関心領域のレビュー・感想・評価
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聴覚を刺激し、想像力を掻き立てる
この映画にストーリーはほぼ無い。
何気ない家族の日常を描いており、時たま家族内のいざこざが描かれているが、壁の向こうで起きていることを常に想像させられているので、家族内の出来事があまりにもどうでもいいことにしか映らない。次第に家庭内の雰囲気がヒリヒリしていくように感じるが、それが壁の向こうで起きていることに影響されているとは思えない。
かなり豪勢で贅沢な日常生活を送っている彼らと、テレビの向こうで起きている戦争を見ながら「ああ、大変だね」と呟いている我々にさほど大差はない気がする。
無関心は罪である、と改めて認識させられる。
ゴミ処理場
次から次にユダヤ人を処理していく、まるでゴミ処理場で働く感覚になるのかもしれない。
国からの指示、合法、誰も止めるものもなく、優雅な暮らしが約束される。ほとんどの人がそれに甘んじてしまうのではないか。
奥様はユダヤ人が残した金品に喜び、仕事に従事している旦那様を単身赴任させて、優雅な暮らしを選ぶ。
南京陥落で好景気に浮かれ、朝鮮戦争での好景気でも浮かれていた日本人。それも殺戮が行われていたおかげです。メリケンに原爆2種類実験的に落とされ、爆心地はまさに阿鼻叫喚、関心領域と同じです。にも関わらず金を落としてくれる米兵になびく。原子力発電稼働、街が潤えばOK。豚や牛も餌をくれるとなつく。売られて肉になりますが。もはや道徳や良心やへったくれもない。儲かれば何でもありということだ。
ヒトラーは何故ユダヤ人を600万人も処理したのか。国の為にも自分の為にももっと有効活用できたはず。戦争の前線に送りこんだり、武器製造に従事させたり、ソ連に負けなかったかもしれない。ヒトラーは若い頃、オーストリアで貧しかった。まわりには裕福なユダヤ人がいたらしい。ユダヤ人は金融や商売がうまく、石油王のロックフェラー、モルガン証券もユダヤ人。ユダヤ人に対する劣等感、妬みがあったのかもしれない。おまけにヒトラーの素性は明らかではなく、ヒトラーの父は祖父の妾(ユダヤ人?)の子で、実はヒトラーにユダヤ人の血が入っているかもしれないという。真相は明らかではない。ユダヤ人の血が入っているという怖れから、ユダヤ人虐殺に走ってしまったのかもしれない。僕もヒトラー同様、おまわりを全て虐殺したいと思っている。
昔から自転車に乗ってるだけで止められる。登録ナンバーを確認させてと。何もしていない善良な国民を平気で泥棒扱いする。仕事だからと何の罪の意識もない。戦前の特高警察は治安維持法とかで思想犯を拷問し、病死したと死体で返してきたりした。作家の小林多喜二がそうだった。ナチスドイツと同じようなものだ。僕の友達はひき逃げされ、首を骨折しました。ひき逃げ犯は捕まりません。おまわりは全く役立たずです。無理やり自白させて冤罪、横領、猥褻行為、隠蔽、癒着、個人情報垂れ流し、何でもあれ。まさに税金泥棒。
ユダヤ人は今後ドイツ人を虐殺する事はないのだろうか。
ヒトラーや僕が虐殺したいという思いを抱かないような社会しなければならない。幸せランキング1位のフィンランドに習ってはと思う。互いに支え合う社会が根付いていて、税金は高いが教育や公共サービスの充実、それほどの収入の格差もなく、仕事もプライベートも大切に、自然との共存。
ジョナサン・グレイザー監督はどう考えてるのか。何かそれらしきものを描いてほしかった。少女がりんごを配ったりしたところが救いだったのか。白黒にして夢のような感じがした。あくまで現実を淡々と描きたかったのか。旦那様は嘔吐していたが潜在的にやはりおかしくなっているのだろう。奥様はどうかわからないが、子供達も異常になっている。ドイツ敗戦、結局この家族は離散し、旦那様はアウシュビッツで絞首刑になっよう。ろくでもない奴は、たいがいろくな死に方をしない。ヒトラー、東條英機、安倍晋三しかり、おまわりもそうだろうな。
ラストの音楽は奥様の人間性同様不快でならなかった。
遠くの銃声は軽い音に聞こえる
眠くなる
林檎の少女
上映期間に間に合った!
知られている事実をこの視点で…
人間のおぞましさの追及でした
林檎の少女が誰なのか気になり調べたら解説動画で、アレクサンドラというポーランドの少女(家政婦として働いてた?)、ヘス邸が実際のアレクサンドラの家であったこと、あの缶の中にピアノで奏でた曲の楽譜が入っていた(映画では何が写っているのかわからなかった)という実話であることを知って、鑑賞後新たに感銘を受けている
あのお母さんの行動が一番通常の人っぽかったですね
ちゃんとした映像作品だった、、
音!
視覚は目を閉じるだけで簡単に遮断できるが、音はなかなかそうはいかない。2時間ずっと、発電所のような運動会の喧騒のような、さまざまな「音」が混ざり合ったものが聞こえていて、人によっては体調を崩すのではないかと思うほどだった。映画が始まって最初の3分間は、映像がなく音だけが流れていた。
この作品では、虐げられる側は一度も映されない。ずっと「加害者」の日常生活だけが描かれている。そして、アウシュビッツを題材とした作品でありながら、一度も壁の中には入らない。
カメラワークは、特徴的な演出はなく、観察者の視点に近い。所長の妻が使用人の女性に対して「わざとやってるの?」「あんたも灰にするからね!」などと焼却炉行きを仄めかすようなヒステリックな言葉を投げかける場面でも、カメラは本人達の表情に向かうことなく、同じ画角のまま映し続けている。まるで盗撮映像のようだ。
2時間の上映時間の中で、一度だけ「音」がエスカレートしていく場面がある。その夜、何かの事情で「処理件数」を大幅に増やさなければならなかったのだろう。煙突から上がる煙は噴き上がる炎に変わり、夜空を照らし、カーテンの隙間から部屋の中にちらちらと光が差し込む。そして、その「音」の正体が明らかになる。それは、地獄そのものだった。
娘夫婦の成功を祝うために泊まりで訪問していた老いた母親は、その夜のストレスに耐えきれず、翌朝、誰にも声をかけずに荷物をまとめて出て行った。
この異常な環境下でも、所長一家は幸せそうに暮らしている。しかし、子どもたちにはどこか病んだ雰囲気がある。小さな娘は夢遊病のように夜中に無意識で廊下に座り込んでいるし、兄は弟を温室に閉じ込めていじめている。小さな弟は、壁の向こうから聞こえる音に耳を傾けながら、人形ごっこをしながら「次からはもうやるんじゃないぞ!」と監視人のような言葉を口にする。飼い犬はいつもそわそわしていて、赤ちゃんはずっとけたたましく泣き続けている。
この映画は「戦争と平和」をテーマにしたものではなく、ブラック企業における成功や、普通の会社でも程度問題で起こりうる話だ。「慣れなきゃね」という積み重ねが、アウシュビッツに通じるものがあるという内容だ。
自分たちは民族浄化のために、歴史上誰も成し得なかった「偉業」に取り組んでいる、という自己認識が描かれている。
この「音」は、当時の収容所で実際に聞こえていた音を可能な限り正確に再現したものらしい。生々しい音を隠すためにカモフラージュとして使用された音も多く、例えばエンジン音のようなものを出し続ける作業を担当する収容者もいたらしい。
パーティー疲れで調子を崩した所長の嘔吐が収まったところで映画が終わったが、地獄の底の釜から噴き上がり続けるようなエンドロールの変則的な音楽が悪魔的でずっと気持ち悪く、今度は観ている側が吐きそうになる。
途中、女の子が塹壕横の盛り土のような場所に次々とリンゴなどを埋めていく場面がある。最初は何かをイメージした映像かと思ったが、2回目ではさらに具体的な映像となり、遠くから自転車でやってきて、その作業をしている様子が描かれる。現場には大量のスコップが置かれており、収容者がそこで作業をするのだろう。そこにリンゴがあったら、常に空腹の収容者はこっそり食べるはずだ。唯一、救いを感じる場面だった。
並行して映される所長が子どもを寝かしつけるために読み上げるヘンゼルとグレーテルの一節には「魔女をかまどに押し込んで殺した」とあり、この女の子も捕まって殺されてしまうのではないかとハラハラしたが、それはなかった。ちなみにヘンゼルとグレーテルは現代ではマイルドな童話になっているが、当時はまあまあグロテスクだったらしい。
この女の子は所長一家とは無関係だが、印象的な存在だった。
女の子は現場で缶を拾う。その缶の中にはお菓子ではなく、紙のようなものが入っている。翌日、そのグシャグシャになった楽譜を広げ、ピアノでメロディをなぞる場面があるが、このグシャグシャの楽譜が缶の中に入っていたものだと思われる。字幕で詩が流れるが、おそらく収容者が書いた詩だろう。それも缶の中に入っていたのかどうかは分からない。
この女の子の行動も、収容者が現場に置いた楽譜も、実話だという。最近になって、この二人がテレビの企画か何かで実際に会ったらしい。なかなかの奇跡だ。
大阪の都島にある拘置所を取り囲むように、立派な高層マンションが建ち並んでいる。家賃が安いのか気になる。
アメリカのリッチランド高校の校章には原爆のキノコ雲の絵が描かれている。この町は核兵器の開発で栄えた。戦争を終わらせた大きな力として、市民は原爆を誇りに感じている。
沖縄の基地周辺に住む人々も、基地がもたらした生活や文化に感謝している人が多い。そういえば、厚木周辺もそんな感じだったのを覚えている。とても立派な市民公園の真上を、戦闘機が爆音を立てて何度もかすめていく。
また、原発のある町にも多額の補助金が出ており、市民の生活は豊かになっている。
あるいは、こういうこともあるだろう。システム開発の会社に就職して、与えられた仕事がアダルトサイトのメンテナンス。生理的に合わないなと思いつつ、給料がいいから働く。
アウシュビッツの所長職も、待遇はいいし、当時としては最新技術を駆使したそれなりの仕事だ。民族浄化という使命も背負っていて、むしろそれなりにやりがいを感じる仕事でもあった。
でもそれは「時代が変われば価値観も変わる」といったことではなくて、バイアスに翻弄された面は大きいだろうけど、絶対的な感覚は誰しもあるはずだと思う。程度問題ではあるが、時代がどういう方向に向かっているのか、常に注意深くいたい。実際は、30年くらい前と比べると、かなりまずい状況になっているようには感じる。もちろん、よくなった状況もあるが。
ひさしぶりの金返せ
全く新しい視点で描くホロコースト
人民を大量虐殺して自国を欲しいままにしていた為政者はスターリンやポル・ポト等もいたが、ユダヤ人という人種・民族をターゲットに集団的殺害(ホロコースト)を行い、さらに障がい者や同性愛者までも排除したヒトラーは鬼畜の度合いが比類なく高いと言える。
そして、そのヒトラーを熱狂的に支持し崇拝し、その思想に洗脳されていた当時のほとんどのドイツ人はヒトラーが示した考えなのだから(自分はユダヤ人でなくドイツ人なのだし)、ユダヤ人がどうなろうと知ったことはない(何処かに連れ去られ強制労働又は虐殺されようと)。のだったと思う。
だとしても、アウシュビッツ内の施設で虐殺するユダヤ人をいかに効率的に焼却するかを業者や部下と話し合う司令官のヘスも、壁の向こうが施設であろうとも自らが作りあげた理想の家に執着しヘスを単身赴任させるヘスの妻(ザンドラ・ヒュラー、落下の解剖学に続きさすがの演技)も、無邪気に遊ぶ子供たち(全く何も知らない訳ないだろうに)も、やっぱり皆んな、ダメだよー神経がおかしくなっているよ!突然家から立ち去った母親のみがまともな神経なんだよ〜
戦後、日本と同じ敗戦国ながら、ベルリンの壁崩壊を経て急速に復興しGDPも3位になったドイツ。ナチスがヒトラーがどれだけの間違いを犯したのかを発信し続けるなか、このような視点で新たな映像を提供してくれた。
明らかに日本より反省度合いは高いし、映像文化の水準も高い。見習うべきである、。
戦争が当たり前の時代に生まれていたとしたら…
思っていたより肩透かしだったが
前評判がすごかったので肩透かしな部分もありましたが、現代のドキュメンタリー作品のようなフィルターがかかってない(普通このように昔の時代の作品を撮る時は色調やフィルムっぽいニュアンスを演出すると思うのですが)ような鮮明な色・輪郭と徹底して感情移入を拒むカメラワークは興味深かったです
終盤挟み込まれる現代パートと過去パートの鮮明さが変わらず、異常と隣合わせの生活がまさに今行われているかのように映されていると感じました(全く違う演出意図かもしれませんが…)
見て見ぬふり
アウシュヴィッツ強制収容所の隣で
優雅に暮らすルドルフ・へス家族。
残虐なシーンは皆無だが、銃声音、叫び、炎
煙、灰、ブーツに付着した血、視覚と音響で
残虐性をひしひしと感じさせる。
焼却炉の設計を淡々とする姿がおぞましい。
途中、妻の母親が来たが居なくなったのは
まともな人間だったのかもしれない。
普通の神経ではあの隣で生活出来ない。
不気味な音響効果には心が苦しくなり
不思議な呼吸になる。
見て見ぬふり、知らないふりを問われてる
を感じがして寒気がゾクッときた。
良かったら映画館で観て欲しい。
靴の上から足を掻く
無関心を超越している無感覚な人間達が恐ろしい
作り手が見る者に挑んでくるきわめて挑戦的な映画である。冒頭真っ黒な画面と音が約二分間続く。まるで見る者を暗黒面に誘うようにだ。ユダヤ人が毒ガスで殺されるアウシュビッツ収容所の壁一枚隔てて瀟洒な豪邸でアウシュビッツ収容所の所長家族が暮らしている。
その家には死にゆくあるいは死んだユダヤ人の衣服や食料が持ち込まれ、衣服を身体に纏い豪華な食事を楽しんでいる。このシーンを見ているだけで何か得体の知れない身の毛がよだつ感覚に襲われ恐怖すら感じた。
その要因の一つ目は、ユダヤ人を「人間」と思っていなことだ。軍人たちはユダヤ人を「荷」と呼ぶし主婦達はユダヤ人は抹殺されて当然な民族と思っていることだ。家族や仲間は、完全にナチスのユダヤ人排斥のプロパガンダに骨の髄まで染み込んでいることだ。
要因の二つ目は、ユダヤ人を一切映さない撮影技法だ。映像にはしないが、この家はアウシュビッツ収容所のすぐ隣である。ユダヤ人の叫び声やパンパンと響く銃声が聞こえているはずだ。加えて隣では、人間を焼却して炎が見えるし映画では感じられないがかなりの臭いもするはずだ。しかしここで暮らす家族は何も感じていない。もはや無感覚に
なっているのだ。無関心を超越した無感覚さが恐ろしいのだ。
映像であえて映さない毒ガス室に送られユダヤ人の恐怖や落胆、死を見る者は想像する。それは、映画中盤に画面を真っ赤にしたことによって血流の断絶を想起させるからだ。たった壁一枚隔てて死にゆく者と豪華な生活を送る者の対極を作り手は見せつける。広い庭、温室、色とりどりの花々、滑り台付きのプール、豪華なベッド、部屋の内装を自慢する妻の感覚が恐ろしい。「自分がどこに住んでいるのか」を気にしない無感覚が恐ろしいのだ。
幼い娘が見る夢、モノクロで暗いトーンである。それが一瞬カラーに変わるのは何故か。ピアノを弾き歌うのは誰なのか。ラストシーンも再度真っ黒な画面で覆い重低音の腹の底に響く音楽が流れる。作り手は見る者に挑んでいるのだ。「この家族の未来はわかっているな」と。
#13 理想の棲家は
アウシュビッツは収容されている人たちにとっては地獄のような場所でも、司令官の妻からすれば理想の夢のような棲家だったんだ。
関心領域というか、私には中で起きていることに全く興味がない家族は無関心領域に生きてるようにみえた。
あのリンゴを夜中に運ぶ少女と妻の母が突然家を出て行った理由がわからなかった。
置き手紙には何が書いてあったんだろう?
計算された設定、ラストが見事
ある一時点のための105分。
舞台がアウシュビッツ、ナチスドイツのユダヤ人強制収容所が舞台とあれば、かなり重い映画化かも…と覚悟を決めて観に行った。
延々と、ドイツ家庭のホームドラマを観せられる。
人間の情報収集は、視覚が8割だそうで、「まあ、ドイツ人の看守も、自宅に帰ればただの人なんだな…」と半ば退屈しながら、ぼんやりと観ていた。
何度か、違和感を感じた。
何だろうと自分の中を探ると、それは、音だった。
聴覚からの情報を認識し、その音の出所を理解する。
そして、「関心領域」というタイトルと結びついた瞬間。
ぞわりと鳥肌が立つ。
…そうか、この映画は、この一瞬のための作品なのだ。
分かりやすいホラーより、よほど怖いわ。
仕事なら、ガス室の作動ボタンを押すことも、ルーティンになるのだろうか。
帰り道、そんなことを自問した。
ドイツ人の看守にとって、アウシュビッツ収容所にいるユダヤ人は、生身の人間ではなかったのかもしれない。
単なるモノのように扱い、ただ処理していたのかもしれない。
30年ほど前に、ひとりでドイツ・ミュンヘン郊外のユダヤ人強制収容所を見学した。
人体実験などのいくつかのパネル写真をクリアに思い出し、人間の多面性に改めて身震いした。
灰にして撒いてやる
公開から日が経っていたが、まだ自分の関心領域にあったのでやっとこさ鑑賞。鳥の声などが聞こえるだけのオープニングタイトルのブラックアウトから音に興味をひかせる演出と、フィックスを多用した監視カメラっぽい、のぞき見ふうな映像が特徴的。
アウシュビッツ収容所と隣合わせの生活で、娘は毎夜寝付けない、母親はいたたまれず帰る、ナチ高官の夫でさえ嘔くほどに調子が悪くなったりするというのに、猫背気味にのしのし歩く近ごろ大人気のザンドラ・ヒュラー、自分の幸せな暮らしにしか興味のない、その恐るべき無関心BBAっぷりに震えた。最終盤の夥しい数の靴を見せられるとアウシュビッツを訪問しなければならない気分になるし、マルティン・ニーメラーの詩も頭に浮かんでくる。
赤々と燃える空や黒くたなびく煙突の煙、銃声や人の叫び声、エンドロールも気持ちを不安にさせる音楽が流れ、常に不穏さが伝わってくるものの、惜しむらくは映画では「におい」が感じられないこと。100万人を焼き殺した臭気が漂ってきたらリバースせずにはいられないと思う…。
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