『関心領域』なんて日本語として座りの悪いタイトルだなぁ」と思ったのですが、今となってみればこれ以上にない選択に思えます。
本作を観ていると、文字通りの塀で閉鎖され「天井のない監獄」と称されるガザで進行中の現実を嫌でも連想するのですが、現ドイツ政府は完全にイスラエル側に立ち、パレスチナ問題を塀の向こうの「関心領域外」としている事を一体どうとらえたらよいのでしょう。
この映画を観て重い心を引きずったまま市の図書館に寄ったところ、本作の主人公のひとりでもあるルドルフ・ヘスが書き残した『アウシュヴィッツ収容所』を見つけました。彼が戦後に本を書いていたなんて知らなかったので、早速読み始めました。でも、「なぜ彼は?」を知ろうとしても、アイヒマンの場合と同様に凡庸な答えしか得られないのだろうな。
終始作中に蔓延する不快感こそ無関心の罰
作中で描かれるのは、ナチス幹部の一族の華麗なる生活である。ホロコーストの惨劇は少しも描かれない。それでいて、ホロコーストの悲劇を、ナチスの罪を、民主主義の欠陥を、なんと克明に描いた作品であろうか。
終始感じる不快感の正体は音だ。ヘス一族の何ら変哲のない生活の中に、人の咽び泣く音、無機質な機械音、不穏な爆発音が止めどなく流れ同化しているのだ。
不快である。不穏である。充満しているのだ。
かのホロコーストの惨劇の最中、当時の人々は、ヒトラーに手を掲げ忠誠を叫んでいた人々は、どんな気持ちだったのか。積極的にナチスを指示し、ユダヤ人に蔑みの視線を向けていたのか。当時最も洗礼された民主主義の体系を持っていたドイツでなぜ史上最悪の指導者が誕生したのか。
無関心である。このことはポピュリズムが蔓延する現代に間違いなく通づる教訓を与えてくれるはずだ。
終始背筋が凍るばかりだった。映画館で見るべき映画とはこう言うものではないだろうか。
何も起こらないのにずっと緊張を強いられる
知っていることの責任
256 そんなに見つめないでよ
オープニングの画面でいきなり睡魔が。
レビューを見てあーそういう意味ね。
人間の業が出まくりなのは笑った。
だって大きな家の方がいいもん。
プールに滑り台でっせ。
転勤?!イヤよ、あんただけ行って、
あんたは好きだけど。
オカン凄い家でしょう。え?実家に帰った?
なんで?
まあ、拙は人間ってそんなもの。
同調圧力って跳ね返せない、とも思っているので
作品としては素晴らしいと思うも
人間的にはなかなか改善改革は困難なんだよねー
とどこか冷める。
A24作品なのでどこまで攻めるかと興味が
あったがなかなかなものであるのは事実。
監督のジョナサン・グレイザー
「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」でも我々の
認識を一歩ずらす演出で
本作も一筋縄ではいかない様子。
70点
2024年8月13日 京都シネマ
今の世界中に繋がる無関心という恐怖
この作品は、音とアウシュヴィッツ収容所の隣で暮らすごく普通の家族を通じて、無関心という事が本当に恐ろしい事を訴えています。
ヘートヴィヒがベッドに隠しているコートを自分の物と思い込み、着こなしてかつ、ポケットに入っていた口紅を塗る場面、ルドルフ司令官とその子供が川でレジャーを楽しむ内に沈んでいた処刑された人の骨が当たり、あわてて家に戻り、シャワーを浴びる様子、赤ちゃんが泣き叫び、誰も止めず、隣接する収容所の環境に耐えきれず、実の母親がいきなり出ていく所、銃声、怒鳴り声、悲鳴が最初から最後まで途切れる事なく響いている状況、仕事と家庭で起きている軋轢、命懸けでりんごを置いて行く姿、塀の外でまかれる人骨の灰、最後に出てくるアウシュヴィッツ収容所記念館のおびただしい受刑者の遺品、ガス室、司令官が吐き気をする所等...阿鼻叫喚です。
紛争、格差、気候変動等ポリクライシス=複合危機が世界中でリアルになっている中、この映画「関心領域」は無関心がいかに自分自身の生活へ跳ね返り、リスクを背負う事への警告を訴えています。
私にもあるヘスとの共通性
8/15が今年もやつて来る。毎年、この時期には戦争とヒトとの、戦争と国家との、戦争と民族との関係性を考える機会として来た。昨日、山口市で「関心領域」という映画を見た。
映画を見に行き途中で寝てしまった事や途中で退出した事はあったけど、昨日は途中退席し、しかし意を決して再び戻り続きを見た。そうした体験は初めてだった。
退席した直接的な理由は緊張感のあまり尿意を催し、それが最大尿意に達したからだけど、一度外の空気を吸わずにはいられなくなったからだ。
映画はアウシュビッツの所長を務めたルドルフ・ヘス家族の日常を綴ったものだ。壁を隔てた向こう側には生存率10%と言われるユダヤ人等絶滅収容所がある。壁のこちら側ではヘス所長家族らが一見すると優雅で贅沢な日常を送っている。映画Schindler's Listとは違い、ユダヤ人に対する虐殺の直接なシーンは一切ない。しかし煙突から上がる炎、川に流れてくる白い灰、それを浴びた子どもたちが不浄なものを拭うように風呂場でゴシゴシと擦られる場面、何度も何度も出てくる汽笛、射殺音、ユダヤ達の悲鳴とむせび泣く様な声、そうした音の通低音として鉛を流したような音。こうした環境でも正気を保つていた様に描かれていたのは妻のイルセ・ヘスだ。女は強し。
私は2017の夏にアウシュビッツ、第二アウシュビッツと言われるビルケナウ、チェコのテレジン収容所を訪れている。アウシュビッツでは日本人の公式ガイド員の中谷剛さんに案内してもらった。同じコースの英語のツアーにも参加した。行くにあたっては事前に何冊もの関連書籍を読み、DVDを見た。だからこの映画中のユダヤ人虐殺の場面が直接的に分かるというか感じられてしまうのだ。
私が退席した理由と再び鑑賞した理由はこの映画の映像と音が現地で見てしまったものを呼び起こし、でも最後までやはり見ないといけないと判断したからだと思っていた。
映画の後、アフターアワーカフェが行われ、話さずにはいられない私は参加した。話すとまた2017年に見たアウシュビッツを思い出す。映画のラストでは現実のアウシュビッツ博物館を清掃作業するシーン、その後にヘスが階段で吐き気を催しゲロを吐こうとするシーンが連続してた。カフェ参加者はあれはヘスのゲロを片付ける事の示唆ではないかとか、いやいや清掃員の日常はアウシュビッツで死体処理やその後の灰と骨の搬出をさせられたユダヤ人達の姿ではないかとか、清掃員にとって展示品は日常の光景で無関心になるのは当たり前だとか、そんな話が出てた。私はNIVEAの缶が展示してあった事を思い出した。
映画はヘスが螺旋階段を降りていくシーンでほぼ終わった印象がある。ヘスは自分がやってる事、この先待ち受けている事を理解しいたのだと思う。しかし私は何故、退席したのか、何故あそこまで緊張して映画を観たのか、今ひとつ合点がいかなかった。
山口からの帰りに私はセローのバイクで高速を走った。90km以上のスピードでトンネルを走ると、高周波帯の風切音となる。それは正に先程見た映画で聞いた人の悲鳴や慟哭だ。酷似した音だった。セローの様なバイクで高速を走ると風圧をまともに受けハンドル操作を誤ると死ぬ。しかしトンネル内はオレンジの光に照らされ他の情報がなく、正にゾーンに入っていた。一点だけ見つめて危機感は薄れ、狂気染みる。
アフターアワーカフェで私が話したことは壁の存在、壁を隔てた向こう側は想像でしか補えないことだ。情報は遮断され、加工されて、こちら側に都合の良いものしか届かないシステムとなっている。
私を震撼させたもの、私に緊張感を強いたものの正体は私の中にもあるヘス長官と共通する都合の悪いものは見ない様にする事や自己の保全を第一に考える脳機能、私の中にもある他者への残虐性なのではないかと思った。そう思えたのは高速道で体感したあのゾーン感覚だ。
関心領域をThe areaとは言わず、The zoneとタイトルしたのは、ゾーンに入れば他者への関心などなくなるからだ。それは私だけでなく、ヘスと同様、全人類のDNAに深く刻み込まれている人の属性なんだと私は思っている。シンドイ映画だった。
嫁
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