関心領域のレビュー・感想・評価
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期待度◎鑑賞後の満足度◎ 端的に言うと人間の”生活圏”の話です。
①人は誰しも自分が興味・感心のある事の範囲内で生きている(と考えている)と言える(私的に言うと“安全圏”)。
その圏外の事には基本無関心、興味がない、または他人事。
※なお、日本語では、「興味」と「関心」との違いを下記のように区別しているようです。
(1)「興味」は、おもしろいと感じる気持ちや、知りたいと食指を動かされるような気持ちをいう。
(2)「関心」は、対象に向けて注意を払う心。「興味」が対象のある一点に感情的に向けられることがあるのに対し、「関心」は対象全体に理性的に向けられることが多い。
※英語では、”interest“は、オックスフォードでは、“feeling of wanting to know or learn about something or someone”とあって、やは理性面・地勢面というよりは感情面の話。
無関心」というよりは「無感動」「無神経」「無(感)情」といった方がニュアンスとして近いだろう。
『The zone of internet 』とは元々はドイツ軍がアウシュヴィッツ収容所周辺の事を意図的に指した言葉らしいから、「関心領域」というより「感情(を麻痺させるべき)領域」と言って方が近いのかも(ついでにドイツ語の本来の意味も知りたいところ)。
本作の場合、それがアウシュヴィッツ収容所の隣という極端な例なだけであって、人間とは所詮そんなもの。仕方がない。
だから余計恐ろしい。
②本作の監督が『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』と同じ人だと本作を観るちょっと前に知ったばかり。
『アンダー・ザ・スキン 種の補食』、実は密かに好きな映画。今まで観たスカーレット・ヨハンソンが出ている映画の中で一番好きなくらい。
何処か同じ匂いがする(同じ人が撮ったから当たり前だけど)。
③善悪の問題ではないと思う。
勿論、戦争は良いことか悪いことか、正しいか正しくないか、と問われれば良いことではないし正しくもない。でも、戦争はいつまでたっても無くならない。
現在ウクライナやガザ地区で起こっていることも(極端に言えば)元々他人事だったのが、時間が長引くにつれ事態に慣れてきているのが自分でも怖い(勿論心は痛むが、かといって何か出来るわけでもない。募金くらい。)。
ナチスの蛮行は許しがたい。(ついでに言えば、日本軍の蛮行も許しがたいし、ベトナムでのアメリカ軍の蛮行も許しがたい等々)。
アウシュヴィッツ収容所で行われたことは人類の歴史上最悪の悲劇の一つだと思う。
でも、それは“後追い”で知ったから、既に歴史になったからそう思うのである。
この家族を、隣で行われていた恐ろしい事を知りながら無関心でいた或いは何とも思わなかった酷い人達、人非人と非難する、断罪するのは簡単だ。
本当にヒドイ話だったよね、と感想を述べるのも簡単。
でも、もし当事者であればどうだったのか。
夫は少なくとも自分たち(ナチス)がどういう事をしているかは理解していたとは思う。
それが正しいことだと本当に信じていたのか、当時ドイツという国で自分や家族を守って生きていくためにやむを得ずやっていたのかどうかはともかく。
だから突然の吐き気に襲われたのだろう。
あのシーンに突然挿入される現在のアウシュヴィッツ収容所記念館の映像の意味。
妻の方は、敢えて言えば「無関心」というより「無神経」「無情」「無慈悲」と云うべきか。
収容所で捕虜から奪った衣服を平気で使用人に“分けて”上げるし、恐らく匂いや色んな音・肥が聞こえるのに動じている気配もない(母親は居たたまれなくなって家を出てしまうか…かつてユダヤ人家庭で使用人をしていた過去がある)。
アウシュヴィッツから去ることに異常に反発する、というか、あの家は彼女が一から作り上げた彼女の家庭であり王国なのだ。それが全てに優先する。
卑近な例だが現代でも似たような事がないとは言えない。
先に工場があっても後から周りが住宅地になれば、後から来た住民が「臭い」の「音がうるさい」のとクレームする。
自分の家庭の住環境が優先する。
彼女の場合も自分の家・家族の住環境か出、隣がアウシュヴィッツ収容所なのは従。
隣がそうでない方が有り難かっただろうけど、夫が収容所の司令官であれば折り合いをつけるしかないし、何しろ彼女の娘時代からの夢のマイホームで隣は何するものぞ、と自分の家の中を何とか理想通りにデコレートするのに一生懸命だ、
それを笑えるだろうか。
それに本作は彼女をモンスターみたいに描いてはいない。
④現代の殆どの日本人は他人事みたいに思っているけれども(何せ「神道」の国だから“水に流す”のが早いし上手い)、第2次世界大戦中は日本もドイツと同じ枢軸国側で、ユダヤ人殲滅なんて極端なことはしなかったけれども、真珠湾攻撃成功の際には国民挙げて喝采を叫んだろうし(彼方では2,000人死んでます)、本土の捨て石とされた沖縄で4分の1の島民が死んだということ、日本軍が中国や韓国で行ったこと、知らされなかった・無知だったと言えばその通りだが無関心・想像力の欠如とどう隔たりがあるのだろう。
愛の反対
得体の知れない反響と、ほんの些細な家族の営みの描写が怖い。
時間が飛んで「施設」を清掃する人々を追っているところが印象的。
それら管理していく人しかり、この作品しかり、こうして歴史は
継承されていくのでしょうか。
自分にもどこか身につまされるところがあった。
暗澹たる気持ちしか残らない映画
私の住む街に小学校と動物保護センターが隣同士に並んで建っている場所がある。
その、保護センターでは犬や猫など動物の殺処分も行っている。
大多数の子供(隣の学校に通う小学生)はそのことを知らされていないだろうが、授業を受けている時や友達と遊んでいる時に、子供たちのすぐ近くで、動物たちの命が奪われているという事実がある。
もちろん、動物の命と人の命を同列に論じることは正しくないのだろうし、哲学的な小難しい話になってしまうのだが、その子供たちは(子供たちが事実を知れば、ショックを受けることがわかっている大人たちを含めて)『無知のヴェール』に守られてるから、普通の生活をおくれるんだよね。
ただ、これは自分たちの生活圏内で起こっていることでも、日本から遠く離れたウクライナやイスラエルで起こっていることでも同じこと。
人や動物を不幸から救いだすことより、自分たちの平穏な暮らしを優先してしまうのが人間だからね。
自分の私財や命を投げうってでも人や動物を助けようとする人をヒーロー扱いするのはそういうことだよね。
さて、前置きが長くなってしまったが、映画の話。
第二次世界大戦のさなか、ユダヤ人の大量虐殺が行われているドイツの非日常の中の日常を描いた映画。
アウシュビッツでユダヤ人が大勢殺されているのに、その近くで幸せそうに暮らす家族の様子を描いたお話。
第二次世界大戦から約80年。
こうした事実(アウシュビッツなどでのユダヤ人大量虐殺)を文字でしか知らない人も多いだろうから、映像に起こすことは一定の意味はあるんだろうが、目新しさが皆無のため、ある程度の年齢の人たちには、擦られまくった題材を繰り返しているだけにしか思えないかもしれない。
まぁ、ドイツは戦争に負けて、侵攻して来たソビエト軍などに(一般人も含めて)めちゃくちゃにされるからな。
因果応報というか、結果的に『ホロコーストは自分たちとは関係ない』では済まされなかったんだよね。
個人的にはそこまで描いてワンセットではないかと感じた。
普段は優しいお父さんが平然と捕虜移送の話をするシーンやラストの殺されたユダヤ人たちの履いていただろう、大量の靴には多少、ゾッとさせられるところもあったが、ドイツ人たちが殺したとされているユダヤ人の数はあんなものじゃないからね。
ちょっとリアルには感じられなかったな。
映画自体はとても地味で、ハッキリ言って退屈。
まぁ、題材が題材だけに仕方の無いところはあるにしても、映画はエンターテインメントだからね。
観客はお金を支払って楽しむために映画館に行くもの。
観客を楽しませることを放棄して、自分(監督)の撮りたい内容を一方的に押し付けるのは自己満足映画としか言いようがない。
淡々と事実だけを流して、解釈は観客に丸投げってスタイルもどうかと思う。
難しい題材だけに下手に監督の主観を入れれば、確実に否定的な意見が出るだろうからな。そこから逃げた感もある。
観ていてまったく楽しくないし、暗澹たる気持ちを抱えて映画館を出ることになるだけ。
個人的には誰かにおすすめすることは120%有り得ないほど、何がしたいのかわからない映画だった。
映像と音の乖離。表象不可能なものの存在感
2023年。ジョナサン・グレイザー監督。アウシュヴィッツでユダヤ人の集団殺害が本格化すること、収容所所長の家族は壁一つ隔てた地所で優雅に生活していた。収容所からのなんとも不気味な物音が途絶えないなかで、平然と暮らす一家の様子を描く。
子育て、出世、庭園、川遊び。一家の生活はちょっとだけ上流だが標準的な家族生活に過ぎない。妻はイタリア旅行を望み、夫の転勤が決まるとアウシュヴィッツでの暮らしを手放せずに単身赴任を求める。子供たちはほほえましい兄弟げんかをしている。表面的に進行するこうしたごく普通の暮らしの背後に終始、収容所からの音が聞こえているが、つかのまの訪問者である妻の母以外は気に留めている様子はない。それが恐ろしい。音と映像の乖離。アラン・レネとまではいかないが。
犠牲者であるユダヤ人はほぼ画面に登場せず、収容所も遠くから眺められるだけだが、そこにあった「悪」の存在感は半端ない。「表象不可能なもの」の議論を思い出す。描かれないことによる存在感。
サンドラヒュラーと🐕🦺
映像が途切れたようになったり、ずっと焼却炉が稼働してるような音が鳴っていたり とにかく不穏な空気がノンストップ サンドラヒュラー無関心で冷酷な役が板に付いてきてるけど大丈夫でしょうか?胸くそ悪い役どころ見事でした、そしてその洋服はもしや?服ぐらい買えよと思ってしまった
優雅な金髪に長閑な田園風景、すぐ隣では上がる噴煙ととても不気味な風景 しかし誰かの犠牲の上に豪勢な生活が送れる、隣では何が起こっていても無関心というのはもしかしてそこかしこに有る構図なのではと思ったりした
"無関心"という共犯に潜む"凡庸な悪"
自然から始まり、しばらく戦争の影を感じさせない。ドリーショットによる横移動こそあれどカメラ自体は動かない、決してパンしないカメラは、恐ろしいほどに秩序立った"静"の印象を受ける。作中、家の中で同じ画角のショットが度々出てきて、そこで日常が繰り返され、生活風景が繰り広げられていることを際立たせる。メイドたちには「生地1枚ずつ取っていい」と言いながら(そして生地が広げられた机に集うメイドたち)、自分は部屋で高価な服を身にまとい、その様子をあらゆる角度から撮ることで、他に誰もいないことを強調する。
そんなふうに、アウシュヴィッツ強制収容所のすぐ隣で家や庭にも凝りまくって、自分の理想の城(塀で覆われた)を築く奥さん。そんな何気ない生活風景でも、ずっと隣から聞こえる厭な音が、そこでは"人間"らしい生活や振る舞いこそ、何よりも"人間"らしくないということを表していた。ぜひとも耳を澄まして鑑賞してほしい。そうやって数え切れぬほどの人間の命を、何事でもないかのように容易く奪ってきた現実は、本人たちにいつかのしかかるのだろうか…?作品終盤、誰にでもわかるような形で、突然とある手法でそれをハッとさせられる。
あくまでフラットに描かれた"ドラマ性の剥奪"と"凡庸な悪"、"結局他人事"という無関心の壁。ロングショットの多さなど、いかにもヨーロッパ的か。見る前から分かっていたことだけど、やはりキャッチーな内容ではなく、あくまで淡々と進む語り口なので、映画館でウトウトしている人もチラホラといた。そして、『落下の解剖学』に続きこっちでもザンドラ・ヒュラーとは、すげぇ。もはや強烈キャラのイメージになってしまいそうだ。
勝手に関連作品『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』『ニュー・オーダー』
ええええー!?
ただ家族の幸せを守りたい一心。
冒頭は素晴らしいと思いました。常に、呻き声や叫び声、銃声、怒号、狂気の旋律の上で、ただ家族の幸せだけを夢見た市井の家族の姿が映し出されます。最後までその方針を貫いて欲しかった。また、主人公の母や、息子は薄々勘づいていく描写もあり、決して無関心を強調している映画ではないとも感じました。後半からは監督が変わったかのように、よくあるシーンが続きます。そして最終的に、真実より勝るものはないわけで、それら遺物を映し出すのは、映画表現として、放棄に近いものを感じ、憤りを覚えました。エンディングロールも、シュニトケを二番煎じしたような楽曲でさらにがっかり。申し訳ありませんが、おすすめ出来ません。
自らが正しいと信じることの「不確かさ」を痛感できる
アウシュビッツ強制収容所に隣接する屋敷で、所長一家が平穏な暮らしを営む様子が淡々と描かれる中で、BGMと言えるような音楽は一切流れない。
その代わり、ドドドドっといった重低音が絶えず響いていて、その他にも、散発的な銃声やかすかな叫び声が聞こえてくる。
やがて、この重低音が、遠くで煙と炎を上げている「焼却炉」のものであることが分かってくると、そこで普通に生活している登場人物たちの神経が疑われて、ゾッとさせられた。
それでも、もしかしたら、妻は、何も知らないのかもしれないとも思ったが、家に遊びに来た母親が、そうした環境に耐えられずに帰ってしまったことを苦々しく感じている様子を見て、収容所で何が行われているのかを明らかに理解していることが分かる。
仕事とは言え、「生産性」を追及して新型の焼却炉の導入を進める夫も夫だが、転出する夫を単身赴任させて、自分はアウシュビッツでの「理想の暮らし」を続けようとする妻も妻で、人間の良心や善悪の判断は、ここまで麻痺してしまうものなのかと空恐ろしくなった。
ところで、少女が、おそらくユダヤ人に与えるために、作業場にリンゴを隠す場面があるのだが、そこだけ赤外線のような映像になっているのは、単に、真っ暗闇での出来事を分かりやすくするためだったのだろうか?
よく、残虐なシーンなどでは、その生々しさを和らげるために、ネガフィルムのような映像が使われることがあるが、ここは、そのようなショッキングなシーンでもなく、演出の意図がよく分からなかった。
その他にも、花々を映し出す映像が真っ赤な画面に変わったり、終盤で、現在のアウシュビッツの史料館の様子が映し出されたりと、いくつかの印象的なシーンがあるのだが、どれも、それほど効果を上げているとは思えない。
それから、強制収容所内での出来事をまったく描かないことには、確かに「視点」の斬新さが感じられるのだが、仮に、そのことを知らなかったならば、これが何の話だかまったく理解できない訳で、そんな、観客の「常識」を試すような姿勢にも、あまり好感が持てなかった。
調べたら原作があるそう。でも映画とは全然違うと思う。小説で音は聞か...
調べたら原作があるそう。でも映画とは全然違うと思う。小説で音は聞かせられないから。
監督はこのアイデアを思いついた時、気持ち良かっただろう。「勝った!」って思っただろうな。それぐらいのアイデアだと思う。
ちょっと食い足りない気もしたけど、でもかなりの作品だと思う。
頭クラクラです。。
東京の映画館の多くは毎週火曜に上映スケジュールが更新されます。私の場合、多くの上映作品の中から「劇場で観る」と決めた作品の中でも「(サービスデイではない)初日(金曜)に」が付く場合は、それなりに特別な作品であることが多いです。本作は賞レースで話題になったこともあり、やはり初日を狙っておりました。その結果、上映時間の都合と安価に観るための手段(リピータークーポン使用)を考慮し、本日は久しぶりに新宿まで足を延ばしました。(実際に往復歩いています)公開初日の新宿ピカデリー、朝一回の大きめのシアター2はほどほどの客入りです。或いは、公開規模からしたら若干淋しいかな、と。
で、観終わった直後の率直な感想は「あったま痛…」。事前に凄いとは聞いていた劇中にずっと鳴っている「音」と、ポイントで執拗に鳴り響き続ける音楽。アカデミー賞音響賞は納得ですが、実際かなり削られました。半端ないです。
一方で、内容についてはと言うと、怖からずに正直な言い方をすれば、「好きな作品とは言えないし、早々にはもう一度観たいとは思えない」なのですが、「斬新な表現に見えて、これが特別ではなく誰にでも当てはまる(ハンナ・アーレント的な思考)」と思わざるを得ず、好き嫌いだけで評価は下げられない圧があります。或いは、我慢してでももう一度観ればまた新しいものが見えてくるだろうと思いつつ、逆に一度観ただけに、より一層の覚悟が必要だと解り、そのハードルの高さを感じます。
そもそも、この場所やそこで行われている所業と、それを何食わぬ顔で取り仕切る人間たちを見れば、はっきりそこに向けて怒り、そしてそれを責める気持ちで自分の正当性を確認できた気になれるのですが、見せられる多くは普通の生活と多くの子供を含む家族の様子。周りには奴隷同然の立場であるお手伝いの人たちの存在と、時折、その距離感すら生々しく感じる怒声、そして銃声が聞こえる生活。そこで淡々と暮らしている様子を信じられないと思いながらも、ふと考えれば「レベルの違い」こそあれ、現代の自分たちの世界と生活にだって置き換えられないかと気が付いてゾッとします。
そして観ているうち徐々に、同じ家で生活する家族にもそれぞれ違いが見られるのですが、なかでも妻であり母であり、且つ娘でもあるヘス夫人・ヘートヴィヒ(サンドラ・ヒュラー)の執念と発言にはさすがに言葉を失います。或いは、その異常さに「自分は彼女とは違うし、この世界観はどうかしている」と思えばこそ、これが映画だと思えるのかもしれません。また、一点、説明のしようもないため観ていただくしかないのですが、終盤に差し込まれるシーンがまた違った意味でゾッとしますよ。
いやいや、観終わってクラクラしつつ暑い中2時間歩いて帰ったけど、何なら頭の方はそれくらいがクールダウンに丁度いい作品です。これからご覧になる方は覚悟してどうぞ。
タイトルなし
収容所内のワンシーンの意味は
冒頭の黒みと音というか音楽というか悲鳴約5分。
単なる黒みなら20秒で充分。
なぜ?
製作側のメッセージは、
【映画館】
と、
スクリーンの向こう側、
【現在も中東や東欧でおきている事】
【ヘス家族】
と、
【収容所】
収容所の塀、
映画館の黒いスクリーン、
無関心の壁、
関心を持たせる為のオープニングなのかもしれない。
もちろん、
それに観客がどう反応しようと観客の自由だ。
しかし、
それを前提で、
あえて、
関心が集まるような言葉を使うと、
会議のアジェンダになっていただろう、
KPI、
KGI、
大規模経営方法、
大人数オペレートのノウハウ、
は、
現代の世界中で人気のあれやこれやに、
どのように活かされているのか、
関心があれば、
すぐにでも調べることができる領域だ。
凄惨な現実をどこまで表現するのか、撮る撮らない、
音のみ、実景のみ等々。
劇中で出てきた、
現在のアウシュビッツ収容所、同じ場所、同じ建物、煉瓦造りのガス室もそのままだ。
犠牲者の遺品の靴やカバンのカットがあった。
その横には膨大な量の剃髪された毛髪、
メガネが置いてある。
何故、こんなに乱雑に展示してあるのか、
現在の収容所のスタッフに聞くと、発見された時に近い状態で展示しているそうだ。
その理由は、
凄惨な扱いを受けた怒り、嘆きをできるだけリアルに感じとってほしいそうだ。
明日が来ない収容所その領域その行程(汽車が劇中にも出ていた)、
それを日本語も含めた世界中の言葉に翻訳、
後世に伝えるという強い執念を感じた。
その毛髪は劇中には出てこなかった。
表現に関しての、
描写の抽象度の上げ方下げ方は、『サウルの息子』で書いているので省略。
ED音楽はリズムもメロディも、
ほとんどサスペリア、
レディオヘッドじゃない方、
じゃない方、
ホントはトム・ヨークが、
じゃない方。
【蛇足】
『AVALON』のシナハン時
(正確にはシナハンというよりも、英仏独で制作した場合の試算との比較で、戦闘ヘリ、戦車等々、軍の協力要請、ワルシャワ国立フィル、フルオケフルコーラスの録音方法の交渉等々)、
セリフでも出てきたポーランドのクラクフに行った時に、
アウシュビッツ収容所に見学に行った。
戦闘ヘリ、ハインドの撮影時の珍エピソードはyoutubeで話して、、、たかな、、、
まさか観終わった後に震えがくるとは!
ドキュメンタリーのように淡々と話が進んでいくのですが、なぜか映画にどんどん没頭していくようで、一度も集中力が途切れることはありませんでした。この映画で普通の健康状態の人間なら寝ることはないと思います。
最後の場面で、ルドルフは2回程吐き気をもよおす場面が撮し出されます。ルドルフに何か異変を感じ、只事でないと感じました。
その後に写し出されるアウシュヴィッツ強制収容所のような施設に無数の靴に何かを感じました。
無関心で当たり前のようにホロコーストをしている恐怖とルドルフに起きた異変の恐怖に、なぜか鑑賞後震えがきました。やはり、映画の出来が良いからだと思います。
悪魔の所業も個々は私達と何も変わらない
今年のアカデミー賞に多数ノミネートされた本作、国際長編映画賞の受賞は当然で、さらに並み居るハリウッド大作を押しのけての「音響賞」を本作に与えたアカデミー会員達は、けだし慧眼であった。左様に本作は「音で観る」革新的な映画でありました。その音で観客の想像力を刺激し、魂の沈殿する深いところで人間の意識の有り様のリアルを突きつける。
オープニングから漆黒の画面が延々と続き。複雑なもっと正確に言えばノイジーな音だけが聞こえる。やがて小鳥のさえずりがメインとなり、豊かな水量を湛えた河辺で一家の夏のピクニックの様子を捉える。印象派の名画の趣で、限りなく豊穣を感じさせ、さらに車で帰宅してからのその邸宅の有り様の美しさ、まるでこの世の天国のような造りに驚かされる。ただし、隣接する塀は延々と長く、その向こうからは諸々の「音」が聞こえてくるが・・・。
そこはアウシュビッツ強制収容所であり、絶望の嘆息・悲鳴・銃撃音・破裂音・そして焼却炉の音などであり、だからこの邸宅はこの収容所の所長であるルドルフ・ヘス一家の邸宅と言うか一種の社宅のようなものでした。この前提条件だけで、一家の日常を覗き見る感覚で描きます。室内でも殆ど撮影の為の照明を全く感じさせず、自然光だけの中で見せられる仔細な日常がポイントでしょう。彼らの意識と私達の意識との違いを観客に問うてくる構造です。
新しい焼却炉は一度に500体の「荷」を焼却できます、なんてセリフが、画面の中の人はごく事務的に、聞かされる観客は凍り付くような恐ろしさに聞こえる仕掛け。ゴージャスな毛皮のコートは無論、塀の向うで裕福なユダヤ人が着用していたもので、幾ばくかの服は使用人達に分け与えている。3~4人いる家政婦達も多分ここに送り込まれたユダヤ人からチョイスしたのでしょう、使用人に対する物言いの冷徹さにそれが判る。
起きうるトピックスは妻の母親の来訪と夫の転勤くらいなもの。サンドラ・ヒュラー扮する妻はもちろん、母親も隣で起こっているコトは百も承知で、それは夫の重大な仕事である事も承知している。けれど母親は深夜にも耳に入る「騒音」への違和感を抑えられず翌朝早々に家を出てしまう。しかし、ヘス所長は塀の向うへ出勤し、帰って凝れば子煩悩な父親でもあり、その一方でユダヤの女を犯すことすらしてしまう、実に下衆な野郎でもある。同様に妻ヘートヴィヒは夫の転勤が分かっても、折角のこの天国のような暮らしを最優先する凡人ぶりを見せつける。なにしろ母親とて、以前掃除婦として働いていたリッチなユダヤ人邸宅の素晴らしいカーテンが欲しかったのに、別の人が持って行ってしまったと愚痴る、そのユダヤ人が塀の向うで虫けら以下の扱いだと言うのに。
まさに塀の向うの悪魔の所業ではなく、塀のこちら側である関心領域内においては実に私達と何ら変わらぬ俗物根性の持ち主であることが分かる。関心領域外に思いを馳せたところで、第三帝国の組織下において役割を履行しているだけであり、良心の介在する余地はないはず。ユダヤ人があまりに可哀そうだから、こんな暮らしは嫌、なんて言えますか? ここに本作最大の恐ろしさが仕込まれているのです。
無関心を続け、気が付いたら取り返しのつかないとこまで来てしまった。ナチスSSの奴等とて、私達と何ら変わらぬ俗物なんです。関心を持たなかったツケが自らに跳ね返り、人間性を捨てなくてはならないはめに。私達だって追い込まれれば人間をきっと捨ててしまうでしょう。こんなナチスドイツを例に挙げなくとも、この日本で、このアジアで、私達のご祖先様が過去に辿った記録があると言うのに。政治は政治家のものだけではありません、全国民ひとり一人の生活であり、声を挙げるべきものなのです。手遅れになる前に一票で意志を表しましょう。
本作を難解だとか退屈だとか、観る人を選ぶなんて決めつけないで下さい。退屈なのは私達の日常と同じだからなのです、関心を放棄した挙句の様を馬鹿な奴等とせせら笑ってくれれいいのです。ラストに登場するアウシュビッツは(まだ行ったことはありませんが)多分、現在の博物館の様子でしょう。記憶も薄れる程に時間が経ちますが、決して関心を捨ててはならない決意のために本作はここに輝くのです。
原題の「The Zone of Interest」を「アウシュビッツの隣で」とか「隣で起きている事」なんて凡庸な邦題でなく、ストレートに「関心領域」と堅く無機質に表現した事はお見事です。
関心とは何だろう
映像と音がとてもかみ合わず心がざわつきました。
奥さんの理想の生活を手に入れたと話すのが一番怖かった。
はたから見ていると、何の犠牲の上で成り立っている生活なのかが
想像できるだけにとても怖かった。
非常に心に残る作品。
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